おや、と、イヴは眉をはね上げた。

船が海軍に囲まれている。それは別にどうでもいいのだが、この船がそういう強硬手段に取られるなどということがあったことに驚く。

賞金がかかってはいるものの、別にイヴ、何か罪を犯した覚えはない。いや、400年前にちょっと国をひとつ滅ぼしてしまったけれど(若気の至りということで)別にその時に賞金をかけられたわけではない。今世に出回っている手配書とて、最初に手配されたのは200年前だ。もう無効じゃね?と思っていたのだけれど。

「抵抗はするな!海の魔女!連れの少女の身は既に我らがあずかった!!」

こちらに向かって何か叫ぶ、将校。准将か何かだろうというのは格好、気配でわかる者。

、あの子が捕らえられた?

イヴは目を細めて、ついっと、指を動かした。おや、確かにそのようだと確認が取れるのは魔女ゆえのこと。それはどうでもいい。しかし、まぁ、迂闊だったのだろうか。

コツン、と、イヴの背後で足音が一つした。

「!!?」

それと同時に、イヴの体が壁に蹴り飛ばされたのはほとんど同時のように聞こえた。



夢の海へ!




容赦がない、というのはまさにこのことかと、イヴは感心した。噂に聞く絶対正義の体現者。よくもまぁ、ここまでできるものだと手を叩いてやりたいもの。

カルミナ・ミラーナ号。現在ものの見事に海兵海軍軍艦に取り囲まれて身動きがとれない。それはいいのだけれど、こうして、目の前に相対した男、海軍本部の大将殿、赤犬、サカズキと、結構本気のドンパチである。

イヴは腰の剣を抜き放ち、こつん、と、刃を床にあてた。
先ほど蹴り飛ばされた衝撃で、アバラが数本いってしまったが、それはそれ。この程度はどうということもない。

「……なぜ、本気で向かってこない」

その様子が分かっているからこそ、サカズキ、目を細めて苛立たしげに呟いてきた。昔の帽子にフードの格好はなんだったのかと突っ込みを入れたくなる、今は赤系のスーツに軍帽の、偉丈夫。厳しく顰められた顔がこちらを睨みつけてくる。その堂々とした覇気にくらくらとした。

海軍本部が誇る最高戦力、大将赤犬サカズキ殿のご登場。

しかし、イヴは、サカズキとやりあっても、こちらから決定的な一撃は加えなかった。それがはっきりとサカズキにもわかるから、その理由、を問う。

「愛しているからだ、なんて楽しい理由じゃあないよ」
「そんなことは百も承知じゃ。―――何ぞ企んどるんか、海の魔女」

まっすぐに、真っすぐに、サカズキの目がこちらに向けられる。イヴは目を細めて、小さく首を振った。

「なぜいまさらわたしを捕えに?」
「白ヒゲとの接触を図ったおどれを政府は危険視した」

なるほどとは頷ける。確かにそうだろうとは思う。これまでイヴ、海賊行為などしたことがない。ただ、ずっと昔から海を生きているというだけ。伝説だなんだと言われても、ロジャーやエドワードのしたことに比べれば、ただ長生きしたという程度の伝説である。

しかし、厄介な生き物であることに変わりはない。それが不問にされていたのは、基本的にやる気がなかったからだ。ただ海をさまようだけだった。このイヴ・イヴェンをどうにかしようとしたのなら、ちょっとばかり、世が揺れるくらいの戦力は必用になるとは周知の事実。だから、放っておかれていたのだがさすがに、白ヒゲとの接触は、世界的にはまずかったか。

「その上、おどれの今の進路の先には赤髪がいる」
「何、少々フラグを立てにな」
「わけのわからんことを。おどれを捕える。絶対正義の名のもとに」

きっぱりと言い切ったサカズキに、イヴはため息を吐いた。まぁ、そうなるだろう。だが、ま、結果オーライとでもいうのだろうか?

