半鐘とサイレンと、それに人の叫び声と熱気で、山崎は寝台から飛び起きた。火事だ、火事である。急いで部屋を飛び出して、離れの久坂の寝室に向かうと、久坂はまだ眠っていた。
「久坂さん!!起きてください!火事です!!」
スパァアンと障子が開いて、それで寝ぼけ眼、「はい?」なんて目を擦る久坂を山崎が荷物のように抱えて、跳んだ。塀も壁も無関係にさっさと、飛び越えて行く。時折こほり、こほりと煙を吸い込んだ久坂の咳が聞こえてそのたびに、どこか、もっと遠くへ安全な場所に行かなければと必死に考えていた。
ギャンブル
ぼんやりと、小高い丘の上から江戸の街を見下ろす久坂はいったい何を考えているのか、山崎は汗を拭いながらぼんやり、その背中を眺めた。別段こんなところまでくる必要はなかったのだろうに、少しでも煙が届かないところへ逃げなければ、と焦る山崎はついに、街からかなり離れてしまった。
(俺は何してるんだろ)
火事の匂いがした、途端に警察の役目である住民の避難よりも先に、この人を逃がした自分。今が潜入捜査でよかったと心底思う。本来の身分での時にこんなことをしたら、冗談抜きで切腹ものだ。
「山崎さん、助けてくださってありがとうございます」
ふわりと振り返った久坂の声。それで、もう火の収まった街を見たままに「放火でしょうね。昨日の輩とは、別でしょうか」と呟く声。山崎には聞こえぬようにと独り言として吐かれたが、丁度、風が吹いたのでその音は山崎のところまで届いた。
連日に続いた小火騒ぎ、そして昨日の決定打、自分が狙われているのだと久坂はもう気付いたようだし、山崎も、そう判断する。ぼんやり、焼けた場所を眺めている久坂は、己の所為で、と考えているのだろうか。
「この火をつけたのは、あの人かもしれない」
振り返った、久坂の表情は変わらない。じぃっと、ぼんやり、ビー玉のような目で山崎を見上げて、いる。
「昔、同じことがありました。その時は、火災にまぎれて、高杉さんはわたしを連れ出した。今日の火災は、」
「俺のしたことは余計でしたか」
即座に、山崎はそう切り返してしまった。それで、失言だと気付く。久坂ははっと目を開いて、それで、ぼんやりと、何を口走っていたのかに思い当たって、口元を袖で隠した。
久坂はまだ自分が真選組だということに気付いていなくて、それで、高杉と関わりを持っているかもしれないことを、気付いていないと思っている。
だからこう、スラスラと何かを語ろうとしてくれたのに、どうして、そこで、自分は何か、言ってしまったのだろう。これが自白となってこれで、火災も、自分の潜入捜査も終わるかもしれなかったのに。
黙ったままの久坂に、困り、山崎が何か言葉を探していると、突然久坂が「帰りましょう」と、行った。それで、二人で坂を下りる。久坂の顔はいつもと変わらない、ぼんやりとしたものに戻っていて、それが、今はありがたかった。
+++
火事での被害状況を記した新聞を読みながら、久坂は息を吐いた。やはり、これは高杉のしでかしたものではなかったようだ。
この火事であの、常連の煙草屋が全焼した。隣り合った長屋も半分が燃え尽きたが、火消したちの必死の消火活動の賜物か、負傷者重傷者は出たものの、幸いなことに死者が出ることはなかった。
(あの人が、火をつけたらお祭り騒ぎの矜持として死者の十数人は出なければ、らしくない)
なんて、思いながら死者が出なかったばかりに、高杉の軌跡を感じられずに落ち込む己がけが人の手当てをしているのだから、おかしい。
突然のことであったので、診療所としての設備があり、ある程度の人数を収容できる久坂薬局が臨時の病院となった。
あれこれと指示を出しながら久坂は方々の患者を診て回り、軽度の者には薬を渡して帰し、重症のものは駆けつけた救急車の医者たちと何か相談をして搬送先、それまでの処置を決める。
(今は、何を考えても詮無きこと。わたしは、今は、)
何かを考え込んでしまいそうになる自分にそう言い聞かせて、テキパキと、久坂は動き回ることに専念した。
その光景をぼんやりと眺め、山崎は本当に、自分がここに何をしに来ているのかを改めて考えた。
