「いきがくるしい」とが保健室の真っ白いベッドの上、確認するようにゆっくりゆっくり、そろそろと肺に空気を送り込みながら、弱々しく言うものだから、高杉はいつものニヤニヤと人の不幸を笑う、楽しむ気質さえすっかり萎んでしまった。この、女、まだあどけない少女としか見えない、久坂は、いっそ冗談かと思うくらいに体が弱い。朝は風邪を引き、夜は拗らせて肺炎になる、くらいに弱い。「免疫とか、そういうものがないのかもしれない」と、随分昔、まだ小学校の低学年、高杉が恥ずかしげもなく半ズボンなんて履けたくらい昔に、久坂の母親が困ったように、見舞いに行った自分の頭の上でぼそり、と呟いたのをよく覚えている。
確かその後その、女親はとんでもないことを、晋助が聞こえていないとたかをくくって呟いた。「いっそしんでくれれば」なんて、物騒だ。
空に手を伸ばして、まっすぐ、まっすぐ
久坂と高杉は、本人たちはつい三日前まで気付かなかったが、幼馴染らしかった。もっとも、小学校一年生の夏に、久坂がアメリカだかドイツだかに行ってしまい、お互いそれまでの共通点、は、家が向かいだったというだけ。幼馴染、というには馴染みがない、気がするのだが、幼い高杉が幼い久坂の見舞いに行く程度には、やはり親しかったのだろうと思う。あやふやだ。そういう、ものだろうと思う。
別段、三日前に気付いたのも、何か特別、運命じみたものがあったわけでもなかった。ただ、入学式のときからずっと、お互い保健室常連。高杉はサボる場所として、久坂は死にぞこなう場所として、保健室にある意味教室よりも長くいて、保険医のいない時を見計らってベッドで寝ている高杉は、同じようにいつも、ベッドで寝ている久坂に、入学式から半年くらいで、気付いていた。
けれど、声をかけることなどしなくて、ただ、目を覚まさない。青白い顔で辛そうに眉を顰めながら眠っている久坂の顔をじぃっと眺め、睫毛が落とす影を見るのが、別段、晋助は嫌いではなかったから、それから、今の今、三年生の夏までずぅっと、そうして来た。
それで、つい三日前。保健室に研修医がいるとかなんとかで使えなくて、高杉がもう一つのサボり場である、屋上までの階段の一番上、でドアを背中にI Potなんて使用中、コツコツ、ペタペタ、こちらに上がってくる音、というか振動?がするものだから、顔を上げて、その、最初に見えた、見慣れた色合い、黒にやや茶色の混じった、頭に晋助は、らしくもなく目を見開いてしまった。
「先客、」
上がってきた久坂は、晋助を認めて眉を顰めると、そのままくるりと反転して、階段を下りようとする、見慣れてはいたが、その、小さな声や、その、真っ黒い目、それに動いている四肢になんだかとても、感動してしまって、高杉は咄嗟に、久坂の細い、真っ白な腕を掴んでしまった。
「おい、待てよ、」
「痛っ……」
慌てたために強く掴んで、鬱血してしまった腕を離す。高杉の指のあとが久坂の二の腕にくっきり、付いた。夏服だから、これから目立つと、ぼんやり思えて、なんだか、無性に晋助は愉快な気持ちになれた。
「授業中だぜ、今。なんでこんな、鍵の開かないとこに来てんだ」
「その質問そっくりそのままあなたに聞き返してよろしいんですか」
「俺ァ、サボりだ」
ぱっと、手を離すと、痛みがあるだろうに、久坂は腕をさするようすも見せず、じぃっと高杉を見つめて、首を傾げていた。その不思議そうな顔に、高杉もじぃっと久坂を見つめ、それで、あ、と、声に出すことこそしなかったが、なにかしら、頭の中に浮かんできた。
「あの、ひょっとしてと思っていることがあるんですけれど」
「ひょっとしなくても、そうなんじゃねぇの」
お互い、なんとなくそんな感じがして、高杉は鞄を枕にごろり、と仰向けになって、どうやって書いたか、ラクガキのある天井を見上げる。
「やっぱり、そうですか。あなた、前に向かいの家に住んでいた。目つきのめっさ悪い、よく、窓に石とか雪だまとか投げつけてきてくれた、あの」