「わたしの連れの少女、あれは海賊でもなんでもない。見目が良いゆえ連れていただけだ。逃がしてやっくれないか」
「おどれと共にいたという事実がある。このわしが逃がすと思うのか。悪の可能性は、根絶やしにせにゃぁならんじゃろう」
「は、はは。それを、卿がいうのか?」

ぴくりと、サカズキの指先が神経質に動いた。それを悟らぬイヴではない。ため息を吐き、ひゅっと、剣を捨てた。イヴ・イヴェンが誇る剣はセラフィタの剣。何ものをも切り裂くといわれる剣を放棄すれば、サカズキが眉を潜める。

「何のマネじゃ」
「わたしは今日、終わると決めていた」
「……何?」
「私は今日、この世界から消える。その時に、それは、お前がいいと思っていた」

言った突如、がっ、と、首を掴まれ、そのまま壁に叩きつけられた。げほりと血反吐を吐いて、イヴは、己を見下ろす赤犬を見上げる。真赤な目だ。赤い、赤い、どこまでも。赤い目。その目に込められた感情が何なのか、悟れぬほど小娘な心は持ち合わせていない。

イヴは笑った。ほほ笑んだ。それを見て、赤犬がぎりっと、奥歯を噛み締める。

「おどれが死ぬ?バカなことを……!」
「いいや。終わるのだよ。きれいさっぱり、然様ならをするのだよ。海軍本部、大将赤犬どの。わたしは今日で終わる。この海から消えてなくなるのだよ」

そういう風にできていると、きっぱり言った。赤犬の唇が険しく結ばれるのを、イヴは心地よいと眺められた。

それでもまだわからない。
わたしはこの男を愛していたのだろうか。

、あの子にあえてよかった。本当にそう思う。あの子は、イヴに教えてくれた。“リノハ”というものが、サカズキに思い、思われていること。こちらの世界とは少々勝手も違いそうだが、そこに、己の姿に酷似した女が、やはり、ちゃんと幸福であること。それを知れた。

(わたしは、あまりに長くを生きてしまった)

果てしない時間だった。あまりに長い、長い、時間だった。たった一人で海を生きた自分が、ただ一度だけ、得たいと思ってしまった幸福は、とても、とてもひどい結果を生んだ。だからこそ、悔いてきた。だから、もう何も望めぬとあきらめてきた。

あの娘が、あの、は、幸福の香りを運んでくれてた。

それで十分だ。

「だから、さぁ、ここでわたしの首を落としてくれ。できない、なんて信じないよ。今日この場でわたしがお前に殺されなければ、わたしは本気で海賊になる。海を荒らす。だから、さぁ、サカズキ。大将殿。卿の正義は、わたしを許しはしないだろう?」

手を伸ばせば、びくり、と、震えた。
それが、イヴにはいとしい。こんな風に感じる心を自覚できる、それだけで己は幸福であったと、本当に思えた。

「イヴさん!!!!」

目を閉じた耳の奥で、の声が聞こえた。











目の前で、見知った人が切られた。

容赦なく、横なぎになった刀で首を刎ねられた。一刀のもとに人を打ち首にするのはとても大変なんだと、映画を一緒に見ていた、医者の父が言っていた。

(そうだ。切られたら、血が出る。止血、しなきゃ)

捕えられた後、はカルミナ・ミラーナ号に連れていかれた。そして、戦いの後らしい甲板にあがり、そこで、その、途端に目にした。

「……イヴ、さん?」

唖然とする。ごろり、と転がった生首。真赤な髪に、白い肌、青い瞳は、閉じられている。しかし、その首、その、まぁるいボォルのような、もの。それは先ほどまで、ほんの少し前まで、自分を見下ろして微笑んでくれていた、人のもの。

「イヴさん!!!!!」

は己を掴む海兵の腕を振り払った。ここへ連れてこられるまでもさんざん抵抗し、その時はびくりともしなかった戒めは、ばちり、と激しい静電気のようなものがはじけて解けた。ざわめく周囲の音は知らない。そのままかけて、イヴの首を抱き上げる。

不思議と、怖くはなかった。

「……イヴさん……!!イヴさん!!!イヴさん!!!」

だらだらと、赤黒い血が流れる。の制服を真っ赤に染める。呼んでも答えるわけもない。けれどは叫んだ。己にこんなに大きな声が出るのかと、驚くほどに叫んだ。

「……貴様が、イヴの連れていた娘か」

閉じられた眼、ぽろぽろとイヴの目から涙があふれていく。あまりに、あまりにも、あっさりしていないか。どうして、なぜ、こんなことになったのか。はわからない。何も分からず、なぜ、ただ、イヴの首が、刎ねられたのか。

