緑がかった青のことをなんと言うのだったか。あぁ、そうだ、ターコイズブルーというのだ。
「驚いた、あなたはヒトなのか?」
目の前に見えたその深みのある色に見惚れた一瞬後、その瞳が真ん丸と驚きに見開かれればたくましい顔つきが幼く見えては互いに尻餅をついているという情けない格好なことも忘れて「っぷ」と笑い出してしまった。
「あなた、思ったことをそのまま口と顔に出してしまうのね」
「す、すまない。そうだ、怪我はないだろうか?ぶつかってしまってすまなかった」
笑ったこちらを嗜める権利を持っているのに褐色の肌の男はそんな選択肢を思いもしないようだった。軽い動作で体を起こしそのまま立ち上がると青年は散らばった書簡を拾い上げるより先にに手を差し伸べてくる。蜂蜜色の髪がキラキラと光に輝いてそれがあまりにも眩しいのでは思わず目を細めてしまった。
「ありがとう。わたしも余所見をしてしまったから。ごめんなさい」
「いや、いいんだ。あなたに怪我がないようならよかった」
は助け起こされるとパンパンとスカートをはたき、落ちている書簡を拾うのを手伝う。エルダー評議会での記録のようだ。秘書官の仕事を引き受けるヒトはこの天界には一人しかいない。触れた手は天使とは違う血の通った温かさと肉の感触があった。
「貴方が書記官のイーノックね。噂は聞いているわ」
「そうか。あなたは?ここに来てまだ日が浅いが…自分以外のヒトを見るのは初めてだ。天界には他にもヒトがいるのだろうか。ルシフェルはそんなことは言っていなかったのだが…」
そういえばイーノックの教育係になっているのはあの赤目の大天使様らしい。出来る限り神と自分の欲求以外のことをしたがらないだろうあの男にこの純朴そうな青年のお守が出来るものかと聞いた時には不安だったが、青年の口から洩れる大天使の名は、彼が大天使に抱く親愛が感じ取れた。
はイーノックの問いに一寸考える素振りを見せて、首を振る。
「私もここへ着たばかりだから詳しくはないんだけれど、あなた以外にはヒトはいないと思いますよ」
そもそも天界はヒトが生活できるような常識的なものではない。いや、常識的、とが定義するものは人間の生活様式、実体のある生き物でのものなので既にそれが間違っているが、そこを彼女は自覚していて顧みる気はなかった。
とにかく天界はアストラル界のようなものであるので、神に力を分け与えられ生活する術を身につけている「イレギュラー」なイーノックはさておき、ヒトが多数いるわけがないと見当付ける。自分が知る限りでの答えを告げるとイーノックの表情が陰った。
「私は。ガブリエルのところへ行こうと思っていたのだけれど迷ってしまって…案内していただけませんか?」
やはり同じヒトがいないということは少なからず青年に寂しさを覚えさせているのだろう。神のお膝元で過ごせる栄誉を頂きながらもそれはヒトなら切っても離せぬ問題で、はそれを誰よりも理解できる。なのでここであっさりイーノックとサヨウナラ、というよりは少し話でもと思い提案すると、ぱっと、あからさまに青年の顔が輝いた。
「あぁ、その場所なら問題なく案内できる!」
うわ、眩しい、とは顔を顰めつつ、冷静な部分では「これが神の玩具か」とも思っていた。それで、案内をしようと力強く一歩前へ踏み出したイーノックの高い背を眺め母譲りの青い目を細める。
が身を置くこの時間では、が神に「ゲームをしよう」と誘われてから少し後にこの純朴そうな青年、元は農夫であったというが、その彼が神に「召し上げ」られた。あれこれ動いたのはあの黒髪の大天使と聞くがそこからすでには「あぁ、始まっているのか」と思わずにはいられない。
(一時起こったバグを修正するために面倒くさいことをする)
一応もこの「神の問題解決方法」とやらのあれこれを聞いている。どうやらイーノックが天界に召し上げられた後に神の作り出した「天使」が堕天するらしい。別に放っておけばいい、あるいは最初からなかったことにしてしまえばじゃないかというのが正直なところだが箱庭を運営するには必要なことなのだろうとも察している。一度起こってしまったことはつじつま合わせをしないと世界に歪みができるのだ。
そしてそれを折角だからとを巻き込んだゲームと扱った。
