「さて、これはどういうことだ?」
ふむ、と傍観者であるルシフェルはヒト同士の感情にかまけたやりとりを眺めながら首を傾げた。
荒れた山道でイーノックが野盗に襲われた。この出来事はこれで3度目で、前の2回ではイーノックは野盗二人に殺されていた。何度繰り返せばいいのだろうかと事務的に指を鳴らしていたルシフェルであるが、この展開は予想していない。
「君が何かしたのか?」
それでふと、ルシフェルは少し離れた岩の上に腰掛けているセーラー服の少女に問いかける。ルシフェルと同じ黒髪を月明かりに照らした少女は感情の読めぬ瑠璃の目をじぃっとこちらに向けた。
「どうして?」 「いかにもワケありといった人間じゃないか。イーノックと正反対、神への信仰を持たず、自力のみを信じる現実主義者。いや、かつれは神を信じていたようだが、この盗賊連中に息子を無残に殺されてからは「神などいるわけがない!」とそう思って生きている。これはそういう男だろう?」
ぺちぺち、とルシフェルは時間が停止し、小男やイーノックに自分が視認できないのを良いことに、山道、盗賊たちを足蹴にしている小男の頬を叩いた。
「つまりあなた、私がイーノックを惑わせるためにこの男を遣わしたというのですか」
ルシフェルに問われ少女は形の良い眉を跳ねさせる。こうしてじぃっとイーノックの旅を見守る得体の知れぬヒトの子。ルシフェルはこの少女に対して段々と嫌悪感を覚えているけれど、それであっても、彼女がルシフェルの「話し相手」であることに変わりはなかった。
「まぁそんなことができるのは神くらいだろう。選択という唯一絶対の力を持つヒトを、憑依せず操ることは天使にだって不可能だ。だが君は得体知れないからね。自分が勝ちを得るためにはそういうことだってするんじゃないかな」
ルシフェルは神と少女の間の「賭け事」を再度思い出す。正直言ってルールが曖昧ではあるが、とにかく神はイーノックに「全てを救え」と課し、少女は「イーノックは失敗する」とそう賭けた。
神はただイーノックを信じ結果を待つのみだが、少女は横槍を入れることを許されている。あの手この手を使いイーノックを「諦めさせる」ことができるが、ルシフェルの観てきた限り、今のところ少女はそういった横槍をいれていない。だからそろそろ何か手を出してくるのかもしれないと、そう思って問うてみたが、少女はそのようなことはしていないという。
(まぁ、当然だ。イーノックはけして神を裏切らない。あいつは汚れる前に「神の使いであり続けるために死ぬ」という選択をしだした。この賭けは神の勝利意外にはありえない)
何度も何度もルシフェルはイーノックの時間を戻してきた。その結果、イーノックは自分が「失敗」しても「終わらない」ことに気付いた。ルシフェルは、それは自分の過失だと認めるべきであったが、考えてみればイーノックに「時間が戻され何度も繰り返し挑戦させられている」ということを知られても何の問題もないのだ。
むしろ感謝するはずだろう。
弱く無能なヒトの身で神の使命を果たすことなど本来は不可能だ。それをルシフェルのサポートが可能にしている。堕天使を見つけ出すために久遠の時間を、肉体の時間を止め、ヒトが欲してやまぬ不老不死を与え、ヒトでは叶わぬ堕天使に何度でも挑めるよう時間を戻す。
(イーノックは私に感謝するだろう。私がいなければとっくにあいつはゲームオーバー。ヒトを救うことなどできずあいつの愛しき地上は水に飲み込まれているのだから)
そう思えばルシフェルは悪い気はしなかった。天上にイーノックが召し上げられた時「神は一体こんなやつのどこが気に入ったのか」と不思議でならなかったが、教育係として接していればそれなりに気に入る部分も出てきて、そういえば、イーノックに感謝されることを己はわりと好いていたように、そう、そのように思い出す。
(最近、あいつと話をしていないからかな。すっかり忘れていたよ)
ミカエルの手から降りてからというもの、そういえば一度もイーノックと言葉を交わしていない。そろそろ一度くらい姿を見せてやってもいいかと、そういうことを考えていると、トン、と少女が岩の上から飛び降りた。
「わたしじゃないわ」 「うん?」 「この人をイーノックに近づけたのはわたしじゃない。わたしは、もうできる限りイーノックに人間を近づけたくなかった。でもその人はイーノックの前に現れたのよ」
