空霞の鳩



長い、長い時間が経っていたように思うのに、いざそうして、足を踏み入れてみればなんとも、味気ない。呆気ない。まるでほんの二、三日留守にしていたかのような気安さで馴染む空気、間合いに、ひっそり息を吐いてさぁっと、ゆらゆら髪を揺らしながら畳の上を踏み歩く。

何も、何も変わってなどいない。己も、この城も、世界も何もかもが、あの、最後にこの城を飛び出した瞬間から何も、変わっていない。それを不変よ愛しきよと思うには自分には憎悪が強すぎるし、変貌せぬ固執さを笑うほど他人行儀にもなれはしない。いったい自分は、この城に何を求めてこうして、感慨に耽っているのかとぼんやり考えたが答えは、出そうにない。

(わたしと江戸城。久坂一族と、時代時代の権力者)

土方に連れられて向うのはまず、松平の待つ処だろう。あの男のいる場所も、昔と変わらないのだろうかと思い、そうならば土方の案内など不要だと思ったが、今もひっそり、たちと距離を取って、天井裏に潜みながら付いてくる、山崎の気配が離れるのは何となく、寂しいと思った。

目を閉じても、この城の中は歩きまわれる。当然、松陽が連れ出してくれるまではずっと、この城の、御鈴廊下突き当たり右行って最奥の、部屋から出ることこそなかったが、記憶者、触れたものの形跡を読める。己の肌が触れ合う場所の、延長線上、城の構造くらい、言葉を覚える前から記録していた。

夜半、ひっそり静まり返っている江戸城、通常通りの機能をせず、真選組の副長、であるからなんとか違和感なく進める現在。長い長い、今まで誰も遭遇しなかった廊下の反対側、から、何者かが一人、やってきた。立場上、土方は道を開け、軽く頭を下げる。もならって下がり、頭を下げようとしたのだが、その、通り過ぎる誰か、大老が、ちらり、ちらりと土方の顔を見、そして、に目を留めて、立ち止まった。

「滝山殿……」

随分と、本当に懐かしい名前を呼ばれて、困ったように眉を寄せながら、顔を上げた。

「お久しぶりです。井伊殿」

老けましたね、と軽く言えば井伊直弼。サッと、顔色を悪くして、に近付き、その肩を掴んで些か乱暴に揺すぶった。

「な、何をのん気な……!!今がどのような状況かわかっておるのか!お前は、幕府から命を狙われてもおかしくないのだぞ!!それがなぜ敵陣真っ只中、江戸城におる!!!」
「逃げ回っているのもいいかげん飽きまして」

いやぁ、困ったものです、なんて、ちっとも思っていないことを心底、真面目そうに言うと井伊はこめかみを引きつらせて、そのままその怒りを土方に向けた。

「松平のところの犬か!まさか近藤を人質に取られたというだけで本当にこれをつれてくるバカがあるか!ことの重大さがわかっているのか!!」
「土方さんは何にも知りませんよ、だから言うだけ体力の無駄です」
「滝山ぁあああ!!!お前はどうして昔からそういう、お父さんは悲しいぞ!!」
「あなたが父親だったとは知りませんでした」
「言葉のアヤじゃああ!」

ぎゃあぎゃあ言い合うのは大老と、小娘。まだ言い争いが続くのであれば土方は煙草でも吸いたかったのだが、さすがに城内は禁煙だ。仕方がないから脳内でマヨネーズのことでも考えていると、体力がない大老、はぁはぁ、息切らせて、がっくり、畳の上に座り込む。

「片栗虎も頑固じゃな。いい加減、忘れればよいものを」
「忘れられないことってあるんですよ」

わたしが言うことじゃ、ありませんけどね。なんては苦笑して、井伊に手を差し伸べる。引き起こして、真っ直ぐ、老人を見つめるとにっこり、微笑んだ。

「天導衆の一員に井伊殿がなったと聞いて心配しておりました。けれど、どうも、どうやら、お変わりなく」
「変われぬよ、この歳じゃ。滝山殿こそ、不気味なほどに変わらぬな」

にっこり、ふふ、と笑顔の応酬。は土方や山崎さえいなければこの場でこの男を切りつけてそのまま逃亡しようかなぁとか本気で思ったが、さすがに、今はただの無謀だと自戒しておいた。
この、男。この、井伊直弼という男。表面どおりの穏和な老人、であれば将軍を操り人形にして好き放題する、天導衆になどなれるはずがない。つまりは、そういう、男なのだ。はにっこり笑ったまま、「棺おけに足突っ込ませてさしあげましょうか」と提案。すると、井伊もやっぱり笑顔で「滝山殿の代用品さえ見つかれば早々に始末しておるのに」なんて、返して来る。
一癖どころか二癖、三癖、いやそれ以上のクソジジイだ。はすっかり飽きてしまっている土方の袖を引っつかんで井伊に頭を下げた。

