ちよちよと鳴く
「伊作、おい、伊作。まだか、もう日が暮れるぞ」
「ちょ、ちょっと待って。留三郎、もう、待ってったら」
パタパタと山を駆けていく子供の足音が二つよくよく響く。いや、子供の足音と素直に言えるものでもない。一つは幼い子供が無遠慮に踏み鳴らすにはいささか違和感のあるもので、もうひとつは前者のような音を出そうとしてうまくいかず不格好に響く音、というようなもの。
夏の暑い日。山の、木々の下とはいえ歩いていれば汗が出る。麻の着物がじんわりと汗で湿りながら、伊作は額を拭った。目の前をスタスタと歩く留三郎は自分と違い、まるで騒々しい足音をさせないのに疲れた様子を見せない。
「全く。伊作、 おまえ本当に不注意だな。午前に学園が終わったっていうのに、なんだって山を降りるのがこんな時間になったんだ」
「ご、ごめん。何度も謝ってるじゃないか」
前をずんずんと歩いているのは黒髪の留三郎。日に焼けた鼻を不機嫌そうに鳴らした。丸みを帯びた幼い顔が怒っている様子というのは愛らしく見えるが、いつまでもぐずぐずとしている伊作に苛立っているのはよくわかる。それで伊作は顔を(よく女子に間違えられるほど愛らしい顔を)きゅっとすぼめて萎縮する。
二人は忍術学園1年は組の生徒で、伊作と留三郎は忍たま長屋で同室でもある。
忍術学園というのは10歳から15歳までの子供が集まる学び屋で、とある山の中にある。どこだか言えぬのは、どこにあるか知られてはならぬからである。その割に門には「忍術学園」とでかでかと看板が掲げられているではないかとそう指摘する方もいるだろうが、あれは漫画とかアニメで視覚的に知らせるためであって、実際看板はないものと、そういう脳内フィルターを使用していただきたい。
さて話は逸れたが、この山道を歩く二人の子供。黒髪にやや釣り目の少年が食満留三郎。もう一人の優しい顔立ちに茶髪の少年が善法寺伊作と言う。二人は4月から忍術を学ぶために入学し、本日から初めての「夏休み」となったため帰省中であった。
夏休み。学生時代に一番長い休みとなるだろう。もちろん宿題はたくさん出されたが、伊作は久しぶりに故郷に帰れることを喜んだ。忍術学園の生徒は家が農家なところが多いが伊作の家は町の中にあって、家は書道教室をやっている。小さな教室で父は町の子供たちに読み書きを教えているので伊作は小さなころから読み書きができた。けれど伊作は親のように教師になるのではなく思うところがあって、忍術学園に通うことになったのだ。
まだ三か月しか経ってないが、少しは成長したのではないか。そういう姿を親に見せたいと、そう思って家に帰りたいとそ期待に胸ふくらませていた。
しかし、さぁ帰ろうというところ昨日まとめておいたはずの荷物がなくなっている。おかしい、おかしい、どうして、あれ、どうしてないのだと涙交じり鼻水垂らしてあちこち探していると、見かねた同室の留三郎がなんだかんだと言いながら一緒になって探してくれて、やっと今、日が傾き始めた頃に帰ることができたのだ。これがもし留三郎が手伝ってくれなければきっとまだ自分は探し続けていただろうと伊作にはわかっている。
「……と、とにかく、迷惑かけて、ごめんね。留三郎」
「悪いと思ってるなら、さっさと着いてこい。置いてくぞ!」
荷物探しに留三郎を巻き込んでしまって心苦しかった。自分はいつも失敗ばかりするので多分今日も何かあるだろうと、そうわかっていた。だから、夏休みの宿題と、それに伊作が所属する保健委員顧問の新野先生に貰った保健委員一年生のできる簡単な治療方法の本など、そういう簡単な荷物を昨晩のうちから作っておいた。
それなのに今朝の朝礼を終えてさぁ学園を出よう、というところで、まとめておいた荷物が一つもなかったのだ。
留三郎はいつも伊作を助けてくれる。留三郎はどうしてドベの多い「は組」にいるのか不思議なほど忍術がうまい。勉強のほうは、やっぱりは組なので良いとは言い難い。けれど、伊作が困っているとなんだかんだと言いながら留三郎は助けてくれるのだ。今日だって、荷物がなくなっても帰ることができないわけではないし、留三郎には関係ないのだから、帰ってしまってもいいはずなのに、留三郎は伊作を見捨てなかった。
そうして、たぶん持ち前の「不運」で帰る途中も何かあるだろう自分を気遣ってこうして山を下りてくれている。
(ぼく…いつも誰かに助けられてばっかりだな…)
家にいたころからそうだった。人一倍頑張っても、伊作は上手くいかない。人が当たり前にできることが自分にはできない。父が教えてくれたから読み書きはできたけれど、それだって、きっと普通ならもっと早くに覚えることができたんじゃないか。
「……伊作、いつもやられっぱなしで悔しくないのか」
「え?何?」
「荷物のことだ。どうせ潮江と立花の仕業だろ」
しおしおと歩く伊作を振り返り、留三郎が道に出ていた枝を手折りながらぼそりと呟く。
落ち込むばかりの伊作と違い、どうやらこちらの少年、留三郎は伊作にかけられる「手間」を迷惑とは思っていないらしい。先ほどから苛立っていたのも伊作に対してというのが正確ではなくて、伊作にいつも意地の悪い仕打ちをする連中に対してだった。
は組は「あほのは組」と言われるドジの集まりが多く、ほかの組にバカにされることがよくある。入学時にどうやって振り分けられるのか謎に思えるほどい組は優秀、ろ組は妙なタイプが揃い、そしては組は阿呆の集まり、とそういう風になる。もうこれは風習なのかなんなのかわからぬところだが、その中でも伊作は群を抜いてほかの組からバカにされていた。
善法寺伊作、名前はとてもありがたい文字が並ぶというのに、当人、歩けば躓くか顔面から転ぶ。宿題はやってきても忘れる。テストは欄を間違える、名前を書き忘れる、あるいは配布ミスで一人だけ違う問題用紙が配られる。などという「ザ・不運」な伊作はからかいの対象になりやすかった。
仲間意識の強いは組では伊作の不運っぷりを伊作の個性だ!と前向きに考えたり、その不運からなるべく放してやろうと奮闘するものが多いが、他の組の生徒は伊作その不運っぷりを嘲笑しかしない。
