「黄猿や青雉までご一緒なの?珍しいこともあるものね」

朝食が机の上に丁寧に並べられていくのを眺めながら、リコリスは首を傾げた。給仕係の少年は愛想がよく、そして礼儀正しい。リコリスが朝食は赤犬の部屋で取るから運んでほしいと伝えれば、さりげなく「大将どのが三人お揃いの様子ですから、本日はこちらで採られた方がよろしいかと」と助言してきてくれた。大将が三人も一か所に集まるなど会議以外では滅多にないはず。何か事件でもあり、その相談かと勘ぐりつつ、リコリスは給仕の少年が入れてくれた紅茶に口を付ける。

できれば自分もその席に行くべきだ。青雉とはもう面識ができたが、黄猿はまだだった。赤犬はどちらかといえば黄猿との方が親しい、とそうリコリスは聞いている。だらけきった正義を掲げる青雉より、赤犬ほど過激ではないが、しかし絶対的な正義を掲げているらしい黄猿は、確かに親しみも湧くのかもしれない。

(私にはまだ味方と言える味方がいない。大将赤犬に正面からぶつかるより、周囲から崩して行くべきかしら)

上手く他の大将たちをこちらの味方につけられれば、赤犬との距離を縮めることもできるだろう。今三人がそろっているのなら自分も同席したい。だが、さすがに早すぎる。

リコリスは己が秘書として有能であることを自覚している。優秀な秘書、と赤犬に認めてもらえないわけがない。そこまでのポジションならそう時間もかからないはずだ。だが、それ以上、というのが難しい。

(夜這いはできない。だって、あの男のベッドの片方は常にあいているのだもの)

今朝確認した事実を思い出し、リコリスは唇を噛む。

大将赤犬は、意識してか、あるいは無意識か、それはわからぬが、未だにあの魔女の分のスペースを空けて眠っている。空いているのだからもぐりこめる、というわけではない。なぜ空いているのか、とそこを考えれば、たとえ上手くそのベッドに横たわれたとしても、リコリスの望む形にはならぬのだ。

「バターは無塩と食塩のものがありますが、どちらがお好みですか?」

まずは味方を作らなければ、とそう考えるリコリスの耳に、給仕の少年の控えめな声がかかる。はっとしてリコリスは顔を上げて、にこり、と万人が「花のようだ」とたたえる笑顔を浮かべた。

「そうね、無塩のものをお願い。紅茶がとても香りがよくておいしいわ。これはあなたが選んでくれたの?」

パンに塗るバターを選ぶなど久しぶりだ。見れば少年は無塩や食塩の他に味付きのバターを用意していたようだが、本日のパンはクロワッサンのため、確かにこの二択がふさわしい。さすが海軍本部大将付きの給仕ともなればよく仕込まれている。感心して紅茶の味を褒めれば、少年はにこり、と笑顔をかえしてきた。

笑うとえくぼができる。整った顔立ちとは思ったが、頬笑みは天使のようだ。とても美しい顔立ちをしていて、少女と見紛うばかりである。美少女、というには背が高いが、これは幼いころは少女と間違われたのではないか、とそんなことを思った。

「気に入っていただけたなら何よりです。秘書官どののお好みがわからなかったもので、定番のアールグレイにしてみたのですが、よろしければお茶の好みを教えていただけませんか?」

耳に心地よいアルトは、料理人にしておくのはもったいないほどだ。聖歌隊にでも入ればすぐにソロパートを任されるのではないだろうか。頭の中で美しい白亜の建物、その中でこの美しい少年が聖歌隊の装いをし、世界貴族の方々の前で歌声を披露している姿を思い浮かべた。それはさぞかし素晴らしいものに違いない。

「気を使ってくれてありがとう。でも、私の好みより、あなたが選んでくれたものを毎日楽しみにする方がきっといいわ。わがままかしら?」
「いいえ。そう言っていただければ、自分も毎日秘書官どのの為にお茶の葉を選ぶ楽しみができます」
「あなたお名前は?」

気さくな子だ。リコリスは好感をもった。大将付きの給仕係ならこれから何度も顔を合わせることになろう。それに、いつから配属されたのかはまだわからないが、あの魔女がいたころからなら当時の話も聞ける。親しくなっておいて損はない。頭の中で計算し、リコリスは感じのよい笑顔を向けた。

