誰かと仕事をする、というのは数年ぶりだった。サカズキはリコリスがある程度整えた書類の最終確認のため目を通しながら、無意識に執務机の右側に手を伸ばす。コツン、と当然のように湯のみに手があたり、入れられた真新しい茶をすすることができた。

リコリス、ボルジアのことをサカズキは考える。どういうつもりで己にカンタレラ家の娘が近づくのか、それはまだわからない。だがなかなかどうして仕事はやるようではないか。

既に秘書官としての仕事量や動き方も把握しているようで、傍に置いて邪魔、ではない。なるほど確かにセンゴク元帥が推薦するだけのことはある。この分なら昨日と同じ仕事量をしていても、夜には終わるだろう。

ちらり、とサカズキは時計を見た。昼食を取るつもりはなかったが、リコリスは採れと言う。あの様子ではしっかりとこちらが食べ終わるまで許さぬだろう、その勢いを思い出しサカズキは喉の奥で低く笑った。

この己に意見し頑なにあろうとする人間は、久しぶりだ。

新鮮に思いつつ、さて本当にあの秘書は10分以内に戻ってくるものかと、そんなことを考える。

「失礼、少しよろしいですかな?」

時間に間に合ったら彼女の言うとおり食事を、と、そう考え始めたサカズキの耳に、コツン、と革靴のなる音が一つ。そして軽いノックの音とともに扉の向こうで聞き覚えのある声がした。

「……アーサー・ヴァスカヴィル卿」
「ごきげんよう、サカズキくん」

名を呼んだことが入室許可になったか(あるいはそんなものなく無言でいてもこの貴族紳士は「お招きありがとう」とのたまったに違いないが)アーサー卿が穏やかな微笑と共に扉を開けて部屋に足を踏み入れた。

政府内でのアーサー卿の地位はサカズキより上だ。サカズキは椅子から立ち上がり、軍人としての礼をつくしたが、アーサー卿は「本日は個人的なことで来ましたから」と、それを遮る。

リコリスがいれば茶を入れるところだが、生憎サカズキはいくら枢機顧問といえど自分からアーサー卿にお茶を入れる、などと寒いことはしたくない。催促せぬ男であろうし、個人的なこと、と前置いたからには態々茶を出さずとも良いだろう。そう判断し、アーサー卿に中央のソファを勧めた。

「お仕事中に申し訳ありません。出来る限り早めに伺いたかったものですから」

丁寧な動作で腰をおろし、手に持っていたステッキを置いたアーサー卿は人好きのする笑みを浮かべ、申し訳ないとばかりに目を細めた。けして頭を下げることがない男だ。サカズキも向かい側に腰を下ろし、腕を組む。個人的な話、と前置きつつ結局は「悪の貴族」としての義務以上のものはない男だ。こちらも同じように剥がせぬ大将としての態度そのままで問題はない。

アーサー卿はじっくりと、無礼に感じぬ微妙な程度、部屋の中を見渡してから一度目を伏せた。

「新しい秘書を雇われたとか?」

クザンといい、ボルサリーノといい、そしてアーサー卿といい、そんなにこの自分が秘書を持つことが珍しいのか。

ある程度予想していたとはいえ、やはり秘書のことを言われ、サカズキは聊かうんざりした。

「貴殿の差し金かと思うちょったが」
「いえいえ、そんな。私はもう海軍への発言権はありませんよ」
「よう言う」

枢機顧問というのは、あくまで政府の「相談役」である。軍隊である海軍への発言権は本来ない。持ってはならぬものであるが、しかしこのアーサー卿が海軍へは無力、などということがあろうはずないことはサカズキがよくわかっている。

センゴク元帥がどういうおつもりで自分に秘書を付けたのか、それははっきりとはわからない。だが、偶然カンタレラ家の娘が配属されるわけもなく、リコリス当人何か企んでいるようで、その企み方は貴族の娘らしいように、サカズキには思えた。