そのうえ伊作は妙にやさしい。いや、世間慣れしてない10歳の子供が集まる一年の生徒たちは基本的に『やさしい』性格が多いけれど、伊作はその中でも群を抜いて優しい。ドジをして笑われてもへらりと困ったように笑う。悪戯をされても「困ったよねぇ」とやはりにへらと笑う。お前はどこの芋粥好きの五位だ!(芥川ネタ)と突っ込みたい。留三郎はこの三か月間伊作が大声を上げているところを見たことがなかった。(落ちた穴の中にさらに上から雑巾絞った水の入ったバケツが落下して大声で泣いてるところは見たが)とにかく伊作は優しくて、全体的に柔らかい生き物だ。そういう、「忍者に向かない」性質が、人によっては苛立つもので、特に頭脳優秀を鼻にかけているい組の連中には気に入らないらしかった。
持ち物をしょっちゅう隠され困る伊作を留三郎は何度も見てきた。今日だって、どうせあの二人が隠したのだろうと思っているのに伊作は誰にもそのことを相談したりはしないのだ。
伊作をからかったり馬鹿にする者は多いが、その中でも性質が悪いのがい組で一番成績のいい立花仙蔵と、その同室で忍術バカの潮江文次郎だ。潮江は伊作の姿を見ると「ヘタレの伊作、お前九ノ一教室に行った方がいいんじゃねぇの」などとヤジを飛ばしてくる。その度に留三郎は文次郎を殴りに行くのだけれど、伊作は一言だって言い返さない。いつもニヘラニヘラと笑っている。そういう伊作だから、留三郎は放っておけない。このお人好しな性格と持ち合いの不運で、どうせ帰り道もロクな目に合わないんじゃないか。だから、しょうがなく自分は途中まで一緒に帰ってやらなくちゃならないんだ、と何度も留三郎は自分に言い聞かせている。
「そ、そうかな。見たわけじゃないし。それにぼくがどじだから、荷物が呆れてどっか行っちゃったのかもしれないし」
「荷物が二足歩行するわけないだろ。妖怪でも飼ってんのか伊作」
「やっぱり留三郎、怒ってるよね」
「怒ってない」
怒ってるんじゃないかな、と伊作は困ったように笑う。そういう顔が留三郎は嫌いだ。伊作は良く笑う。けれど留三郎はこの伊作の笑った顔は嫌いだ。そして自分がこんな顔を伊作にさせたということが、また腹立たしかった。むっとして「怒ってない」と怒鳴ろうとすると、急に伊作が立ち止まった。
「……何だろ?これ」
ぴたりと足を止め、先ほどまでのふにゃふにゃとした笑顔を消す。ピンと緊張の糸が張ったように真顔になって、耳をすませている。
「…どうした…?」
「留三郎、ねぇ、何か聞こえないかい…?」
伊作は手両手をそれぞれの耳に宛がえて音を拾おうとする。何か妙な音でも拾ったか。伊作は耳がいい。どじで弱いけれど耳がいい。留三郎はその伊作の耳の良さを常々感心していたから自分もそろって耳を澄ませる。
山、森の音がする。獣の音はしない。風の音。それに混じって聞こえる、何か自然の一部ではない音がある。
「!?おい、伊作…!」
「留三郎!!こっちだ!!」
留三郎がその音の正体を確定させるまえに、はっと伊作が駆け出した。道をそれ茂み、草むらの中に飛び込んでいく。
一体なんだ。留三郎は困惑したが、しかし、先ほど聞こえた妙な音、がカチリと自分の中で答えと結びつく。
そうだ、聞こえた音は。キン、キン、と何かのぶつかり合う音。この音は、そうだ。忍術学園の道場で、先輩たちの稽古を見学させてもらった時に聞いた音と同じ。
刀と刀が切り結びあっている、そういう音だ。
「伊作…!!待てよ!!!」
誰か武士が山の中で訓練をしているのか。いや違う。それにしては勢い、何やら必死さの伝わる音である。留三郎は嫌な予感がした。山の中で聞こえる「殺し合い」の音。それに伊作が飛び込もうとしている。好奇心からではないだろう。伊作は憶病なところがある。けれど向かった、スン、と留三郎は臭いを嗅いだ。自分も今やっと気づいた、血の匂いがする。伊作は保健委員であるから血の匂いに敏感で、きっと「誰か怪我をしている」と、そう飛び込むつもりなのだろう。
「馬鹿!伊作!近づいてどうするんだ!」
留三郎は伊作の後を追って駆け出した。山道を逸れれば歩きにくくて仕方ない自然の空間。伊作がずんずんと進むその背中を見失わぬようにしながら、留三郎はクナイで枝を切り落として進む。こういう時ばかり伊作には不運が襲わず前にぐいぐいと進めるのだから、本当にこれぞ不運の極まりじゃないのか。そんなことを頭の隅で思い、やっと追いついた留三郎はぐいっと伊作の腕を掴んだ。
「伊作!お前…!」
「っし!留三郎…あれ…」
立ち止まった伊作が足元を指す。二人が出たのは崖の上。崖と言ってもそれほどの高さがあるわけではないが、一足で降りれる高さでもない。そこから見える光景。キンッキンッ、と刀と刀がぶつかり合う。二人の立つ場所を下がった、小さなスペースは木々に覆われているものの上からはよく見える。岩肌のむき出しになったその場所に、一人の忍びが追いつめられているようだった。
「……同じ忍び装束に見えるな。抜け忍の始末とか、そういうのじゃないか…?」
振われる刀は忍び刀のようだった。そこには三人の人がいて、二人、一人を追い詰めている。追い詰められているのは二人と同じ黒の忍び装束を着ている男だった。仲間ではないのか?と思うほどそっくりな姿。留三郎は同じ忍び衆で一人が何かヘマをやらかし粛清されている図かと、そう受け取った。
留三郎の家は代々忍びの家系で、上に二人の兄がいる。三男の留三郎は家を継ぐことなく、普段の生活を支える農家になるよう幼いころ言い聞かされてきたけれど、歳の離れたうえの兄二人が、父と一緒に就いた忍務でそろって命を落とした。
家に男子は留三郎しかおらず、しかし忍び事を教えられる者がいない。このまま農家に戻るのかと思われたが、留三郎は兄たちと同じように自分も忍びになろうとそう決めた。それで忍術学園の門を叩いた。強くなって、誰よりも強くなって、兄や父が果たせなかったお役目を自分が果たそうと、そこまで立派なことを考えているのかと言われれば当人もよくわからぬが、けれど幼いころからずっと、忍び装束を来て修行する兄たちと父の姿を見てきた。彼らのその背を忘れられぬのだから自分はやはり忍びになるべきなんだろうと、そう思ったのだ。
