あなたが笑ったり転んだり、大きく驚いたときに

 

 

 

 

 



真夜中のテニスコートの真ん中で白いものがぽつん、と立っているのを見かけてしまえば一応健全な男子中学生として柳生比呂士は「幽霊でしょうか」と、実際のところそんな予感は欠片もないくせにもしかしたら一寸のドキドキ体験、なんて気軽い調子で確認せずにはいられなかった。いや到来の彼の気質としては真面目生真面目紳士的。幽霊疑惑を確認しようと冒険心に溢れる男ではない。だがしかし立海大テニス部に所属しコート上のペテン師こと仁王雅治と組むようになってから彼当人の意識せぬ部分、仁王の悪戯好きという性質が知らず知らず染み込んでいるらしかった。

それ柳生がゆっくりそっと、と、日中は明るく輝くテニスコート、ひっきりなしにボールの飛び交うその場所が、今現在はすっかり沈黙し「まるで別の場所のようですね」と呟きながらもフェンスに近づき、そして一寸方眉を跳ねさせた。

さん?」

おや、と確認するよう眼鏡をクイっとやって柳生は濃ーとの真ん中にぽつん、と立つ白いもの。というより、頭の半分だけ白い妙な髪形をした下級生の名を呼んだ。

「うん?あぁ、紳士くん。何してんの?」
「それは私のセリフです。……一体、そこで何を?」

下級生、であるが敬語も「先輩」という敬称もつけぬを別段柳生は咎めない。自分と同じ立海大男子生徒の制服に身を包んだはぼんやりとした顔でこちらを眺め首を傾げている。

「え、僕は見てわかるでしょ」
「真夜中のテニスコートの真ん中にいるその理由を聞いているのですが」
「じゃあ君が深夜の学校に制服姿のまんま戻ってきた理由を教えてよ」
「明日提出のプリントを部室に忘れてしまったので、取りに戻ったのです。学校側には電話で入校許可を頂いております」

そしてプリントは回収いたしました、と鞄を指すと何が面白いのかが「紳士だなぁ」ところころと笑った。笑うと猫のようである。僅かな明かりでぼんやりと見える小さな体。まだ夏の口とはいえ夜ともなれば風が冷たい。それであるのに半袖一枚でいることが柳生は気がかりで、自分が持っているブレザーを(柳生はいつでもきちんと正装であるブレザーを持ち歩いている)の肩にかけてやりたかったが、フェンス越しではそうもいかない。

「それで、あなたは一体何をなさっているのです。さん」

問うて、そこで柳生ははっとした。こちらをニヘラ、と振り返ったの頬、濡れてはおらぬか。雨ではない。うっすらと見える顔、ぼんやりと赤い、腫れた目をしているではないか。

真夜中のコートでぼうっと立つ姿。なんぞ考え事をしているように見えたが、そうではなく泣いていたのかと気付き、そうして一寸、紳士である彼はうろたえた。

「申し訳ありません、さん。無遠慮なことを致しました」
「?なぁに?」
「問うべきではなかったのです。あなたがなぜここにいるのか、とは」

泣いている、ということは柳生にとっては非日常である。涙、は人に見られてはいけない。あるいは当人が見せたくないとしてこの場所にいたのならそれを自分が踏み込み「どうしたのだ」と問うのは無礼ではないか。柳生はがのらりくらりと己の問いに答えずにいたのをどうして察してやれなかったのだろうと自責の念にかられ、顔を顰める。

もちろん柳生はがなぜ悲しんでいるのか知り解決したいという思いもある。力になりたいと思う。だががそれを望まぬのであれば差し出がましいことはできず、それであれば己が最もすべきことはの沈黙に対して無礼を働かぬということであろう。そう判じてくるり、と背を向けると、こつん、とその背中に軽く何かが当てられた。転がるのはテニスボールだ。幸村清市の取り仕切るテニス部で「回収し忘れた」ボールなどあるわけがなく、おそらくはが持ち込んだものだろう。ころころと転がるボールを拾い上げ振り返ると、こちらに近づいてきたがにっこりと笑った。