はこの神の操り人形になるためだけに神に召し上げられた青年に同情した。あんな身勝手な神のために今後この青年がどんな目にあうのか。まぁ、実際、気の毒に!と思いはしてもそれ以上どうということがないのがの本性でもあった。はこの「ゲーム」を神との賭け、という形にしている。
神は「エルダーが洪水計画するんでしょ?へぇー」というスタンスを取り、イーノックが「自分から」「洪水計画の中止を請願してくる」こと、「そしてこの試練の最中、どんな困難があっても挫けずめげず目的を達成する」ということに賭けた。そしてはイーノックが「挫折する」方に賭けた。ヒトのもろさをはよく知っている。どれほど美しい清らかな心を持っていたところで苦難孤独悲劇のオンパレードに耐えられるわけがない。もちろん神は直接の手出しをしない。あくまでイーノックに「選択させる」ことでこの賭けを成立させた。
つまりはと神の賭けというのは、単純に言ってしまえば神と悪魔のゲームである。
これが天使をプレイヤーズキャラクターにしたものならは「失敗する」方にはまず賭けない。天使とはけして神を裏切らないのだ。だがヒトならそうはいかないだろう。ヒトは「神よ、なぜです」と神の行いに疑問を持つこともできるし、神を憎むことだってできる。
といって、神は自分に有利になるようにと生ぬるい試練は出さない。イーノックに絶望的な状況を与え続ける。それでも「神への信仰心」と「ヒトへの救済」を持ち続けることが、その清く気高い魂の証明になる。どんなひどいことを神がイーノックにするのか知らないが、できる限り早い段階で絶望してくれればいいのだが。
「そうだ、その、。よければ地上の話をしてくれないか。私がここへ来てから後のことは知らないんだ。地上は変わりないだろうか」
いや、本当神って鬼畜、とは自分のことは棚に上げてあのゲームオタクを罵倒し、こちらを振り返ったイーノックに顔を向けた。
「地上の話?」
「あぁ、話すのが嫌ならいいんだ」
「いえ、そうじゃなくて、わたしはあなたの時代より後から来てるはずだから、あなたが知りたがっていることは答えられないと思うんです」
というかイーノックはいつの時代から来たのかは把握していないのだけれど、神の洪水計画うんぬん、というのは2011年より随分前の出来事になるはずだ。2011年ではなくが生まれた場所での話となればあれだろうか?航海術が発達したとか海賊と海軍の戦いが激しかったとかそういう話をすればいいのだろうか。
「後の時代…?ルシフェルがよくいく未来からということだろうか」
「えぇ、そうなりますね」
「彼はいろんなものを見せてくれるが、いずれ人があぁいったものを作り出せるようになるとは感慨深いものがある。あなたもケータイを持っているのか?」
携帯電話。イーノックの口から出ると奇妙な感じがするものだ。ヒトの英知の結晶だなんだのとのたまう大天使を思い出した。大天使と神の連絡ツールはもっぱら携帯電話を使用してのものらしい。そんなものを使わずとも思念での会話ができるだろうにお互いそれを不便としていないそうだが、そのことからはあの大天使の神への敬愛っぷりが窺えて笑うしかなかった。
(まぁつまり、あの綺麗な顔の大天使は神と「自分たちだけの」特別な手段があることが嬉しいのだろ)
神に絶対の忠実を誓う大天使。は初対面時にはあの黒い天使にさほど悪い印象を持っていなかったが(神の作り出したもの、という程度の感想)こうして節々であの天使の神への熱愛っぷりを感じられてあの天使を好ましく思った。あらかじめ設定されている忠誠心であっても、だ。
「いいえ、わたしは大天使様と違って改造はできないから電気のないここじゃ充電できないし持っていませんよ。あればいいな、とは思うんですけどね」
だからはさりげなく「あれをここで扱えるのは大天使や神のような特別な存在だけだ」とルシフェルの能力の高さを伝えた。これからイーノックが地上で堕天使を捕縛していく際にルシフェルが水先案内人となるらしい。それならイーノックにルシフェルは頼りになると告げておいて問題はないとは判断した。もちろん、本来イーノックの失敗に賭けているがこう発言することは矛盾している、しかしすでにこの時点ではこの青年に好意を持ってしまっていた、とこれは後に彼女が思い返す最初の失敗である。
そんなことを今は思いもしないはイーノックの隣を歩きながら今度はこちらが質問した。