センゴク元帥がそのような面倒事を己に押し付けるとは思えない。元帥が不承不承な部分もあるに違いなく、しかし強制力を受けているというのなら、それは元帥より上の地位にいる人間の差し金ではないか。

「どういうつもりじゃァ」
「どう、とは?アバウトな聞き方は感心しませんよ。サカズキくん」

素直にイラっと来てもいいだろうか。

にこにこと顔ばかりは穏やかで切り返しが鋭すぎるアーサー卿に、サカズキは眉を跳ねさせた。しかし相手の言い分もわからぬではない。アーサー卿は慎重な男だ。1つ聞かれたことに1しか答えぬ。1つ聞かれればその先100まで既に把握しているだろうに、相手の質問の仕方が悪ければ何の情報も渡さない。そういう男だ。

サカズキは時計を見た。リコリスが10分以内で戻ってくるのならあと5分程度だ。だが、実際の所は今戻ってくるなと言いたかった。

この男はどういうつもりで来たのだろうか。こういう相手には己から何か問い会話の形を成立させるものではない。じっくりと時間をかけて相手をするべきだ。

クザンか、あるいはボルサリーノのところで時間を食っていればいいが、とそんなことを考えながら、サカズキはアーサー卿を真っ直ぐに見詰める。

「麗しい赤毛の秘書どのであれば、30分は戻っていらっしゃいませんからご安心ください」

こちらとの時間を作るためにあの秘書に何かしらの危害を加えたのか。いや、アーサー卿はそのような男ではない。「紳士ですから」と二言目にはいう男。女性相手に無礼な振る舞いはせぬだろう。だがリコリスの意地をサカズキは軽く見はしなかった。10分で戻る、とあの秘書は宣言したのだ。たとえアーサー卿が何かしらの妨害をしたところで、あっさりと屈するだろうか?

「わしの秘書を甘く見るなよ」

ふん、とサカズキは鼻を鳴らす。まだ秘書として迎えて一日だが、あの秘書が自分に近づくことを企んでいること、そしてそれが何よりも重要である、と意識を置いていることは気付いている。それがどういう「目的」に繋がるのか、それはわからぬが、しかし、己の目的のためならアーサー卿の妨害にも立ち向かうだろうその決意の強さは、認めていた。

真っ直ぐにこちらの目を見つめ返す、あの翡翠の瞳はつまらぬ政治ごとに自身を埋もれさすような弱さはばなかった。そうだ、あの秘書は、火の玉のような娘だ。そのことをサカズキは思う。腹のうちに何かしらの強い決意を抱え、そのためならどんなことでも耐える、という顔をしていながら、弱々しい小娘だ。自身を聊か過信している。この海軍本部で生きては行けぬ、正直さがあるのは間違いなかった。アーサー卿がどのような意図であの秘書をこちらによこしたのかは不明だが、その目的をリコリス当人は知らぬのだろう。おそらくは、ただ彼女自身の「目的のため」に配属されたと信じている。

低く答えながら、サカズキはぎしり、とソファを軋ませて背を凭れさせた。

センゴク元帥があの娘を大将付きの秘書と勧めた。そして当人、その能力は十分であるとサカズキはこの短い時間で既に認めている。人を見る目がないわけではない。そう踏まえてみれば、あの娘はここにいるための基準を満たしているのだ。

「わしの下になった以上、あれはわしのもんじゃ。おどれが手出しすりゃァ、それ相応の報いは受けてもらうぜ」

己の秘書に手を出すというのなら、アーサー卿と言えど手加減するつもりはない。部下を守るのは当然のこと、そしてあの、周囲に利用されるとも知らずただ実直にこちらに向かってくるあの娘が、わけのわからぬ男ども企みに呑みこまれる、というのは、聊か不愉快に思えた。

言えば、アーサー卿は一瞬片方の眉を跳ねさせる。感情を表にするような老人ではないと思ったが、今のは演技ではなくて、抑えられぬ衝動ゆえのこと、と、そう、一瞬で赤犬は判断した。

