(子供の頃、天使に出会ったことがある)
殴られ地面に転がされた途端、イーノックは不意に昔のことを思い出した。これが、以前ルシフェルの言っていた走馬灯というものなのだろう。思い出して目を閉じる。一瞬前まで目の前に広がっていた、自分に止めをさそうと棍棒を振り上げる夜盗の歪んだ顔が視界から消え、かわりに瞼に浮かんできたのはかつて育った農地の広がる貧しい村、素朴で質素で、何もなかったが何もかもが揃っていた場所にぽつんと、立っていた自分、その前に現れた美しい二人の天使の姿だった。
(あの時から、私が召し上げられることは決まっていたのだろうか)
あのときの、幼い自分に二人が熱心に教え込んだことを今更ながらに思い出してイーノックはどうしてこれまで思い出さなかったのか不思議だった。きっとそういう風になっていたのかもしれない。後々の自分に影響がないように、しまいこまれていたのかもしれない。そんなことを思い、目を閉じたまま「終わり」を思う。自分はここで死ぬのだ。わかっている。けれど自分の死はルシフェルによって戻されまた旅を続けるのだ。
(大丈夫だ。問題ない)
何度繰り返しているのかもうわからなかった。だがルシフェルが「時間を戻している」ということには気付いていた。覚えがあるのだ。何度か同じ光景を目にしている。それで、最初は勘違いだと思っていた。長い間旅をしているから同じような光景を見た覚えがあるだけだろうと、しかし、それが「戻された時間」だと気付いたのはいつだったか。
(私が死んでも、私の旅は続けられる)
あとどれほど続くのか予想もつかない。まだ堕天使たちの足跡すら見当たらない。しかしどんなことがあっても、神が私を終わらせないというのなら、イーノックはこの旅に対して自分が最もすべきことというのは諦めないことだと、そう判断した。
「………?」
それにしても、いつまで経っても痛みがやってこない。不審に思ってイーノックはゆっくりと目を開けた。夜盗たちが追い詰めた自分をあっさり残していくわけがない。そう思い確認しようとして、イーノックはばしん、と頭をはたかれた。
「?な、何を…」 「バカヤロウ!それはこっちのセリフだ!こんな山奥一人で歩き回るなんてあんた命がいらねぇのか!!わっちが通りかからなかったら、あんたあいつらに殺されてたぞ!!」 「……?す、すまない…」
目を開けると、そこには顔にいぼのある、だがどこか愛嬌を覚えさせる顔つきの小柄な男が目じりを怒らせてこちらを見下ろしていた。小男の足元にはイーノックを襲っていた二人組みの夜盗がぐったりと転がっている。
「その者たちは…」 「ん?あぁ、殺しちゃいねぇよ。わっち一人で大男二人も一気に殺せるもんかい。こいつらはちょっと、まぁ、な、眠ってもらったのよ」 「眠って…?あなたは魔法使いか何かか?」
見たところ確かに夜盗たちは息をしている。目立った外傷もないのでイーノックが不思議そうに口にすると、小男が大声で笑い出した。
「はは!魔法!魔法使いねぇ!こりゃぁいい、あんたそんな格好で山ン中をうろついてるってことは巡礼者か何かか!信心深いのは結構だがよ、大事なのは神様の不思議!奇跡!力じゃなくて知恵と腕力よ!まぁ、わっちに腕力はねぇけどな」
頭をつん、と指差し、力瘤をぐっと出してみせる小男の態度に悪意はないが、神への信仰よりも大切なものなどないと信じているイーノックは、彼にしてはむっと眉を寄せやや強い口調で言った。
「ヒトの知恵も力も及ばぬものが神だ。神よりも偉大なものなどないし、ヒトを救うのも神の御心、その神への感謝と敬意を忘れるなど、」 「あーあーあー、わかってるって、にーちゃんはそういうお人なんだな。まぁそうだろうさ。これから自分が死ぬかもしれねぇって時に暢気に目を閉じてお祈りするようなやつだからな。あぁ、もったいないことをしちまったよ。薬だってタダじゃねぇってのに、なんだってこんな面倒なのを救っちまったのか」