「ところでイーノック、天界での生活はもう慣れましたか?」
実体ではなくアストラル体で存在する天使たちとの生活は戸惑うことが多いはずだ。どうせ地上に降りたら彼は散々苦労させられるだろうからここでの生活くらいせめて健やかに過ごさせてやりたくなっては自分も同じ実体での生活だから相談に乗る、と水を向けてみた。
だがイーノックは少しも考えることなく即答した。
「大丈夫だ、問題ない。天使たちはみなよくしてくれる。ルシフェルは聡明で素晴らしい天使だし、ウリエルやアルマロスは私の知らなかった体術というものを教えてくれる良き師で、私の天界での日々はとても満ち足りている」
私を迎え入れてくれた天界と神に感謝を、と目を閉じて祈りを捧げるイーノックには関心した。さすがは神が「絶対に私の期待を裏切らない」と自信を持って召し上げたことはある。実際のところ実体を持ってのアストラル生活は何かと不便なのだ。まず歩く、という感覚を取り込むのも大変だし、基本的に時間という概念のない天界では「酸素」も存在していない。肉体の時間が停止しているので当然息をする必要がないからだが、長年地上でヒトの生活をしてきたイーノックは戸惑うことが多いはずだ。
ヒト同士なのだから遠慮はいらない、何かあったら相談してくれればいいというこちらの言葉を無碍にするのではなく「本当に問題がない」と心から思い、現状に満足しているとあっさり言った。さらには自分が「満足している」ということを告げることでに「心配しなくていい」と気遣いを見せている。
は戸惑った。どんな人間でも少なからず「不満」「不平」というのは持っているというのが彼女の持論だ。だから愚痴をいう機会を見つければついぽろり、と吐き出してしまうもの。はイーノックの「失敗」に賭けているわけで、彼はどういう人間なのか知りたいということもありこの話題をしたという打算があったのだが、まさかこうまでまっすぐな回答を頂くとは思いもよらなかった。
「……あなたが日々をよく過ごしているのならきっと神も嬉しいと思うわ」
とりあえずこの青年の心が純粋で真面目きわまりないことはよくわかった。がやや毒気を抜かれる思いをしながら当たり障りのない言葉を選ぶと、ほんの少しだけイーノックの顔に陰りが見えた。
「?イーノック?」
このタイミングでそんな顔をされる覚えはない。思い通りにならない青年の名を呼べば、イーノックは躊躇い口を引き結んだ。
「どうかしたんですか?私、何か気に障ることを?」
そんなことはまずないだろうが「私が悪いのか?」と不安げな顔で見上げるとこの手のタイプは口を開く。イーノックも例に漏れず「いや、そうじゃない」と否定し、また沈黙した。埒が明かないのでは先ほどの自分の言葉を思い出し見当をつけてみる。
「ひょっとして神のこと?何かされたの?」
あのニートもうちょっかいかけてるのかとの額に青筋が浮かぶ。神は「イーノックを信じる」というスタンスでこの賭けに挑み、が茶々を入れても神が直接何かをしようというのはルール違反のはずだ。どうせルールなど破られるものだと諦めてはいたが、ゲームが始まる前にイーノックにちょっかいかけてるのかと堪え性のない男!と内心で罵った。
「いや、まさか!そんなことはない!」
が胸中で神への罵倒を続けているとイーノックが慌てた。大きな声であったのでびくり、とは体を震わせる。
「あ…す、すまない。声を荒げるなど…愚かな振る舞いをした」
怒鳴られるのは嫌いだ。どれほど長く生きてもこればかりは慣れない。悪意のある声ではなかったがだめなのだ。大きな声というのはそれだけで暴力的で、は体が震え出した。
しかし、顔を青くするを見てイーノックが自身を恥じ顔を赤くしながらも心の篭った謝罪を口にする。すると、これはにとって初めての経験なのだが、ただ言葉で謝罪されたと、たったそれだけであるのに、途端にの心が落ち着きを取り戻した。
「……?」
これは奇妙な感覚だ。今まで他人の怒鳴り声に怯えたことは何度もあって、その中で加害者に謝罪されたことも何度もある。だが今のようにあっさりと恐怖心が消えうせたことなどただの一度もなかった。
「……、あなたは神への拝謁は済んだのだろうか」