そういう生い立ちであるから留三郎は忍びの世界を多少なりとも知っていた。忍びが忍び仲間に殺されることもあると、主君に「不要」と判断された時や、あるいは裏切った時など、忍びは死に囲まれている。だから目の前の光景をことさら奇妙、とは思わなかった。
この位置からは見つかりにくいとはいえ相手はプロの忍者だ。余計なものを見たと始末されてはたまらない。警戒し、茂みに隠れ、留三郎は今にも飛び出しかねない伊作の肩をぐっと抑える。
「行ってどうするんだ。見てわからないのか?あれはプロの忍びだ。出て行ったら巻き込まれる」
「でも、このままじゃあの人は負けてしまうし、あの子だって、」
「あの子?」
伊作はぎゅっと眉間に皺を寄せていた。耐えきれないことがあると、今にも泣きそうな、このぎゅっとした顔をする。
あの子、という言葉に留三郎は首を傾げた。追われている忍びはどう見ても成人男性だろうし、相手二人も大人だ。けれどあの子、という。何のことだともう一度谷底を確認して、留三郎は驚いた。
「……俺たちと同じくらいだよな」
「そうだよ!留三郎…助けなきゃ!」
追われている忍び、どうも動きがかたいとは思っていた。腕一本で忍び刀を操り二人の攻撃をしのいでいるのが妙だと感じていた。けれどその懐、黒の忍び装束にすっぽり隠れた懐、黒い布で覆われている子供がいた。
あれが人なのだと認識すると、動く男の邪魔にならぬようにと必死にしがみつき、身を固くしているのがわかる。留三郎たちの方まで伝わってくる殺気を間近で受け恐ろしいのか口を引き結んでいた。
「どんな理由があるのかなんてわかんないけど…!でも、留三郎…あの子、殺されちゃうよ!」
「……追ってる方が何か理由があるのかもしれない」
たとえばあの腕の中の子供を攫ったのが追われている方で、二人は子供を取り戻そうとしているのかもしれない。
「でも…それならどうしてあの子まで一緒に殺そうとしてるのさ!!」
「そんなの俺が知るか」
とにかく自分たちには力不足だ。関わろうと思うことすらできない、次元の違う問題だと留三郎は切り捨てる。無情だとは思っていなかった。できれば己とてこの場に飛び込みたいとは思う。どんな理由があるのか知らないが、追われている方の男の腕の中に自分たちとそう年の変わらぬ子供がいるのだ。助けたいとは思う。だけれど力が足りないことを自覚していて、ここで飛び出して殺されてしまえば、それこそ己は何もできぬまま死ぬことになる。
自分の身の程を知って留三郎は割り切っていた。
ついに追われた男の背に手裏剣が突き刺さる。それでもまだ子供を抱きかかえたまま走ろうするその姿。仲間割れなのか。いったいどういう身の上でこの状況になっているのか。それさえも留三郎たちにはわからない。知ることもできないだろう。ここでこうして「見て」はいるが関われぬ。今だって、自分たちはすぐには相手も上って来れない高い場所にいるからこそ「見物」ができている。これがもし、同じ高さでの出来事なら留三郎も伊作も今まだ生きてはいられていないのだ。
それに、留三郎は伊作を守る義務を感じていた。同じ部屋で、そしていつも一緒にいた。伊作は弱いし、不運だから自分が守らなければならない。今だってうっかり伊作が足を滑らせて落ちないとも言えないのだ。だから、留三郎は出て行く気はなかった。
けれど伊作はそんな留三郎をきつく睨む。普段気弱なくせに、伊作はこういう時ばかり意志が強くなる。
「だって、あの忍者は怪我をしているんだよ!」
そう言って留三郎の腕を払った。そういうふうに、いつも潮江文次郎や立花仙蔵を振り払えればいいものを、などと思う余裕もなく、留三郎よりもずっと弱い伊作は、留三郎が止めるのも聞かずぐいっと、そのまま崖の下に落ちて行った。
+++
「、学園長が呼んでる」
ぼそぼそっとした声には振り返った。いつのまにか、授業を終え己以外誰もおらぬと思っていた「は組」教室の入り口に級友である中在家長次が立っている。常時仏頂面でどこか厳しい雰囲気ばかり出しているから初対面では怯えられがちな男であるが暫く付き合えばその心根がやさしい作りをしていると知れる。外見というのは人にマイナスしか与えないな、と長次を見るたびには思うのだが、まぁそれは今、関係ない。
「うん?なんじゃ、珍しい、長次が伝令ですか」
「……用があった」
忍術学園一無口な男の異名を取る長次が言付けかとがからかえば長次がついっと視線を逸らす。大方学園長に未返却の本があり、下級生では煙にまかれるかもしれぬと思うて図書委員長直々に足を運んだのだろう。なるほど無言仏頂面の男がでんと居座っていればあの学園長殿も聊か居心地が悪くなって本を返却するかもしれない。
そこで学園長がもののついでと申し付けたか、あるいは本を紛失したか何かで事態をうやむやにしようと不慣れとわかる男に言付けをした、というのも考えられる。
まぁ、どれでもかまわないが。しかしなるほどなるほど、とは一人勝手に納得をしてから手に持った扇子をパチン、と鳴らす。紺之介の母の形見である扇子はもともと女物であったが、骨を残し紙を貼り換えさせ愛用の品としている。長く垂らした紐は朱、落ち着いた色合いと結び方ゆえにの手にあっても違和感がない。
座り込んだまま顔だけを長次に向け大儀そうに頷いて見せた。
「留三郎も伊作も委員会で不在なのです。退屈しておりました、庵に行くのもよい」
「……」
一瞬長次の目が「学園長に呼ばれたのだから無条件で行くものじゃないのか」とかそういう突っ込みをしたそうに揺れたが、そこは言葉にせぬ男。も気づかぬふりをしてすっと立ち上がる。
このやけに雅、貴族的な振る舞いをする六年生、、本日六年は午前授業だけで午後からは個人面談、進路相談という予定であった。しかし同時に複数名が行われるわけではなく、数日間にわたり一人ひとりが呼び出される、というもの。教師らがじゃんけんで順序を決めたとかで、は組は最後の組になり、たちは明日の予定だった。それで、それなら空いた時間を委員会の仕事に充てようと委員長である伊作と留三郎は授業後すぐに姿を消した。は学級委員会所属であるので、普段主立った活動があるわけでもなく、こうして教室に残っていた。
