雪兎02

 

 

 

ぱちん、ぱち、っと、碁盤の上を白と黒の星が競う。出されるがままの素直で、けれど力強さを感じる一手をのらりくらりと交わしながら、は生真面目にも正座して、じっと盤を見下ろす近藤の気配を伺った。
真選組局長の近藤さん。フルネームではなくて、近藤さん、というのが、既に彼の名前全てのように、響いてくる。男ぶりはけして悪くはないというのに、それでも、三枚目として目立ってしまうのは、せんなきことか。

「近藤局長さん」

ぱちん、と、一手返して、は盤を見下ろしながら口を開いた。あえて時勢に逆らうような、呼び方をした己をあいらしいと、微笑むことは、なぜだかできない。

「わたしのお相手をしていただけるのは光栄なのですけれど、お仕事、よろしいんですか」

の黒が生きて、随分と、余裕ができた。近藤の眉間に皺がよる。それでも、顔は真剣そう、姿勢も真剣、だというのに、悔しがる様子はない。寧ろ、嬉々としているように見えて、は遊んでいるのは己だというのに、まるで近藤に遊ばれているような、そんな錯覚がした。そんなはずはないのだけれど、と、思わず首をかしげると、近藤はにへら、と、笑う。

「久坂先生にはいつもお世話になってますからね。お礼ですよ、気になさらないでください」

ぱちっと、近藤も一手。すぐに死ぬ。は顔を上げて笑みを向けた。

「わたしこそ、いつも近藤さんがさりげなく山崎さんをお使いに使ってくださっているおかげで、随分と助かっています。お互い様、ですよ?」

副長の土方はをテロリスト予備軍と疑ってぞんざいな扱いをするが、近藤は純粋に、を「腕のよい医者」と、敬意を込めて接してくれている。あの、江戸城での一件には土方以上に関わっている、事情もよくよく承知しているというのに、この男の、この、眩しいまでのすがすがしさは何なのだろうか。

ふと、は手を止めた。いつのまにか、碁盤の上は星が満ちている。

「近藤さん、まだ続けますか?」
「いやぁ、久坂先生はお強い。俺ぁこれでも、碁は隊の中で一等強いつもりだったんですけどね」

とっくに勝敗は決まっていたけれど、手慰みの意味の強い遊びごと。それほど気にすることもなく淡々と打っていた。近藤は豪快に笑い、白と黒にきっちり分けて勝負を見ることもせず、がらがらと碁を崩す。あ、と、の小さな悲鳴のようなものが喉から付いて出た。

「?どうかしましたか?久坂先生」
「い、え。いいえ、そう、ですよね。普通、終わったら直ぐに、崩しますよね」

にっこりと、は笑って自分も片付けを手伝う。は碁が、とても強い。どれくらい強いのかというと、江戸城で碁と言えば、と、名が出るほどには、強かった。朝廷で定期的に行われる囲碁の会も、は必ず人から望まれて一局つくった。
久坂の記録者の打った碁盤は、暫く、結界となると、そう言われていて、古い雅が中心とされた時代から、重宝されてきた。だから、その当時の癖で、はそれらしい並べ方をしていた。それを、陰陽の断り、五行、脈を従えた棋譜を容易く崩した混同に些か戸惑いながらも、それが当然、遊びことなのだと、改めて気付いた、だけ。

「でも、意外でした。近藤さ、んが囲碁をなさるなんて」

奇妙なところで一瞬、言葉を区切った。注意していたというのに、ごくごく自然に、は「近藤さん」と呼んでしまった。動揺して、それを悟られぬよう、手元を見るフリをして、視線を下げる。

「いぇねぇ、トシのヤツが将棋がめっぽう強くて。それまでは俺も将棋だったんですが、毎回毎回負けるのが悔しくて、まだお互いやったことのなかった碁に手を出したんですよ」

