一体彼が何のためにこんな目にあっているのか、は理不尽には慣れているつもりだったがこうも理不尽な展開に憤慨していた。場所は砂漠地帯。水も手放せばあっという間に砂に食われて戻らぬ、ヒトが生き残るには過酷なこの場所、日が昇るうちは灼熱で、夜には骨まで凍える寒さである。らしい、ではなく「ある」と確定したのは自身がこの砂漠地帯に辟易させられているからだ。
いや、の前を歩くイーノックはただ一人の旅を続けている。は実体を持ってこのイーノックの旅を見守っているが彼に存在を悟られるようにはしていない。だからルシフェルやアークエンジェルたち、イーノックには見えぬ同行者と変わらぬ。
まぁそれはさておいて、現在はイーノックのはるか後方を尾けてくる悪意の気配を感じ取っていた。危機を警告するのはガブリエルの仕事だが、彼女は堕天使の悪意を察知し、堕天使の関わった危険を読むことができ、それをイーノックに知らせることをしても、ヒトがヒトを害そうという、そういう悪意には疎いのだ。
といってガブリエルが無能なわけではない。彼女はどこまでも天使なのだ。天使はヒト同士の諍いを「ヒトの営みのひとつ」と高みから判断するところがあって、それであるから、このイーノックがヒトに襲われる展開も「乗り越えるべき試練」程度にしか感じることができない。
さてどうするべきかとは悩む。
イーノックが旅を始めてもう何十年も経った。親しくしていた仲間は一人また一人と去って、一週間前についに一人ぼっちになってしまった。いつまでも老いに襲われぬ、衰えぬ若い肉体を保った彼を仲間たちは拒んだ。いや、当初はそんなことはなかった。イーノックは仲間を作る際に、生真面目な男であるから自分の使命と、そして歳を取らぬことを告げている。仲間になるものたちはみなイーノックの人柄に触れ、あるいはその生真面目でどこか危なっかしいところを気の毒に思って随行することを選んだ。
だが何十年か経つと、「仲間」は必ずイーノックから離れていく。
歳を取らない。
自分が危険に巻き込まれる。
この二つがイーノックの元から仲間が離れる際に使用されるほとんどの理由だった。
(信頼した仲間からそうと告げられる度に、イーノックはすまなそうな顔をするだけで引き止めることもしない。ただ「そうか。わたしを今まで助けてくれて感謝している」と丁寧に頭を下げて仲間を見送る)
それがにはたまらない。イーノックの所為ではないのに、イーノックは仲間が去っていくのは自分の所為だと、一人きりの夜に責め、神へ謝罪し、そして離れた仲間の平穏を祈る。
(あぁ、なんて!)
はイーノックを孤独に落とした連中を一人残らず呪ってやりたかった。イーノックが秘密を打ち明けてそれを受け入れたくせに、大丈夫だと、死ぬまで付き合うと笑っていった連中は必ずイーノックを孤独に突き落とす。イーノックがヒトの為にこの苦しく長いたびをしているというのに彼らはなぜ彼を見捨てるんだ!!その度には彼らの腸を引き裂いて彼女が母や姉から学んだ限りの残酷な仕打ちをしてやりたかった。
だがイーノックが仲間の平穏を祈る。
彼らの平穏なんぞにはどうでもいいが、しかしイーノックの切なる願いであるとわかっているので彼らを害するという選択は取れなかった。彼らが平穏に過ごせばイーノックは安心するのだ。自分の使命に一時巻き込み彼らの人生を台無しにしてしまったと、そう罪悪感を持っているイーノックの心が少しでも軽くなるのならは連中に富や名誉を約束してやったってよかった。
「イーノ、」
背後に迫るヒトの悪意は複数、それも「ただのヒト」だから厄介になるだろう。そう思ってはイーノックに危険を知らせることにした。イーノックは堕天に操られたヒトであっても傷つけることを好まない。それがただ、欲に目が眩んだだけの人間ならどうなるか。これまで何度もイーノックが人間相手に無抵抗になって殴られるのを見てきただけには「今回は」と思って声をかけようとした。
だがの言葉がイーノックの耳に入るより前に、ぐいっと、は後ろから強い力で腕を引かれ、もごりと口を塞がれる。自分の口を無遠慮にふさいだ大きな手の平の主と目が合い、は大声で叫んだ。
「ルシフェル!」
パチン、と軽い音がすれば最後、の声は大天使以外に届くことはなく、舞っていた砂粒すら停止した。
「それはルール違反だろう?」
