そろりそろりと伸ばされた手が自分の綺麗でもなんでもない、腕に触る。縫合の終わった腕はそのまま、滅菌されたガーゼを当てられ止血。オキシドールと、綿球で消毒、丁寧に、薬が付けられて、丁寧に綺麗な真っ白いガーゼが上に乗って、それでゆっくりと包帯が巻かれていく。
「…久坂、さん」
山崎は呼びかけた名前を言い換え、無言で自分の治療をしてくれているの顔を伺い見た。
こうして見れば、彼女の顔はまだほんのりと幼い面影が残っている。一体年齢はいくつなのか山崎には探れなかったが、きっと自分より歳は若いのだろうと思えた。そこで、奇妙なことに気付く。どうして自分は年齢も気安く尋ねていなかったのだろう。そうだ、自分は、潜入捜査だからと、そういう心持で、変に彼女に対して壁を持っていたのではないだろうか。
改めて思えば、これまでの日々、周囲への聞き込みやの言動に注意を払ってはいたけれど、自分は彼女に対して何ひとつ、問いかけてはいなかった。
終始無言で手当てをされて明け方。結局この日は店を閉めることにしては自室に篭ってしまい、徹夜や重症などそれほど気にもしない山崎は、まるでのほうが重体の病人のように思えながら、その部屋の前で立ち止まった。
「あの、おはようございます。さん」
障子の向こうに問いかけても、声は返ってこなかった。拒絶、だ。冷静に考えればなんとも幼い手段を使う、と微笑ましく思えなくも、ない。が、ぴりり、と心に痛むものもある。彼女に、拒まれた。そういう事実は少なからず山崎を動揺させ、けれど自分がこれからすべきことは何も変わらないのだ。
火傷
社僧隊とはかつて攘夷戦争のおりに神官と僧侶のみで構成された部隊である。騎兵隊の傘下ではあるが、その役目は物資輸送や救援、救護が主で寺院や神社の主たちは隊員でなくとも社僧隊には協力したと言う。
かつて久坂玄水、が指揮した部隊は攘夷戦争終結間際、突如解散しそのため幕府に咎められることもなく、今も神主、住職を続けているものが多くいた。
薬局からふらりと外に出たが向かったのは、その、かつて社僧隊のメンバーの一人が守る神社である。
江戸内に今もあると聞いていたが、実際に足を踏み入れるのは始めてであった。しかし、面倒な手続きを踏まずとも、目的の人物を呼び出す手段は心得ているらしい、、迷うことなく真っ直ぐ、向かう。
が鳥居を潜り、境内を越え賽銭箱の大きな鈴をリン、リ、リリンとなにやら奇妙なリズムで鳴らすと、スパァン、と、突然障子が開いた。
「……、どの……?!」
血相を抱えて、現れたのはかつての仲間の蒼穹である。
年のころなら四十過ぎ、頭に白いものが混じり顔に皺の増えた初老の男であったが、その目は鋭い鷹のようである。この神社の次男であったが、攘夷戦争のおりに、長男が殺され、皮肉にも次男であるから死んでも構わないと戦争に参加した蒼穹が生き残り、跡を継いだらしい。
の姿を見て、一瞬幽霊でも見たのかと、蒼穹の顔がその名前のとおり青くなった。
「あぁ、よかった。この合図、まだ使えましたか。お久しぶりですね、蒼穹さん」
にこりと、は笑って頭を下げた。しかし、奇妙なことに蒼穹は「生きていた」「ご無事で」という言葉は吐かない。社僧隊は終戦間際に解散して、隊長は行方知れずとされていたが、蒼穹はが解散後にどこへ向かったのか、を知っていたのだろう。
「っ、なぜ今……我らと係わり合いになるなど、愚行にもほどが…!」
「ちょっと、聞きたいことがあるんですよ」
の腕を引いて本殿に駆け込んだ蒼穹は幼子をしかりつけるようにに怒鳴った。が、その強面の男に怒鳴られても、は涼しい顔をしている。
「蒼穹をはじめ、神官・僧侶は攘夷浪士たちを匿っているのでしょう?その、情報網で調べてもらいたいんです。先日、わたしの家を放火しようとした攘夷浪士たちは、今どこに潜伏していますか?」
「殿のお命を狙ったやからがいると…?まさか、攘夷志士であれば、」
の命を狙うはずがない、と蒼穹は顔色を変えたが、しかし、が嘘を言うわけもない。すぐに、頭のなかで己の把握している限りの寺院・神社を上げ、過激派・穏健派の浪士たちを思い出す。
「しかし、殿のお命を狙うなど」
「そそのかされたのだとは思いますけど、犯人を捜しているんです」
黒幕には手を出せない。が、その下っ端を捕らえればきっと山崎も納得してくれるだろう。それでまた、二人でお茶なんて飲みながら世間話が出来る。
(今一瞬、自分は何を焦がれた?)