六年は今年で卒業だ。今のうちから学園内でできることをやっておこうとそういう気持ちか、それはにはわからないけれど、二人が委員会の仕事をしている姿は好きである。それで、は二人が戻ってくるまで特にやることもないと先日長次に面白いと薦められた本を読んでいたのである。
長次はの手元にあるのが己の推薦した本であると気付き一瞬表情を緩める。だが本の感想を、と聞けるほどアクティブな性格ではなく、結局無言でいた。
「なんじゃ、長次」
立ち上がり廊下に出たの後を長次がぴったりとついてくる。まだ何か用があるのかと、無口な友人、彼から切り出すのは難しかろうとが気遣って振り向けば、長次が眉間に皺を寄せるという奇妙な表情を見せる。
「あなたが顔を顰めている時は嬉しい時と思っておりましたが、今はまこと不快と、そう見えるのう」
言いたいことがあるならどうぞ、と視線は見上げる形だが上から目線で言いぽん、と長次の肩を扇子で叩く。促されて長次はもごもごと口を動かし、やはり聞き取りづらい声。うむ、ともそろって眉を寄せ、小首を傾げる。はっきりと唇が動いてくれればまだ読むこともできようが生憎読めるまで開かれもしない。少し考えてからはぐいっと長次の胸元を引っ掴み己に引き寄せた。
「だから、どうしたというのじゃ、長次」
「……っ」
成長期を過ぎたは、6年生の中で2番目に背が低い。伊作に抜かれたときはほんの少し殺意も沸いたが、まぁそれはそれ。聞き取れぬからその口を耳元に引き寄せようと掴んだ胸倉を引っ張れば、間近に迫った長次がぎょっと目を見開く。
「…ッ!」
「なんです、大声も出るのではないか」
慌ててこちらを引き離そうとぐいっと両手で突っぱねる長次をころころと笑い、は目を細める。
「言い忘れたことでも?」
は自分で自分が辛抱強い方ではないと自覚しているけれど、こと同輩に至ってはその適応外である。ゆっくりと十数えるゆとりを持って待てば、暫くして長次が蚊の鳴く声よりはまし、という程度の音を出した。
「……送って行く」
「いや、結構」
「……」
「そうわかりやすい顔をするでない。落ち込むでない」
学園長殿の呼び出しということは心当たりがいくつかあって、それに長次を伴わせるわけにはいかぬ。そして長次もその「心当たり」をうっすらと気付いているのだろう。それであるからの申し出、そうとは言わずの気遣い。ただ「送って行く」と親しい間柄であるゆえの延長線のような言い回し。後輩だけではなく長次は同輩にもやさしい男だ。こつん、とは長次の頭を扇子で軽く小突いて口の端を上げる。
「明日は休みでしょう。久し振りに皆で外に出かけてみたい。どこか良い茶店がないか調べておいてくれませんか」
言い放てばまだ何か言いたそうな顔であるが、こくんと頷く。全く身の丈は大きいというのにこの素直さはなんであろうか。はころころと喉を鳴らし、「頼みましたよ」とぐいっと長次の胸を押してから、再び学園長のいる庵までの道を進んだ。
+++
伊作のバカ野郎、と留三郎は何度目になるかわからぬ罵声を伊作に浴びせさせ、飛んできた手裏剣をクナイではじいた。手裏剣やクナイの使い方は二番目の兄に教わっていたから、学園に来てからも留三郎は扱いに困らなかった。それに普段文次郎と喧嘩をしたり、自称「うっかり手を滑らせて」投げ込まれる仙蔵の手裏剣を払ったりとそういう日々があって、武闘派である自負があり、日中であれば森の中でも飛んでくる手裏剣、4つまでなら何とか対応できると確信していた。
「ご、ごめん…ごめん、留三郎、巻き込んでごめん…!!」
伊作は倒れた男の背から手裏剣を抜き止血をしながらおろおろと謝罪の言葉を口にする。それでも男を治療する手を止めないのだ。忌々しい、と留三郎は舌打ちして、切りかかってきた忍び一人と相対した。
伊作が忍び同士の戦いに乱入し、一瞬追手二人の動きは乱れたが、しかしプロ忍者、それまでだった。すぐさま唐突に現れた「子供」の伊作もろとも殺してしまうつもりで、そうして手裏剣が投げられたところを、もう放っておくこともできない留三郎が飛び出して、そして防いだ。
「貴様ら、ただの子供ではないな」
「このあたりには忍術を教える学園があると噂を聞く。貴様らはそこの生徒か」
「答える気はない」
「そ、そうだ!僕たちは忍たまだ!!」
忍者が自分の身分を明かすのはタブーだと、そうわかりきっているから留三郎は拒否したのに、伊作はあっさりと答えてしまう。
「……伊作、てめぇ…」
もう本当に、こいつは忍びに向いていないとかそういう問題ではないと思う。留三郎はもうやっぱりこいつを見捨ててしまおうかと考えなくはないのだが、乱入してしまった以上もう自分も後には引けないのだろう。
そして留三郎の頭の中にはほんの僅かな打算もあった。相手が自分たちを忍術学園の「生徒」と知ったのなら引いてはくれないか。忍術学園がこの国の忍びたちの間でどういう位置づけになっているのか、それはまだ一年の留三郎にはよくわからない。だが、教員らの質や学園の規模などを見る限り蔑ろにできる存在ではないのではないか。
学園の生徒に手出しして、忍術学園から「報復」されるかもしれない。そのことをこの忍者たちが恐れてはくれないか。留三郎は自分たちの現在の「不利」さや「弱さ」をわかっていた。忍たまは忍者の卵。そして一年生の、まだまだひよっこすぎる自分たちはどうしようもない弱者だ。だから「学園」は完璧に姿を消すことなく存在を風に流しているのではなかろうか。忍者の卵を守るために。
「に、忍術学園の…生徒、か………?」
「あ、気がつきましたか!?」
あっさり自分の身分を名乗った伊作に追手二人も微妙そうな反応を見せたのだが、意識を失っていた男がそこで朦朧としながら口を開く。
「た、頼む、この方を忍術学園へ……」
「おのれ、余計なことを…!我らを裏切るつもりか!」
男は伊作の手をしっかりと掴み、必死にそう懇願した。この方、というのは未だ抱きかかえられた子供。年のころなら伊作たちと同じ程度、身なりはしっかりとしている、どこどの城の若君だろうと思える少年だ。殺し合いの最中にあって、がたがたと子供は体を震わせていた。ひっしに男にしがみついて離れぬ。
未だ敵二人は健在。このままではどうしようもない。留三郎が次の行動を決めかねていると、男が懐から何やら丸い塊を出した。そうしてそれを追って二人の足元、地面に向かって叩きつける。