少年は一瞬顔を赤くする。なるほど、大将の秘書官に態々名を聞かれるなど予想もしていなかったのだろう。その若々しい様子がさらに気に入った。正直で隠し事ができないタイプなら味方に引き入れて大将赤犬への探りを入れさせる役にはできないが、しかし、こうして話しているだけでリコリスは心が和む。そういうものを作らなければ、この、抜け目ない人間ばかりがいる本部では息が詰まるだろう。

「そんな、秘書官どのに態々名乗るなんて、」
「私が聞きたいのよ。それに、呼ぶ時に必要でしょう?」

給仕係、と言っても用は足りるだろうが、名前を呼ばれる、という行為の重要性をリコリスは知っている。それであるから己は早速大将らを名前で呼んでいるのだ。幸い赤犬も青雉もそう言うことを重視してはおらぬので不敬扱いはされていない。

「マリア、です。おれ、マリアって言います」
「マリア?違っていたらごめんなさい、あなた、男の子だと思ったけれど」

名乗られた名前は意外なもので、つい首を傾げて問い返す。給仕係の少年は困ったように眉を寄せ、弱々しい笑顔を浮かべる。

「母は娘が欲しかったみたいで。自分でも似合ってないって判ってるんです。変ですよね?」
「そんなことないわ。素敵な名前だもの。それじゃあマリアくんでいいかしら?」
「皆からかっておれのこと「マリアちゃん」って呼ぶんです、なんだかちゃんと「くん」って付けられると照れくさいですね」
「わたしはリコリス・ボルジア。リコリスでいいわ」

はにかんだマリアにリコリスが名乗れば、恐縮された。「秘書官どのは秘書官どのです。おれみたいな下っ端が名前で呼ぶなんて」そう言われてしまえばリコリスは苦笑を浮かべるしかない。まぁ、地位のある程度保証された己が給仕係を親しげに呼ぶのと、給仕係が大将付きの秘書官を名で呼ぶのとはわけが違う。おいおい慣れていけばいいこと、とそうリコリスは判断した。それに今はこちらが気さくな性格である、とそう伝えることが目的だ。あまり強制して逃げられては元も子もない。

そうしてリコリスは打ち解けられるよう気を回し給仕を受けつつ、マリアと会話を楽しんだ。





+++




内心クザンは、いつ隣の部屋から女の悲鳴が上がらないか気が気ではなかった。いや、マリアちゃんがリコリスを傷つける、ではなくてその逆を、クザンは心配しているのだ。
マリアは人を追い詰めることが病的に上手い。逆上させリコリスがマリアちゃんを平手打ち、なんて展開があるんじゃなかろうかと、そう隣の部屋に意識を向けていたが、しかし、目の前で明かされる情報にいちいち驚きがある。

「……え、ごめん、何?ちゃんが産んだって、ハイ?え、どゆこと?」
「言った通りじゃけぇ、何がおかしい」

とりあえずクザンはこれ以上サカズキとボルサリーノの会話が進んで行かぬよう一度待ったをかけた。額を押さえ、言われた情報を整理してみる。

「えーっと、何?何か最近女性殺害事件があって、皆子宮取られてて、同一犯だけど距離がおかしくって?で?ピアさんがサカズキなら犯人の予想が立つって振るから、導き出されるのは一人だけで?それが?ちゃんの子供?」

言われた言葉を繰り返して見て、クザンは「何がどういうこと?」と、もっともな言葉しか口に出せそうになかった。

ボルサリーノは小鉢に入ったキュウリの酢漬けをぽりぽりといい音をさせて噛みつつ、首を傾げる。

「あの魔女に子供がいたなんてわっしも初耳だねぇ〜」
「あ、黄猿さんもわかってるわけじゃないんですね」

てっきり自分だけそのの子供の存在を知らなかったのかと、少しばかり寂しい思いをしていたのだが、どうやら毎度お得意の「サカズキだけが知っている」という情報だったらしい。ほっとすれば、ニコニコとした顔の黄猿がさらに言葉を続ける。

「それに、コルヴィナスって、四候の一つだったと思ったけどねぇ〜。偶然かい?」

何でもない、味噌汁の具が偶然昨日と同じだった、とでもいうような口ぶりである。四候、と改めて出されてクザンは手を叩いた。

シコウ、四候、古くから存在する四つの貴族の家。ヴァスカヴィル家、ペンウッド家、コルデ家、そして最も謎に包まれた「コルヴィナス家」の存在は大将ともなればよく耳にする名だ。世界政府が樹立した800年前に既に貴族としての地位を確立させ、古き時代より世界政府と共に生きてきた四つの家。それぞれが独立した機関でありながら、四家の結束は強く、もし万一四家が結託すれば政府を転覆させることも可能だと言われている。しかしそれほどの脅威がありながら今日まで彼らが滅ぼされず、また権力の縮小化もされずに済んでいたのは、一重に各家の代々の当主が抜け目ないやり手であり、政府を敵に回さず、また己らの地位を危うくせず、という相当の策士であったからだという。