「どうした、アーサー卿」
「いいえ。あなたは懐に入れたものには情が厚いと伺ったことがありましたが、どうやら事実だったようで。安心いたしましたよ」

アーサー卿に問いかけてもそれ以上答えるとは思わなかったが、意外にも口に出してきた。何か耐えきれぬ愉快げなことでもあるか、というように、アーサー卿はくつくつと喉の奥を震わせて低い笑い声を立てている。紳士足る者人前で笑うなど、と言うような男のその様子にサカズキは聊か戸惑った。

「わしが秘書を認めたっちゅうんがそないにおかしいか」

こちらが笑われているのは分かっているので、不快に思わないわけでもない。甘いのだ、とでも思われたか、それはどうでもいいのだけれど、この男の笑いは癇に障る。

「いいえ、そんなことはありません。他人を慈しまれるお心をお持ちになることは悪いことではないでしょう。そうそう、そんなことよりも、実はここへ来る前に面白い話を耳にしましてね」
「面白い話?」
「えぇ。大変興味深い。この海軍本部に幽霊が出るとか、そういう話です」

にこにこと状況を楽しむ笑顔でアーサー卿が、そんなことを告げてくる。
何か次の話題かと思いきや、よりにもよって「怪談話」か。そう言う話は自分より青雉にでもした方が食いつくだろう。呆れ半分、サカズキはもう用はないとばかりに立ちあがろうとしたが、アーサー卿は首を傾げる。

「おや、ご興味ありませんか?夏の風物詩といえば怪談話でしょう」
「天下のアーサー・ヴァスカヴィルともあろう者がくだらん話に時間を費やすんかい」
「えぇ、大変興味深い話ですよ。海軍本部に出没する幽霊は海兵や政府役人ではなくて、赤い髪の幼い子供だというじゃあありませんか」

それがどうしたというのだ。幽霊の出没条件があるのか、サカズキは基本的に超常現象は信じていない。そんなものは心の隙があるから見たと間違えるのだ、と切って捨てている。

「子供が出るからどうした。大方親の海兵でも探してさまよっちょるとか、そういう話じゃろう」

怪奇現象は信じていない。だが、いかにもありがちな話ではないか。頂上決戦で戦死した海兵たちにはもちろん家族がいる。マリンフォードの港町に暮らしていた海兵の家族はシャボンディ諸島に避難させていたが、そうではない、外部からの海兵もいただろう。その家族が、戦争後荒れた海で海賊によって命を落としている、ということもないわけではない。そういう悲劇が噂になって、人の意識の中にでも入ったのではないか。

そう一蹴にして切り捨てれば、アーサー卿が先ほどと同じ、奇妙な笑い顔をした。

「幽霊は、サカズキくん、あなたに会いたいのかもしれませんよ?」
「なぜわしが幽霊に恨まれにゃならん」
「心当たりはありませんか?」

ないと言い切れるほど綺麗な手をしているわけではないが、サカズキは即座に否定した。戦争中、逃避しようとした海兵を何人かこの手で葬り、その家族が万一それを知ってしまえば恨むかもしれない、という可能性を考えないわけではない。だが、「正しいことをしなかった」海兵を葬ったという事実が己の中にあり、サカズキはそれが間違いだった、とは思っていない。

「ねェな」
「言い切りますね」
「事実じゃけェ、当然じゃろう。そもそもわしは幽霊なんぞ信じてねェ」
「では死者ではないと?」
「見間違いか、あるいは生者がうろついて目撃されたと考える方が自然じゃろう」

もし、何か恨みごとでもあるのなら、堂々と日中出てくればいいものを、態々幽霊に間違われるような時刻に徘徊する、というその性根がサカズキには気に入らない。幽霊なんぞいない、という前提ではあるが、既にサカズキの中でその噂の子供は「正しくない」と判断されている。

ふん、と切り捨てればアーサー卿は困ったような顔をする。しかしそれ以上は何も言う気配がなかった。そろそろ十分が経つ。リコリスは戻ってくるだろうか。不可能な距離だが、そこをどうにかするだろう可能性があった。サカズキは時計を見、そしてバタバタと廊下が騒がしくなってきた。

