そういえば「最初」からあいつは話を聞かないやつだった。出撃のときの鎧騒動に始まりその後も多々とあった。ぱちん、といつものように指を鳴らして時間を停止したルシフェルは寛いだ体勢のまま足を組んで自分の目の前で「巻き戻されていく」光景をなんとなしに眺める。こうして神から応接かってイーノックというヒトのサポートについてもうどれくらいが経過したのか。いや、イーノックに「流れている時間」に換算すればまだ100年は経っていない。だがルシフェルの体感している時間は既にその倍以上になっている。(当然だ。ルシフェルはイーノックが「失敗」する度に巻き戻しているのだから)

今回の失敗の原因はなんになるのか。とりあえず巻き戻されていく時間を眺めながら考えてみる。最近ルシフェルはそういうことをするようになった。無論理由がわかったからといってルシフェルがどうこうするわけではない。ただ「どうしてあいつは間違えるのか」ということを考えでもしないとさすがにこの何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返すこの「神のゲーム」はやっていられなくなった。

「あぁ、そうだ、確か今回は、あいつが近づく「善良な市民」から差し出される「水」を何の疑いもなく口にして、そしてその中に含まれる毒で死ぬんだったな」
「あら、違いますよ。正確には毒で死ぬわけじゃないんです」

巻き戻る時間がそろそろ丁度いいころあいになってきたのでぱちん、と一度指を鳴らして止めると、ルシフェルの背後の空間がブォンと歪み、すらっとした痩身の少女が姿を現した。か、と大天使は親しげに名を呼びながら「邪魔しにきたのか?」と一応の警戒を見せるために赤い瞳に暗い色を差し込めて視線を投げる。ターコイズブルーのスカーフに紺と白のセーラー服、この時代には相応しくない装いを堂々としているはルシフェルを一瞥し、トン、と巻き戻った時間、まさに前方からやってくるイーノック、物陰で兵士らしい男たちから金貨を受け取った少女が賢しらな顔で水売りに化け飛び出していこう、としているその空間に降り立った。もちろんルシフェルは時間を動かす気はない。

「現場検証をしてもよかったんですけどね。大天使様は案外早く時間を戻したから」
「一体何を言いたいんだ?」
「えぇ、ですから。ヒトを知らない大天使様にイーノックの死因をね、説明してあげようかと」

恩着せがましくいい、は少女の手から水袋を奪ってさっと、中の(時間が停止しているため動くことのない)水の塊を取り出してさっとこちらに投げてきた。

「さっきのイーノックの様子を覚えていますか」
「あぁ。水を飲んでから暫くはなんともなかった。砂漠からこの集落に辿り着き水を探していたあいつの前に「旅人さん、どうぞ!この街を楽しんでね」なんて歓迎するように言ってこの小娘は水袋を差し出したっけな。少し前に水の天使でもあるガブリエルが注意するよう警告を与えたっていうのに」
「えぇ、イーノックは長い旅で精神が消耗しているし少女の暖かい言葉に歓迎していたわよね。それで、この出会いを神に感謝するって祈りを捧げてから水を飲んだ」
「そこまではよかった。そのまま歩いて情報を探しているうちに、あいつは体の調子がおかしいことに気がついた。私は天使の目であいつの体を見ていたからわかるが、毒に体が侵され始めて心臓の動きが異常に活発化していたんだろう」

ひょいっとがよこした水の成分を分析し、ルシフェルは「毒死」であるという自身の見解が間違いではないことを確信する。しかしはルシフェルが語る詳細を「よく見ていましたね」と言葉ばかりの賞賛を送ってから「本当、天使ってつまらない」と一蹴にした。その仕草にルシフェルはむっとして聊か乱暴にに向かって水を投げ返す。毒が入っているのは事実だ。それであるのにこの娘は何を否定するのだ。水を器用に受け取ったは再び袋に戻して今度は遥か前方にいるイーノックに近づいた。

「知恵の実は青い林檎のようですね。穢れると赤い有様になるからなおさらわたしの目にはそう見えます」
「林檎か、君の「好き」な「童話」とはタイプが違うが確かヒトの子を楽園から追放させるに至った原因とする禁断の果実も、よく絵画では「赤い林檎」として描かれているんじゃなかったか」

