「おい、もっと急がねぇと朝になっちまうぞぃ」
ガチャガチャと隣のシンクで大量の泡を出しながら、妙な語尾を付ける、妙な頭の人が言う。親切なのか何なのか、と一緒に食器洗いをしてくれているのだが、なんだかものすごく、機嫌が悪そうで怖い。
というか、なんでこんな状況になっているのか。
皆さん、お元気ですか。井原です。
現在白ひげ海賊団で皿洗いしてます。(シクシクシク…)
夢の海へ!
「しょーがねぇだろぃ。親父とイヴェンが決めちまったんだ。なるようにもならねぇだろうが、まぁ、しょうがねぇよい」
「そ、その説得で納得できると思うんですか…!?えっと…マル子さん」
「なんか発音がおかしくねぇかよい」
気のせいです、と言いきってはきゅっきゅと皿を伏せた。
どういうわけか、いや、本当どういう展開なんだろうこれは。イヴはせっかく来たのだから夕食くらいは馳走しろとのたまい、それで、「働かざるもの食うべからず。うちの子を雑用に仕え」と容赦なく差し出しやがりました。
どう見ても一般人、どう見てもひ弱なにさすがの白ヒゲも「雑用もできねぇだろ」と呟いて、最初はナースのお姉さんがたのお手伝い、次に甲板の掃除、をそれぞれしたのだが。
いやぁ、あはははは。家でも手伝いなどめったにしなかった。カルテを書き間違えるは違う点滴渡しそうになるは(は白ひげを殺しかけたという伝説をもらった!)甲板からころがり落ちそうになるわで本当「無能!」のレッテルを貼られてしまった。
イヴはそれを面白そうに眺めているだけで全く手伝いをしてくれない。
「働かざる者食うべからずって……パン子さん…イヴさんはいいんですか…?」
ぼそり、と呟くと、皿を拭いて棚にしまっていたマルコが振り返った。
「あの人に何かさせるなんぞ無理だろうよい」
「確かに」
「それに親父の古い知合いだ。客としてもてなすしかないだろい」
白ヒゲと古い知合い…。そういえば、この世界のパン子さんはいったいどういう人物なのだろう。こうして離れて見て、少し気になった。
「あの、マル子さん」
「だから発音おかしくねぇかい?」
「気のせいです。(きっぱり)そんなことより。イヴ・イヴェンさんって海賊なんですよね?」
「あぁ。もうずっと古い海賊だよい」
古い海賊。それはどれくらい前なのだろうか。
「一緒にいるのに知らねぇのか?」
「はい。ドSで鬼畜でノリノリな人としか…」
それもこちらで完全一致するというわけではないらしい。妙に親近感がわくからあまりあれこれ問わなかったのだが、そういえば、こちらのパン子さんに対して自分が知っていることはほとんどない。
マルコはふぅん、と相槌を打って、とん、と、樽の上に腰掛ける。
「あの人は魔女だ。ずっとずっと昔からいる黒い海賊団の、たった一人の船員の、船長だい」
■
コツン、とチェスの黒い駒を動かして、イヴは白ひげを見上げた。ずいぶんと年を食ったものだと時代の流れの速さに驚く。まだ自分には、鼻をたらした悪ガキだったエドワードがつい昨日のように思い出されるのに。
「どういう風の吹きまわしだ?」
イヴの動かした駒を奪い、エドワードはぐびっと、傍らに置いた酒瓶を傾ける。同じようにイヴにも酒が容易されているが、手をつける様子はない。
「なんだ。エドワード」
「お前があんななんの変哲もないガキを連れて歩いて、面白そうに眺めてる。いつからそんなマトモな生き物になったんだ」
「明後日から」
「口の減らねぇ……」
ふん、と鼻を鳴らしたのはどちらか、イヴは目を細めて盤上を眺めた。
「腕、上がったな。エドワード」
「まだまだお前にゃ勝てねぇがな。結局勝てずじまいか」
さらさら流れる音が聞こえる。カモメの鳴く声が遠い。エドワードは顎で船内を差した。あの娘、あの小さな子供。イヴ・イヴェンが連れてきた子供。どう見てもただの子供である。だが、イヴが連れてきた。その事実が、エドワードには面白い。
目の前にいる、この女は間もなく死ぬのだということを、なんとなしに悟っていた。まさか、千年以上を生きる魔女が、自分より先に死ぬことがエドワードには意外だった。幼いころから、海賊が、海賊であると知られる前から、海をたった一人でさまよっていた「海の魔女」今の時代でさえ最速を誇る「カルミナ・ミラーナ号」の船長。
海賊たちの間では言い伝えであり、しかし、事実存在する、生きた伝説。最初に出会ったのは、エドワードが初めて海でおぼれた時である。まぁ、それはもうどうでもいいが。