久坂は、久坂薬局唯一の従業員であるはずの山崎を全くアテにしていない。むしろ、そこに山崎がいることなど気付く余裕もないのか、忙しそうに立ち回る。少しでも自分に指示を出してくれれば、潜入中とはいえ「従業員」としての自分を確認し、久坂に頼られていることに喜びを見出せただろうに。
「それにしても、煙草屋の店主も災難だったねぇ」
「あぁ。幸い息子夫婦のところに泊まっていて怪我は一切なかったようだが……」
「あれだろ?あの女と関わったばっかりに、」
ふと、山崎のすぐ近く、軽症のため縁側でくつろいでいた主婦の言葉が耳に入った。確かゴミの分別が悪いだとか回覧板をまわすのが遅いとかで何かと久坂に文句を言ってきた連中だ。女だから、山崎もそれほど威嚇することができずに放っておいた。
「やっぱり今回も、あの女が狙われたんじゃないのか」
「そうだね、そのうちにあの女の所為でここら辺一帯焼け野が原になっちまったらどうしよう」
「いやだよ、そうなる前にどうにかしてあの女を追い出さないと」
ぐちぐちと言い合う二人は、その久坂に自分たちが手当てされたことを当然と思って、それ以上を考えないのだろうか。今も、久坂は火災から不眠不休で住民の世話をしている。係わり合いになるのを拒んでいるのに、自分の敷地内に無関係な人間を入れてくれている、のに。そういうことを、考えないのだろうか。
ふつふつと、怒りのような感情が沸いてきて山崎、どうしようかと、思うのだけれど、その前に久坂の「山崎さん」と、呼ぶ声が聞こえた。主婦たちの会話がピタリ、と止む。
「すみません、手伝っていただけますか」
「あ、はい……」
先ほどはそれを望んだはずなのに、今はもう少しこの場にいて、この、無礼な、酷い人間たちに何かしてやらないと気がすまなくなっていた山崎は歯切れ悪そうに答える。
久坂はちらり、と主婦たちに視線を向けたが、何も言わなかった。主婦たちは何やら化け物を見るような目を久坂に向け、気味悪そうに「アンタも大変だねぇ」なんて、山崎の腰やら肩やらをポンと叩いて、行ってしまった。
触られた個所をクナイで抉って落とそうかと山崎が真剣に考えていると、ふわり、と、久坂が山崎に微笑みかけた。
「殺気、出ていますよ」
「……貴方は、あんなことを言われていいんですか」
殺気やら憎悪を隠す気もなくなって、山崎はふぅっと息を吐く。素人相手に自分、何をムキになってしまったのやら。情けないというよりも、それだけの、心境の変化にそろそろ蓋をしていた中身があふれ出しそうだ。
「別に、いいですよ」
しかし、久坂の答えはあっさりとしたもの。面倒くさい、とはさすがにいわないが、それよりも、山崎がどうしてそこまで怒りをあらわにするのか、と聞きたそうな顔をしている。
やらねばならないことは多くある、別段、向けられた憎悪やら嫌悪が殺意に変わることは、ここの住民の気質をよく知ればわかることである。睨まれようが、久坂は構わなかった。
今回の事件の黒幕の検討は付いているし、高杉がまだ関わってもいないのなら、これは、まぁ、長い人生のうちの些細なことだと、割り切るだけの無頓着さが久坂にはあったのだ。
「よく、ないです!!」
怒鳴って、山崎は久坂の手を掴んだ。痛みすら伴う、突然の行為に久坂は軽く眉を寄せる。か細い手だと山崎は感慨にふける暇さえない。
「俺が犯人を捕まえます!それで、貴方が無実だってことを証明します!!」
証明して、どうなるのだろう。住民たちが疑っているのは、放火の犯人、ではなくて犯人に狙われている久坂の存在なのだ。それを、山崎もわかっているだろうに、この、真っ直ぐすぎる青年は何か、しなければ気がすまないのだろうか。
山崎の飛び出して行った後姿をぼんやり眺めて、久坂は己の手をぎゅっと、握り締めた。
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(07/7/9 2時24分)
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