何か悪い予感がすると少女が顔を顰める。この神のゲームの「悪意」の要素でなければならない小娘が何を言うのかとルシフェルは呆れ、そしてパチン、と再び時間を動かした。
++++
「なんだ、あんた何にも食うもん持ってねぇのかい。しゃあないわな、わっちがわけてやるよ」
ぱちぱちと焚き火の燃えるその向こう側で小男が呆れたように言った。しかしこれまでのようにこちらをバカに、あるいは哀れむような響きがなく、ただ「仕方ないなぁ、お前は」とどこか愛情さえ感じられる、そういう声である。
イーノックは急に態度を変えたこの男に、一体どう接すればいいのかわからずただおろおろとするばかりだった。ぐいっと、男が切り分けたパンを押し付けられて戸惑う。
山道でのこと。野盗に襲われ、目の前の男に救われた。イーノックは彼を命の恩人であると感謝している。男はその野盗らとなんぞ因縁があるようでその命を奪うことを主張した。イーノックはどうしてもそれが認められず、見過ごせず、といって男の事情も知らぬのでなにもすることができなかった。そういう無力さに情けなくなって、泣くという、もうどうしようもないさまを晒してしまったが、男はこんな自分に同情してくれたのだろうか。その怒りを納め、そうしてこうして、一緒に夜を過ごすと、そういうことになっている。
「す、すまない」 「まぁいってことよ。あんた、見たところ荷物も持ってねぇじゃねぇか。本当、そんな格好で旅なんてできるのか?」 「…大丈夫だ、それは、問題ない」
実際のところこれでもう何十年も旅を続けている。イーノックは旅支度、というものを必要としていなかった。当然、実はイーノック自身気付くのに時間かかったが、この体はどうも時間が停止しているようで、食事やら睡眠を必要としていないらしかった。天使に近い体、であるのかもしれないとイーノックは天界にいたころを思い出しそんなことを考える。
(私は堕天使を捕縛するためだけに地上に降りることを許されているのだから)
いっこうに腹が減らないことを当初は不思議に思った。だが動くためには体力をつけねばと食料を口に運んで、イーノックは吐いてしまった。口には含めても、喉に通そう、通った、としてもそのまま体が受け付けぬ。げほげほと吐き出し、その時に気付いたのだ。「あぁ、私はもはやヒトではないのだ」と、そのように、そう、突きつけられたのだ。
「気持ちはありがたいが、私は、あまり食事を必要としていないんだ」
この食料は男が必要最低限として持ち歩いているものだろう。イーノックはそれを必要としない自分が彼の糧を奪ってしまうことが申し訳なく、そっと押し返した。だが小男は眉を寄せ首を振る。
「まぁあんたは痩せちゃいねぇがな、だからって食わねぇなんていけねぇよ。食べ盛りの若い者がめいいっぱい食う、わっちはそういうのを見るのが好きだねぇ」
遠慮するな、と言われているようでイーノックはただ只管恐縮する。そうではない。そうでは、ないのだ。この先の山道、まだ次の村までどれほどあるのかイーノックには見当も付かない。長いのなら男にとってこのパンのひとかけらがどれほど大切になるのか。そしてこのパンを「食べる」ことのできない自分が口にして、吐き出す、それは折角の食事への冒涜ではないのか。
「強情だねぇ、あんた。人の好意は黙って受け取るもんだ」
イーノックが黙ってしまったので男はさすがに不愉快に思ったか聊か不服そうに声を上げる。それでもイーノックはただ「すまない」としか言えない。
ぱちぱちと、赤い炎が燃えていく。その炎をぼんやりと眺め、小男がため息を吐いた。何もいわず黙ってイーノックからパンを奪うとそのままむしゃむしゃと口に運ぶ。パンだけでは味気ない。男はたっぷりとバターをパンに塗り、さらには蜂蜜をかける。そうして半分ほど食べ終えてから男は焚き火で炙っていた燻製肉にかじりつき、満足そうに頷いた。
「あぁうまい。こんなうまいもんをいらねぇなんてもったいねぇなぁあんた」 「……」 「後は山道も下るだけ、明日の昼にゃ村に付く。村で食料を買い込めばいいから遠慮はいらねぇ。酒がねぇのは残念だが、あぁ、うまいうまい」