は自分の身に起きた奇妙な経験に目を瞬かせていると、イーノックが怯えさせたことを深く悔いつつも、「何を気にかけているのか」とそれを、おそらくはに対しての罪滅ぼしのつもりで、ぽつり、と口に出す。
「?えぇ。最初にここへ来たときに」
あれが「拝謁」なのかどうかはさておいて、一応神に挨拶はしたと思うので頷く。イーノックは顔を曇らせた。
それでは思い当たる。神はイーノックを召し上げたもののなんだかんだとまだ挨拶をさせていない。からすればゲームが終わるまで神の関与はしない、というルールであるからそれは当然だと思うのだけれど、そんな事情は知らない(知らなくていいが)イーノックからすれば、未だ神に拝謁できないことが不安であるのだろう。
「きっと、私がヒトであるから……この魂が天使のように清らかに、地上の穢れを落とすまでお会いできないのだろう」
あんな引きこもりニートの厨二病患者になど会わなくていいとは言って優しく慰めてやりたいのだが、さすがにそんなことを言えばイーノックが目を回す。
これはヒトの存在するはずのない天界でイーノックが抱える孤独だった。には「問題ない」と言いながら、未だ自分だけが神に会えないでいるという事実と不安。なぜ神は私のようなヒトを?と神に会えぬイーノックは自分の価値を見出せないでいる。いや、価値を求める気質ではないだろうが、あまりにも自分のこれまでの世界と違うこの天界に、やはりイーノックは戸惑っているのだ。それで「なぜ」と理由を欲している。
神に会えさえすれば、あるいは会えずとも言葉をもらえるだけでも、イーノックは救われそれを頼りとして今後天界で自身を持って生きていけるだろう。
内に不安と疑問を抱えている、という事実には「付け入る隙がある」と喜ぶべきだった。
しかし、先ほどまでひまわりのように明るかった青年がシュン、と気落ちし今にも落涙しかねん勢いに外道な女の心がぎゅっと締め付けられる。
それでついは、おそらくこの状況を眺めているだろう神に向かって思念で「ルールとかもうそんなのどうでもいいからイーノックに会ってあげて!」と怒鳴ってしまったが、聞こえているはずの神は沈黙したままである。
あとで殴りに行こう。鈍器はないので踵で、とは物騒極まりないことを決意し、眉を寄せたまま気落ちしているイーノックに微笑みかけた。
「神はあなたにとって一番良い時にお会いできるものなのよ。今はまだ天上界での生活に慣れていないだろうからって、あなたの心が落ち着くのを待ってくださっているのだと思います」
できればこんな心にもないことを言いたくはない。だが目の前のこの青年の顔から陰りを取り除くためならはどんな嘘でも平然と口に出せると思った。たぶんこの青年にはそういう魅力があるのだ。神の言うように清らかな心の持ち主、それを認める。当初はただ「気の毒に!」と上目線に思っていただけの己の心をこの青年はこうまで変えてしまった。
はイーノックを慰めながら、この賭けに乗ったことを「よかった」と自分の気まぐれを褒め称えた。
この青年は奇跡のような生き物だ。きっとどこまでもどこまでも澄み渡った心を持っている。
(彼を神の玩具になんぞしてなるものか)
経った数分こうしてイーノックと言葉を交わしただけだが、はすっかり彼が気に入り、そして彼を早く「挫折」させてやろうと意欲が湧き上がった。
自分が「勝て」ば、イーノックは神から開放される。神が容赦なく与える苦難試練からイーノックを引き離せる。挫折すれば、確かにイーノックの心は穢れるかもしれない。神の期待を裏切ったと自分に絶望するかもしれない。だがは「イーノックを気に入った自分がイーノックを助けたい」というエゴを優先することに何の疑問も抱かないし、どのみちイーノックが「成功するか」「失敗するか」のゲーム開始は決定されているのだ。
「…ありがとう、。あなたは優しいな」
の「気遣い」を察してイーノックがやわらかく微笑む。その笑顔には「彼が100億の絶望に打ちのめされる前に、己が彼を突き落としてやろう」とますます使命感に燃えるのだった。
所詮「私たち」は身勝手なものなんだよ!
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(2011/08/24)
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