「殿?如何なされた…」
はっと口元を押さえては心にわいた己の本心に動揺した。それを悟った、わけではないが怪訝そうに蒼穹に顔を覗きこまれ、は一度目を伏せて己を落ち着かせる。
「いえ、なんでもありません」
「まさかまた、お体が弱いのにご無理をなさっているのでは……」
「あれから一度も発作など起きていません。心配性ですね、蒼穹は」
社僧隊時代にも常に傍らに控えてあれこれとの身体を気遣ってくれた優しい心は今直顕在らしい。はそっと微笑んで蒼穹の顔を眺めた。
随分と、長い時間が経ったように思えてしまう。己の姿はまるで変わらないのに、こうして昔は若々しかった人が当然のように老いていてくれるのを目の当たりにすると、あの頃が薄くぼやけて行くようだ。それが、時間の経過というものなのだと心地よく思う反面、なぜ時間は流れてしまうのだろうかと理不尽な苛立ちを覚えずにはいられなくなる。
あの頃は良かった、などという人間らしい感慨がにはあるわけではない。ただ、あの、殺伐とした時代にずっと身を置き続けられていれば、今、この身を焦がすような思いを己が抱くこともなかったのだと恨みたくはなった。はぎゅっと己の掌を握り締めて痛みで気を散らす。
「わたしを心配して、今回の事件の真相を暴こうとしている人がいます。助けてあげてください」
が蒼穹にかける言葉はいつも「提案」ではなくて「要請」だ。主従の関係が二人の間にはあって、こうして再会してみて、その絆が全く綻ぶこともなかったことには蒼穹への信頼を募らせた。
己はもはや社僧隊の隊長でもなんでもない、が、それでも蒼穹にとって己は主であり、また己にとっても蒼穹は従者である。は主従の関係が浅ましい、愚かだとは思わず、それこそ一つの尊い絆なのだという概念もあった。
蒼穹ならば、山崎の手助けをしてくれる。蒼穹なら、山崎相手に上手く立ち回ってくれる、と、そういう信用もあり、こうしては当たり前のように蒼穹に微笑めるのだ。
「承知いたしました」
あの頃とちっとも変わらない眼で頷いて、蒼穹はに頭を下げた。
+++
「山崎さん」
声をかければ、全身でこちらを伺っていた山崎の背中がびくり、と怯えたように震えた。そういえば口を聞かなくなってから今どのくらいだったかと計算して、いや、まだ三日程度だと意外に短いことに気付く。
けれどその三日、山崎はさらに傷を増やしたようで、必死に血の匂いを消そうとしたらしい痕跡がには苦しかった。
「さん……」
「なんて顔しているんですか」
振り返った山崎の、あまりにあんまりな顔にはなんとか微笑んで、手を伸ばした。
「着いてきてください」
手を、握った。暖かい手だと、思った。は自分の掌が山崎の体温を奪ってしまいはしないかと、そういうことを恐れてしまったけれど、といって、手を離せそうにはなくて、それが心地よいと思ってしまった。
山崎はぎこちない気配をしている。それが、おかしかった。
「どうしたんですか」
「え、い、いえ……あの、」
見上げた山崎の耳は赤い。まさか女性と手を繋いだことがないわけではなかろうが、その反応の初々しさにまで恥ずかしくなってきてしまう。
いや、けれど、これから己がすることを思えば、緊張でそんなはしゃぐこともできそうにない。
+++
「うちで働いていただいている山崎さんです、山崎さん、こちらは蒼穹さん」
蒼穹に山崎を紹介すると、双方、一瞬無言だった。山崎は一応蒼穹の名と存在は知っていたようで、どうしてその人物とが知り合いなのかに驚いているよう。
そして蒼穹のほうは山崎が真選組であることを知っているわけではないらしいが、が紹介したのが男、それもと丁度良い年齢であることに驚いているようだった。