そうしたら、土方は囲碁は性に合わないといって続けず、近藤は意外にはまって、こうしてそこそこの、少なくとも、が遊んで楽しい、と思えるほどの腕にはなったらしい。

「近藤局長さんも、囲碁より将棋の方が似合うと思いますが」
「好きですけどね。でも、碁は皆同じってところがね。気に入ったんだと思いますよ。俺ぁ、頭が悪いから、どれにどの役って采配が出来なくてね」

へらり、へらりと笑うけれど、なるほど、らしいことを言うと、は神妙な顔で頷いた。もちろん、囲碁とて将棋以上に複雑な役割を持つ個所もある。けれど、一見の目には全て同じ、石。将棋の駒のように仰々しく名が刻まれているわけでもない。

「なるほど、よく、似合っていらっしゃいます」
「はは、ありがとうございます。久坂先生も、なんだか打つ姿がどうに入っておいでですが、たしなみ程度の方には見えませんね」
「女性の過去を聞くなんて、無粋だとお妙さんに殴られますよ」

さしてはぐらかす必要もない問いかけだったが、近藤の人柄、困らぬ問いから、一気に困る回答をしてしまいそうな気がして、はそれを、恐れた。
お妙の名を出すと、一瞬近藤の顔が引きつって、すぐに、乾いた笑い声で「不躾なことをしました」と、謝罪してくる。演技、ではない。素のものだ。真に、恐れて、それでも、愛しいという感情のある、顔、声、色だ。

近藤という男は、真っ白い、雪のような人なのだろう。ここまで来て、はやっと合点がいった。そういえば、鈴子が菩提を弔い尼にでもなろうかというほど、惹かれたらしい伊東は、彼のことを真っ白い旗だと表現したらしい。

なるほど、雪では冷たすぎるかと、は今も外を深々と降り積もる白い結晶を思って笑った。雪のような儚さは、この男には似合わぬかと、そう思って、ふいに、の脳裏に、ディジャヴ。

『あなたが雪と言う柄ですか。あなたの白さは―――』

ずきん、と、の頭が痛む。そう、だ。近藤は、似ている。似ているところなど、全くないはずなのに、似ているのだ。

(松陽先生に、似てる)

気付けば、どっと、掌に汗が滲んだ。悟られぬよう淡い笑みを浮かべて、は碁石を脇へやる。

「碁はもう結構ですよ。お付き合い、ありがとうございます」

はふかぶかと頭を下げて、近藤に礼を言うと、近藤が一瞬恐縮して身を引くタイミングを読み、その肩を左手で押して床に叩きつけた。碁盤は片足で遠くへ蹴り飛ばしている。畳の上に押し付けた近藤は、驚きに目を見開いて、瞬時、首にしっかりと当てられた鋭利な刃物に、眉を顰める。

(高杉さんを、近藤さんに会わせてはいけない)

伊達に、これまで歴史を読み聞かされてはいない。歴史の、危険な可能性を持つ人物は、は匂いでわかる。その嗅覚が、近藤と、高杉の双方の接触は、高杉にとって「よくないこと」だと、知らせた。
山崎さんは悲しむだろう。憎まれてしまうかもしれない。それでも、は高杉と山崎との天秤は、まだ、確実に高杉のほうが重かった。

近藤の首筋に当てがえたメスは切り裂いて、血管を傷つければいい。雪の中を己が逃げ回れぬと思われるだろうが、なんとでもなる。

「久坂、」

ごぽっと、近藤の喉に血が垂れた。ごほごほと、溢れてくる血反吐が、赤黒く禍々しい気配を放つ。

「久坂先生!!」

咳をして近藤の胸の上に倒れたのは、だ。血を吐いて、手に持ったメスすら握れず落とす。

「や、山崎!!降りてこい!!久坂先生、久坂先生!!」

(天井裏に、山崎さん、いたんですか。わたし、かっこわるい)

本気で殺そうとしていた人に、身を案じられ、抱きしめられ、助けを呼ばれ、格好悪い、と、は口の中に広がる血の味と、慌てての心臓の音を確かめる山崎の匂いの、どちらが不快かと、考えていた。


 

 

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