と、ここまでが一般的な四候の貴族の情報だが、クザンはもう一つ、知っていることがある。

「四候って、ちゃん親衛隊のアーサー卿がいるとこだよな?」

「敵に回してはならない男」として名を広く知られている、世界政府の枢機顧問であるアーサー・ヴァスカヴィル卿はクザンも面識がある。悪の貴族というのはまさにあの人物のようなことを言うのだろう、と言うほどの容赦のなさと、徹底した策士ぶり。私利私欲にはまず走らず、己の義務を理解し「やるべきこと」を常に心がけ実行する老紳士の姿をクザンは思い浮かべた。

そのアーサー卿は、確証はないがと浅からぬ仲だったようで、サカズキがオハラでを捕獲し海軍本部に連れてきてから何かとの待遇を良くしようと働きかけてきた。サカズキを面罵したことなど星の数であるし、穏やかな笑顔を浮かべて「貴方はきっと地獄行きですね」と、のどかなお茶会の折にのたまってきた時など、クザンは心臓が止まるかと思った。にはどこまでも甘く、そしてサカズキにはどこまでも厳しかった、あの老紳士、なんかもう個人の実力がすさまじかったので忘れがちになっていたが、「四候」の貴族だった。

クザンが個人的に掴んだ情報によれば、アーサー卿とペンウッド卿、それにコルデ・ハンス司政官と数年前に戦死した四人の貴族はの何かしらの願いをかなえるべく結束した「独身貴族同盟」だとか、そんなものを名乗っているらしいのだけれど、ひょっとして。

「俺さ、ずっと、「戦死したもう一人」って覚えてたんだけど……何?その、四人目って、ひょっとして?」

っつーか、なんでこれまで気付かなかった自分、とクザンは突っ込みを入れたかった。

わかろうものじゃないのか。独身貴族同盟が四人で、そのうち判明している三人が四候の貴族なら、最後のその「戦死した」というその一人も、四候の人物に決まってるじゃないか。

「……いや、でもだからってそのコルヴィナス家を名乗るやつがちゃんの子供で、んで殺人事件の犯人だってのは、どういうことになるわけ?」

いや、話は一つわかった。独身貴族同盟のメンバーも理解した。だが、まず原点。・コルヴィナスという人物が四候の貴族の一員ということなのか?というか、の子供ってなんだ。

結局何もわかってねぇじゃねぇか!!と、突っ込みを入れつつ、クザンは黙っているサカズキの反応を待った。

まだここまでは自分の頭の中でのこと。サカズキはまだ何も答えていない。

ボルサリーノは相変わらずニコニコしているが、空になった味噌汁碗をいつまでも片手に持ち、やはり同じ様にサカズキの言葉を待っている。

「何者なんだろうねぇ〜。その・コルヴィナスっていうのは」

しかし暫く待ってもサカズキが決定的な言葉は吐かぬもので、一瞬眉間に皺を寄せてからボルサリーノが水を向ける。

「言うたじゃろ。の産んだ魔女の息子じゃァ」
「説明すんのめんどいの?」

一応、サカズキは大将で自分たちも大将だ。地位は一緒、なら、情報の共有はしておいて損はない。はずである。しかしサカズキの魔女に関しての情報の秘密主義はよくわかっていた。それに、いくらに直接関与していないからまだ覚えているのだろう情報も、が関わっている部分ではやはり、失っているものもあるのだろう。不確かな情報になっているので口にしたくはないのか。しかし、ならなぜその名前を口に出したのだ。

じぃっと見詰めていれば、サカズキが溜息を吐いた。

「わしは、確証のねぇことは口に出さねェ主義だ」
「そこをなんとか。俺たち同僚でしょ」
「……四候の貴族、コルヴィナス家と、あれの息子・コルヴィナスは血縁関係ではある」
「つまり、ちゃんが産んだそのって人物の父親はコルヴィナス家の人間ってこと?」

いや、自分は未だが子供を産んでいた、という事実に上手くついていけてはいないのだが、その辺をじっくり聞くより前に聞いておいたほうがいい話かもしれない。

「あれ?でも、おかしくねぇか?コルヴィナス家の当主って、確かに5年くらい前に当主が戦死したけど、跡を継いだのってその孫だろ?父親の方は結構前に死んでて、今生き残ってるコルヴィナス家の人間って、その当主だけだったと思ったけど」

あれこれ話すうちにクザンは思いだしてきた。一応大将ともなれば社交界での付き合いもせねばならず、紳士録にも目を通している。コルヴィナス家の先代、というのがアーサーたちの同年代だとして、その人物との子供が、というのか?