やれやれ、と呆れるように言うこの旅の水先案内人のわざとらしい仕草には眦を吊り上げる。この時代にまるで合わぬ服装は己もそうなのでどうこういう気はないが、上下ともに黒で統一した痩身、口元はニヒルというより他人への侮蔑を感じさせるほど卑しく歪めている大天使だ。黒檀よりも黒い、漆黒の闇にごとき黒髪に、象牙のように白い肌。整った顔立ちと立ち振る舞いは、客観的に見てこの世で美しい生き物を決めるのなら彼以外にはいないだろうと思えるが、はこの男が大嫌いだった。だから止められていっそう不機嫌になり、挑むようにルシフェルを睨みつける。その鋭い瑠璃の目を赤色からは想像もできぬほど冷たい目で見下ろしたルシフェルはから手を離し、目を細めた。
「私も君もいわゆる傍観者。その上君はあいつが失敗することに賭けてるわけだし、余計なマネをして自分に有利に事を運ぶのは、」
「何を勘違いしているのか知らないけど、私は貴方の微妙なサポートが心配だからイーノックに危険を知らせてあげようとしただけよ」
何を言っているのか、とは眉を顰めた。自分はアークエンジェルが気付かぬ危機をイーノックに知らせようとしただけだ。これまでは天界から地上に降りたイーノックが過ちを繰り返すのをただ黙ってみているのみで(魔女の悪意のように!)己が傍にいることも知らせずにいた。だからイーノックは己が声をかければ驚くに違いないのだけれど、まぁそれは今は関係ない。
「君が?どうして?」
親切心、善意というものから最も離れている生き物を見るような目でルシフェルはを見つめた。どんな裏があるんだと言わんばかりの容赦ない視線に、一瞬はこの大天使の目玉を抉って御盆に乗せてやろうかと思った。いや、自分が善意の生き物ではない、という評価は事実だが。
「イーノックを、今の名前はエヴィトだったかしら。まぁいいけど、とにかく、後ろで彼を狙うヒトの人数が多すぎるわ。イーノックはヒトを傷つけられないし、死んでしまうじゃない」
裏はないとは、今回は「危ない」と自分が感じたから口を出すのだとルシフェルに告げた。しかしルシフェルは不思議そうに首を傾げる。
「あいつが死んでも私が時間を戻せばいいだろう?」
「そうね。貴方は前にイーノックが殺された時は十万回も同じ場面で時間を戻す羽目になっていたわね」
「十万回繰り返してやっとイーノックを殺した男があいつの元へ向かう途中の崖で足を滑らせてくれてね。イーノックの前まで辿り着かなかった」
あれは面倒くさかったよ、とつい数年前のことなので思い出してルシフェルが目を伏せた。ルシフェルは傍観者であり、仕事はただ「時間を戻す」ことだけだ。イーノックが死んだら時間を戻す。やり直しをさせる。しかしその時に助言や死なないようにあれこれしてやる、ということはまずしない。傍観者だ。関わることは絶対的にありえない。だからルシフェルは繰り返される「今」の因果がたまりにたまって何か「違う結末」になるまで指を鳴らし続ける。
「……よく飽きもせず繰り返したものだと感心しましたよ」
もちろんも繰り返される時間を黙ってみてきた。十万回ほど、はイーノックが殺されるさまを見てきた。だから「もうあんなことは」と思って声をかけようとしたのに、この大天使は、同じものを見てきてもまだ、それでも「死んだら戻せばいい」とそうあっさりというのだ。
「これが私の仕事だからね。わかっていると思うが、私にとって神の言葉より優先するものなどないよ」
「神を愛しているのね」
「当然だろう?」
嫌味を言うとルシフェルは「何を今更?」と怪訝な顔をする。大天使ルシフェルは神の忠実なしもべであり、右腕。それがこの世界のお決まりごとだ。も承知している。孤独に襲われたイーノックが「ルシフェル、頼む、いるなら姿を、せめて声を聞かせてくれ。私は一人ではないと教えてくれ」と必死に必死に訴えても、神から傍観者であるように言われている男は一切の慈悲も与えなかった。
神が絶対。神の役に立つからイーノックを助けているだけだ、とそういう姿勢を崩さぬ男。
「もちろん、イーノックのことは個人的にも気に入ってるさ。あいつは神の期待を裏切らないからね」
どうすればイーノックを救えるのだろう。そのことを必死に考え黙るに、ルシフェルが軽い調子で言うので彼女はますますこの大天使が嫌いになった。
(あぁ!まったく!)