蒼穹の驚きは、娘の恋人を紹介される父親、のようなものであり、それが微笑ましくには思えた。
「あ、どうも。あの、山崎退です」
にへら、と、山崎は即座に密偵らしい仮面をかぶっていつもの道化、を演じつつ愛想の良い声を出した。
蒼穹は痩せた顔を僅かに顰めて、に問いかける。
「殿……好みが随分とお変わりになられましたな」
「余計なお世話です」
ぴしゃり、と言っては蒼穹の足を踏んだ。それに顔を顰めることもない蒼穹、とりあえずはと山崎を客間に案内して茶を出す。
「あの、ところでさん、どうして俺をここに連れてきたんですか」
上座に座っているのは、だ。そのことですでに山崎には何か思い浮かぶことがあるだろうに、それでもまだ、何も気付かぬように問いかける。出されたお茶の色を確認しながらは、にっこりと、当たり前のように微笑んだ。
「蒼穹さんは元社僧隊の隊員なんです。だから、今回の放火犯を捕らえるお手伝いをしてくれますよ」
+++
帰り道、が無言で山崎の少し前を歩く。山崎は先ほどから黙ってしまって、とぼとぼと歩いている。
さて、どう、するのだろうかとは山崎の視線が自分の背中に痛いほど注がれていることを感じながら想像した。
「さん、アナタは……」
掠れるような声で山崎がやっと、口を開いて言葉を使った。ぴたり、とは立ち止まる。三歩下がった場所で、山崎も同じように立ち止まっている。
「貴方は、」
そこから先を、山崎は言わない。
じっと、は山崎を見上げた。これは、賭けだ。賭け事などこれまで一度しかしたことのない己が、こんな危ないことをするのはおかしいが、それでもは賭けた。
これで、放火の犯人は捕らえることがまず可能になる。けれどその代償に、山崎には、真選組の山崎退には、己を黒と判断するだけの材料を与えることになった。
だから、賭けるのだ。
己を信じたい、と言ってくれた山崎が、この黒かもしれないという事実から、白へと転じる事実を見つけてくれることを、賭ける。
(わたしは、しんじるしかない)
ぼんやりと、浮かんできた言葉はかつて誰に使ったものか、思い出しそうになっては頭を振った。そして唖然としている山崎に微笑みかける。
「わたしはかつて、阿修羅姫と呼ばれた攘夷戦争の生き残りです」
結局、己は卑怯者なのだろうか。言葉を失った山崎の顔は、ただ見れば驚いているだけにも思えるが、その眼は「どうして俺に喋ったんだ」と、そう、自分が密偵であることをは知らぬと思っているからこそ、理不尽な怒りがある。
いつも、自分は提示するだけなのだ。それをどう扱うかを他人に委ねてばかり、山崎の顔からどんどん血の気が引いて行く。
攘夷志士であったことが問題、なのではない。が阿修羅姫、であることが大問題なのだ。白夜叉、貴公子、狂犬とかつて偉業を成し遂げた志士達は今では「犯罪者」としてその名が知れ渡っている。その一つに、阿修羅姫も含まれており、真選組の山崎にそれを告げることは、自首することと同じである。
けれど今、山崎は密偵としてここにいて、すぐにでもを捕まえることができるわけでもなく、また、もそうと名乗っただけで証拠は何一つ出してはいない。
どう、する、か。
そういう、ことを山崎に考えさせるのだ。は山崎の手を取った。この勝負(賭け事)に対して、己が賭けるのはなんなのだろう。平穏な日々か、それとも手に仕掛けているらしい、自分の未来への光か、それとも、もっと、酷いものなのか。
考えて、そっと目を伏せた。
どうする、か。
Next
初期設定では出てこなかった社僧隊…山崎さんとさんをもっとお近づきにさせるためだけに増やしたお話です。
|