……なんかちょっと、ヤだな。

がどちらかといえば、若い者よりは渋目好みというのは何となくわかっているが、正直クザンはしわしわの老人がサカズキよりに選ばれて子供を産ませた、というのは、納得いかない。と言って、その後継者の現当主、である可能性も低い。当主となったのは十代前半だったはずだ。今はそこそこの年齢とはいえ、の息子という・コルヴィナスがいくつか知らないが、年齢的に無理があるはず。

しかし四候の一族は代々子供を一人しか設けない決まりになっているので、血縁関係にある、というのなら、年代的にも先代当主、ということか?

「いや、でもちゃんがお前んとこに来てから産む余裕なんてあったっけ?それならおれも記憶してるだろうし、でもロジャーの所にいた時なら、それこそ騒動になったよな?」

考えれば考えるほどわけがわからなくなってくる。

これでもクザンは、が本部に来た時からその姿を気にかけてきた。サカズキが酷い暴力を振るおうものなら真っ先に駆けつけていたし、二人が暴力的な情交をするようになったそのタイミングも把握している。それであるから、もしが妊娠していれば気付いた。第一、この独占欲の強すぎるサカズキが、そもそもが他の男との子供を孕むことを見過ごしたわけがない。となればサカズキと出会う前、ロジャー海賊団にいたころ、ということになるが、仮にも悪意の魔女が子を孕み、それが世界政府の誇る貴族の子であるのなら、騒動になっていたはずだ。

ますますわからない。

あれか?考えるだけ脳内が酷使されてどんどん謎ばかりが深まるのかこれ、とクザンはこれ以上考えない方が面倒臭くない気はした。

しかし、のことだ。出来る限り、クザンは知りたい。

サカズキだけが知っている、などもう嫌なのだ。自分だって、のことや、彼女が残したことをきちんと知っていたい。そう決意をして、ぐっと体重を前にかけようとした瞬間。

隣の部屋で何かガラスが割れる音がした。





+++





「す、すいません…!!!突然何かに、その、躓いてしまって……!!」

泣きだしそうな声で叫びながら、マリアがすかさずその場にしゃがみ込んで割れた破片を集め始めた。一瞬何が起きたのか、リコリスはわからなかったが、すぐに入口に飾っておいた例の花瓶が落下して割れたのだ、と合点がいく。

床の上を見れば、粉々になったガラスが散らばっているではないか。まだ水を入れることもしていなかったその花瓶、今朝がた赤犬から貰ったばかりのその品の無残な様子にリコリスは一瞬頭が真っ白になった。

なぜ、自分はショックを受けているのだ。そのことに戸惑う。

「割ってしまったの…?」
「すいません…本当、なんてお詫びしたらいいか……!!!べ、弁償できるのなら、弁償します…!」

茫然としているリコリスの言葉にマリアが顔を真っ青にさせる。可哀そうにその目じりには涙さえ浮かんでいて、己の粗相を恥じていた。それも当然だ、大将の秘書の部屋のものを不注意で破壊してしまった、というのは、もしマリアが海兵なら下手をすれば謹慎処分になったところでおかしくない。いくら打ち解けられるような会話をしていたとしても、ここでリコリスが一言何か言えば、マリアの身は危うくなる。おろおろ、としている姿を眺め、リコリスは自分の胸に手を当てた。

割れてしまったのは仕方ない。マリアは悪意があってのことではないはずだ。だが、今、自分は割れてしまったことにショックを覚えている。なぜだ。

(……そういえば、わたし、誰かに何かを貰ったのは初めてかも)

赤犬にその気がなかったにしても、そして自分も意識していなかったにしても、そういえば、リコリスは誰かに何の意図もなく物を譲ってもらったことがない。

この花瓶から少なからず赤犬接近を企んでいた、という感情は確かにある。しかし、今それ以上に、リコリスは、折角貰った花瓶が無残な姿になっている、もうもとに戻らない、ということが悲しかった。