久坂はぽん、と手を叩いて、嬉しそうに言う。それは再会できた喜びとか、そういうのではなくて、ただ、疑問解決、正解、に喜んでいるだけだと、その声音で解って晋助はニヤニヤ笑った。
「年がら年中引き篭もってしょうのねぇ、あいつ。お前だったのか」
「お互い、気付かないものですね」
「あの時のチビ」
「身長測ってみますか。たぶん、同じくらいですよ。高杉さん小柄ですから」
「ぶっ殺すぞこのアマ」
なんて、会話をして、それで、その後四限のチャイムが鳴ったため、すくり、と久坂は立ち上がって「それでは、さようなら、高杉さん」と、高校生が同級生にするには丁寧すぎる礼をして、コツコツ、ペタペタ、階段を下りていった。
それが、三日前のことである。
それで、三日目。保健室で寝ていたが、高杉がやってきたのだとわかると目を開けて、はにかんで「おはようございます」「今は昼だァ」なんて会話をして、高杉がさっき中抜けしてコンビニで買ってきたサラダとかアイスとかゼリーとか(はそういうものなら食べられる、と二日前、マックに誘って断られ、申し訳なさそうに教えてくれた)二人で食べた。別段お互い、会話したいようなことなどないのだけれど、授業に殆ど出れないは、高杉から聞く授業の話を楽しそうに、聞く。だからこの三日ほど、高杉はわりとマジメに授業に出ていた。
けれど、それは三十分くらいで、すぐにがごほごほと、辛そうに咳をするものだから、高杉、食べ物たちを片付けて、乱暴にゴミバコに入れて、同じ、乱暴さでも少々の心配を含んだ手つきで、をベッドに寝かせた。
「すみません」
「突然目の前で吐血されなきゃ、構わねぇよ」
「あー、いつかするかもしれませんねぇ」
がコロコロ笑いながら言うが、冗談、に聞こえない。きっと半年前よりは細くなっているし、顔色も、どんどん、肌色、という言葉より、白、が似合うようになってきている。
「おい、久坂」
「なんですか、高杉さん」
高杉はを名前で呼ぶ理由が見当たらなくて、苗字で呼んでいる。だからか、も高杉を苗字で呼んでいた。二人は同じ学年、同じクラスなのに、そういえば、教室で“見た”と意識したことがない。
「なんかして欲しいこと、あっか」
なにか堪えきれなくなってきて、高杉が、ぽつり、と、息を吐き出すように言えば、一瞬が、窓の外をいとしそうに目を細めてみて、それで「いきがくるしい」と、言った。
だから、高杉はの体を抱えて、屋上に行こうと、そう、思った。鍵はなかったけれど、いざとなったら、蹴り破ったっていい。ゆっくり持ち上げたの体は重くはなかったが、俗に言うオヒメサマダッコ、なんて出来るほど高杉は筋力があるわけでもない。だから、背に背負って、途中何度も、休んで、階段のところなんて「あの、歩けますよ」とに気を使われながら、なんとか上がって、屋上に続く、あの、階段の上まで来た。
「鍵、持っているんですか?」
「ねぇよ」
蹴り破るからいい、と高杉がしれっと言えば、少し思案して、が首に下げていたチェーンを手繰り寄せて、チャリン、と、銀色の鍵を出した。
「これで開きます」
「なんで持ってんだ」
「ひみつです」
にっこり笑った。そういえば、三日前に会った時にもこいつは鍵を持っていたからここに来ていたのかと思い高杉、まぁ、詮索はさておき今は、息がつまらないで済む場所に、を連れて行くのが先決だった。
屋上に入るのは、初めてだ。それも当然、ここは立ち入り禁止、鍵だって職員室にしかない。高杉は問題を起こしてばかりの有名な生徒だったが、職員室のものをパクったことはまだ、ない。
は慣れたようすでテクテクと、グラウンドからは見えないですむ、フェンスの方に歩み寄って、すぅっと深呼吸をしていた。
「おい、」
「ありがとうございます。きもち、いいです」
「そっから飛び降りなきゃ、なんでもしろや」