「ねぇ柳生くん、喉乾かない?」


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「これでいいでしょう、さんどうぞおかけください」

鞄からハンカチを取り出し、階段の踊場に敷くと柳生は数段下にいるの手を取ってそこに座らせた。

「本当に紳士だよね、君は」
「当然のことをしているまでです」

が礼を言いちょこん、とそこに腰掛けた。柳生はその隣に座り、先ほど構内の自動販売機で買い求めたスポーツ飲料をに渡す。身体の水分を失ったのなら補給すべきという心からであるが、女性相手であるのならカロリーの少ないものであるべきだったかと、渡してからそんなことを考える。

男子生徒の制服を身につけ、さらに名簿にもしっかり男子で登録されているが女性であることを柳生は知っている。というのも、テニス部の部長である幸村の「弟」である「彼女」が諸事情により氷帝学園から立海大に編入した折、柳生は幸村の口から「弟だ」と紹介されている。柳生は将来医者を志す身、男女の肉体の違い、骨格から筋肉のつき方などある程度の知識があり、いくら服の下で布を当てくびれを失くそうと常に長ジャージやズボンで足を隠そうと見抜くことは難しいことではない。

そうして気付いてしまえば生来の気質、紳士的であれという己の心から彼女に対して自然とそのように振舞ってしまう。いや、表面では「さんは幸村くんの大切なご兄弟ですから」という理由で周囲が納得できる範囲。だが柳生と、そう振舞われる当人は互いに言葉に出さずに「お互いしっかりとわかってしまっている」という暗黙の認識があった。柳生はが自分にバレてしまっている、とわかっていて態度を変えぬことが好ましく思えた。躍起になって自分の性別を隠すのではなく、発覚されても慌てず、その態度が相手の口を閉ざし自身の秘密を保たせる。その姿がとても好ましく、また互いにある一種の共犯者であるというような意識を心地よく思っていた。

「ありがとう、やっぱり夏はアク○リアスだよね。これ好きなんだ」
「いつも、飲んでいらっしゃったので、お好きであればよかった」

かぷっと缶のプルタブを起こし、がゆっくり傾ける。柳生は自分の分にと買ったお茶を開け口をつけた。

「お家のひと心配しない?柳生くんがプリント回収しに行ったまま帰ってこない!って」
「大丈夫ですよ。後輩に会ったので少し話していきますと先ほどメールしました。お気遣いありがとうございます」

さんは幸村くんが心配するのではなでしょうか、とそう続けるのは不自然ではなかったが柳生は言わずにおいた。幸村がを溺愛しているのは普段の様子からもよくわかる。だがたとえば自身が今兄を求めているのなら夜半のこんな場所で一人佇みはしないだろう。彼女を困らせる言葉になりかねないと柳生は判断し、そして先ほど思ったようにの肩にブレザーをかけた。

「邪魔でなければ羽織っていてください。身体を冷やしてはいけませんから」
「ありがとう、でも柳生くんはいいの?」
「私は大丈夫です。夏生まれですので」
「10月って夏だっけ?」

おや、と柳生は首を傾ける。

「私の誕生日をご存知でしたか」

知られているとは思わず自然顔が綻ぶ。は知っていた経緯については触れず「十月って秋じゃなかったっけ?いや、でも確かに気温はあったかい方?」と自問自答している。その様子を眺め、柳生は「よろしければ」と思考に割って入った。

さんの誕生日を教えていただけませんか」
「なんで?」
「色々お答えしますよ」

何を?とは返さず、は面白そうに笑い「3月13日」と答えた。柳生はもちろん帰宅したら自宅自室のカレンダーにしっかりチェックをつけることを誓い頭その数字を焼き付けると、期待してこちらを見つめてくるに微笑み返した。

「1781年の3月13日にはイギリス出身の天文学者であり望遠鏡製作者のウィリアム・ハーシェルが天王星を発見しました。1937年には大阪市立電気科学館に日本発のプラネタリウムが設置されております」
「暗記してるの?すごい!」