今は「水」が論点であるので彼女のこの切り出しは不自然だったが、何時間は長くあると、どうせこのまま時間を戻してもまた同じことになるとわかっているルシフェルは暇つぶし程度にそう判じの話題に乗ってやった。

は青い目をにこりとさせて(こういうときは大抵ろくなことを言わない)ルシフェルを見上げると、彼女の知る「林檎に纏わる毒」の定義を語り始める。

「この時代の話ではないんですけどね。今のイーノックと似た「毒」で死んだヒトの子の話があるんですよ。あれは鬱蒼と生い茂る森の中。行われた犯行は加害者と被害者、それに森の獣たちしか目撃できないようなそんな閉鎖された空間で、ある魔女が美しいお姫さまに林檎を差し出しました」
「その話なら知ってるよ。これよりずっと先の未来、ドイツの片田舎で語られた民話だ。いずれそれをグリムという兄弟が一冊の本の中に閉じ込めていたな」
「大天使様、童話を読むんですか?」
「神が好むかもしれないからね。一応、その時代に出版されている全ての書籍には目を通すことにしているよ」

これでも神から移動した時代に見聞きしたものを報告する天使、という役割を頂いている。それで知識を披露するとが首をかしげた。

「そこまでご存知なのに「わからない」なんて天使って本当に不便ね」
「不憫ではなくてか?」
「わからないならいいわ」

時々は奇妙なことをいう。独り言にも取れる言葉で無視してもよかったが「不便」という己に向けられるにはあまりに不適切な単語でありルシフェルは問い返した。不憫、という言葉なら向けられたことがある。たとえば堕天使たちは堕ちる前に「無駄なことは止めておけよ」と忠告したルシフェルをそういう目で見て呟いた。「あなたは可愛そうなひとね」と顔を顰めてこちらを見てきたのはエゼキエルだったか。思い出しルシフェルは鼻で笑い飛ばす。

「まぁいい。とにかく、その童話がどうしたんだ?」
「お姫さまは林檎を一口齧ってその林檎に塗られた毒で死んでしまう。まぁ正確には眠ってしまうのですけれど、そんなことはどうでもいいとして、その死因は毒ではなくてイーノックと似ているのよ」
「つまり?」
「お姫さまに毒を差し出したのは彼女の母。美しいお后さま。愛らしく美しいお姫さまを妬んだ王妃さまは悪意の毒でお姫さまを殺そうとした?いいえ違うわ。毒なんて塗ってないの。王妃さまはお姫さまと意識の戦い。女同士の優劣を決める無意識の、どちらがどちらと決定するため戦い。自らの美しさのために我が子に手をかけようとする、そうまでする「女」への執念は女であることに無頓着な乳臭いお姫さまを圧倒する」
「あぁなるほど、つまりその「お姫さま」とやらは自分で自分を死に追いやったとそういうことか」

合点がいったよ、とルシフェルが口の端を吊り上げるとがにこり、とした。その笑顔の意味を考えかけて、ルシフェルはぞくり、と(アストラル体であるのに!)背筋に悪寒が走った。

に対して、ではない。

彼女の言葉を読むのなら「イーノックの今回の死因」というのはその姫君と同等の「敗北する前に自らの意思で死を選ぶ」とそういうことだ。つまりイーノックは自分が「あの少女に毒を盛られた」という事実に気付き「少女の毒でその身を死なせる前」に命を絶ったということになる。

(なぜだ?少女に「殺人」という罪を犯させないためにという献身的な心からか?)

いや違う。そんな程度ではない。ルシフェルはこの「奇行」ともいえる「イーノックの死」のその真意に気付き、顔を強張らせた。

「神への誓いか」

全てを救え、とそれがイーノックが神により命じられた使命である。イーノックはこの100年の旅で何度裏切られただろうか。それでも彼は毎回毎回ヒトを信じている。信じて信じて、馬鹿の一つ覚えのように信じて、そして裏切られている。心を疲弊させすり減らせ、それでもイーノックはヒトを信じ、エルダーの洪水計画から救済する必要性を感じ、旅を続けている。

(つまりイーノックがヒトを諦めた時点でこの旅は完全に「失敗」する。肉体の死ならば私が指を鳴らせばどうとでもなる。だが心が死、ヒトに絶望してしまえばもう二度と、イーノックはヒトを救うことはできなくなる)