「そうそう、それでは、井伊殿、わたし急いでおりますから、早々に失礼させていただきますね、」
「近藤の居所処遇であれば私が何とかしてやろうか」
「ご心配なく、井伊殿に頼らずともなんとかしますから」

残念だ、と井伊。それにしてはあっさり引いて、それで土方とを見送る。スタスタ歩きながら土方、掴まれた腕を払って、ぼんやり、を眺めた。この女、江戸城の御祐筆だったというが、それだけにしては先ほどの井伊の態度は妙だ。おそらくはまだ、何か隠していることがあるのだろう。

「おい、お前」
「質問に答える義務、ないと思いますけど」
「答える気分にゃなれねぇか」
「そうですね、聞き方次第ですか」

どうも、土方はこの女と妙に、息が合う自分を認めずにはいかない。楽、なのだ。会話が。きっと似たような思考回路をしているのだろう。軽い口利きの応酬、それで土方が「お前、江戸城で昔何した」と、確信に触れることを言えば、の足がぴたり、と止まる。

「松平、片栗虎」

の眼の先、江戸城の長い長い廊下の、丁度、反対側に同じように流れる長い廊下。向かい合うように、松平片栗虎。サングラスを掛けた、チンピラヤクザの親玉にしか見えない男が真っ直ぐに立って、じぃっと、を見つめていた。

「どうやら、土方さん。ここでお別れのようです」
「……」

土方は一度松平を見たが、土方に対してなんらかの反応をすることはなかった松平。ただにのみ視線を注いでいる。近藤さんは結局天導衆に囚われたままになるのだろうか、と考えていると、そっと、が土方の袖を引いた。

「近藤さんなら、心配はいりませんよ」

大丈夫ですから、と言うはちらり、と天井を眼を向けて、微笑む。

「……そうか」

なら、いいと土方さっさと踵を返す。今回のこと、冷静に考えればただの、上層部の潰しあいだ。久坂という、生き物の持つ不死だかなんだかの薬と、御祐筆の膨大な記録、を、めぐっての争い。松平はなぜ狙っているのか、まだ正確にはわからないが、あのオッサンがらしくもない、近藤を人質によるようなマネをしたのだから相当に、私情なのだろうと、それくらいは土方にはわかった。

「おい、山崎」

そっと、小声で土方、天井に声をかける。返事は、なかった。ちっと、舌打ちしてそのままひっそり、土方は夜の江戸城、長い廊下をひとり歩くのである。


+++



「死ぬ覚悟は出来てんだろうなァ」
「……松平、片栗虎」

の目が猫のように細くなって、懐からメスを取り出す。こちらから仕掛けるつもりはないが、この男が自分を前にして、何もしてこないとは思えなかった。事実、松平は慌てる様子もなく、銃口を突きつけてくる。

「俺はなァ、テメェをブタ箱にブチ込んだりはしねぇよ」
「……」
「お前のしたことは、誰にも知られちゃならねぇ。だが、誰もしらねぇからと安穏と過ごさせる気はさらさらねぇんだよ、俺ァなァ」

ガツン、と、の背が壁に当たった。冷や汗。

この男が昨今の騒動の仕掛け人なのだろうと、何となく、わかっていた。この国で、自分を一番憎む人間が誰かと思えば、それはこの、松平片栗虎だとはすぐに答えられる。
この男、は、サムライたちから一目置かれている。それは攘夷志士たちにしても同じだろう。将軍を、守る最後の忠臣、松平を攘夷志士たちはそう呼ぶ。敵対してはいても、松平に敬意を示している志士は少なくないと、聞いたことがある。
だから、その松平が攘夷志士、浪士をそそのかして、久坂玄水に殺意を抱かせることは容易だっただろう。

(一人の犠牲で世界平和があるのなら、この男は躊躇いもなく目の前の命を殺せる覚悟を持っている。その、応用だ。わたし一人を殺せるのなら、江戸が大火に包まれたとても、構わないのだろう)

ぎり、とは松平から距離を取って、相手の出方をうかがった。

「上様の親父、先代将軍を殺したテメェを、この手で切り刻んで天人に食わせ、糞になって宇宙にばら撒くまでは諦めねぇぞ」

ギリギリと向けられる憎悪に、はぶるっと、体を震わせた。

「随分と、懐かしい話、」
「まだ十年も経ってねぇよ。俺ァ、一秒だって忘れたことはねぇ」

それはそれは、とは目を伏せた。
この男は、まだそんなことを言っていたのか。松平家は代々徳川家とは懇意の関係で、先代将軍と、松平は立場を超えた親友同士だったらしい。だから、だろうか。その、友情のために、こうして恨むのか。