3月13日に起きた出来事は多数あるが血生臭いものなどは除き、が聞いて楽しそうなものをそのほかにもいくつか答える。別段日付によって何が起きたか、というのを覚えているわけではない。知っている出来事の日にちを思い出し該当するもの、としているのである。

「柳生くんは物知りだなぁ。そっか、天王星はぼくの誕生日に発見されたんだね。天王星、セーラームーンで言うところのウラノス、」
さん?」

の言葉が妙なところで途切れた。柳生がどうしたのかと顔を覗き込むと、は一瞬俯き表情を隠してからにへら、と笑う。

「柳生くんの誕生日は何かある?」
「そうですね、しながわ水族館ができた日です」

水族館お好きですか、と柳生は話の軌道を変えた。がまたにへら、と笑って頷く。

「好きだよ、水族館。神奈川にもあるよね?」
「江ノ島水族館が有名ですね。行かれたことは?」
「まだない。っていうか水族館っていうものに行ったことがないんだ。憧ればかりが募ってしまうね」
「私は遠足と家族で二度ほど訪れたことがあります」
「へぇ、いいなぁ。きっととても楽しかったんだろうね」

羨ましいというに柳生は一寸考えてから口を開きかけ、そして言葉を発する前に閉じ、階段の下に視線を向け、缶を握る。

「それでは、その、宜しければ次の休みにご案内いたしましょう」
「水族館に?」
「えぇ。さんのご都合がよろしければですが」

ご迷惑でしょうか、と問う声が震えぬよう意識し、柳生は顔を顰める。一瞬沈黙、その沈黙が妙に長く感じられ、柳生は己の発言を撤回すべきか迷った。今の会話の流れでは誘うのは不自然ではなかったはずだ。それに紳士として振舞うのならむしろ誘うべき流れでもあった。

柳生が全身の神経をただ隣のの挙動に注いでいると、突然すっと、が立ち上がった。

さん、」
「ありがとう、柳生くん」

不興を買ったか、と、女性を誘うなど経験のないことで、自身の言葉選びが正しかったかと、あれこれ考えながら柳生が振り返ると、月明かりにきらきらと輝く白髪、煌く黒髪の少女がじぃっとこちらを見下ろしている、目が合った。

「気付いてた?柳生くん、僕はさっきからきみにお礼ばっかり言ってる。嬉しいから、感謝してるから、自然に言ってしまうんだけど、さ。これってとても素敵なことだね」

言ってが柳生の上着を脱ぎ、丁寧に畳んで差し出してきた。柳生は反射的にそれを受け取り、立ち上がる。上になっていた目線が下がり、小柄な少女を見下ろす。

「さっきまでね、僕はとても怖かったんだよ。自分がなんで息を吸ってるのかわからなくて、テニスコートにくれば思い出せるかと思って、でも何にも思い出せなくて、ただここは氷帝じゃないっていう違和感だけがあって、こんなところにいたくなって、そう思っていたんだよ」

時々あるんだよね、とが笑う。自分の中の真っ暗なところに落ちそうで、自分が黒く塗りつぶされそうになってしまって、抵抗する理由を忘れてしまうんだ、と、言う。柳生はじっと耳を傾けた。聞けないと思っていた「理由」をこうして打ち明けられる。

正直、なんのことかはわからない。思春期特有の不安からくるものであろうか、あるいは精神疾患などか、予測は立てられるもののはっきりとした確信はない。柳生は話を打ち明けられ、光栄であると思うと同時に困惑した。はっきりとわからぬことを言う彼女に、ではない。力になりたいと思うのに己はできぬかもしれぬという不安だ。

だがしかし、見下ろす少女はにこにこと微笑み「ありがとう」と己に感謝の言葉を告げる。柳生は眉を寄せ、首を振った。

「許されるのなら」
「うん?」
「もしまた貴方が涙を落とす、その時には、その涙を私に拭わせてください」

今できると思える精一杯だ。

告げれば一瞬きょとん、と顔を幼くしたが、にへらと笑い、そしてまた「ありがとう」と答えた。




Fin

セーラームンのウラノスって男+女ですよね。偶然ですがちょっと驚きました。

(2012/02/23)