「に、にぢゅうごてん……?」
答案用紙をにぎる母の手がカタカタ震えていた。隣で無表情を装う父も、全身にびっしり脂汗をかいている。煌々としたリビングの明かりが禿げそう★な父の額をよく照らすこと。ソファでテレビを見ていた兄までがぴたり、と動きを止めて、顔は相変わらずバラエティ番組を見ているのだが、その全身の神経は完璧にこちらを向いていた。
井原、17歳。現在針のムシロです。
夢の海へ!
「いやぁあああ!!ちょ、ちょっとまってマザー!!ママン!お母様母上様!!お元気ですかぁあああ!!!?ちょっと、マヂでやめてください!!!!」
花も恥じらうお年頃。セーラー服がよく似合うネ、でも普段着は全然似合わないネと近所でもご評判の元気活発、容赦なく自分の部屋の雑誌やらマンガやら本やらゲームやらお絵かきセットやらキャラクターグッツやらカレンダーやら…あげたらキリがないので、とにかく、学校道具・勉強道具以外の品々を袋に詰めて一階へ運んでいく母の腕に縋りついた。
「ちょっと点数悪かっただけじゃない!私のライフライン…ステキオタク満喫セットをどこへどうしようっていうの!!?おかあさ〜ん!!!!」
「捨てます、隔離します、燃やします」
「燃やすの!!!?」
「…は、冗談ですが…ダイオキシン出ますからね」
和服姿に凛とした黒髪美人のの母、にっこり笑顔で娘を振り返った。が、しかし、その額にはくっきりと青筋が浮かび上がっている。そして背後にはなぜかこう、ゴゴゴオオゴゴォオオという効果音を背負っているような感じがする。
ヤヴァイ、ヤッヴァイ、本当にまずい。
普段温厚でニコニコ「穏やかな奥様ねぇ〜」とご近所でも評判の母、ぶっつんキレたときの容赦なさ、菩薩のような般若の気配は家族親族しか知らない。
いや、さすがにも今回の数学のテストの点数はまずったかなぁ、とは思った。でもあんなもの覚えろという方が拷問である。何数学って、何の役に立つの、なんて当たり前の疑問で反抗はしない。むしろ「数学さんがわたしのことを嫌いなんですよ」と真剣な声で語る。いや、だって、テスト前やら予習復習はしっかりしてきた。それでもあの点数。これはもう、いくらが数学に愛を注いだとしても向こうは答える気がないということではないか?
「さん。数学は生き物ではありませんよ」
「お母さんエスパー!!?娘の心を読むなんて!プライバシーの侵害よ!?」
「心なんて読めません。それにさん、何も母はさんが憎くてこのような強硬手段に出ているのではありませんよ」
しずしずっと、目を伏せて諭されて、うっ、とは言葉に詰まった。
「それは確かに…昨今話題になっているという秋葉原に懸想なさるお嬢様方に「え、うちの娘が?」とドン引きしたこともありましたしかし思えば小さなころからキャッキャと脳内のオトモダチと遊んで戻ってこないところがあって「あぁおもちゃがいらなくてなんて助かるの」と放置した母にも責任がありますだからさんが部屋に籠って軽く五時間出てこなくても街で聞いた覚えのない曲ばっかり車の中で流すのも写真よりやたらアニメーションのポスターばかり張ってあるのも十七になるのに殿方と手をつないだ事もなくそんなことより緑川さんなんてよくわからないことをほざいてばかりでも女性なのに何故か少年誌と大々的に歌っているJumpを毎週月曜日になると五時に起床してコンビニに走って買いに行っているのもその雑誌の分別が正直面倒くさいと思うこの母の日々のうっぷんもありますが…そんなことはどうだっていいのです」
ノンブレスで言いきって「どうでもいい」ということはないだろう。たらたらと言われたセリフ全てがグサグサァアッと心臓にクリティカルヒットした。がくっと膝をついて堪えると、さらにその上に母の容赦ない言葉は続く。
「でも二十五点とは何事ですか。赤サブですよ。恥を知りなさい。さん。ついでにジャンプの分別はこれからあなたがやりなさい」
背後で父が「そんなに大変なものなのか?ジャンプの分別」とこそっと、やはり成り行きを見守っている兄に問うている。兄は首をひねって「紐で閉じるの面倒なんじゃない?」と軽く答えていた。なんだかあっちは楽そうである。もそっちにいきたかったが、当事者、まず無理である。