「……!!!!間に会いましたね…!!!!?」
「ノックもせんほど急いできたんか、おどれは」

ダンッ、と勢いよく扉が開き、飛び込んできたのは燃えるような赤い髪の女だ。相当走ったのか息を切らせ、髪を乱している。どういうルートを使って時間を短縮したか、その髪についている緑の葉を見ればわかろうもの。

「おや、これはこれは、お元気そうで何よりです」

飛び込み肩で息をしていたリコリスに、さして驚く様子もなくアーサー卿は立ち上がることもせず、首をわずかに動かして己の存在を気付かせた。

普段、どんな人間相手にも一定の礼儀正しさを見せる男が席を立つことすらしない。そのことにサカズキは気を取られる。が、次の瞬間、リコリスの喉からか細い悲鳴が上がった。

「……っ、アーサー…ヴァスカヴィル…………!!なぜ、あなたがここに……!」

上気していた頬が一気に青ざめる。疲労に、さらにアーサー卿がここにいることへのショックが重なったか、リコリスがその場にへたり込んだ。

「…なんじゃァ?」
「久方ぶりにお会いするので緊張されたのでしょう。色々伺いたいこともありましたが、それでは私はこのあたりでお暇いたします」

おびえるように体を震わせるリコリスを一瞥もせず、アーサー・ヴァスカヴィルはサカズキに丁寧に頭を下げ、ソファから立ち上がる。退席時にこちらも立たぬ無礼はできぬもので、サカズキも習って立ち上がり、そしてリコリスに近づく。

「どうした」

そこにいてはアーサー卿が出られない。事情は気にはなったが、これ以上アーサーがいては悪化する一方のように思えた。だがリコリスはガタガタと体を恐怖で震わせるばかりで反応せぬ。

「……」

サカズキは溜息を一つ吐き、リコリスのその細い体を抱き上げる。

「っ、サカズキさん…!!!」
「黙っちょれ、落とされてぇんか」
「は、離してください!大丈夫です!一人で、歩けます…!!」

今も震えている女が何を強がるのか。アーサー卿を見れば、何やら考えの読めぬ顔でじっとこちらを見つめているばかりだ。扉の前を開けたというのに、出て行かぬつもりだろうか。サカズキは目を細め無言で退室を促した。結局この老紳士が何をしに来たのかはっきりとした目的は分からずじまいだ。己の様子を見に来た、というのが一番のようにも思えるが、それにしては嫌味が少なかった。

「また、いずれ伺わせていただきます」

サカズキの無言の威圧を受け流すこともできただろうに、ここは素直に引き下がった。アーサーは丁寧に腰を追って、そして扉に手をかける。観音開きのその扉が開かれ、そして閉まるというわずかの間に、ふと、アーサー卿が振り返った。

「赤い髪の女性があなたの傍で生き生きとしている姿を見られるのは、大変喜ばしいことですね」

ぱたん、と、小さな音を立てて扉は閉まった。



+++




「おぉ〜、お、珍しいこともあるもんだねぇ〜。アーサー卿ともあろうと男がねぇ〜」

廊下を歩き、船に戻ろうとしていると頃、不意に声をかけられた。

振り返れば己よりも随分と背の高い、大将殿が壁に背を付けて立っていた。一瞬前に通り過ぎた時にはいなかったと思うが、この男の能力を考えればなんら不思議なことでもない。アーサー・ヴァスカヴィルは深い色をした瞳を細めながらゆっくりと首を傾げて見せた。

「お会いするのは戦争後の会議以来ですね。おや?麗しい詩人のレディは本日はご一緒ではないのですか?」
「ピアくんはねぇ〜、お仕事熱心だから今日もピンクの鳥のところで頑張っているんだよぉ〜」
「それはなにより。お嬢さまは現在、トカゲどのを除いては「薔薇の魔女」の地位に最も近いとされておりますからね。七武海の元で経験を積むのは良いことでしょう」