終戦間際、社僧隊を解散させて、行方知れずとなったがした「こと」はとても単純。先代将軍を殺した、という、それだけだ。

どうすれば憎しみが消えるのか、はわからなかった。幕府を憎むのか、天人を憎むのか、処刑人を憎めばいいのか、わからなかった。それで、考えて、考えて、考えた。

将軍は、松陽の親友だった。松平と松陽、それに将軍の三人は、今で言う銀時・桂・高杉のように親しい知己であったのだ。を松陽の手に預けたのも将軍で、彼のお陰では松陽に出会い、銀時たちに出会えた。

色々な思いが交差して、しまって、はもう何がなんだかわからなくて、それでも自分の中にただ一つ残った強い思い。「ゆるせない」という、その、感情の捌け口を探して、辿り着いた。

松陽を殺したから、将軍が松陽を裏切ったから、殺してやろう。

とても、単純だった。けれど、それが真理でもあった。彼を殺せば、すっきりするだろうと、思って、実行した。久坂の者であればあの当時、江戸城に自由に出入りすることができたから、将軍を殺すのは、それほど難しくはなかった。

「でもあなたは、表立ってわたしを捕らえることは出来ないのでしょう」

とん、とは大きく跳んで、塀の上に立った。背後に背負うのは大きな満月、である。悠然と、松平を見下ろして目を細める。

天導衆は、には味方だ。彼らはを失えない理由がある。まだ、代用品の見つかってない現在、に死なれてしまえば、国が滅ぶ、以前に存在することができない。

だから、二年前の、久坂玄水の診療所の取り潰し、は、全て自分を守るための手段だった。天導衆が直々に、久坂を狙っている、と、世間に知らせるために。市民はそれにより久坂から距離を置き、幕臣たちは、天導衆と余計な関わり合いを持たぬために久坂の存在を忘れる。そうして、久坂が誰の記憶からも自由になり、ひっそりただ息をするだけの生き物になれば、久坂も、天導衆もそれに越したことはなかった。

(だというのに、忘れなかった男が、ここにいた)

「あなたはわたし殺したい。真選組がわたしを捕らえれば天導衆がすぐに手を伸ばす。わたしを犯罪者にして、闇討ちでもすれば、表向き天導衆にも言い訳が立つ」

だから、攘夷志士たちをたきつけて、今回の騒動を作った。小火騒ぎで疑いの目が自分に向けられ、そのまま、暗殺でもするつもりだったのだろう。
しかし、予想外に山崎がを庇い、地元の人間たちも、松平の思惑通りには動かなかった。
随分と面倒くさいことをしたのですね、とは松平を見下ろした。この男の憎悪もわかる。だが、だからこそ。

自分はこの男に殺されるわけにはいかないのだ。

「……っ」

突然、の意識が薄れた。何か、と思えば祇園精舎の鐘、かなにか。銀時の傍でいつかちらりと見かけた女性が、自分に薬を嗅がせていた。



+++



「よくやったな、猿飛。さすがは始末屋だ」

どさり、との体が床に落ちる。だらり、だらりとしな垂れる長い髪に埋もれている、その少女を松平は蹴り上げた。無抵抗の女、に対しての敬意はない。あるわけがない。この、女さえいなければ、この国はまだ、多少はマシになっただろうに。この女が、先代将軍を、賢君とされたあの方を殺さなければ、この国はこうも地に落ちることはなかったはずだ。

「松平様」

無造作に蹴り、顔を確かめている松平を猿飛が呼んだ。

「今ここでわたしが始末しましょうか」

猿飛は一瞬、横たわっている少女をちらり、と見た。自分より少し若いか、もしかしたら同じ年か。彼女のことは知っている。銀時のストーカーをしていたから、知っている。この子が死ねば、消えてしまえば、きっと、銀さんは悲しむのだろうなと、思った。けれど、オンとオフ、切り替えは大切だ。
というのに、猿飛の周りを忍びたちが囲む。向けられるのは、敵意のない、殺意だ。

(始末屋が、始末されるなんて、お粗末)

「悪いな、さっちゃん」

響く銃声に、猿飛は脳裏にあの、死んだ魚のような目の男を思い浮かべた。



+++




(物心がついた頃には一通りのことができたし、理解していた)