「……っ、でも、あなたが悪いわけじゃ、ないわ」
「でも……秘書官どの…!」

ぐっと、リコリスは唇を噛み締めて目を伏せる。

何を動揺しているのか。ただ花瓶が割れただけだ。それに、割れてしまったと赤犬に話してこちらが申し訳ないという態度を取れば、そこからまた会話をするきっかけになるではないか。まだまだ使える手はあり、むしろ状況は良くなっているはず。だがリコリスは、あの花瓶に水を入れて楽しめなかったこと、花を飾って、赤犬に見せることができなかったことが悲しくなった。

「本当に…本当に申し訳ありません……!」

何度も何度も、マリアは謝ってくる。その間にも破片を拾うことをやめない。リコリスは脳裏で、マリアが破片を拾うのを危ない、と気遣ってやるべきだとわかっていた。怪我をしてしまうから、そんなものは箒でやったほうがいいと、そういうべきだった。だけれど、段々とマリアの指先がガラスの破片で傷つけられ血が飛び散る度に、もっと傷つけばいいのだと、そう思う心があった。この自分が傷つけられたのだから、お前は怪我をするべきだ、などと、そこまで意地の悪いことを思うわけではない。だが、マリアの指先が傷つくのを止める気にはなれなかった。

じっと沈黙し、ただマリアのその作業を眺める。

「え、何?すっごい音したけど、何?」

ひょいっと、ノックもせず大将青雉が顔を出してきた。リコリスは一瞬現実で起きていることとは思わず何か夢でも見ているような心持になっていたため反応が遅れた。

「……え?何、この状況」

青雉はあたりを見渡し、そしてマリアが床の掃除をしているのを奇妙なものでも見るような顔をして眺めた後、リコリスに顔を向けた。

「俺が、俺が悪いんです…!初日から秘書官どのに失礼なことをしてしまって…おれ、やっぱり食堂見習いに戻った方がいいんですよ!!!」
「え?何、マリアちゃん何言って…」

部屋の中にはマリアが入れてくれた紅茶のよい香りが今もしている。その匂いを意識して、リコリスは神経を落ち着かせようとした。青雉が心配してこちらに来てくれたと、そう前向きに状況を判断するべきだ。ここで給仕係の粗相をあれこれ言う意地の悪い女と印象付けたくはない。

「マリアくんは悪くありませんよ。ただ棚にある花瓶を割ってしまっただけです。緊張していたんですね、こんなに動揺してしまって…」

気遣う表情を浮かべてからリコリスは席を立ってマリアの傍に寄った。涙で顔をぐしゃぐしゃにしている少年の、血のにじんだ手を取って懐から取り出したハンカチを当てる。

「このくらいで怒ったりしないわ。今日はとても楽しかったもの。ここの片づけは私がするから、あなたは医務室に行った方がいいわよ」
「でも、これはおれが壊してしまったものですから…ちゃんとおれが片づけます…!」

こうして間近で見てみれば、マリアが心底この状況を申し訳なく思っているのが伝わってくる。あまりにも悲痛そうな顔だ。ほんの一瞬だが、リコリスはまさかマリアがわざと花瓶を割ったんじゃないか、と、そんなことを思ってしまったが、この顔は演技ではできない。なぜ躓いたのかわからないが、マリアの所為ではない。そのことを強く感じ、リコリスはその頬を優しく撫でる。

「大丈夫よ。それより、あなたが明日もまた顔を見せてくれるのならわたしは嬉しいわ。ね?だから見習いに戻るなんて言わないで」
「……秘書官どの……」

折角赤犬に頂いた花瓶が無残になったことは残念だったが、しかし、これでマリアは自分の味方になってくれる。そう確信し、リコリスはほっと息を吐いたのだった。





+++




「で?態々心配して駆け付けてくださったんですか。クザンさんって結構優しいですよね、俺に」
「あ、よかったー、もうおれてっきりマリアちゃんと同じ顔した別キャラの登場かと思ってビビっちまったじゃねぇか」

医務室に行くよりはクザンの執務室に行った方が早い。それに色々聞いておきたいこともあったのでクザンはマリアを自分の執務室に連れて行った。すると、部屋に入ってすぐにマリアのその言葉。うん、やっぱりマリアちゃんはこうでなきゃね、と、妙な安心をしつつ、クザンはソファにどっかりと腰を下ろした。

「何なのよあのぶりっこキャラ。今更お前さんがキャラ作りとか手遅れじゃないの?それに、何、自分でマリアって名乗ったの?」
「えぇ。本名だといろいろ面倒ですからね。おれも一応ブラウン家っていうそれなりの家の出なんですよ」