ぴしり、と、壁に亀裂が走った。

アーサーは穏やかな表情を崩さない。同じようににこにことしているボルサリーノのサングラスの奥にある瞳は、やはり笑ってはいるのだろう。歪められた口元の平常通りの様子にアーサーは感心しつつ、先ほど問われた意味を考え、口にした。

「何かおかしな行動を取りましたか?」
「常に女性には礼義を、っていうのが貴族紳士だったと思ったけどねぇ。まるで蛆でも見るような眼でリコリスくんを見るっていうのは、どういうことなのかなぁ〜と、不思議に思っただけだよぉ」

(事実、蛆ですから)

とはさすがに告げず、アーサーは心外そうな顔をした。

「身よりのないリコリスを引き取り秘書としてお役に立てるよう援助したのはヴァスカヴィル家です。私にとっては娘同然の者にそのような眼をするなど、ありえませんよ」
「サカズキへの嫌がらせのために仕込んだのかい?ん〜、でもこの三日四日でできる仕込み方じゃないよねぇ〜、サカズキの仕事が手伝えるくらいなんだしねぇ〜。不思議だよねぇ〜?」

なるほど、さすがはかつては魔女に心底「嫌な奴!」と嫌われた大将殿である。勘がよく、そしてしっかりと状況を把握しているらしい。

この大将は詩人の娘の伯父であるということから、あの無図眼経由である程度の情報も仕入れているのかもしれない。そのわりに今何も見当がついて居ない、という顔をする、その白々さをアーサーは評価した。

だがアーサーはボルサリーノの問いに答える気はないし、それに敵対も協力もし合うつもりはなかった。己にとって共犯者はジョージ、ハンス、それに戦死したもう一人の、同胞だけだ。彼ら以上の朋はなく、そして彼ら以外を信用するつもりなどない。

「思ったより、堪えてらっしゃらないんですね」
「うん?」
「サカズキくんですよ。赤い髪の女性を傍に置けば、それなりに罪悪感でも覚えていただけるかと思いましたが」

アーサーは己の歩いてきた方向に視線を向け、今頃執務室でリコリスの容体を看ているのかもしれない赤犬のことを考えた。

狙いは他にあるが、しかし、仮にも赤い髪の女性を傍に置けば、あの男の仏頂面にも多少は動揺なりなんなりの表情が浮かぶのではないかと、そんな期待も僅かにあった。

というのに、揺さぶりをかけてみても何の変化もない。つまらぬ反応だ。いや、それだけではなくて、あれほど頑なに隣に誰かを置こうとしなかったあの赤犬が、いくらがいないとはいえあっさりと他人を受け入れた、ということがアーサーには驚きであった。

さんのことを、もうあまり記憶には留めておられないのでしょうね」

記憶喪失か、と疑いたくなるほど、あの男の中からが消えているようにアーサーには思えた。だが、会議でしっかりと魔女の消失について報告していたことから、覚えているはずだ。だというのに、今はまるでいないことが当然のように振る舞う。そのことがアーサーには納得いかない。だが、納得いかぬと言ってどうこうするわけにもいかぬのだ。

「忘れていらっしゃるのなら、好都合です。ボルサリーノくんは、さんをあまり好いていらっしゃらなかったようですから、サカズキくんがさんを忘れてしまっても問題ありませんね?」

問えばサングラスの奥の目が、ほんの僅かに油断ならぬ色をした。じぃっとこちらを眺め、普段のにこにこひょうひょうとした様子がない。アーサーはこの男ほど大将の中で油断ならぬ者はおらぬのだ、と改めて認識する。唯一人、魔女を肉親から出した男で、そしてその魔女は今現在最も「薔薇の玉座」に近いのだ。

現在各地で女性が同一犯により殺害されている、という事件をアーサーは独自に調査している。あんな犯行ができるのは、魔女の関係者しかいない。の死後、一体どういうことが起こるのか、アーサーはが戦場へ赴く前に寄こした手紙で把握している。

