ドォンと盥に棍棒を押し当てたような低い音がして、若君はびっくりと布団から飛び起きた。何事か、また父上様の癇癪でもあったのかと気を揉む。の父君でこのウシミツドキ城の城主であらせられる寿蔵は酷い癇癪持ちの強面。戦場ではの鬼瓦と恐れられる武将で、その巨体は山のようだと言われている。地声からして大きくて何か父の気に入らぬことがあるとドゴンとお山に雷が落ちるより酷かった。
(母上様が怒鳴られたのだろうか)
障子の向こうはうっすらと明るいが、まだ鶏が鳴くには早すぎる。ということは未だ城は眠っていて父も寝所にいるはずだ。それであるのにこの轟音、父の怒りを一身に受けるのは母しかいないはず。父は寝所に家族以外を入れることをしなかった。どれほどの重臣であっても父の寝所の襖一枚向こうには入ることができない。は嫌な予感がして布団から出ようとする。
(あれ?)
けれどそこで、はたりと奇妙な事に気が付いた。己は一人きりではなかったのだ。時折母がよこす狐ではない。彼らはの布団に入って体を温めてくれるが人間のような手はない。けれど今、の手は誰かに握られている。右の手。小さな手。いつだったかおじい様は「もみじのようだ」と目を細めて笑ってくださった手、その手が、同じように小さな手に繋がれている。
(この子は誰だろう)
段々と部屋の暗さに目が慣れてきた。そうして見えるのは、布団に入って寝ていた己の傍ら、まるで看病をしていたところうっかり寝入ってしまったというような体勢の子供が一人いる。
何ぞ嫌な夢でも見ているのか、ぶつぶつと唸り、空いている方の手で空をかいている。
「留、三郎、だめだって…そんなの……ねぇ、別にぼくは……」
その子供から聞こえた名前は聞き覚えがない。ウシミツドキ領地には子供が少ない。2年前の流行病でたくさんの子供が死んだ。生き残った子供らはウシミツドキの大切な宝であると考えられて、皆週に一度城に呼ばれ文武の習いをしていた。城主の子であるは彼らに交じって勉強することはなかったけれど、それでも遊ぶときは一緒になることもあった。だからは領地の子供の顔と名前くらいは覚えている。
それであるのに今この、自分にとても違い場所にいるこの子供の顔と、そして言われた名前にはてんで心当たりがない。
またの命を狙った暗殺者だろうか。城主嫡子のためは生まれてからこれまで何度も命を狙われてきた。身内であったり外敵であったりさまざまだが、おかげではしょっちゅう死にかけて、結果妙に度胸がついた。この得体の知れぬ子が暗殺者であっても驚きはしないし、怖いとも思わない。それよりも好奇心が沸く。これまで自分の命を狙う者は完璧に姿を見せぬか、あるいは見せてもそれは大人の男であった。
(いい加減同じような連中ではわしを殺せないと知ってこういう子供をよこしたのだろうか)
そうだとしたら面白い。遊び相手にはなってくれるかとは期待する。
だけれど、そこで、そこでやっと、はこの子に見覚えがあったと思い出した。障子の向こうが明るくなる。太陽が上がってきたのだろう。うっすらうっすら、明るくなる室内。子供の顔だけではなく、着ているもの、そしては自分がいる場所もよく見えてきた。
「気が付かれましたかな。若君」
あぁそうだ、わたしは、とがはっきり何もかもを承知する前に、障子の外に人影が立って、そして小さくこちらに向かって言葉が投げられた。
(そうだ。わたしは城を逃げ出したのだ)
忍びのくにへ
現れた影は小柄な老人で、「この学園」の学園長、名前を大川平次渦正と名乗った。は布団から出て居住まいを正すと「入れや」と入室を促す。ここが己の城ではないとわかっているが、それでも相手が何者かわからぬ以上は教え込まれた作法を通すのみである。
障子は確かに横に動いたのに、音もしない。姿を現した老人は廊下に正座したまま腕を動かした様子はない。誰ぞいるのか。もう一人この場にいて、それが障子を引いた。はちらりと老人の傍らに目をやって表面上は変わらずに、だが内では心底驚いた。老人の傍らにいたのは犬だ。白い犬。それが浅黄の頭巾をかぶってまるで人間のように正座している。