忠告してから、毎朝毎晩死にかけているこの女がわざわざ飛び降り自殺などするわけがないわな、と思い当たって苦笑する。は気持ち良さそうに目を細め、高杉の存在を忘れたように、空をじぃっと、眺めている。
「おーい、ここは生徒立ち入り禁止ですよー」
コツン、と扉を叩く音がして、ばっと、高杉が振り返るとそこには、糖分、とかいうやる気のない文字をスローガンにして、どんなときでも死んだ魚のような目をしている国語教師が、だらり、とやる気なさそうに立っていた。
「銀八」
「センセイって一応付けろー、高杉クン」
ぼりぼりと頭をかいて、気にしたようすもなく銀八は高杉に言い、そしてちらり、と、フェンスに寄りかかっている、青白い顔をした久坂に視線を向けた。高杉は銀八から守るように、さりげなく、久坂を背に庇う。
自分は校内で不良だか劣等性だか問題児だかの称号をいただいている。だから、この場でうまく言えば、後々面倒なことになるのは自分だけですむ。たとえば、体の弱いこの女の顔が気に入ったから人気のない屋上までつれてきた、とか。停学、休学には慣れていたし、銀八なら、上手くやりこめる自信があった。
「やっぱお前だったか。」
しかし、銀八の溜息と一緒に出たのは、妙に親しそうな、呼び方と、声音。は今にもふらふら、倒れそうなほどに顔が青いのに、銀八の登場で少しだけ、目に光が戻った、ようだった。(なんなんだ)
「俺の白衣から勝手に鍵取っていきやがって。屋上行くなら俺に言えって言ってんだろうが」
「……ごめんなさい」
え、なに、コイツら何、と高杉、混乱する暇もない。はほんのり顔を赤らめて、銀八の困ったような視線から顔を逸らし、ぎゅっと、高杉のシャツの裾を掴む。
「高杉さんは関係ないんです。わたしが、苦しいって言ったら、ここに連れてきてくれたんです」
「へぇー。あの高杉クンがねぇー。あー、礼言っとくわー、サンクス」
ちっとも心が篭っていない。高杉は自分だけ全く状況がわからずイライラしてきて、今直ぐ銀八を蹴り飛ばしてフェンスから半身ぶら下げていったい何がどうなっているのかの説明をさせたかったのだけれど、ぎゅっと、が小さな白い指で自分のシャツを掴んでいるから、動けない。
「っつーか、ー。お前、最近調子悪いんだろうが。昨日も夜咳してたし、銀さん超心配なんですけどー」
「心配性に過ぎるんです。わたしもう、中学三年生なんですよ」
「何言ってんのめっさ義務教育中じゃんガキだから。しかも銀さんとの年齢さは一生埋まりません、ハイ、は銀さんにとって一生子供なんだよ、わかってんのかコラ」
高杉完全に蚊帳の外だ。
あれ、でもなんか、あぁいう調子の会話、どっかで聞いたような覚えがある、と、思い出して高杉、なにやらぎゃあぎゃあ言い合っている二人を放置。というか、このままここにいたらなんだか、面白くない展開に只管イライラするだけだと思った。
なので、さっさと、家に帰って母ちゃんの押入れの、ダンボールの奥底に仕舞い込まれた「晋ちゃん、六歳」の頃のアルバムを出してみて、「げ」と、絶句。
真っ白い顔をした幼いの隣で鼻なんてほじりながら、やる気のない死んだ魚のような目をしている、中学生くらいの青年が、今まさに高杉が着ているのとおんなじ、黒い詰め襟を着て少年晋助の頭をぐぃっと、押さえ込んでいた。
俺の背が伸びなかったのはコイツの呪いなんじゃねぇの、と、一瞬思い、高杉晋助、あのヤロウいったいいつから気付いてたのか、それ以前に、なんだかこの三日最近、いろんなことが起きてきて、これで、本当はは自分と銀八にだけ見える幽霊だったとしても、もう、驚きもしないと思えてきた。
(とりあえず明日は、きっと、やっぱり当然のように保健室で寝ているにキスの一つでもしてみて、真っ白な顔を赤くしてみようかとか、そういうことを、考えながら高杉晋助、アルバムの写真の、銀八の額に“ハゲ”とか、書いてみた)
Fin
(07/7/12 2時34分)
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