そう言えばそうだった、とクザンは気付く。四候ほどではないし、名門、というほどの名家でもないが、しっかりと貴族の家柄。当人かなりの変わりもので貴族の長男のくせに海軍本部の料理見習いから始まり、(まぁ、の所為でいろいろ経験してはいるが)地道に昇格している努力家。

カンタレラ家の娘であるあの秘書官がブラウン家の名前を記憶しているかどうかは分からないが、貴族同士の付き合い、ということになれば面倒になる、ということで偽名を名乗ったのか。

「それに、このおれがあんな女に本名を名乗ってやるなんてありえませんよ」
「うわー、マリアちゃんってちゃんの友達だけあっていい性格してきたよなー」

棚を漁り薬や包帯の入った箱をてきぱきと探し当てたマリアは早速手当てを始めている。向かいに腰掛けて丁寧に薬で洗っていく様子を眺めつつ、クザンは溜息を吐いた。

「……料理人として将来を考えてるマリアちゃんが、指先犠牲にしてまでしたかったことって何?」

普段マリアは料理をするための手をとても大切にしている。それに先ほど口走っていた言葉も妙だった。マリアはとうに料理見習いではないし、そもそも、秘書官への給仕係は別の人間の仕事のはずだ。今日はクザンが悪乗りして本来の担当者とマリアを入れ替えて、そして自分はサカズキの所へ料理を運ぶ、というイレギュラーな事態だったはず。しかし、マリアはこれからずっと、あの秘書の給仕係をするつもりのような、そんな流れだった。

マリアが長い時間をかけて見習いから今の立場になったことはクザンも知っている。それなのに、料理人の命である手を傷つけ、そしてさらに料理人から給仕係になり下がる、その意図は何だ。

「何企んでんの?」

てっきり、マリアはリコリスのことを「不審な女」と判断して排除するんじゃないかと思っていたし、若干その期待がなかったわけでもない。しかし、見ている限り、リコリスは素直なマリアに好感をもったようだ。そうマリアが仕向けたのは間違いない。嫌味も何も言わず、ただ気に入られようとした、その理由は何だ。そして、気に入られようと何か企んでいるのに、なぜ花瓶を割ったりしたのだろう。下手をすれば不興を買いかねないことではないか。

「……色々、考えてることはあるんですけどね。花瓶を割ったのは、結構衝動的ですよ」

ジュッジュッ、と薬で洗い落した指先は本来の繊細な白に戻っていた。代わりに血を受けたタオルは真っ赤だったが、責任を持ってあれはマリアが洗うのだろう。マリアはそのまま丁寧にガーゼで指先を叩き、指の付け根など絆創膏の貼れる場所は小さなものを張っていく。貼れぬ指先には薬を塗っていた。

「衝動的?」
「だって、おれが割った花瓶、が赤犬の誕生日に買ったヤツですもん」

自分が見たのは砕けた破片だけだったので気付かなかった。しかし言われてみれば、確かにあの透明さは見覚えがあったかもしれない。

が赤犬に、と、それを聞いて記憶の中から引っ張り出してみる。

「……去年の?」
「えぇ。部屋が殺風景だからって、が水の都で態々、自分で作って持ってきたやつですよ」

そうそう、そんなことがあった。暑い夏の日だった。8月16日はサカズキの誕生日で、毎年とサカズキは互いの誕生日など綺麗にスルーしていたが、その年だけは、なぜか、本当に、あれは魔女の気まぐれだったのかもしれないが、しかし、がサカズキに何か贈りたいと考えて、そしてあの花瓶を作ったのだ。

花を飾るのがは好きではなかった。切り花は死体を飾っているような気がすると、顔を顰めさせていた。けれどサカズキの、あの殺風景な部屋には花があった方がいいからと、そしていつも「何か暑い気がする」と笑って言って、それで、水の入る花瓶にしたのだ。花を毎日、があれこれと飾っていた。仮眠室に移される前は執務室にあって、クザンも何度もそれを目にしている。花を飾らずとも水を入れればその影が花模様になって浮かび上がっていた。とてもきれいだった。

それをサカズキに贈ったの心と、そしていつまでもサカズキが飾っていたことをクザンはいつだって「お前らだから結婚しちまえよ!」とそう陰ながら突っ込んでいたものだ。

その、花瓶か。

「あの秘書官の部屋にあったんですよね。赤犬は何考えてるんですか?の部屋の物は全部燃やしても、あれだけは残しておいたと感心してたのに、得体のしれない女にあっさり渡すなんて」
「いや、サカズキは忘れちゃってただけじゃないの?」
「あんなに大事なものを忘れるってどういうことです」