ぺろっと指についた蜂蜜まで丹念になめて、男はこれ見よがしに食事を楽しむ。イーノックはその光景をただ眺めるしかできなかった。
食事が終わり、そして火を消して森の中、簡易的な寝所を整えてそれぞれ体を横たえる。男は寝所を作るのに手馴れており、木々の幹に縄をくくりつけて布を張った。やわらかく揺れるその丈夫な布の上に乗り上げ、ごろんと体を寝かせ、焚き火跡の脇にいるイーノックを見下ろした。ハンモックであるがイーノックはその形式を始めてみたので関心する。すると男は「あんたのもこしらえてやろうか」とそう提案してきた。先ほど食事を断った手前イーノックはこの申し出を断ることをせず「一番いいのを頼む」と依頼した。男が「あぁ、任せておけ、父ちゃんが一番いいのを、」と途中までいいかけ、そして押し黙った。
「私に手伝えることがあれば言ってくれ。できればこの方法を覚えたい」
何か自分は聞いてはいけないことを聞いたのか。察してイーノックは何も気付かぬふりをし、男に告げる。男は自分の失言に苦い顔をしていたが、イーノックの気遣いに一度頭を下げるようにして、そして「あぁ、そうだな。じゃあこの布を広げてくれ」と指示を出した。
「あんたは体重がありそうだからなぁ。しっかり縛って、布を二枚重ねたほうがいいかねぇ」 「長く旅をしているがこういう方法は見たことがなかった。あなたは天使のように博識だな」 「天使、天使ねぇ。そんな大したもんじゃぁないさね。でもまぁ、覚えておくと便利なことは覚えておくようにしているよ」
高い木の上で張れば夜間獣に襲われる心配もないと男は自慢げに話す。イーノックは「なるほど」と頷きながら男を手伝った。
「あんた、いつもはどうやって寝てるんだ?」
準備が終わり、イーノックがおそるおそるハンモックに乗り上げその頑丈さを確認していると、その初々しい様子が愉快だと目を細めていた男が問いかけてきた。
「眠るときは…木や岩に背を預けて目を閉じている」 「いくら一人旅だからって横にならなきゃ体が持たねぇだろう」 「いや、大丈夫だ。問題ない」
眠りを必要とはしていないのだ。イーノックは「仲間」を作らなくなってからは「夜休む」「横になる」ということをしていない。真夜中でもただ歩き続ける。足を動かし続け、ただ堕天使たちを探す。
「無茶ばっかりするねぇ。あんた、なんで旅をしてるんだ?」
ごろん、と男もハンモックに横になった。イーノックの向いである。横になった男がこちらを眺めているのがわかったが、イーノックは仰向けになり、木々の間から空を見上げる。空には「帳」という堕天使たちの技がかかっているらしい。イーノックは天界に上がり何に一番興味を引かれたかといえば、天体である。星々の煌き、それらに意味や役割があると知ったときの驚き。教えてくれたのは誰だったか。思い出そうとして止めた。そして代わりに、男の質問に答える。
「旅をしなければならないからだ」 「そりゃ答えになってねぇよ。まぁ、言いたくねぇってならしょうがねぇ。でも見てるとあんたは無茶ばっかりしそうでわっちは心配しちまうよ」 「すまない。だが私は大丈夫だ」
言ってイーノックは寝返りを打った。男の老いた顔が視界に入る。男はじぃっとイーノックを見つめていた。
「あんた、わっちが今何を考えているかわかるかい?」 「…?いや、すまない」
こちらを見つめる目、暗くてよくわからない。イーノックは近づくべきかと思ったが、しかし男と己にある一定の距離が、男には何かしらの「口を開く要素」になっているようなそんな気がして、男と同じようにハンモックに横たわる。
「わっちはね、あの野盗たちを殺さなかったことを後悔しているんだよ」 「……それは、」 「あぁ、でもな。でも、同時にな、わっちは、殺さなくてよかったとも思ってるんだ」
何か言おうとしたイーノックをさえぎって、男はため息のように呟いた。懺悔、というような雰囲気ではない。「どうしてあんなことしちまったか」と己の行動を呆れるような、しかし妙に「まぁ、しょうがないな」と納得するような、そんな、奇妙な響きでもって、男の言葉が続けられる。
「あの二人な、あの、あいつらな。わっちの息子を浚った。わっちはな、宝石商人だった。ここから少し行った町で1,2を争う商人だった」