疑問に、悔いに、ぐるぐると回る脳に冷水のように浴びせられた声、はっとして顔を上げる。

「……赤犬、サカズキ」

目深に被った帽子にフードではない。けれどわかった。御立派な、海軍将校のコートの、長身の男性。見降ろされ、びりびりと、圧迫感があった。

その姿を見たことはないが、これが赤犬なのだとはっきりわかる。その手に握られた、イヴの剣にはカッと血が上った。

「あなたが……!!!おまえが!!イヴさんを!!!」
「……」

歯をむき出しにして叫ぶ。ガジッと噛み締めた奥歯から血が滲んだ。イヴの血のにおいで咽そうだったから、それ以上の血があったところでなんであるか。

下から鋭く睨みつけると、サカズキがすっと、片膝をついた。その手がに伸ばされる。びくり、と震えそうになる体を押えこんだ。

「そうだ。わしが殺した。わしが、首を落として、この魔女を殺した」

サカズキの手がの頬に触れる。手袋をはめたままだというのに、その手は熱かった。逆行で表情は見えない。はその手を払った。

「なんで!!どうして!?どうしてイヴさんを!!!」

イヴさんは、海賊だったのか。いや、だが、何か問題を起こしているという様子はなかった。湊にだって普通に停泊していたし、何よりもまず、海賊旗を掲げていたわけではないだろう。船員だっていない。賞金は掛けられている、といったが、しかし、にはどうしても、海賊だからイヴ・イヴェンが殺されたとは思えなかった。

「絶対的正義のためじゃ」

はたき落とされた手を握りしめ、サカズキは答える。は眉を寄せた。

「正義……?」

この世界の正義について、真剣に考えたことはない。
の生きてきた世界には、正義という名詞はあっても、その言葉たるモノはなかったように思える。慈悲や、慈愛はあった。偉人や有名人の話などで、人の優しさ、そのゆえの行いが残ることはあった。だが、正義はあっただろうか。

正義は、優しさとは違うのだと以前兄が言っていた。なんでそんな話をしたのかは覚えていない。だけれど、信号で立ち往生している老人を助けるのはやさしさで、それは正義ではないという言葉で、では正義って何だと話して、結局何も答えが見つからなかったのを覚えている。

正義は、ないのではないか。

はそんな風に思う。

ワンピースの世界の正義は、どうなのだろう。漫画を読んでいくにつれ、世界政府は、あれ?正しいの?という意識になってきていた。ルフィたちに視点があてられているからなおさら、敵方である海軍・政府はそういう風に思える。だから、その、海軍・政府の掲げる正義は、ただの言葉、ただの、大義名分、免罪符にしか思えなかった。

「……そんなもののために、イヴさんが死んでいいものか……ッ!!!」

は吠えた。途端、ビュウッと、風が吹き起こった。

「!!?」

の身を中心に湧き上がる風、その勢いにサカズキが腕を前にやって身を守る。突風、つむじ風、かまいたち、ヒュンヒュン、と、奇妙な音がした。

何かの裂ける音、うわぁっと叫ぶ海兵の悲鳴も聞こえたが、にはそんなことはどうでもよかった。

風が吹くに身を任せて、ふわりと、体の力を抜く。すると風がの体をマストの上に押し上げた。

トン、と、マストの上に足をつけ、はサカズキを見下ろす。

「毎朝毎晩空に海に向かってあなたへの呪詛を吐いてやる」

洩れる声は、己でも信じられないほどに冷たく、重い。氷の上を這うような、仄暗い悪意のような声だ。は腕に抱えたイヴの首を一瞥し、目を閉じる。

憎悪が、敵意があふれてくる。憎い、憎い、と、サカズキを想う。強い感情だ。これに押しつぶされてしまうのが、心地よい。

「……貴様、そうか。イヴの血を飲んだな。おどれ、魔女になったのか……!」

サカズキの目が細くなった。ゴキッ、と腕を鳴らし、姿がかき消えたと思った刹那、の耳元で電気のはじける音がする。は腕を延ばして電の縄に絡め取られているサカズキの頬にそっと触れた

「今はまだ、私には力が足りない。だから、だから、逃げます。逃げて、逃げて逃げ延びます。せいぜい高みで見下ろしていてください。せいぜい正義を歌ってください。私は、貴方をそこから引き摺り下ろします」

サカズキは何も答えなかった。激昂、する様子がない。は、しかし構わなかった。

「正義の所在を問いに行きます。あなたに正義があるのか、貴方の正義がどんなものなのか、問うて、そして裁けるだけのものになります。私は、貴方を許さない。あの人を殺すことが正義なら、そんなものはいらない。私はそんなものを正義とは呼ばない。それで、私が悪になるのなら」

ゆっくり、ゆっくりと、言葉を吐く。

「私は、魔女になる」

激しい感情が体の中に溢れていく。それらを受け止めて目を伏せ、は小さく唇から洩れる歌を口ずさんだ。

「さようなら」

火柱が、船全体を包み込んで空へ向かって上がった。



Fin



(2009/4/6 22:40)