ザッパーン、と打ち寄せる波の音。ズブ濡れになったはブヘックション、と全く持って乙女らしからぬ野暮ったいくしゃみを一つ、ぶるぶると身を震わせた。
「はは、は、大丈夫か?お嬢さん」
パチパチと燃える暖炉の傍、炎よりももっと真っ赤な髪の、黒い帽子の背の高い人が、片方しかない目を細めて愉快そうに笑いながら問いかけてきた。
花も恥じらう十七歳、井原、現在タオル一枚のマッパです。
夢の海へ!
「さて?全く持って状況がわからないのだがね。卿はどうしてこのわたしの船に乗り込めたのだね。久しく港に停泊はしていない。といって、その間ずっと潜んでいた、というのは考えにくいのだよ」
右目に眼帯をした背の高い人は長い脚を組み替えてゆっくりと問いかけてきた。さきほど渡されたホットミルクに口をつけながら、は何と答えたものかと悩む。
いや、なんと言うか、自分でもよくわからない。
あの時、家の玄関を開けたらこの船の甲板に出たのだ。それで「え?」と戸惑った途端、船が大きく揺れてそのままバランスを崩したは船から落下。叫んだ声が聞こえたのか、ひょいっと海からすくい上げてくれたこの人、この、女性。
なんだかとっても見覚えがあるんですが。
「……あの、その前にひとつご確認させていただいてもよろしいでしょうか…?」
自分の入ってきた扉は、先ほどあけてみたら普通の物置になっていた。ということは、まぁ、そういうことなのだろう。
まさか自分がそういう経験をするとは思っていなかった。いや、本当にこれっぽっちも思っていなかったが、まぁ、水は冷たかったし(心臓止まるかと思った)火は熱いし(何燃やしているのか確認するのが怖いんですが)ホットミルクはおいしい(何かちょっとエグイ気はするけど)から、これは、現実である。つまり、してしまったよ、異世界トリップ。
ヤッタネ☆なんて喜んでもいられない。何しろ、まずここがどの世界なのか知りたい。一応夢トリップの基本はその時そのトリップ主がはまっているマンガだったりゲームだったりとするのだが、今のところのハマっているマンガは銀魂かアイシールド、ネウロ、ナルト、それにワンピースである。
海だからワンピースだろうとは思うのだが、それにはまず、まず、確認しなければならないことがいま目の前にあった。
「うん?なんだね」
目の前の女性。赤に近い髪に、真っ青な瞳。まっ白い肌に、どこか挑戦的な笑みを浮かべる赤い唇。見覚えはある。この人がいるのならここはワンピースの世界なんだろうと一瞬ぼんやり思った自分もいた。だが、しかし。
「いや、その……なんであなたがここにいるんでしょうか…パン子さん」
パン子さん、といえば、目の前の女性。どう見ても、いや、どっからどう見ても、とあるサイトさんのところのヒロイン、ノリノリでドSな外道ヒロイン、パン子さん(いや、どっちかというとトカゲさん、と言うほうが今は馴染んでいるけれど)ではないのだろうか。
「……不審者に、まさかそう聞かれるとは思わなんだが……」
その、どっからどう見てもパン子さんは、面白そうに笑ってから目を細める。
「それにわたしの名はそのような気合いの入らぬものではないよ。わたしの名はイヴ・イヴェン。この船、カルミナ・ミラーナ号の主で、たった一人の船員、イヴェン船長だ。わたしがここにいるのは道理だと思うのだがね?それはわたしだけの偏見か?」
ゆっくり椅子にもたれかかる。その傍らにはがこれまで映画や写真でしか見たことのない、西洋の騎士が持っているような装飾の多い剣があった。
イヴ・イヴェン船長。
初めて聞く名前である。もちろん、名前変換して読んでいたパン子さんのノリノリ赤旗イジメの夢小説であるから、変換前の名前がこれなのかもしれない。だが、確か違ったような…。だいたいあそこの管理人さんの小説、名前変換が結構ずさんだったので時々できてなかったり、正直本名で入れたのにあだ名のところしか常用じゃなかったりでそれってどうなんだとおもわなくもないが…まぁ、それはどうでもいい。
とにかく、ではこの女性。どう見てもパン子さんにしか見えないのだが、パン子さん…ではないのか?