「……!!!これは…煙玉…!己、こしゃくな真似を……!!」
軽い音と共に視界を遮る黒煙が立ち上がる。吸い込んだのか隣で盛大に伊作が咽ているが、留三郎は素早く口元を覆うことができた。
逃げるぞ、という低い声が聞こえたかと思えば、ひょいっと留三郎の体が浮く。いつのまに伸ばされたのか先ほど留三郎たちが降りてきた崖に縄?がかけられていた。追われていた男は伊作と留三郎、それに少年を抱えて素早くするすると崖を上がっていく。なるほどこの時のための煙幕だったのか。
あっという間に上り終えてもまだ油断はできぬ。男は咽る伊作となぜ自分たちまで助けたのか理解できぬ留三郎を一瞥してから少年の肩を掴んだ。
「若君、これから某の申し上げることをよくお聞きください」
覆面をしたままではあったが男の声はよく聞こえた。震えていた少年は、涙でボロボロになった顔を拭いながら首を振る。
「いやじゃ、いや、聞きとうない。そなた、わしを残して死ぬ気であろう」
「さようにございます。某、この山を死に場所と決めました。つい先ほどまで恥ずかしながら若君を一人残すことも守り抜くこともできぬと己の無力さを認めておりました。しかし、今は違いまする。若君の強運のなせる業でしょうか、今は、若君に未来が見えてございます」
この二人は主従であるのか。忍びの男はまだ若いように思えた。学園に最近来たという20代の教師と同じくらいだろうか。少年は駄々をこねる子供のように首を振り耳を塞ごうとするが、男はそれを許さない。
「良いですか、若君。これから先はこの二人の子供とお逃げください。城、領民のためにも若君はけして死んではなりませぬ」
言って男は伊作と留三郎を振り返った。怪我をしている男を手当しなければとあれこれ伊作は救急箱を取り出そうとするのだけれど、男はそれを止める。
「君たちは忍術学園の生徒だね?こうして巻き込んでしまったことは申し訳なく思う。だから、君たちを守る代わりに、私の頼みを聞いてほしい」
「あんたたちは何者だ…?なぜ追われてる。それに、どうして大事な主人を俺たち忍たまに託そうとするんだ」
状況は若干把握できている。留三郎は確かにこの状況、自分たちもそろって追われることになったと理解していて、今の自分と伊作では殺されるだけが結末だとわかっていた。だから生き残るにはこの忍びが追手とやりあって時間を稼いでくれなければならない。
自分と伊作が二人合わせても、それでもこの半死半生の男の方が、追手を足止めできる可能性が高いのだ。
「ここからまっすぐ駈けると苔に覆われている大岩がある。その近く小さな池があって、中に潜ることができる。下まで潜れば酉の方向に子供が入って曲がれるほどの空洞があって、そこから忍術学園の裏の井戸に繋がっている」
男は留三郎の問いには答えず、逃げるための道順を説明した。忍術学園の敷地内に入ればもう追手は追いかけることはできないと、そう男は確信しているらしかった。忍術学園がほかの忍びたちの中でどういう位置付か、この男はわかっているようだ。
だがはたして男の言葉をうのみにしていいのか。そんな井戸の話、留三郎は聞いたことがない。伊作も同様のようで、困ったように眉を寄せている。
「ぼ、ぼく、そんな井戸、聞いたことないよ…?」
「緊急用の避難路だ。学園に何かあった時に、生徒だけでも逃がすよう作られてる。もう随分と使われていないはずだが、今でもまだ使えるだろう」
なぜそんなことを知っているのだ。留三郎は聞きたかったが、確かに今はそういうことをじっくり話している場合ではない。
伊作と留三郎は方向を確認し、今はとにかく逃げるしかないと答えを出す。
「さぁ、若君。ここでお別れです。じきに追っ手が近づきましょう」
「いやじゃと申しても、現状を払う力も策もわしにはない……となれば、これ以上はわしの我儘であるな。わかった、そなたに従おう」
少年は再び男に向かい合い、その瞳にある決意を見たか、あるいは死相を見たか、ぐっと言いたい言葉を胸に押しとどめるような顔をした。そして、くるり、と留三郎たちに顔を向ける。
「そなたらを巻き込んですまぬ。じゃが、案内を頼みたい」
未だカタカタと震えているのに少年はぺこりと頭を下げた。それでも不安げな面持ちに何か思ったのか伊作がぐっと、少年に抱き着いた。
「うん、大丈夫。わかった、ぼくと留三郎がきみを学園に連れてく。だから、心配しないで!」
伊作は、弱い者に優しい。今、自分だって怖いだろうに少年が怯えているから強くなろうとしている。留三郎は伊作のそういうところが嫌いではなくて、今の状況、やはり危機感は変わらぬし、焦る心もあるけれど、伊作が決めたのだからと自分も少年の同行を認めた。
そして伊作が少年を受け入れた様子を見て、男はほっとしたようだった。覆面で隠れた口元は分からぬが、目を細めて伊作と少年を眺めている。何か懐かしい光景を見るような、そんなまなざしだと留三郎は思った。
(……この男、ひょっとして)
ある可能性が留三郎の頭をかすめる。状況的に、この男が裏切ったうんぬんと追手が吠えるのだから、やはりこの男はもともとこの忍びたちと同じ忍び衆の者なのだろう。この若君をかどわかすか、あるいは抹殺するかどちらかの任務を帯びたのに裏切って若君の延命を望んでいるとそういうことか。
止血をしたとはいえ動けばまた傷口は開く。伊作が止めるその手を払い、男は忍び刀を構えた。
「そこの忍たま二人、この場で会ったのも何かの縁と思う。後生の頼みと聞いてくれ、どうかその方を忍術学園までお連れし、そして学園長先生に若君の身を委ねて欲しい」
げほり、と一言話すたびにその口からは血が溢れ出す。けれど忍びは伊作と留三郎をその背に庇った。
「で、でも、そうなるとあなたは……」
「なに、おれはどのみち抜け忍。一時逃れてももはやおれに安息の地などない。学園に面倒事を投げ込むのは心苦しいが、やはりおれは、あの場所以上に頼れるところがないのだ」
「……あんた、学園の卒業生か」
男の言葉ぶりから、なるほどどこにあるのかはっきりとわからぬはずの学園の近くまでやってこれたのは卒業生だからかと納得がいった。