叫び出したくなっても、この男の前でそんな醜態を晒すことはの自尊心が許さない。誰よりもイーノックの傍にいて、きっと友人にだってなれるだろう男がこうもイーノックに関心がないことが(関心はあるのだろうが、それは対等なものではない。珍しいものに興味を持つ、上目線の感情だ)には悔しかった。
そうだ、思えばイーノックが歳を取らず周囲に恐れられ、また権力者に命を狙われることになったのはルシフェルがイーノックの肉体の時間を止めているからではないか。
ふつふつと怒りが沸きあがり、は生来の意地の悪さも現れてなんとしてでもこの大天使に傷をつけねば気がすまなくなった。傷、といって物質的なものではない。天使はアストラル体であるから実体のあるが傷つけることはできない。は神の武器を使うことはできないし、そうなると己が物理的にこの男に傷をつけることはまず不可能だ。それを認めている。しかしはすぐに直るような物理的な外傷に興味はなかった。どうすればこの男の心をズタズタに引き裂けるか、は自身がイーノックに対して何もできぬ歯がゆさをルシフェルに八つ当たりしようとしていた。
あれこれとさまざまな手段を考え、その数が百通り以上浮かんでやっとはひとつの言葉を選び、指を鳴らして時間を戻そうとしているルシフェルに声をかける。
「でもね、ルシフェル。神さまはね、あなたに愛されてもちっとも嬉しくないのよ」
ルシフェルが構えた指が音を立てずにぴくり、と動く。それを視認してはにっこりと笑って続けた。
「だって、あなたの忠誠心も何もかも彼がそう作っただけだもの。鏡に向かって愛しているというよりも滑稽なことだわ。だから彼はね、自慰行為と同等の悦びしかあなたから貰うことはできないのよ」
この世界は所詮神の箱庭だ。神が、たった一人で放り出された神が寂しさに耐え切れず作り出した自分の思い通りにいく世界。真っ暗闇の中が寂しくて「光あれ」と彼が言って世界ができた。きらきら輝く空間だけでは物足りなくなって天使を作った。話し相手を作った。けれど自分が作り出した「忠実な天使」では神は虚しさを募らせるだけだった。当然だ。自分で自分を愛するようにプログラムしただけなのだから。
(だから天使とは違う、神の思い通りにはならないヒトを作り上げた。神にとっては、天使に愛されることよりもイーノック(ヒト)に愛されることの方が価値がある)
虚しいだけよね、と容赦なくは言った。そしてその途端、の視界は六対の羽で覆われ、体が宙に高く上がり、容赦なく地面に叩き付けられた。
砕ける己の骨の音を聞きながら、は「これって神を冒涜したことへの大天使様の裁きよね?そうじゃなかったらおかしいわね」と言ってやろうとしたのだが、続けてこちらの喉を掴んだルシフェルに喉を焼き潰された。
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