語る、小男の、小さい小さい人生である。生まれの貧しかった男は相手の顔色を伺って、へりくだって、虎視眈々と小金を稼いだ。人を出し抜いて、時には堂々と騙して、そして晩年やっと財を成した。
「老いてから子供ができた。わっちは可愛がったよ。目に入れても痛くないっていうのは本当だと思ったよ。息子だった。わっちは自分の全てを息子に与えたいとそう思った」
若い妻に愛情はなかった。己の財産を狙っているとわかりきっていた。だが小男は息子を愛した。溺愛した。幼い子供は小男が、実際には祖父くらいの年齢であっても気にせず「おとうさん」「おとうさん」と慕った。自分に何の損得も計算せず近づいてくるその存在が小男には愛おしかった。小男の体は小さく、どちらかといえば醜い顔だった。愛嬌がある、とそういう者もいたが、それは小男がそのように見えるよう振舞っているだけだった。男は自分の性根の卑しさを知っていた。だからなおさら卑屈になっていた。だが息子は、そんな男を見下すこともせず値踏みもせず、ただ慕ってくれた。
「ある日な、息子が浚われた。わっちはあの子のためなら財産全てをくれてやってもよかった。どうか無事に返してくれと、そう神に祈ったよ。そうしたら、浚ったやつから手紙が届いた。息子を返して欲しければわっちの財産を全てよこせとそう言ってきた」 「神があなたの願いを聞き届けてくださったのだな」 「わっちもそう思った。息子が浚われたのはわっちが金持ちだったからだ。それなら原因になった金は全部うっちゃってしまったほうがいいと思った。神の思し召しだろうってな」
イーノックは「よい話だ」と頷く。出会った時、男は神を信じぬような発言をしたが、それでもやはり人の心に神はおられるものだとそう暖かな気持ちになった。だが、小男は突然低く笑い出す。
「?どうし、」 「わっちは神を信じていないよ。あんた、誤解しているね。わっちの話を最後まで聞いてくれ。人の話は聞くもんだよ」 「しかし、神に祈ってご子息は無事だったのではないのか?」 「だから、話を聞けといっているんだ」
男の声が鋭くなる。それでイーノックは黙った。男は一度感情的にはなったがすぐに抑え、そして話を続ける。
「わっちは全てを捨てていいと思ったが、妻は違った。妻は息子よりも自分の生活が大事などうしようもない女だった。あいつはわっちを意気地なしと詰って愛人と一緒になってわっちを殴るとそのまま地下室に閉じ込めたよ」 「………」 「女はな、あの二人の盗賊に言ったんだ。金はやらないと。二人は怒って息子を殺した。そうしてそのままわっちの妻と、その愛人も殺した。わっちは地下にいて無事だったが、助けられたときに最初に見たのは息子の死体だ」 「……なんと、むごい」 「あぁ、そうだな。ひどいもんだった。わっちの腕にすっぽり収まった赤ん坊のころから、走り出すまで日々かみ締めて見守ってきた。わっちが見た息子の死体はね、あんた、想像できるかい?あちこち四肢がなかったんだよ」
たぶん妻を脅迫する道具にされたのだろうと男は言った。人質として目の前に突きつけて、女が意見を変えるのを待ったに違いない。泣き叫ぶその子の声をどうして自分は聞きつけられなかったのか、そう小男は呟く。
その後、小男は財産をなげうって二人の盗賊の後を追った。情報を金で仕入れ、自分のような人間でも屈強な男二人を殺せるだけの方法を手に入れた。誰か人を雇って仇を討つ気にはなれず、必ず自分で息の根をと、そう決めていた。
「そうしてやっと追いついたところに、あんたが襲われてた。そういう事情さね」
半年追い続けてやっと見つけた。長かった、と男は言う。孤独に襲われ、眠れば息子の顔が浮かんでくると、そう言い辛そうにな声を出す。(ちなみにこの時、それを眺めていた大天使と女子高生が「半年で孤独とかなかなか面白いことを言っているじゃないか」「うけますね」とちゃちを入れていたけれど、それは当然二人には聞こえないし見えない)
「あんたみたいな若いにーちゃんにゃわからねぇだろうな。大事な大事な、自分にとって命よりも大事なものをなくしちまうってことがどういうもんか。復讐してどうなるもんでもねぇ、息子は喜ばねぇだろうな。わかってる。でも、どうしようもねぇほど思いつめちまうしかねぇんだ」 「…………」 「あんたはわっちの苦しみがどれだけあるかも知らねぇで、それでも「止めろ」とそう言った。言うのは簡単だよなぁ、わっちだってわかってる。わかって選んだもんを、事情を知りもしないあんたは止めろと言ったんだ」
