カモメに似た鳥が先ほどから船の周りを旋回している。カモメ、鴎、に似ていて全く違う生き物だというのが、このグランドラインの愉快なところと最近になっては理解できていた。のんびりとゆらゆら、マストから大空、大海原を眺めるのは気に入ったことだ。鳥がいるのだから陸は近いのだろうというのは並の海での常識で、この常識など一切合切ないのが常識な、海ではいつ陸に付くか、知るのは目で確認できる間際になってである。
がやがやと、の足元が騒がしくなった。どうかしたのかと興味をそそられて目を向ければ、またいつもの二人が喧嘩を始めているようだった。おや、まぁ、と、幼い弟たちでも見守る心持で、とん、とん、とん、と、軽やかに降りていく。同じように目を細めて見守るこの船の主、己らの道しるべの傍らに行き、は「なぁ、ロジャー、止めないで良いのか」なんて、自分もそんな気はかけらもないくせに、声だけは縋るように、言うところがの愉快なところ。
「っは、心配か」
ロジャーは喉の奥で引っかいたように笑い、の蜂蜜色の髪を柔らかく撫でる。この男、この、世界中から恐れられ、憧れられている男は、豪快な笑い、行動、生き様に似合わず優しい手をしている。けしてうつくしい、といえる柔らかな掌ではない。海を生きる男のもの、荒々しく、酷いことだって、できてきた手だ。けれど、の頭を撫でてくれるロジャーの手は、いつも優しい。
「バギーとシャンクスは、あれでいい」
「男は殴り合って育つってことだな。きみとエドワードもしょっちゅうやりあっている」
冗談めかして笑って、は海賊王の優しい眼差しに身震いをした。この男は、強い。とても賢く、己が何をしているのかをよくよく承知している。だからこそに、他人を見守り、導く力を持っている。そのカリスマともいえるロジャーの性質に引かれては船に乗る決意をしたわけだが、最近になって、それが、恐ろしく思えてきてしまった。
「なぁ、ロジャー」
きゅっと、眉を寄せて、今度は心底真面目な声を心の奥底から絞り出し、は船長を見上げる。
「危ないことだって、ちゃんとわかってるのか」
暫く前より、歴史の本文をこの男は集めている。既に世界政府は全ての戦力をこの一隻の船にぶつけてでも、止めようとしているらしいと、先日ロジャーはに語った。なぜそれを、副船長でも戦力でも航海士でもないに告げたのか、知らぬと言い張れるではない。いや、そうだ。歴史の本文を誰よりも知りえるロジャーであるからこそ、何も言わずにの乗船を許したのではないか。
「君が死んだら、おれは泣くよ」
「俺は海賊王だぞ。そう簡単に死んでたまるか」
盛大に笑う、この男は、いつもそんなことばかり言って、けれど、何の解決方法を提示しているわけではない。だというのに、ロジャーが笑えば、は全てがうまく行くような気がしてしかたなかった。妄信であると、わかっている。世界政府は、恐ろしい。かつて己の一切を滅ぼされた恐怖はいかに時が流れようと、この心から拭えるものではない。
しかし、この暫く、政界政府は良い世界を作ってきた。いや、細部には何か非道もあるやもしれぬ。けれど、一般に見て、市民の、世界の人に笑顔はある。喜びがなんであるか、悲しみがなんであるのか、それを知る者がちゃんといる世を作ってきた。
封じられ、根こそぎ証拠を隠滅されたはずのあの祖国の情報は、完全には消え去ることはなかった。それが、最近には気の重くなる要素を生み出していた。世界は、幸福を知る良い世であるというのに、それを破壊するやもしれぬ、祖国の存在。
には、今でも何が正しかったのか、わからぬ。しかし、今ある「世界」を破壊してまで、かつての祖国を取り戻そう、求めようという気にはなれなかった。歴史の本文を世界政府が禁じているのも、には理解できる。どちらが悪などとは、興味はない。ただ、ここまで積み重ねられたものが、あの王国の存在によって崩されるようであれば、己は。
「ロジャー」
名を呼んで、今、最も真実に近い男の瞳を見た。黒い、漆黒の羽と同じ色をしている。Dの意思を継ぐ、あの王国の系譜を嬉しいと己は思うべきなのだろうか。陛下が放った一手の芽吹き、あぁ、そうだ、悪魔の実と呼ばれるようになったあの種の姿も、本来、己は喜ばねばならぬのやもしれぬ。
「なんだ、」
「おれは君を裏切るだろう」
「そうか」
「君が暴こうとしている闇を、おれは覆い隠したくてたまらない」
もう一度、ロジャーはそうか、とだけ頷いて、またシャンクスとバギーのつかみ合いを眺める。仲が良いのか悪いのか、赤い鼻に赤い髪の二人の少年、何かあるたびにあぁして殴りあう。はロジャーが本気で話を聞いてくれぬとは思わぬが、それでも、この男のこの、器の広すぎるところが、今は疎ましかった。
「いいのか」
「あぁ、かまわんさ」
気安く返される。と言って、互いに互いへの信頼を失うわけではないから、腹の立つことだ。
(太陽はいずれ沈む、出来ることならその太陽と共にありたいと思いながら、おれはまだまだ、彷徨い続けるのだろう)
Fin