イーノックが反論しようとすると面倒くさそうに小男が手を振ってそれを制した。口論する気はないんだという小男の主張と、さらにはグチのような言葉にイーノックも我に変える。結果的に己はこの男に救われたのだ、と、神への冒涜はさておき、感謝すべきだとイーノックは思い出して、そして小男の衣服のあちこちが泥に汚れていることに気付いた。
(私を助けるために必死になってくれたのか)
腕力はないと言っていた男である。使ったのは「薬」と言っていた。それなら地面にはいつくばって気配を消し夜盗二人の背後からそっと眠らせるための薬を使ったのだろう。 思い至ってイーノックは先ほど自分が彼に対して感謝の念を忘れていたことを恥じ、丁寧に頭を下げた。
「すまない、助けてもらったのに私は不誠実な態度だった。あなたが通りかかってくれなければ死んでいただろうに……感謝する」 「な、なんだってんだ改まって」
ものの言い方からして卑しい男。このように相手に丁重にされたことなどない。イーノックからすれば当然のことだったが、男は決まり悪そうに頬をかき、眉を寄せた。
「べ、別にあんた一人のためってわけでもなかったんだ。この連中にゃ借りがある。あんたに集中してる分こいつらを眠らすのは簡単だった」
言って小男はイーノックから顔をそらし、寝転がっている男たちの体をこつん、と蹴り飛ばした。
何か事情がありそうだが、イーノックはヒトの込み入った話を聞きたがる好奇心を持ち合わせていない。沈黙していると男が夜盗たちの傍にしゃがみこみ、その顔をじっと眺めていた。
食い入るように男たちの顔を見つめる小男の形相にはどこか鬼気迫るものがある。イーノックはこの小男はこのままにしておけば夜盗たちを殺すのだと気付いた。己がいるから遠慮、しているのではない。すぐには殺さぬ、己の中での憎悪が燃えに燃え上がるその瞬間までじっくりとこの男たちの暢気な顔を眺め続けると、そういう暗い光がその瞳にあった。
「いけない。そのようなことを考えてはあなたの魂が汚れてしまう」
彼は命の恩人だった。それに何よりイーノックは目の前でヒトの魂が闇に囚われることを見過ごせない。ぱしっと男の腕を掴み、その瞳をまっすぐに覗き込めば小男の顔がぐにゃりと歪んだ。
「あんた、わっちの事情を知ってんのかい?」 「いや、知らないが、」
じろりと睨むその視線の強さと、「邪魔をするな」と敵意を向けられイーノックはたじろぐ。
「なら黙ってな。ひとにはひとの事情ってもんがある。わっちだってこんな連中の為に手を汚す、そのことをどうとも思っていないわけじゃない。でもどうしようもないことがこの世にはあるんだ。あぁそうだ、もちろんわかってる!こんなことに意味はない!」
あぁ、おかしい、と、卑屈な笑い声を立てて小男が腹を抱える。笑うと男の顔には笑窪ができた。愛嬌の良い、普段は人懐っこい顔をするのだろうと窺い知れるのに、今は深い憎悪でその顔が醜く歪んでいた。
今すぐここから立ち去れと男の目が申している。イーノックはその目の申し出を拒絶し首を振った。目の前でこうして、今にも罪を犯そうとしているひとを放ってはおけない。それにこの夜盗たちも、奪われていい命ではないだろう。
だが男の憎悪と決意は深い。今出会ったばかりのイーノックが何か言って聞くような、そんな生半可な覚悟ではないのだ。わかっている。ぐっと、イーノックは腹に力を込めた。
「話を…話をしよう!」
+++
「…あ?」
なに言ってんだこいつ、と呆れるというより心底奇妙に思うている、そんな目を小男より向けられイーノックは一瞬「もう少し上手い方をどうして私はできないんだ」と恥ずかしくなった。しかし一度そうと切り出しては訂正はできない。
「あ、あなたの話を、しよう。あなたは自分で「こうするのがいい」とそう決めて、それで今そうしているのだろうが…私にも、あなたの話を聞かせ、一緒に考えさせてくれないか」
自分は他人だ。それはわかっている。だが少しでも彼の事情を知ることができれば、ただの初対面から少し、ほんの少し近づくことができるのではないか。イーノックは人の心の距離というものは案外あっさり近づくことを知っていた。だから「大丈夫だ、問題ない!」と自分のこの考えを信じ、まっすぐに男を見つめる。
