真っ黒な猫
公園で猫と目が合ってしまった。酷くやせ細った猫で、ちょうど真田弦一郎は幸村の病院へ見舞いに行く途中。手には幸村への手土産として買った菓子パンの袋。じぃっとこちらを見上げて動かない黒猫は真田を見て鳴いた。仕方なくパンを一つとって少し先に置いて見ると黒猫が恐る恐る口をつけ、むしゃりと食べた。もう一度こちらを見上げる。取らないから食べろ、というと猫はがつがつと一気に食べてしまった。そんなに急いではむせてしまうのではないかと心配になるほどの勢いだった。
猫をじぃっと見ていて誰かに似ている、とそう思った。この生きることに必死な姿、誰かを思い出す。誰であったか、と考えて真田はすぐに「だ。だ」と思い出した。
真田にとってという存在は強烈に意識に焼き付けられている。
何しろ4月には青春学園のテニス部にいて真田がライバル視した越前リョーマと並ぶ青春学園の一年生レギュラー、であったのに一学期も終わらぬうちに氷帝学園に転入、jr選抜では堂々と氷帝レギュラーの一人として合宿参加をし、さらには真田の所属する立海大テニス部の部長である幸村と兄弟(一ヶ月間の親の再婚でそうなったらしい)である、なんてどんだけ盛り込んでるんだお前という情報を聞けばさすがに意識する。
その、真田の印象ではとにかく生き急いでいる。よく食べよく寝てよく動く。元気溌剌、というよりはいつも何かに飢えているような「餓鬼」という言葉が適切だった。
(はこの猫によく似ている)
そう思いながら猫を見守る。一体どのくらい食べていないのだろう。見たところまだ生後一ヶ月程度か。こんな小さな命を見捨てる人間がいるということを考えるとどうもやるせなくなってしまう。しかし、だからといって自分がこの猫に手を差し伸べられるかと言われればそれはできない。家には池があり、祖父の可愛がっている鯉がいるのだ。猫など飼えるわけががない。
「のぁー」
猫が鳴いた。少し奇妙な鳴き方だった。腹が減った。と言われた気がしてもう一つパンをやってみる。地面に置く前に近づいてきて真田の手から食べた。今度は少し落ち着いて食べている。それに少し安心した気がした。そのまましゃがんでいると猫が一度鳴いた。拾ってやれればと思う。
「いや、だがそれはできん。すまないが、拾ってやることはできんのだ。お前もこうして野良の身になったのならば覚悟を決めて立派に生きてくれ」
真田は猫相手にも全力である。真剣に目を合わせ諭すが子猫に言葉が通じるわけがない。だが拾えないという現実をどうすることもできず、真田はただでさえ普段から寄っている眉間の皺を深くした。
そうしてじっくり悩んでいると、ぽつり、と目の前に雨が落ちてきた。空を見上げれば曇りになっている。そういえば午後から雨が降ると予報でやっていた。幸い傘なら持っているのだが、目の前のこの小さな命はどうなるのだろうか。
「…だが飼えんのだ!」
「真田くん公共の場で何してるの?」
すまない!と断腸の思いで拳を握ると、後ろからカックン、と足を蹴られた。
「!」
「セイちゃんのお見舞いに来たんだろうけど、病院の途中の公園で何してるの?って、あぁ、猫か」
振り返れば特長的な白と黒の頭に小さな背、氷帝学園の男子制服に身を包んだが立っていた。手にコンビニの袋を下げているが幸村への見舞いの品だろう。病院から気軽に出歩けない義兄にコンビニの新商品を持っていくのがなりの優しさらしかった。
は真田の足元を見、一人で頷いてから眉を寄せる。
「なんか似合わないね、真田くんと子猫って」
「いきなり失礼なやつだな」
「子猫が似合うのはぼくみたいな美少年さ」
言ってひょいっと子猫を抱き上げる。真田は中途半端な憐憫からかもしれないが猫を見捨てることができず、しかし触れればいっそうその思いが強くなると思って触れられなかった。それをあっさり抱き上げ、は子猫に鼻を近づけると「うん、臭いしノミもいるねぇ」とにこにこと笑う。
「おい、不衛生じゃないか」