そうだ、サカズキは、もう覚えていないのだ。

マリアが眉を寄せたので、クザンはそのことを改めて感じる。サカズキがの記憶の大半を失っている、というのはおそらく自分しか知らない。マリアが「不実だ」と言うのもわかる。だが、覚えていなかったと、それだけだ。クザンは自分は事情を知っている、だから、マリアのように怒ることはできない、はずだ。

「……いや、でも、そりゃねぇわ」

それはマリアでなくともイラっとする。

忘れてしまっているのはわかる。だが、クザンは覚えているし、マリアだってそうだ。

がはにかんで『別に…サカズキのためじゃないよ…!ぼくだって、たまにはこういう遊びもしたかっただけだからね…!』とツンデレのテンプレのような言葉を吐いてサカズキに寄こしたあの花瓶を、覚えていないからって、他の女に渡した。

「大将赤犬が秘書官にやるって決めたならおれが何言ったってしょうがないでしょうから、つい割ってしまいました。壊すのは嫌でしたよ」
「でも壊したんでしょ?」
「あのが赤犬に贈ったものが、違う女のものになってる方が嫌じゃないですか」

にこり、と、それはもう整った顔で綺麗な笑顔でマリアちゃんがほほ笑む。なんだろうこの、皺ひとつない綺麗な肌の上に浮かべられる、女性が裸足で逃げ出したくなるような笑顔のこの、恐ろしさ。

「……あ、そう」
「酷い、なんて責めませんよね?」
「……まぁ、ね」

微笑んで言われずとも、その問いにはクザンは肯定を返しただろう。ぽりぽり、と頬をかきつつ、眉を寄せる。

「多分おれ、おんなじことしたよ。マリアちゃんより上手くはやれなかったかもしれねぇけど」
「またまた。クザンさんがおれより外道で冷酷なのはからよく聞いてましたよ」
「え?何、ちゃんっておれの話してくれてたの?」

なんだか前半言われた言葉はさりげなく酷い気もするが、そんなことよりクザンは後半の「が話していた」ということの方が気になった。それでぐいっと身を乗り出せば、マリアが呆れたような顔をしてくる。

「食いつくところ違うんじゃないですか…?」
「うわ、マリアちゃんってすっげぇ冷たい目すんのねー」

氷河時代に匹敵するんじゃないか、という冷たさの籠った目にクザンは顔を引き攣らせる。いや、確かに「冷酷」「外道」とか言われたことは気にはなるが、自覚くらいある。案に言って苦笑いを浮かべると、途端マリアの顔が困ったような、そんな妙な顔になった。

時々、マリアちゃんはこういう顔をする。クザンに対してだけではなく、大将に近い食堂のマリアちゃんは、時折、大将が「わかっているんだよね」というような言動をすると、こういう、妙な顔をする。

マリアちゃんは酷い性格をしているところもあるが、基本的には、かつてドレーク少将に片思いして、それでと同じバイトをして、怒ったり笑ったり、泣いたりしていたあの頃の、一生懸命な子供のままなのだろう。だからもう、いろんなことが分かっていても、それでも大将が、何かを諦めて今の自分のひどさを自覚している、というその姿が嫌に思えるらしかった。いや、嫌、というよりは、つらいのではないか。そんなことを思う。

「……話してましたよ」

少し気まずい沈黙になりそうになれば、マリアがそっぽを向いて、ぽつり、と呟く。

「え?何々、教えてくれんの?」
「出し惜しむようなネタでもありませんからね。時々は、クザンさんのこと、話してましたよ」

へぇ、と適当な相槌になるように意識したが、どうも感情は抑えられなかった。予想以上に嬉しそうな声が出てしまい、クザンは自分の単純さにあきれる。マリアもそれは同様のようで、何か言いたそうな顔はされたが、結局それについては突っ込まなかった。

「クザンさんは不真面目であろうとしてるのに、結局真面目で、それならいっそシャキっとすればいいのに、とか」

てっきり、はいつだってサカズキか、または水の都の船大工のことしか考えていないと思っていた。
言われた言葉は中々「いや、ちゃん、その適度に力抜くのがいいんだよ」と突っ込みたいことだが、自分のことをちゃんと見ていてくれなければ言えぬセリフだ。なんだかこそばゆく、思わず頬をかいた。

「それに、コーヒーを入れるのが上手だとか、自転車の後ろに乗せてくれる時はすごく気を使って揺れないように心がけてくれてるとか、そういう他愛ないことですけどね」
ちゃんって、おれのこと好きだったのかな」