「この者はヘムヘムと申しましてな。わしの忍犬であり良き相談相手ですじゃ」
「ヘムヘムッ」
大川に紹介され犬がぺこりと頭を下げる。きちんとこちらの言葉がわかっている様子には城の外にもこういう生き物がいるのかと関心し、改めて二人に向かい合った。
「某はウシミツドキ城主寿蔵が子、と申す。助けられた上に手厚い看病をしていただいたよう、感謝致します」
「いえいえ、若君にはこちらの生徒を助けていただいたようですから。礼には及びません」
「………生徒?そうじゃ、わしが出会うた童は二人、この子ともう一人目つきの鋭い子鬼のような子がおったはず。あの子はいずこへ」
「目つきの悪い?あぁ、一年は組の食満留三郎ですな。あの子ならあなたの治療が終わったのを見届けさせてから部屋に戻しました。貴方ほどではないにしても留三郎も手傷を負っておりました。安静にしていた方がよいでしょう」
「傷を…?」
「命が助かったのですから、何も文句をいうことではないし若君の所為でもない」
「しかし、」
安静にしていなければならないような傷に変わりはないのだろう。自分に関係のない子供に手傷を負わせたと申し訳なく思い身を乗り出せば、ふさりとした眉に隠れて見えぬ目、それでも大川がにこりと笑ったような気がした。
「忠助が逃がしたいと願っただけあって優しいお心をお持ちのようじゃ」
「……忠助をご存じなのですか」
老人が口に出したのは、もうこの世にはおらぬ男の名。はびくりと顔が強張るのを感じ、体が震えぬよう手をぎゅっと握りしめる。
そんなの様子に大川は気づかぬ素振りをしてゆっくりと頷いた。何もかもこの老人は承知しているのだ。そう理解できる仕草である。
「若君の口からも聞いておかねばならんのです。話してくれますな?」
言葉は優しげ、そしてこちらを気遣う感情が確かにある。けれど有無を言わせぬものもその中にはあって、はこれは脅しではなく、責任なのだと感じすっと背を伸ばした。
今があの時から一日しか経っていないとすれば、数えて五日前、月のない晩のことであった。離れで休んでいたはまた命を狙われた。嫡子であれば命を狙われる理由など降るようにある。その上ウシミツドキはこの国では珍しく硝石の原料が採れ、さらにはとある技術により山草から硝石を得ることに成功していた。門外不出のその技術を得るためにを人質にと狙う者も後を絶たぬ。
いつものことといえばそれまで、けれどその時の暗殺者は随分な手練れで、の守をしていた侍や忍びはあっという間に殺された。母がつけてくれた狐たちも斬られ、あぁここで己は死ぬのか、己が死んだら笑うのは誰だろうなとそんなことを考えた。その時に、誰かが己の体を抱き上げた。聞こえたのは『裏切るのか』『馬鹿者め、殿に何と申し上げるのだ』という暗殺者たちの声。は己が己を殺しに来た者の一人に助けられたのだと知った。
「それが忠助であったと」
「はい。彼は4年ほど前に忍び衆に入った若者で、一番若いからとわたしの世話役になりました。家の子のお守ともなればただの武士ではいけません。毒や薬に長け敵の気配を探り、いついかなる状況でも冷静沈着にことをなせねばならぬ。そういう者でなければ始終狙われる主人を守ることはできません」
思えば長い暗殺計画の一つだったのだろう。時間をかけての傍につかせ、親しくさせる。そうして心を許したところを殺す。時間はかかるが様々なものに守られている若君を殺めるには仕方ない。
実際忠助は「油断させる役」には適任といえた。気さくな性格、優しい心根。幼いながらも自分の立場を理解していたであっても、懐くのにそう時間はかからなかった。
そうして油断して、心を許して、はいつも忠助を傍に置いた。歳の離れた兄のように慕い、わからぬことは何でも忠助に聞いた。博識な忍びは何でも答えてくれて、一体どこで習ったのかと聞くと、いつも懐かしそうな目をして「とある山の学び舎で」とだけ答えてくれた。
「本来ならわたしが十五、元服の歳までことは起こらぬはずだったのでしょう。わたしに完全に信用させ、そして守を忠助やその一味にだけにするにはわたしが幼いままでは難しい」