「あなたも自分で「こんなことに意味はない」とそうわかってるようだ。それなら、私が一緒に、どうするのが一番良いのか考えるから。だから、」 「あんたバカだろ」
この方法ならあなたも、この夜盗たちも全てを救える、と熱心に説得をするイーノックを男が冷ややかな目で一瞥し、吐き捨てるように言った。
「……?」
バカ、と言われたことは過去に何度もある。だがこのように、心底さめざめとした目、呆れというよりも一種の侮蔑さえ含まれた、こちらを「このバカはもうどうしようもないんだ。手遅れなんだ」とそう見られるのは経験がなく戸惑う。
すると男がため息交じりに(一度夜盗たちの様子を確認して)イーノックを見上げ目を細めた。
「なぁ、おにいさん、あんたよぉ、旅人さんだろ?」 「あ、あぁ」 「巡礼者にしろ何にしろ、そんな若いあんたが旅なんてしてるってのは、なんぞ理由でもあるんだろうな」
自分の村にいられなくなったとか、あるいは腕試しとか、まぁ若いうちはいろいろやらかすもんだが、あんたのその人のいい様子なら家族を捨てて故郷を離れる、なんて選択は「自分のわがまま」はしないだろう。そう男に言われ、イーノックは記憶の中の故郷を思い出す。
(そうだ、私は故郷を、家族を捨てている)
ふと思い出した。もう随分と昔のことだから、今更昔自分が住んでいた場所に戻ったところでどうしようもない。
しかし男が言いたいことはそういうことではないし、イーノックがかつて神に「召し上げられる」ことにより家族から引き離されたことも知るわけがない。男の話は続く。
「それで、あんたはなんか厄介な問題を抱えてる。それをどうにかするために旅でもしてるんじゃないのか?」
こくん、とイーノックは頷く。「やっぱりな」と男が満足げに頷き一度あごを撫でた。そしてびしっとイーノックを指差す。
「だっつーのにわっちのことになんぞ首を突っ込もうとする。「お節介」や「人が良い」なんて類じゃない、あんたはバカなんだよ」
イーノックはこれまで何度も自分の言動が人に「偽善者」「お節介」「余計なことをする」といわれてきた。イーノックが良かれと思ってやったことが人によっては都合が悪かったり、迷惑だったりと、そういうこともある。それはわかっている。
「…だが……確かに、自分のことさえも満足に果たせぬ私がこのような申し出は傲慢だろうが…しかし、やはり人の命を奪おうというのは…」 「そうじゃねぇさ。そうじゃない。あぁ、もう、やっぱりあんたはわかっちゃいない。だからバカだっつってんだ」
そうじゃない、そういうことじゃない、と男が手を振った。
偽善、自己満足、そんなものはひとの勝手だと男は肯定する。「偽善がない世の中ってのは悪人しかねぇんだ」と言う。イーノックはその主張には反論したかったが、気付いた男がさっと手を振ってそれを制止し、脱線を許さぬ。そうしてついに核心を突こうという顔をして、じぃっと、じっと、小男よりも随分と背の高いたくましいイーノックを見上げる。
「あんたはわっちの問題を「一緒に考えよう」と言ってくれた。優しい言葉じゃァないの。でもなぁ、おにいさん。あんたは自分の荷物はどうするよ?わっちの問題はわっちが抱えるには重い。だから抱えきれずにこうなっちまった。それをあんたは見かねて手伝ってくれるというが、なぁおにいさん、あんたの片手は空いているのかい?」
イーノックは堕天した天使たちを捕縛するため。偽りの進化を与えられている人々を解放するため、旅をしている。もう百年が経とうとしているが未だに彼らの足取りはつかめていない。時間はたっぷりあるとルシフェルは言ったが、洪水計画をいつまでもエルダー評議会が待ってくれる、その保証はどこにもない。
(私は一分一秒でも早く、堕天使たちを発見しなければならない)
神の使命だ。神より命じられた自分の役割に集中することこそ「正しい生き方」であると、そういえる。そのためにイーノックはかつて家族を捨てた。いや、捨てたというつもりはなかったが、だが、だが、だが、こうして気付けば、結果的にはそうなっていた。
自分は過去、人を見捨てていたのではないか。神の役に立つために。ひいてはヒトを救うために…?