責められているのだろうか。イーノックは黙って話を聞いた。男に「すまない」と謝罪をするべきか、だが、男は既に独り言のように話しているようにも取れた。イーノックは黙ったまま、ただ話に耳を傾ける。
「だから今後悔してる。あれほど憎んだ相手をわっちは殺さなかった。今頃目を覚ましてなんぞ悪事をたくらむんだろう。わっちのような者がまた出るかもしれねぇ、わっちの息子のような目にあう者が出るかもしれねぇ。それなのに、わっちはあいつらを殺さなかった。それを今後悔しているんだ」 「…しかし、しかし、あなたは先ほど「殺さなくてよかった」と、そう思っていると言ったではないか」 「そういうところはよく聞いてるんだな。あぁ、言ったよ。言ったね、確かに言った。不思議なもんだ」
ごろん、と男が仰向けになった音がする。暫く沈黙があった。男が、これから話そうとしていることを言葉に出すべきかどうか、そう、迷っているような間であった。
イーノックは男の沈黙を受け入れる。己は確かに何も知らなかった。彼の身に起きたことも、あの二人の盗賊がした非道も何も知らず、ただ目の前で「人が殺されるのが嫌だ」とそう、自分本位な考えで止めた。それを恥じる思いがある一方、それでもこの小男が「殺さなくてよかった」とそう思ってくれている心があるのなら、自分のしたことは間違いではなかったのだと、そう思いたい、一種の自己弁護のような、そんな、そんな、心があった。
「あんた、自分で自分の目を見たことはあるかい?」
沈黙して暫く、時間にすれば一刻ほどの時間を置いて、男がやっと口を開く。イーノックは途中で男が眠ってしまったのではないかとさえ思ったが、そうはならなかったらしい。
「いや、あまり水を覗き込むことはない」 「まぁ、そりゃそうか。もったいないな、見たほうがいい」 「?なぜだ」 「あんたの目だよ。その色の、その目を見て、わっちは殺さなくてよかったと、そう思った」
イーノックの緑かかった青い瞳が原因だと男は言う。今だってあの二人は憎い。殺してやりたい。だが同時に、イーノックのその目を見ていると息子を思い出す。イーノックの目を見て、その中に写っている自分がまだ「息子の為に人を殺した」とそれをしていないことに安堵したと、そう話す。
「あんたは人殺しがいけねぇとか、神に背く行いだとか、まぁそんなことを言うがね。そんな言葉はわっちにはちっとも響かなかった」
だがその目はいけねぇな、と男が笑う。笑って、そして体を起こしじぃっとこちらに視線を向けてくるのがわかり、イーノックも体を起こした。慣れぬハンモックの上では体勢が安定せずややふらつく。それを見て男がころころと笑った。笑うと、愛嬌の在る顔である。
「あんたのその目にわっちは救われた。神様ってもんがいるかどうか、いや、いねぇと今の今までわっちは思っていたがね、でも、あんたのその目の中に神様ってやつがいるんじゃないか、今はそんなふうに思えるから、あんたは不思議だよ」
言って、笑って、男はぐいっと自分の目を拭った。イーノックは神をないがしろにする男の発言をとがめるべきか、己などが神に近いとたとえられたことを否定するべきか、あるいは男が再び神の存在を見出せたことを喜ぶべきかわからず、それで困ったような顔をして、ただじっと、男を見つめる。小男は再びごろんと横たわり、ゆっくりと目を閉じて眠りの体勢をとりながら、最後の言葉を告げる。
「あんたといると、わっちは神様を取り戻せるかもしれねぇ。だから暫く一緒にいさせてもらうよ。あんた、一人じゃ何かと危なっかしいし丁度いいじゃぁねぃか」
確定だ、決まった、もう変えねぇよ、とそう言い男が背を向ける。イーノックの意見をまるで無視した申し出というよりやや事後報告に近いもの。「え、いや、しかし」とイーノックは戸惑ったけれど、眠るヒトの邪魔をしてはいけないと律儀な性格。そのまま「…明日目を覚ましたら話をしよう」とだけ言って、自分もごろん、とハンモックに横になった。
Next
・早くルシフェルプロポーズシーンに行きたいんですが、このパート長いみたいです。
|