母はを案じて様々な者に守らせた。古くからの家臣や新参者、忍びや修験者なんてものもいた。そういう「様々な者」がいれば、互いに牽制し合う。恐ろしいのは一種類の者しかおらぬこと。その派が裏切れば周りには敵しかいなくなると、それを母は決まって口にした。だからの周りには、忠助だけになることはなかった。それらを遠ざけることができるのは付けた母当人とだけであったのだ。
「しかしその「時」は早まった。側室殿が懐妊したと、そういう理由で」
「えぇ」
大川が引き取って言ってもは驚かなかった。己がここに逃げてきてこうして目覚める前に何もかも調べてしまったらしい。
「忠助はわたしを殺すはずでした。けれどあの晩、あの者はそれがどうしてもできないと、そう言いました。泣いてわたしに謝った。わたしの知らぬ名も呼んだ。×××と、××××という名でした」
「その二人はこの学園の卒業生。忠助と仲の良かった二人じゃな。よく三人一緒にいる姿を見かけました」
の知らぬことを教えてくれる。大川の言葉には目を伏せてその光景を思い返した。
すまぬ、すまぬとあの時忍びは呟いた。「おれは忍びにはなりきれない。お前たちとの思い出を殺すことはおれにはできない」すまぬすまぬ、すまぬと、何度も何度も謝った。
なんのことかその時のにはわからない。ただ己を殺そうとした男が、やはり己には優しい兄やにしか思えなくて、すぐさま母を呼ばねばならぬのにそんなことも忘れて忠助の頭を撫でた。大丈夫、大丈夫だと、そう、幼い身で何ぞしるわけでもないのにそんなことを言った。
おのれの傍には忠助や他の暗殺者に殺された守り役の、己を守ろうとした者たちの骸があった。それでもその時は忠助だけがただ哀れに思えた。死した者たちは己の職務を全うし、その上で死んだ。恐怖はあっただろうが迷いのあるものはいなかったはずだ。そういう者でなければ命がけで若君を守る役には付けぬ。彼らは彼らの意志の上で戦い散った。それがにはわかっていて、そしてそれであるのに忠助は、目の前で泣き崩れる男はそれがないと、それが哀れに思えたのだ。
「わたしを殺せなかった忠助は、見捨てることもできなかった。忠助がしくじったとしても別の者がすぐに入ってきてわたしを殺せばいい。それだけのことであるのに、忠助は、もうわたしを死なせることができなくなった。今の仲間を裏切って、わたしを抱えて逃げ出して、西へ西へと、忠助は進んだのです」
「そうして逃げはしたが、あなたがいるため早くは進めない」
は頷き自嘲する。森の中、もうその時と忠助はボロボロになっていた。は不慣れな逃亡生活。忠助はおのれひとりなら何とでもなるはずだった。けれど自分を助けようとしてくれていて、子連れの厳しさが逃亡生活に追加された。
二人で逃げたのは四日間だけだったけれど、己は忠助にたいそう迷惑をかけたのだ。足が痛いと言い、もう走れぬと泣いた。堪えようとしたがこれまで城の外から出たこともない身には辛かった。腹が減るなど初めてのことも最初は面白かったけれど、だんだんとそれが「当たり前」になると気分がささくれ立った。忠助に八つ当たりした時もあったはずだ。けれどいつも忠助は「若君はよう堪えております」と「よく我慢なさいましたな。さぁもう大丈夫、あとは忠助がおぶりますよ」と優しくしてくれた。
山をいくつ越えただろう、城からどれほど遠ざかっているのだろう。それすらにはわからなかった。ただ進んで、進んで、気を失って、気づけば山の中にいて、追われていた。が遅いから追いつかれた。
逃げて逃げて、逃げきれなかった。忠助とは攻撃されて、何とか忠助が致命傷だけは避けてくれていた。それでももう時間の問題だった。
ここで死ぬのだと突きつけられた。誰にではない。現実にだ。は忠助以外が自分を助けることはないと知っていたし、忠助も助はないとわかっていた。
「わたしは自分が先に殺されるか、それとも忠助が先か、そればかりが気になっていました。自分が先に殺されればまだ忠助は逃げられるかもしれない。けれど忠助が先に殺されてはその見込みもない。ならわたしは早々に死ぬべきで、けれど忠助がそれをさせなかった。彼は追手と、そしてわたしから、わたしの命を守っていたのです」