(私は!!!!)
はっと、イーノックは打ちのめされたように立ち尽くした。
時間がどれほどあろうと、その「たくさんの時間」は「神より与えられた時間」であり、イーノックのために使っていい時間ではない。その全ての時間は堕天使たちを見つけるためだけに使うもの。
「人に関わろうというのはそういうことだ。少なからず自分のことがおざなりになる。そうなってもいいとき、そういう覚悟があるときじゃないと声をかけちゃァなんねぇんだ。あんたはわかってないね」
畳み掛けるように男が呟く。だからバカなんだ、とそういわれ、イーノックは自分が傲慢、いや、無責任、なんと表現するのが正しいのかわからないが、奇妙な、立ち居地を見失う、あるいは居心地の悪い場所に片足で立たされているような、そんな奇妙な感覚を覚えた。
「……」
考え込むイーノックを男がじっと見上げていた。その視線を受け、そして男の足元に転がる二人の夜盗を見て、ぎゅっと、イーノックは手を握り締める。
それならここで、彼らの問題に関わるべきではないというのか。いや、確かにそれが「選択肢」にあるべきなのだ。そうイーノックは訴えかけられていた。だがどうしても、どうしてもイーノックはその、目の前にぶら下がる「神の使命の為に、全てを救うために、今目先のことにとらわれるな」という、その、美徳であるはずの言葉の書かれた短冊を手にとってありがたく頂戴することができない。
(関わるべきではないのか) (見捨てて) (彼が「復讐」を果たそうというのを黙っているべきなのか) (夜盗たちが死ねば脅かされる者もいない、それが正義であると) (それが神のご意思であると捉えるべきなのか)
全てが神の意思によるものなら、神のしもべである己がこうして「関われぬ」と判断することが当然で、だがこの男が復讐を果たせるよう「囮」になるために己がこの場所に使わされて、そして、一つの「悪」とされる夜盗たちが死ぬことが「神のご意思」であると、そう定められる流れがあるのか。
「お、おい!ちょっと、あんた!なんだ!?なんで、」
考え込み答えが出ない。神のご意思など己などにはかれるわけもない。しかし、しかし、とイーノックは奥歯をかみ締めた。俯いて暫く、小男がおろおろとうろたえた。
「おい、なんだ?!なんだってんだ、なんで、なんであんた、泣いてんだ!?」
ぽろぽろと、イーノックのターコイズブルーの瞳から球のような大粒の涙がこぼれていく。大の男の隠しもしないその有様。みっともないというよりも驚きで、小男は予想しなかった展開に只管狼狽する。
このような物言いをすれば躍起になって反論、怒鳴る、あるいはもっともらしい偽善的な言葉を吐いてにこやかにこちらの言葉を拒絶する、とそういうのが小男の予想であった。
それであるのに目の前の青年がどうしようもないことをどうしようもないと諦めることができず、悔しく、いや、恥や悔しさ、悲しさ苦しさ、いろんな感情の入り混じった涙を流す、この展開は経験がなかった。
なんだ、どうした、とうろたえる男がイーノックの顔を覗き込もうとすると、子供のようにぶんぶんと頭を振って、イーノックは呟いた。
「……あなたの言っていることはきっと正しい。しかし、私は目の前で、あなたが穢れようとしているのを黙ってみている、そんなことはできないんだ」
すまない、許してくれ、と悲痛な声で訴える様子に、小男はただただ目を見開き、そして、半年前に夜盗に殺された幼い息子にかつてやってやったように、そっと、その頭を叩いてやった。
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