「平気だよ。真田くんは心配性だね」
「捨て猫だぞ」
眉を寄せるがは問いあわない。こういう奴だと諦めてはいるがため息を抑えることはできなかった。猫は不思議そうにを見上げている。
「かわいい」
白い指で猫の頭を撫でると猫は気持ちよさそうにのどを鳴らした。優しい人間というのに動物は敏感なので早速心を開いたのかもしれない。しかし、真田はこの猫を、さてしかしどうするか、何も状況は変わっていないと改めて考える。さきほども考えたとおり家では飼えない。
「、お前の家は」
「ぼくんちは飼えないよ」
「…そうか」
「きみんとこの部室で飼うとかどうだろう」
「バカを言え」
顔を顰めこつん、との頭を叩く。そんなことができるわけないだろうと念を押し、猫を抱くを見下ろす。と、雨がぽつりぽつり、とよく落ちてくるようになった。はにこにことしたままである。コンビニのビニールは下げているが学生鞄も見当たらない。傘は持っていないのだろうと判じて真田は折り畳み傘を開き、を入れた。
「ありがとう、真田くんは優しいね」
「自分だけ入るような狭量な人間ではない」
「それじゃあペイフォワードだね」
と、聞きなれない単語を言われた。横文字はどうも苦手で真田が「なんだそれは?」と問うと、はころころと笑った。笑うと猫のようである。
「助けてもらったらひとつ、誰かを助けるんだよ。優しさをひとつ、次に渡す。そうするとね、世界はとても優しくなるんだっていう、キャサリン・ライアン・ハイドの小説でね」
「一日一善ということか」
「ちょっと違うけど、まぁいいや」
言っては自分のブレザーを脱ぐとその中に子猫をくるんと包んだ。首は出るようにしているので呼吸は可能である。
「この子はぼくが責任を持って里親を見つけるよ。最悪うちの部室で飼うって方向もありだし」
「跡部が許可するのか?そのようなこと」
「今更跡部くんが常識的な発言をしたらぼくは笑うよ」
何気に失礼極まりない言葉だが、真田も氷帝学園の跡部については一寸「常識はどこへいった」と思わなくもない。
黙ってしまうとがころころと笑った。そうしてコンビニの袋をこちらにぐっと押し付けて自分は傘から出る。
「?」
「病院、セイちゃんによろしくね。さすがに猫を連れて病室には入れないし、一度この子を動物病院に連れて行かないとだしねぇ」
言ってそのままスタスタ、と行ってしまう背。いや、待て、と真田はその肩を掴んだ。傘の礼に猫の里親を探す、というのなら濡れて行くべきなのは自分ではないのか。
「傘を、」
「濡れ鼠で病院に入るの?セイちゃんに風邪うつさないでよ」
「俺は雨に打たれるごときで風邪を引くような軟弱な身体ではない」
「気合でどうにかなるものだっけ?まぁ、そこは人として引いとこうよ」
ころころ笑い、こちらが押し付ける傘を受け取らぬに真田はぐいぐいっと傘を押し付ける。猫を抱いているの腕を掴んで無理やり持たせることはできない。だから受け取ってくれとこちらが意地を張るしかないのだ。無言で押し付けていると、なぜか急にが「ははっ」と声を出して笑った。
「なんかこういうシーン、覚えがあるなぁ」
「なんだ?」
「カンタくんがさつきちゃんに傘を押し付けるんだよ。真田くんはカンタくんほど無口じゃないけどね」
「誰だ?それは」
問えばが首を傾げた。そういう顔をされても真田はカンタなどという知り合いはいない。ブン太ならいるが、無口ではないだろう。不思議そうにしているとが「ジブリを知らないなんて本当に日本人!?」となにやら失礼なことを言ってきて、そしてため息を吐いて傘を受け取って、そして「まぁ、ありがとう」とおざなりな礼の言葉を残していった。
真田は自分の意地が勝ったのだが妙に釈然としない思いがして、幸村の病室に行くなり同級生に「カンタとは誰だ?」と問うて「お前んちおっばけやーしき」と返された。
Fin
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