「本当に死ぬのか?イヴ・イヴェン」
「嘘は言わないよ。私は」
コツン、と、エドワードのビショップが奪われた。相変わらず、良い手ばかりを繰り出してくる。この女がもし、本気で海を制そうと、あるいは海軍にでも身を置けば、世界はどうなっていたのだろうか。時折そんなことを考えしかし、埒もないとすぐに止める。
この女、この、千年を生きた魔女は、間もなく死ぬそうだ。
■
「千年も生きてるって…それ、何のオカルト話ですか?」
マルコから説明を受けて、は素直に信じなかった。だが、事実だというマルコ。きゅっきゅと、再度皿を磨く。冗談が言えるような男ではないというのはの目にもわかった。なんというか、死んだ魚みたいな目をしているから、マルコ。
「海にいる海賊はみんなあの人を知ってる。会ったことがあるってのは一握りだがな。海の魔女、伝説の黒い海賊団の船長。死んだ海賊はみんなあの船に乗るって話だ」
「……死んだら?」
耳に引っかかる、その言葉。そうだ、こうして普通に、当たり前のようにこうして、自分は今何か触れて、息を吸っている。だが、死んでしまったのだ。だから、この世界にこれたのだとパン子さんは言った。それはもう、あの世界に、もといた場所には戻れないということか。
まだ、正直なところ実感がわかない。それも当然だ。意識は変わらず、突然目の前の映像が切り替わっただけ。そんなので、自覚しろという方が無茶である。
だが、しかし、だが、こうして今自分はワンピースの世界の人物と口をきいている。話している、こうしてやりとりをしている。マルコという人物はそこまで好きではなかったから(失礼)まだやはり、そちらの実感もないのだけれど、こうして、揺れる船の上にいるということが、まだ信じられない。
(本当に、私は死んでしまったのだろうか)
ぴくり、との手が震え、持っていた皿が落ちた。
「あ!!す、すいません!!」
ものの見事に落下して、やはり当然のように割れた皿。とっさに拾おうとしゃがんで、これまた当然、指を切った。痛い、と手を引っ込めて、は眉をしかめる。血が出た。真赤な、血。痛かった。
「…おい、どうした?」
じっと動かぬの背にアルコが問いかける。皿が落下して、指を切ったまでは傍観していたが、そこから動かぬので首を動かす。
「……マル子さん」
「だからやっぱり発音おかしくねぇかよい」
「それは気のせいです。あの、私はここにいますか」
「あ?」
不思議そうな顔をこちらに向けて、マルコは眉を寄せた。は真剣に、真っすぐに見つめた。マルコ、マルコ、白ヒゲ海賊団の一番隊の隊長殿。ワンピースの漫画の中ではまだそれほど出番があるわけでもなかった。けれど、彼はここにいて、ちゃんと、存在しているのが当たり前だ。彼がこの世界にいる、いて当然だということは、はっきりしている。
けれど、自分は?
パン子さんにただ連れられてここへ来た。もしも、パン子さんと出会わなければどうなっていたのだろう。ただ、見慣れぬ場所、見慣れぬ街で、見知らぬ人に交じって生きていくことになったのだろうか。世界は広い、とても広い。この世界に、がちゃんといる、なんていう証明は、どうすればいいのだろう。声を大にして叫べばいいのか。そうしたら誰かの耳に入るのか。聞こえた人がの存在を肯定してくれるのだろうか。ここにいると、安心させてくれるのだろうか。
「じゃあ俺は独り言かよい」
「いえ、そういう意味ではなくて」
「ここにいねぇわけがねぇだろい。お前がいるから俺がここにいて、だからこうして喋ってんだろよい」
何を問うてくるのかと、不審がるマルコ。わけのわからぬことを聞かれたと、眉を寄せてコツン、との額を小突いた。
目を見開いてはマルコを見つめる。死んだ魚のような眼をした男の人だ。全体的にやる気というものがかけらも感じられない。だらっとした様子、けれど、不思議そうに眉を寄せて見下ろす、その眉間に寄った皺の影が、には妙にうれしい。
「何笑ってるよい」
「いえ、別に」
「変な女だよい。指、貸せ」
が返事をする前に、ひょいと、手を取られた。マルコ、慣れた様子でじゅっと血を絞り出し、ぺろりとその傷口を舐めた。
「……い、いぎゃぁああぁああぁあああああぁぁああ!!!!!!」
の絶叫がキッチンによく響いた。
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