自分の所属する忍び衆を裏切り、それでも何か守りたいものがあった男が、最後に頼みにしたのがかつて学んだ忍術学園だったのだろうか。
目の前のこの男は、自分が通う学園から出た「プロの忍者」で、その背中。留三郎はじっと、じっと見つめた。
ギン、と手裏剣が投げられ、それを男が弾き返す、その途端、はっと留三郎は我に返った。追手が上がってきた。
「行け!ウシミツドキ城は忍術学園と争うことは本意ではないはず…!そこまで逃げ切れば君たちは安全だ!!」
「おのれ!余計なことを……!!」
留三郎は駈け出した。男の彷徨を合図に忍び同士の殺し合いが再開された。先ほどまでは片手で少年を抱きかかえながら「逃げ」ねばならなかった男だが、こして「死の覚悟」をした今となっては、先ほどのように押されはせぬらしい。キンキン、と切り合う音。伊作が先頭を切って留三郎と少年の逃げ道を作った。
今自分たちにできることは逃げることだけだった。
少年は走ることが日常的にないのか、伊作より一歩遅れる。だから留三郎は少年の後ろを走った。少年は後ろを振り向こうとしない。だが、歯を食いしばっているのがわかった。殺し合う音が響く。一か所にとどめていられればいいが、戦い、ではなく「追う」「止める」というものだ。追手二人がこちらを追いかけ進むのを、男が一人で足止めする。忍びは正々堂々の戦いが誉ではなく任務遂行にこそ全てがあるのだから、追手二人も一々男の相手をするつもりはないのだろう。まずは少年を殺す。だから男や追手、留三郎たちの距離は一定のままだった。
「伊作!岩までの道はわかるな!!」
「う、うん!留三郎、気を付けて!!」
やはりこのままではいずれ追いつかれる。留三郎は伊作に少年を任せ、クナイを構えた。追いついた追手の一人と相対し、その刀を受ける、という寸前、鎌鼬のように抜け忍の男が間に入る。
「立ち止まるな!!!きみには若君を任せたはずだ!!!」
留三郎を振り返ることなく、大きな背中(血だらけだ)を向けたまま忍びの男が怒鳴る。留三郎が何か言い返す前に男は追手の一人の手首を飛ばした。首を狙ったのだろうが、浅かった。
「時間稼ぎなら…時間稼ぎなら俺にもできる!!!」
自分の力が及ばないことは分かっていた。だが、伊作が後ろにいるのだ。伊作は弱いから、いつも自分が守らなければならない。だから留三郎は立ち止まった。クナイを構え、戦おうとする。
「我が城の忍びを見くびるでない!!そなたのようなわっぱでは半刻も持たぬわ!!!」
「留三郎!!!」
後ろからどなる声が聞こえた。伊作の声もある。留三郎がぎょっとして振り返ると、先に行ったはずの伊作と少年が竹藪の中でこちらを見下ろしていた。
「伊作!バカ!なんで戻ってきた!」
「だ、だって!留三郎を置いてなんていけないよ!!!」
これでは何の意味もなくなるではないか。留三郎が焦っていると、若君が懐から取り出した扇子をぱちん、と鳴らして目下の忍び、そして己の命を狙う忍びをそれぞれ一瞥した。
「忠助、この場は任せたぞ」
それが抜け忍の名前なのだろう。ゆっくりと、様々な感情を腹の中で暴れぬよう必死に殺して出された声で少年が命じる。元々は主君筋にあたる少年の堂々とした姿に追手の忍びすら一瞬動きが止まった。
だが留三郎は耳を疑う。今この少年は、忠助という忍びに「死ね」と言ったのだ。
そのままくるりと身を翻しかけて行く、その姿を目で追い、伊作が「留三郎!」と声をかけて同じく走り出す。
あぁ、守られたのだ、と留三郎は理解した。あの少年、自分と歳のかわらなさそうな若君は、無関係な自分が殺されぬよう戻ってきた。
「忍たま、様を頼むぞ」
忍びが呟く。本心から託す、という声音ではなかった。そう言わねば留三郎がまだここにとどまるかもしれぬから、だから主君を任せると、そういう言葉を使われたのだ。留三郎は自分は足止めにすらならぬと悟り、ぐっと拳を握る。
「……」
抜け忍に、何か言いたいことはあった。かつて忍術学園で学んだ生徒なら、なんだって今、こんな状況になってるのか。忍びになってどんな世界が見えたのか。聞きたいことはあった。一瞬留三郎はこの男の、この忍びの姿、現実を自分自身の未来の可能性とそう思えた。だが、今は自分ができることは、やはり、やっぱり、当然のように逃げることなのだ。
留三郎が走り出すと、再び追手と抜け忍の戦いが始まる。どさりという何かが落下する音に振り返れば、抜け忍が追手の一人の首を跳ねたところだった。
++++
まだ蝉の声がする。夏も終わりだというが生き残っている蝉もいるらしい。日中ひっきりなしに鳴いて騒がしいセミの鳴き声も一匹だけだと気の毒に思える。取り残されたのか、周りが皆死に絶えて己だけが生き残った。それでもその命もじきに終わる。
鳴くのは子孫を残すためと知っているが、しかしそれでも、必死に鳴く蝉の声、普段大量にあれば夏の風物詩、あるいは命の終わりまで必死に自分が生きていることを叫ぶ猛々しさを思う。その中で、一匹だけでの鳴き声は、己の命が続いたこと、もはやだれもおらぬことを泣くように感じられるのだ。
学園長との話も終わり、庵を出て学舎へ戻る途中、は立ち止まって空を仰いだ。あまりに暑い、夏の日。角を曲がろうという時に片手に持った扇子を開き、暑さを遮ろうとして、うっかり手から扇子がすっぽ抜けた。
「あ」
「痛っ」
ひょいっとすっぽ抜け飛んだ扇子が弧を描いて落下する。角から現れ、その落下地点に運よく、というか、運悪く居合わせたのは明るい色の髪に温和な顔立ちの、の同輩だ。
コツン、と中々に硬度のある扇子の角が伊作の額に当たり地面に落ち、そして伊作が踏んだ。パキリ、と扇子の骨の折れる音がして、は驚くよりも、なんだか笑えてしまった。
「伊作、本当にあなたは不運というかなんというか」
気の毒そうに言いながら顔は笑い、伊作に近づいた。
「え?あ、あれ?、じゃあ今落ちてきたのって?」
「わしの扇子じゃ。手から抜けたのですが」
「壊れたんじゃないのか、これ」
「留三郎、あなたも一緒でしたか」
ひょいっと、伊作に続いて角から現れたのは食満留次郎だった。暑いのか伊作同様頭巾をかぶらずきっちりと茶筅髷にされた黒髪が太陽の光を受けている。かえって暑いのではないかと思うが、その辺は個人の自由だろう。