それもそのはず、自分は徳川家康が征夷大将軍になる以前よりずっと前から、“時の権力者”に代々仕えてきた御祐筆の一族久坂家の嫡子である。生まれと同時にその、千年にも及ぶ御祐筆の記憶を体内に受け継いでいるのだから、ある程度その、情報を扱えるようになれば己はすでに立派な、記録者だった。

天人の襲来により荒れた国内も久坂一族にとっては長い歴史の数ある波でしかなく、思想家と名高い吉田松陽の元へ自分が遣わされたのも、いずれ歴史に名を残すであろう松陽を記録するためであった。

(だというのに、松陰先生に出逢い、銀兄さんに出逢い、桂さんに出逢い、そして高杉さんに出遭って、めぐる年月重ねるうちに、私は)

天導衆が久坂玄水、を失えないのは、つまり、そういうことだ。
にはこの国の歴史、さまざまな出来事が記録されている。天人の襲来は、何も初めて、というわけではなかった、ということを知った天導衆が、ではいったい、古来の日本人たちはどうしたのか、など、知れる。知らなければならないことが数々あった。それに、国が存続するためには、正確な“歴史”が必要になる。かぐや姫の秘薬よりも、久坂の血が、流れる情報の記録が、重要なのだ。

将軍を殺した日のことは、今でもハッキリと覚えている。これは、記録してはならない事実であったが、は記憶した。崩れ落ちる将軍、傍らで何かを叫ぶ、まだ若い松平、そしてそれを見ていた、現在の将軍、の、少年時の姿。

広い広い、部屋だった。何畳あるのか、覚えていなければならないはずなのに、ぼんやりしている。目の前に対峙するのは、自分よりも二倍は大きな体の男。征夷大将軍だ。はぼんやり、将軍を見て、首をかしげた。突然の訪問者に驚く様子を見せないこの男。会うのは初めてではないが、その余所余所しさ。

「記録者、滝山か」

幼い子、の顔を確認して、将軍はゆっくり、その名を紡ぐ。懐かしい名前で呼ばれて、はすぃっと目を細めた。松陰にという名前を貰うまで、当たり前にあった己の、嫡子としての名である。

将軍はを見つめたまま、逃げ出す様子はない。が何をしにきたのか、わからないほど暗愚、ではないはずだ。

「私は腹を切るわけにはいかぬ。私が腹を切れば、それはこの国が腹を切ったこととなる、が、私はこの国を守れなかった」

その、償いはしなければならない、征夷大将軍として。

「わたしにその役をさせると言うのですか」
「……」
「ご免被ります」

が言うと、背後で刀に手を伸ばしていた松平がほっと肩の力を抜いたのがわかった。

「それでお前の気は済むのか、松陽を殺したのは私の意思だぞ」
「わたしがあなたを殺すのは、大義名分やあなたの介錯をするためではありません、」

ザン、と、一瞬でが移動した。刺さる、小さな刀。

刺されたショックなどない、が、脂汗を額に浮かべ始めた、将軍が、そっとの体を受け止めて、目を伏せた。

「わたしがあなたを殺すのは、あなたが松陽先生を殺したから。だから、それが憎くてわたしはあなたを殺した。ただの、復讐です」

それだけです、他の理由などつけないで。は言って、ずるり、と刀を将軍の体から抜いた。

「……滝山、」
「……」
「ならば、これで気が済んだのだな」

は答えるつもりはなかったけれど、気はすんだ、と自分でも思った。あっさりと、もう、憎悪が消えてしまっている自分が、奇妙だ。どれほど天人を殺しても、斬っても、酷い死なせ方をしても一向に消えなかった憎悪が、ただ、一刺し、男を、人間の男を殺しただけですぅっと、気が、済んでいるのだ。

じぃっと、が見下ろした男の死骸は、戦争中あちこちで見た死体と何も変わらない。のに、この男の死で自分は楽になれた。この男は、自分で死ぬわけにはいかなかったと、戦場ではありえない、ことばかりが起きる。

(この日の一年前に松陽先生が処刑され、その一年前に高杉さんと祝言を挙げる約束をして、その、一年前に松陽先生に「幸せになってください」と言われた)

即座には捕らえられて、それでも逃げ出して、お庭番に追跡されて、久坂一族に匿われて(歴史に関与したと数年間閉じ込められたけれど)久坂一族は何人にも裁けぬ不可侵条約が結ばれているから、はそこで、一時世界から切り離され、そして一族から追放されて、その後、久坂一族が天人によって虐殺されたと聞いたのは江戸にて久坂玄水と名乗るようになった一年後だ。その、半年後に天導衆に見つかり、開いていた小さな診療所を潰された。


それが、阿修羅、久坂、と呼ばれる小さな小さな生き物の、半生の記憶であった。




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