それであるのなら、既にヒトに裏切られ傷つけられ続けて心が「限界」に近づいているイーノックが、取れる「ヒトのため」にできることは。

「待て、だがあいつは知っているはずが―――」

途中まで考えて、ルシフェルは首を振る。知っているわけがないのだ。ルシフェルはイーノックに自分が時間を戻してイーノックの「死」をやり直していることを教えていない。気付かせていない。だからイーノックが「自分がヒトに絶望する前に命を絶ち、時間を戻してこのヒトへの愛を失っていない心を過去の自分に引き渡す」という行動をしているという、この予測は成立しない。だが言ってルシフェルは、その自分を見つめるの瑠璃の目を見、言葉を途切れさせた。

「……気付いているのか?」

戻っていることに、イーノックは気がついていたのか?長い沈黙の後にルシフェルは確認するよう己で口に乗せてみたけれど、はじっとこちらを見上げるのみであった。ゆっくりと伏せられる瞳に、ルシフェルは唖然とする。

「待て、なぜそうなった?いつだ。私はずっとあいつを見ていんだぞ。間違いなんて、あいつじゃあるまいし、この私がしくじったわけがない。なのにどうしてあいつは気付いたんだ。いつから、あいつには「旅を続ける」以外の選択肢ができたんだ?」

イーノックはただ旅をしていればいい。堕天使を捕縛するため。洪水計画を中止するためにただ旅をして、前に進んでいればいい。ルシフェルはそのためのサポートをしている。何度彼が死んでも「全てなかったこと」にしてやり直しをさせる。それであるのに、の言葉が事実だとすれば、イーノックは、自分がこれまで「時間を戻す直線のイーノック」はその死の間際に「自分の魂を汚さずヒトを信じ続けて死ぬ」という選択肢を持ってしまっているではないか!

(この違和感はなんだ?)

ふつり、と初めてルシフェルの心に泥のような、何かこれまで自身に湧き出たことのない感情がこみ上げてくる。イーノックは神が選んだ「地上で最も純粋なヒト」だ。この神の「つじつまあわせ」の為のよい役者になる。神が望んでいるのだから、必要とあらば何万回でもルシフェルは時間を戻してきたしこれからもするだろうと思っている。神がイーノックを信頼しているのだから自分も必要なだけ信頼し、好感も持っている。

だが、これはどういうことだ?

繰り返すが、イーノックは神が選んだ「地上で最も純粋なヒト」だ。

神の期待をけして裏切らない。神に洪水計画中止のための条件を貰い、そのために地上に降りた。つまりイーノックは「旅を成功させる」ことが神への最も深い敬愛の証であり「神を疑う」「ヒトに絶望する」ということは何があろうとけして「選ばない」のだ。選ぶしかない状況に陥って(たとえば今のように心が耐え切れぬほど疲弊して)も、それでもイーノックは諦めず、己で己の命を絶つという神への最大の冒涜とされるはずの行為でさえ「自殺」ではなく「自身を神への生贄に」するという本来ありえぬ選択肢を見出した。

そうまでするのはイーノックが「地上で最も純粋なヒト」だからか?そうといってしまえばそれまでだ。だがルシフェルは、それだけではない違和感を覚えた。

いっそ吐き気のするようなこの「違和感」にルシフェルが戸惑い出口を見失っていると、が、青い目をした人形のように整った顔の少女が、今度はにこりともせずに言い放った。

「だって、決まってるじゃない。ヒトにも天使にも裏切られ続けたイーノックにはもう神さましかいないんだもの」

繰り返し繰り返し裏切られ続ける。長く果てしない旅を続ける。死という終わりは訪れることなく、成功するまで何度でも!と穏やかな慈愛と慈悲を持って告げられるこの真綿で首を絞められるような感覚。

(あぁ、あいつを追い込んだのは私か)

気付きルシフェルは片手で顔を多い、しかしそれでも「もう一度」を繰り返すために指を鳴らした。そして数分後、イーノックは少女から水を受け取った。




 

 

Next

 




・え?これ夢?なんて突っ込みをしちゃいけません。次は例のルシイー派にとって公式最重要ポイント、大天使様愛の告白シーン(違)でいきたいです。

(2011/08/27)