「う、海の魔女だったりしません?」
「ふぅん?よく知っているな。なんだ、卿は賞金稼ぎか?わたしの手配書を見て首でも狙いにきたか」
「手配かかってるんですか!!?」
今度こそ本気で驚いた。いや、あのパン子さんに手配書……見てみたい気もするが、どこの世界にそんなおっかないことができる人がいるのだろう。
海の魔女、というのはあたりらしい。ではやはり、パン子さんなのではないだろうか……?
「卿が何を問いたいのかよくわからないのだが」
「あ、すいません。あの、ですね…えっと、信じてもらえないかもしれないんですが。というか、本当じぶんでもびっくり体験してるんですけど」
「さっさと話せ」
「ハイ。えっと、私は別の世界から来ました☆」
ザッパーンと波の音がよく聞こえる。
ぶはっと、パン子さん(っぽい人)は声をあげて笑った。おかしいらしく、パンパン、と膝を叩いて、そしてふぅっと息を吐く。
ひどくね?
その反応ひどくね?と、ぼそりと思わなくもない。自分、ちゃんと前置きをしたんだから、笑うことはないだろう。
むっと眦を上げると、その前にパン子さん(っぽい人)が立ちあがっての首を掴んだ。
「なっ」
「お前、死人だな」
触れたパン子さんの手は冷たい。海に落ちて震えていたの方が冷たいはずなのに、その手はぞっとするほどに冷え切っていた。
まっすぐにパン子さんの目がこちらを見つめてくる。深い深い海の色。この色はどんな色なのかと文を読むたびに想像していたが、正直、こんな暗さを持っているとは知らなかった。そんなことは書いていなかった。
パン子さんはを見つめたまま、目を細める。言われた言葉がよくわからない。
死人?私が?
「あぁ、そうだ。卿、お前、お嬢さんは死んだのだよ。おそらく本来いた世界とやらでね。事故にでもあったか?」
「そんなはずない、だって私、普通に家を出ただけだもの」
「では突然死だな」
扉を開けた途端、確かに一瞬、めまいのような、立ちくらみはした。世界は一瞬暗くなった。だがとどまって、自分の意思で家の扉を出たのだ。そこまではっきり覚えている。
「その時に死んだのだよ。お嬢さんは亡くなった。だから今、この船にいるのだろうね」
「……」
淡々とパン子さんはほほ笑んで語る。まさか、そんなこと、との頭は真っ白になった。
「だって、だって!!カバンだってあるし…!!さっきからちゃんと感覚だって……!!」
「死んでこちらの世界に来たのだろう。お嬢さんのその体は人間のものだよ」
そういうこともあるのだと言ってから「理解したか?」とあっさり問われる。はすとん、と、床の上に座り込んだ。絨毯の毛の柔らかさもありありとわかる。
自分は、死んでしまった?
あの時あの場所で、あの、あの、状態で?
母と交わした最後の言葉はなんだっただろう。父はどんな顔をしていたっけ。兄は…まぁどうでもいい。けれど、しかし、いや、あんな、あんなのが、最後?
「嘘よ……」
「私は戯言は申しても嘘は言わぬよ。お嬢さん、名前は?」
すっと、パン子さんがこちらに手を伸ばしてきた。白い、魚の腹のような手。指輪がいくつも付いている。きらきら暖炉の光を受けて、真赤な宝石が光輝いている。はのろのろとその手を取った。
「……井原、」
「そうか、。良い名だ。親の愛がよくわかる名だ。愛されていたのだね」
「……」
じわり、と眼に涙がにじんできた。死んでしまったなど、信じられない。自分はこうして、こう、こうやって今、ちゃんと話している。ちゃんと、息をしているのに。死んでしまったなんて。どうして。
取ったパン子さんの手は暖かい。やさしい言葉、なのだろうか。何を言われているのかすぐには判断できなかった。どういう意味なのか、よくわからなかった。それでも、しかし、それでも、自分が死んでしまったなどとは思えなかった。
ただパン子さんの言葉に頷いて、は手を握りしめた。
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