ちなみにほかの教科はよかった。これでも成績は悪くはない。良くはないが。の両親は一応それぞれ医者で兄も現在インターンの身だが、基本的に子供の将来は子供が決める、がモットーの家である。はまだ将来どうなるかなど考えていないが、OLになってまぁ、普通に結婚するんだろうと思っていた。それでいいと、それがいいと納得していた。兄の勉強していた姿を見ていたからわかる。自分の夢をかなえる、目標にたどりつく、ということはとても大変なことだ。
いろんなことを我慢しなければならないし、とても苦労しなければならない。誘惑、がいまの世の中にはたくさんあって、勉強しようと机に座ってもパソコンがあればなんだって出来てしまう。自分の部屋をもらってしまえば、部屋に入ってからは自己責任、まだきちんとした芯もないころにそういう広い世界を与えられて、そこから選別、そのために頑張ろう!なんて強い意志はには持てない。
だから自分は普通の人生、そこそこのものでいいと思っていた。
いや、開き直ったら、人生なんだかとっても楽しくなってしまって、どうせ自分は体験できないのだからとドリー夢小説にハマってしまったりしたが、まぁそれは自然の摂理ということで……。
「悪いとは思ってるよ…次は、絶対こんな点取らないから。だからオタクグッツ没収は止めて」
「さんは一度こちらの世界にきちんと目を向けるべきです」
必死に懇願するに、母は真剣な声で呟いた。
「え?」
「今回のことがきっかけにせよ、いずれはきちんと話し合おうと思っていました。母は心配なのです。さん、あなた、あなたはこの世界でしか生きていられないのですよ」
「そんなの分かってる。当たり前じゃない。私は別に、現実と想像の世界を一緒になんてしない。おかあさんはオタクの世界を知らないから、テレビで問題になることしか知らないから、そんなこと考えるのよ」
そういえば最近、オタクの子供が事件を起こすことが増えてきた。いろんな理由があるけれど、その中で母がぼそり、と呟いていた言葉を今はっきりと、やけにはっきりとは思いだした。
『現実も夢の中も、同じになってしまっているのでしょうね』
他愛もない言葉である。それは精神異常者に向ける、普通の乾燥であった。だがしかし、今それを母が己に向けていることがには信じられない。
ワナワナと震えて、は声を上げた。
「何それ!!おかあさんは、おかあさんは私のことそんな風に思うの!!?」
ひどい、あまりにも、それはひどい言葉ではないか。
あぁいう犯罪者はほんの一握りである。オタクの世界、ネットの世界、ルールだってちゃんとある。礼儀作法をわきまえたものがある。そういうものを知らない人間が問題を起こすのだ。なのに、何もしらない母にそんなことを、言われるのが悔しかった。
「……物語に没頭するのであれば母も経験があります。少女の時分、恋愛小説を読みました。こんな恋がと己を重ねたこともあります。―――どういうわけか捕まったのはアレですが……」
ふぅ、とため息を吐いて背後の父を見やる。びくっ、と父は肩を動かして「え、俺!!?」と驚いた顔をしているが、それはあぁ、どうでもいい。
「本を閉じれば現実の世界に戻ります。それが当然です。ですが、今の世はどうでしょう?まるで今、本当にそこにいるかのようにさまざまな体験ができます。顔を見たこともない人間と、当たり前のように会話ができます。心が、脳がどこにあるかもわからないものに、己の心をさらけ出せます」
言いたいことは、わかる。
両親にも言えないこと、友達にも言えないこと、を、ネットで知り合った人には話せることもある。趣味が趣味であるから、学校内で一緒に語れる人もいない。語れなくても楽しめるが、本当に「ヤベ、楽しいテンション上がるんですけど」ということはあまりない。顔を見た事もない人とでも、本当に楽しく話せる。
「どちらが本当で、どちらが偽りか、己の心が、どちらにあるときが軽いのか、その境があやふやになりませんか。さん」
そっと、母の手がに触れた。びくり、と体を震わせては母を見つめる。
「あなたはここにいるのですよ」
しっかりとした言葉、それは、当たり前のことである。そんなことは、わかっている。今更言われなくても、そんなことは、百も承知のことである。それを、あえて、母がいま、言うことでもないはずだ。は耳に言葉がしみ込んで、そのまま体に行き渡る前に、その手を振り払った。
「さん!!」
「そんなこと…そんなの、わかってる!!!!