武士なら潔く死ぬべきだった。そうと教えられてきた。己に忠義を尽くしてくれた忠助を生かす術があるなら己はそれを行うべきだった。それがこれまでの受けてきた教育。けれど忠助は聞かなかった。怒鳴った。そんなことをして欲しくはないとそう初めてを怒鳴りつけた。
何もかもを頭の中に思い返して、は一度目を伏せた。
「わたしは生き残った。忠助は死んだ」
口に出しても不思議と悲しみは襲ってこなかった。ただ漠然としたものを感じ、これが事実であるのにどうもしっくりこない、そんな妙な違和感さえある。しかしはっきりと、あの状況で忠助が生き延びることは不可能であることも理解している。
ふとは今も傍らで眠りこける少年の頭を眺めた。己とそう年の変わらぬ、まだいとけない童。すやすやと寝息を立てている。この子と、あともう一人の子供がいなければ己は死んでいただろう。忠助とともに死ぬことを選んだ。追っ手が追いついた時、もはや己一人で逃げても先はなくならば忠助と共に死ぬべきだとそんなことを判じていた。その中にこの子供たちが来たのだ。
「この子らはただ巻き込まれただけじゃ。何も悪くはない。殺される理由などもない。死なせてはならぬのじゃ」
己は城主になる人間だ。人を犠牲にしてはならぬ。潔く死ぬという教え以上にはその教えを守らねばならなかった。人を犠牲にしたとたん、己はという、自分自身を見失う。城主として立派な人間になるために生きてきた。それが己の誉れであり全うすべき天命だ。時代の流れで命を落とそうとその誇りを最後まで失ってはならぬ。だから、は二人の子供らと逃げねばならなかった。
「提案があるのですが、聞いてみるだけ聞いてみますかな?若君」
黙り込むに大川がにこりと笑いかけた。何を提案されるのかは分かっている。それであるからははっとして顔を上げ、眉を寄せた。
「お待ちください、大川どの、それはわたしから、」
「この学園に身を隠しなさい。どの。この人里はなれた山奥の、それも忍びの学園であればあなたを危険から十分に守ることができましょう。忠助もきっとそれを望んでわしにあなたを託されたのじゃ」
「大川どの!」
穏やかな調子で「提案」してくる大川をはたまらずさえぎった。この老人は自分がしていることをわかっていないのか?いや、わかっているはずだ。それで、きちんと承知の上でこうして「提案」してきている。してくれているのだ。は羞恥で顔を真っ赤に染めた。
「この学園においてくださいと、匿ってくださいとわたしは伏して頼み申し上げるべきなのです。ご迷惑をおかけすると、それでもわたしは外に出れば殺されるから、わが身かわいさにあなたに泣きついてこそ、わたしがこの場所に居つくことができるのです」
物事には茶番と取られようが形式が必要だ。己がこの場所に留まればこの「学園」に危険が付きまとうようになる。学園長である大川は多くの生徒らと己を天秤にかけ、そして己を選ばぬものだ。そうでなければ長ではない。だがここで己がみっともなく懇願してやっと「しぶしぶ承諾する」という形が取れる。いざというときになればを見捨てることもできる。子供らの安全を最優先にさせることができる。そうなれば厄介ごとは半分で済むだろう。それなのに大川は、この学園の長殿は、己から提案して「受け入れる」というのだ。長のその言葉があれば己は今後全力で庇護される。学園を挙げて己を匿うと、そういうことになるのだ。
はうろたえ取り乱したがそこでふと、急激に頭の中が冷えた。何か予兆があってのことではない。ただふと、本当にふらりと、この「ありがたすぎる。やさしすぎる世界への誘い」に、違和感を覚えた。
長ともあろうものがただの善意慈善で物事を決めるわけがない。偏見のようだが事実である。はあまりの申し出に、そして状況の変化にいささか自分が冷静でいなかったことを自覚した。
(なぜ大川どのはさまざまな情報を握っていながら、それでもわしに「話」をさせた?)