留三郎は伊作に当たり落下して、さらに足の下敷きになった扇子を拾う。無残になっていることに気付いて「壊れてるな」と先ほどの自分の言葉を確定にした。
「あー!本当だ!ご、ごめん!!ど、どうしよう!!!」
言われてと伊作が扇子に顔を向けてみれば、普段丁寧に使って手入れも怠らぬため傷一つなかった扇子が、ぱきりと割れている。
「木製だからしかたない。うっかり放ったわしが悪い。それより、額に当ててしまいましたが、怪我などありませんか」
「いや、っていうか忍たまなのに避けられない僕もどうかと思うし…って、!これ!大事なものなんだよね!?」
確かに最上級生にもなって避けられぬのは大丈夫かと心配したくなるが、伊作の場合は生まれ持っての不運が関わりすぎているのだから仕方ないだろう。は自分以上に動揺している伊作を宥める。
「確かに亡き母上の唯一の形見であり世に二つとない物ではありますが、わしは壊れたものは気にせぬよ」
「すっごいプレッシャーだよ!!本当にごめん!」
「いえいえ、謝罪などされても戻ってきません」
は9割が冗談なのだがその言いように伊作がちょっぴり泣いた。
これだから伊作はからかい甲斐があってしょうがないと根之助はころころと笑って、未だ扇子を手に持っている留三郎を振り返る。じっと扇子の残骸を真面目な目で観察している。
「どうしました。留三郎」
「いや、直せるかもしれんぞ」
「うん?」
「広げられた状態だったのが幸いして骨が3本折れただけだ。残りの7本は無事だから、一度紙を抜いてバラし同じ大きさの骨をさせば使えるだろう」
「そんなことができるのですか?」
「俺を誰だと思ってる。忍術学園の用具委員長だぞ」
アヒルボートから壁の修繕までありとあらゆる修理をこなしてきたその実績は知っているが、こと細かな扇子は、どちらかといえば作法委員会ができそうなのではないか。
まぁ、修理の理屈は分かるのだろうと思うけれど、容易くはなかろう。
同じ木材でなければバランスが崩れるし色も変わってしまうし、もともとが女物の扇子のため骨には繊細な細工も施されている。いかにも「別に直した」という不恰好なものになるくらいなら壊れたままの方がよいとが考えるのは留三郎にもわかるはず。その上で「直せるかもしれない」と言うのだから、その完成度は高くなければならない。
「大事なものなんだろ」
直った方がいいなら直す、とそう言う留次郎にはなんと答えてよいか一瞬わからなくなった。
伊作がひたすら謝りとおす声を聴きながら、は眉を寄せる。大事なもの、ではある。母の形見だ。だが、留三郎にわざわざ手間をかけさせるものであろうか。
確かにこの扇子は唯一城の嫡子であったことを忘れさせぬ品で、これがある限り己は嫡子の資格を失わぬというものでもあった。だが、所詮ただの物でもある。
「ねぇ、留さん。僕からも頼むよ。直して欲しい。手伝えることならなんでもするから」
「わかった」
「留三郎、伊作…わしはそうは言っていないのですが」
いらぬとすぐに答えを出せぬ自分に戸惑っていると、伊作が留三郎に頭を下げて、そして手元を覗き込んだ。包帯や小さな傷口を扱う保健委員であるので手先は器用な伊作はあれこれと留三郎に「これ、こうすれば」などと意見を出す。それを受けて留三郎も「そうか。ならここは」と会話を続けようとするので、はそれを遮った。
「なんだ、」
「なんだ、ではありません。留三郎、わしは構わぬと言っているのじゃ。そんなことより、明日は休日ですから、皆で外に出かけましょう。長次がよい店を教えてくれると言っていたので、」
「わかった。明日までになんとか直してみよう」
「あ、じゃあ僕急いで材料になりそうなもの集めてくるね」
「そういう意味では…だから人の話を聞かぬか!そこ!伊作!!」
話題を変えようとしたのにしっかり握ったままである。
パタパタと去っていく伊作の背に声をかけるが、こういう時ばかりは躓くこともうっかり四年の綾部の堀った落とし穴にはまることもせず、その背が消えて行った。取り残されは留三郎を見上げる。
「……唐突に現れましたね、伊作もあなたも。委員会はいいのですか」
一瞬の頭の中に「委員会はいいんかい?」などという空寒いギャグが浮かび、言い回しに気をつけながら問わねばならなかった。
二人は委員会のためにと別れたのだ。まだ終了には時間が早いのではないか。二人揃って現れたのだからまだ委員会の途中、ということもないだろう。そう思って聞くと留三郎が肩を竦めた。
「俺も伊作も長次に呼ばれたんだ」
「長次に?」
「あぁ。、お前が学園長に呼ばれて庵に行ったと」
「少し様子がおかしかった、とでも言ったのですか…いえ、長次がそこまで長く話すとは思いません」
「あぁ、暫く無言だったな」
留三郎がいうには、まず用具委員の所へ来て黙って留三郎を見ている。何か用があるのかと問うてみても中々聞き取れぬ声音でぼそぼそっと言うから、喜三太としんべヱの二人が耳を澄ませやっと解読できたらしい。
「長次の言葉を解読できるなんて、なかなか面白い二人じゃの」
「あぁ、うちの委員たちは優秀だろう」
委員会のことを話すときの留三郎の表情はとても柔らかい。というよりも六年生は基本的に皆そうだろう。は学級委員長委員会所属であるから例の「予算会議」に参加したことはないが、文次郎と留三郎が一番輝いているのは正直あの場だと思っている。まぁ、それは今はいい。
「喜三太にしんべヱと言えば一年は組の生徒でしたね。確かあのコンビは仙蔵すら手を焼くと聞いていましたが」
つい先日も六年生の課題でそれぞれの敵陣を調べるというものがあったのだが、優秀で知られる仙蔵が、うっかり道に迷った一年生二人の介入によりひどい目にあったと聞いた。
「あの二人はナメクジに鼻水と、まぁ、火薬を扱う仙蔵と相性は悪いがな。裏表も生意気なところもなく素直な奴らだ」
すっかり親ばか発言である。は喜三太のなめくじ被害にあったことは今思い出さぬのが友としての心遣いと信じることにして、一年の話題を打ち切った。
「それで、大事な委員会を切り上げてわざわざ来てくださったんですか」