ばっと、は後ろに下がった。顔を俯かせ、首を振る。
「そんなの知ってるよ!!!どれだけ夢みたって、本当にはならないってこと、私はヒロインじゃないし、特別な子でもない!!!頭の中では自由にいろんなことができるけど、本当は何もできない…!!そんなの分かってるよ!!!!わかってるのに、どうして、どうしてそういうの!!!」
分かっている、わかって、知って、理解、しているのだ。だが、どうしてそれを母に言われなければならない?己の人生、これまで何か落ち度があったか。特別輝く人生ではなかった。兄のように生まれ切っての天才でもなくて、目立つこともなかった。だが、両親これまでそれでいいと言ってくれていたではないか。「あなたの幸福がわたしたちの幸福」とそう、いつだったか、が私立を落ちて都立に行くしかなくても、それでとてもすまなそうにしたの頭を撫でてそう、言ってくれたではないか!!!
なのに、なのに、なのになぜ!!!
「っ……!!!」
ぶわっと、は目に涙がこみ上げてきた。踵を返して部屋に戻り、手当たりしだいをカバンに詰め込んで再び廊下に出た。母がまっすぐにこちらを見つめていた。
「さん」
「頭を冷やしてくる。今私、ひどいことしか言えない」
カバンをぎゅっと抱きしめて、母の目を見つめた。ひどいことを、口をついて出てしまう。あふれてしまう。母は何も間違っていない。だけれど、でも、今のこの、感情の高ぶった己はひどいことを言ってしまう。それが嫌だった。ドロドロになるものが自分の中に湧き上がる。それを理不尽にぶつけてしまうのはいやだった。だから、外に出る。
すっと、兄が前に出てきた。
「、もう遅い時間だ。頭を冷やしたいなら―――」
「アニキはひっこんでろ」
ぴしゃり、と言ってにらめば兄がちょっと泣きそうな顔をした。それはどうでもいい。
「携帯電話は?」
溜息を吐けば嫌味にしかならないと知る母、一度目を伏せただけでそちらも様々な感情をこらえ、一言問う。
「持った」
「お金は?」
「ある。どっか入ってるから平気」
「制服のままでいなさい。目立つから、警察の方も注意していてくれるでしょう」
わかった、とだけ頷く。母がすっと身を引いた。はその脇を過ぎ、何やら床にのの字を書いている兄は放置、父が何か言いたそうにしたが、それは無視した。
スタスタと階段を下りて靴を履く。動きやすさ重視のはいつもスニーカーである。そのままガチャリと扉を開けて一度振り返った。二階は、ここからは見えない。ぐっとドアノブをにぎる手に力をこめ、一歩前に踏み出した。一瞬ぐらり、と立ちくらみがして体がくずれるが、踏ん張って足を前に出す。
そこは海でした。
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