状況把握事実確認というだけでは決定打にかける。では何の目的で、わざわざに身の上話をさせたのか。
「謀ったのか」
「なんのことですかな」
気づきが思わず苦笑すれば老人はとぼけた顔で首をかしげる。だが明白だった。
(この老人はわたしにわたしの立場を自覚させたのだ)
この学園を出れば命はないと。頼れるのはこの老人だけだと。伏して、頭をこすり付けて懇願せねばならぬと。ウシミツドキ城には戻れぬと、そう自覚させ、さらには試したのだ。己がそれでもまだ城主嫡男の立場を捨てることをせぬかと。
この老人が「匿って」くれるのはただの子供、ただの気の毒な身の上の子供ではない。この老人は己が「大名の子」「いずれ城主となり領地を治める大名になる」人間でなければ匿うことはしないだろう。
いや、といって見捨てられるわけではないとは分かっている。己がここで弱音を吐き己の運命から逃れただの人になることを望めばそのようにしただろう。どこぞの隠れ里にでも隠して農民の子として生きる手筈を整えてくれたかもしれない。そのほうがたやすい。だがそれを提案はしなかった。そしてもそんな「逃亡」を考えもしなかった。
己はいずれ城に戻り城主となる決意があった。だからそのために生き延び、この忍びの学び舎で匿ってほしいと思ったのだ。そして大川が求めているのもそうであろう。
「大川どのは父と話しをしたのですね」
この騒動をあの父が気づかぬわけがない。気づいて嫡男が殺されかけたという事実を利用してあの男は家中にある不安要素、あるいは都合の悪い人間を排除していくつもりだろう。
理由は知らぬが、城の城主は何があってもを次期城主にする強い意思があった。だからには大川と父がどのような密約を交わしたのか正確にはわからぬが、父にとっては己が死なぬこと、また大川にとっては己が大名になることが重要であるのはわかっている。
は一息ついてからじっと老人の白髪を見つめる。
「わたしになにをさせたいのです」
「今はなにも望みません」
「今は、といいましたね。ではいつ?」
己がここで匿われ続け、父が内々の抵抗勢力をごっそりそぎ落とせば己はアクジキドキ領主となる。それはこの大川の「おかげ」であり、己はこの老人に大恩を覚えるだろう。その己に、この老人は何かを望む。あるいは何かをさせようというのだ。
嘘は許さぬという目で睨んでも老人の飄々とした様子に変化はない。だがじっとは睨み続けた。そうしてしばらく経ち、その頑固さに大川があきれたように息を吐いてからぽつり、と問うてきた。
「若君はこの戦国の世がどうなるのか考えたことはありますかな?」
時は戦国乱世である。長く続いた将軍家の権威が地に落ち各地の大名が力を強め個々に領地の奪い合いをしている。の父も日ごろ周辺の豪族や大名と戦をしている。ウシミツドキ城は戦の多い大名家であった。
「いずれどこかの大名が天下を統一し新たな幕府を開くのではないでしょうか」
なぜ忍びの学び舎の長がそのようなことを聞くのか判じかねながらは答える。争いというのはいつまでも続かない。必ず終わりがくる。将軍家に力がなく始まった乱世なら、それは将軍家が滅び新たな幕府が開かれて終結するのだろう。そうは己の学問の師であった雪斎禅師から聞いている。
答えを聞き、大川は一度大きくうなづき、そして口を開いた。
「若君を匿うわけではありません。若君にはこの学園の生徒として学んでいただきます。そうしていずれ、この老人の頼みを聞いていただきましょう」
どうやら先程の己の答えは大川の希望通りではなかったらしい。
今はまだありがたく守られていると、しみじみかみ締めて両手を合わせていればいいということか。
これ以上の問いを許さぬ気配には目を細め、そして姿勢を正し、頭を下げた。
これはひとつの取引なのだ。己はこの老人の持つ力で命をつなぐ。この老人は己が将来得る権力で何かを得る。
先行投資というべきか。
利害の一致、敵味方ではない。こういうやり取りならある意味安心できると、そうほっとしては苦笑した。
この老人のこのとぼけた調子なら己にこの「取引」を悟らせぬこともできたのだ。それをこう知らせて、ある種の安心感を与えた。
己には価値があると。この学び舎に、この学園長どのになんぞの利をもたらせる存在であるから守られて「良い」のだと、そういう自信をこの老人は与えてくれたのだろう。
頭を下げたまま、は小さく「かたじけない」と呟き、ゆっくりと面を上げた。
こちらを眺める老人の顔、したたかな人間であるのは間違いないが、それでもやはり優しいのだろう。
Fin
(2011/08/05
20:03)
|