ぽつり、と言えばマリアちゃんに、ものすごく可哀そうな物でも見るような眼をされた。

「何寝ぼけてるんです?」
「いや!ちゃんが、そりゃあもうサカズキのことしか見てなかったことくらいわかってるよ!!?でもさ、友達としては、おれのこと、ちょっとは好きだったのかなーなんて」

呆れられたのが恥ずかしくなって慌てて弁解しながら、クザンは、自分がバカなことを言ったと気付いた。

「おれ、バカ?」
「今更ですよね」
「マリアちゃん、不敬罪って知ってるか?」
「おれは敬愛を込めてこの態度なんですよ」

あぁ言えばこういう。マリアちゃんは手厳しい。クザンは苦笑いを浮かべて、それで、マリアの傷だらけの手を取った。

大きな手、ではない。けれど、一人前に男の手になってきているその、骨ばった手。これがやわらかくて薄い女の手なら、きっとクザンは今この場で手を取りはしなかった。そのことをじっくりと感じながら、クザンは真っ直ぐにマリアの目を見つめる。

「ちょっと、おれの真剣な話聞いてもらっていい?」





+++





午前までの仕事は順調だった。今朝までの仕事で大将赤犬はリコリスを「秘書」として扱うことは認めたようで、てきぱきと仕事の指示を出された。リコリスは午前中はじっくりとその仕事に打ち込むことを決め、同じ部屋にいながら仕事に関する言葉をわずかに交わす、という程度でそのまま午前は終了していった。

「これをクザンの所へ届けろ」
「サインと、それに承諾書があちらにあるんですね」
「あァ」
「なら帰りがけにボルサリーノさんの所へも寄ります。同じ内容の書類があるでしょうから」

受け取った書類に目を通し、リコリスは先にそう提案する。思ったよりも赤犬の仕事には無駄がない。その上仕事量の割には速度も一定を保ち的確にこなされている。なるほど一人きりでも十分という自信はこのあたりからくるのか、とリコリスは感心した。

(でも、わたしが来た以上、わたしが必要な状況になってもらうわ)

今の状態では、あまり赤犬に己の必要性を感じては貰えない。有能さは理解してもらえただろうが、しかしまだ、いてもいなくてもいい、ということに変わりはないのだ。ぐっと、リコリスは書類を握りしめ、退室の礼を取る。と、その去り際、さりげなさを装い、サカズキを振り返った。

「あの、サカズキさん」
「なんじゃァ」
「よかったら、昼食をご一緒しませんか?午後の仕事の打ち合わせもできますし」
「わしゃ、昼は採らん」

よし、予想通りだ。この切り返しも想定内。リノリスはぐっとガッツポーズをしたいのを堪えつつ、眉を寄せて首を傾げた。

「わたしはサカズキさんの秘書ですよ?仕事面でなく体調管理もしてこそ秘書じゃないですか。食事を抜く、なんてわたしが許しません」
「いちいちおどれの許可がいるんかい」
「ちゃんとした大人なら必要ありませんけど、自己管理もできない人には必要です。わたしはサカズキさんの秘書です。だから、わたしの主張は正しいんです」

出過ぎた言葉、ではある。しかしリコリスは躊躇わなかった。このままただの秘書、という位置づけでいるわけにはいかない。まだ秘書初日目ということもあるが、あまり時間をかけてもいられないのだ。きっぱりと言えば、赤犬は怒るどころか小さく、低く、喉を震わせた。

(……笑って、くれたのか?)

こういう流れになるように、と期待したのだったが、予想以上の反応にリコリスは一瞬頬が赤くなる。見れば、赤犬は目を細めてこちらを眺め、口の端を釣り上げているではないか。

「なんじゃァ、おどれは妙に子供じみた意地を張るのう」
「い、意地じゃありません…!秘書としての義務です……!」

からかうようなその口調に、自然とリコリスは声を上げた。考えていたセリフではない。だが口をついて出た。赤犬はまだ喉の奥で笑い、そしてぎしり、と椅子を軋ませた。

「10分以内に戻ってこい。この書類を終えて20分程度なら昼飯用の時間も作れる」

ここから青雉の執務室まで走っても五分はかかる。その上黄猿の所にまで行く、と言ってしまった。往復10分以内は不可能だ。即座にリコリスは判断した。

「わ、わかりました……!!戻ったら、絶対に栄養バランスを考えた昼食を取っていただきますからね!」

しかし、リコリスは「無理だ」と判断する己の思考を切り捨て、赤犬に向かってそう宣言していた。




Fin




(2010/08/15)