その向う途中に伊作も誘ったのか。は扇子で額を抑えようとして、手に何も持っていないことに気付いた。もう癖のようなもの。ごまかすように手を後ろに回す。
「学園長とは少し進路の話をしたのです。留三郎は卒業後の話、どうするか決めたのですか」
「決まってるだろ。条件のいい城の忍びになることだ」
学園一武道派といわれる食満留三郎。戦闘面での腕前は6年生随一であるとも常々思っている。そろそろ6年生をスカウトするため視察に来る城の人間が多く来る時期だろう。きっと留三郎をほしがる城は多くあるとは素直に認めた。
「留三郎の夢は一流の忍になることでしたね」
「あぁ。そのために忍術学園に来たんだ」
「そうですね。きっと留三郎は立派な働きをするんでしょう」
忍びの仕事と言えば多くが情報収集である。市井に交じり情報を仕入れ、さらにはそれを利用してデマを流すなどといったことが多い。
しかしこの戦国の世にはそういう役目以外の忍びもあった。戦の最中においては正規の道を外れて奇襲をかけたり、あるいは戦になる前に敵の城から情報を盗み出す、敵を暗殺する、といった、命を落とす危険性の高い仕事をする者。留三郎は、どちらかといえばその、危険性の高い忍務をこなす忍びになりたいのだろう。
「お前はどうするんだ?」
「はい?」
あれこれ考えごとをしていたは唐突に話題を振られ一瞬頭がついてこなかった。
「学園長先生に相談したんだろう?お前は、卒業後はどうするんだ」
「卒業後。あぁ、そうじゃのう、あぁ、まずわしは」
「なんだ」
「卒業できるのか問題じゃ」
「……あぁ、なるほど」
、先日も盛大に赤点を取ったばかりである。
もともと「は組」と言えば万年ドベというかアホのガレッジセールというか、そういうちょっと残念な子供が集まりやすい傾向にある組と言われている。さすがに最終学年6年生ともなればいくらかマシになっている…はずなのだが、どうもはいまだは組のドベを引きずっているところがあった。
「伊作はうっかり解答欄をずらしたり、留三郎は伊作に巻き込まれて試験範囲を間違えたりとそういう理由で点数が低かったことがありますが……わしは、えぇ、ガチで0点じゃからのう……」
っふ、と遠い眼をしては校舎の方を見る。
「確かお前…昔は教師になりたいとか言ってなかったか…?」
何でも忍術学園に編入して直ぐ、とある忍に殺されそうになったところを土井先生に救われたとかで、それ以来「わたし、土井先生のようになります」とか言っていなかったか。教科の成績がとても悲惨なが教師になれるものかと誰もが呆れながら聞いていた。留三郎が昔のことを思い出して問うてみると、はサッ、と顔を逸らした。
「……学園長にわしを教師として雇うのにはリスクが大きいとか言われての…。小松田殿には「え、くんって卒業後は僕と同じ事務員になるんじゃないんですか?」と聞かれる始末じゃ……」
城からのスカウトなんぞまずこないという前提で話を進めているのだが、留三郎も万に一つもを雇いたいなどと無謀な提案をする城があるとは思い込めない。
は「学園一身軽」と称されるほど軽業や空中戦に長けてはいる。縄をクナイやクギなどと独自に組み合わせた武器を使いアンカーのようにして自由自在に立体移動を可能にしているという特技はあるが、それは単独行動に向かない。(縄斬られれば即落下だ)二人一組、あるいは三人一組で行動することの多い学園生活、課題では問題ないが、忍びとしては不十分。それを自身が自覚していた。
「おぉ、留年するという手はどうじゃ。あと一年がんばればなんとかなる…か?」
「アホ。留年なんぞこれまで誰もしたことないだろ。そのまま退学になるのがオチだ」
「まぁ、そうじゃろうのう…」
基本的に忍術学園に留年制度はない。だから学年が上がるにつれて人数が減るのだ。進級できなかった生徒はそのまま学園を去る。いや、追い出される、の方が強いのだろうか。向いていないと判断され、今後一切忍術にはかかわるなと、そう誓うことになる。
忍術学園は、結局のところは生き残り戦なのだ。六年生に「残った」も留三郎も、その厳しさをよく知っている。
「ここまで来たんだ。全員で卒業するぞ」
手ぬぐいに一度扇子を丁寧にしまってから、留三郎が再びを見つめる。六年生は極端に人数が少ない。初めてこの学園に来た時の半分も残っておらず。留三郎たちは学園を「去って」行くもの多く見送ってきた。自分たちが学園を「去る」その時は、必ず「卒業」という形にする。そういう思いが、そう、見送るたびに募った。
「あぁ、わかっておる」
は頷いて目を伏せる。どうもどうやら奇妙な縁で、己はこの学園に来た。伊作や留三郎のように望んで自らこの学園の門を叩いたわけではない。
はっきりと記憶しているあの日のこと。それでも手繰るよう手繰るように記憶を扱えば、は「覚えている」というだけではなく、あの時の記憶が、感じた心が鮮明に浮かび上がってまるで今現在のように感じられるのだ。あの日の、あの夏の日の暑さ。蝉がひっしりなしに鳴いていて、じりじりと照りつく太陽から逃れようと思うのに体が動かぬ、あの痛み。身を捩って転がり嵌った溝の悪臭。
は正室の子であったが、男を生んだ側室に疎まれ殺されかけた。それを救ってくれたのが、当時から懐いていた忍びの一人で、殺されるはずだった自分を救い、逃げてくれた。
そうしてこの学園にたどり着いた。ここを出れば殺される。そういう状況で、それでもたぶん、望めばこの学園の「生徒」としてではない別の立場も、きっとこの優しい場所は用意してくれただろう。
だけれど選んだのは、留三郎や伊作と同じこの学園の生徒になることだった。
「それ」
「なんだ」
「本当に、直してくれるのか」
ひょいっと、は手ぬぐいに包まれた扇子を指さす。手を煩わせるのは本意ではないが、ここまでお膳立てされてしまえば断るのも無礼だ。伊作も留三郎も、時折そういうところがあった。はどうも二人に面倒をかけるのが嫌で時折意地を張って遠慮をする時がある。そうすると二人はが断りにくい状況にするのだ。
「だから、俺を誰だと思ってるんだ」
用具委員長どのでしょう、とが言い、留三郎がトン、との頭を小突いた。
食満留三郎、
。
ともに六年生の、夏の終わりに近い夕暮れ時のことである。
Fin
(2011/04/15
18:53)