何もかもが、ごっそりと変わろうとしている。

シェイク・S・ピアはどこまで気付いているのだろうか。そして、それをこの男に告げているのか。

この己にもまだまだ「油断ならぬ」と思わせる人物がいることを、アーサー・ヴァスカヴィルは楽しんだ。脳裏に浮かぶのは愛しいあの赤い髪の魔女の姿。彼女が最後に己に残してくれた願いを果たすためにこのような廻りくどいことをしてはいるのだけれど、彼女のいない世界も、それなりには楽しめるのかもしれない。




++++





抱き上げたリコリスをソファに下ろそうとしたが、しっかりと首に腕をまわされているため降ろすことができない。マグマの体であるから密着した体が暑くて煩わしい、ということでもないのだが、こういう状況をクザンが見れば、また面倒なことを騒ぐに違いない。

「リコリス・ボルジア。離せ」
「……っ、わかって、ます……でも、体の力が、抜けなくて」

腕をほどこうと言う意思はあるらしい。未だカタカタとリコリスの体は震えていた。あのアーサー・ヴァスカヴィルを前に、この反応。基本的に女性相手には砂糖菓子と花束を、というのを信条にしていそうなほど甘い紳士が、一体何をしたというのか。聊か気にならないわけでもないが、今はこちらをなだめるのが先だ。

「すいません……本当に、すいません」
「まァ、あの御仁はなみなみならねぇところがある。おっかねぇっちゅうんも、ま、わからなくはねぇぜ」

これが武力を重視される海兵であるのなら、サカズキはこのおびえる姿を「みっともない」と叱責しただろうが、この秘書は文官だ。恐ろしいものなど多くあるだろう。見れば回された手首は細く、体とて抱き上げているのに殆ど重さを感じなかった。弱々しい女。それが、己やアーサー・ヴァスカヴィルを相手にして目的を果たそうとまなじりを釣り上げているのだ。

(一体、何を企んでいるのか)

アーサー卿を前にしてこの様子、は、演技ではない。恐怖に顔をひきつらせ、息もできぬというような様子は、演技でできぬわけでもないだろうが、これは違うとサカズキは判断した。ぎゅっと、リコリスの眉間に皺が寄る。

「……お仕事中に、申し訳ありません」
「構わねェ。どうせ20分は休憩するっちゅうんが約束じゃろうが」
「……ぁ、わたし、時間に間に合ったんですね…?」

正確に秒数まで数えていたわけではないが、10分以内に戻ってきたとサカズキは認めた。先ほど床にへたり込んだ際に回収した書類も散らばったが、見る限りきちんとボルサリーノの元へも寄ったらしい。その一枚が近くにあったのでサカズキは拾い上げ、ざっと目を通す。己が供述した通りの文章に、さらにリコリスが手を加えたのだろう。数段とよくなっているその書類にサカズキは感心し、未だ震えるリコリスの額にかかった前髪を払った。

「昨日、褒める気はねェと言うたが、おどれの仕事ぶりは褒めるに値する。ようやったのう」
「……」
「なんじゃァ」

素直に言えば、リコリスの翡翠の目が見開かれた。こちらが何か妙なことでも言ったような顔だ。思わず眉を寄せて見下ろせば、慌てるようにリコリスが弁解してくる。

「い、いえ…!その、あまりにも……思ってもいなかった、ことですから、その…」

みるみるとリコリスの顔が赤くなっていく。自分はどれだけ非道な男と思われていたのだ、とサカズキはいろいろ聞いてみたいこともあったが、その反応が素直に思え、くっ、と喉を鳴らした。

「サ、サカズキさん!私の反応を見てからかっているんですか!?」
「いや、違ぇが、なんじゃぁ、最初会った時、おどれは妙に肩をいからせた気難しいおなごじゃぁ思うちょったが、素直な面もある良い子じゃねぇか」
「い、良い子って、私はもう二十三です!子供じゃありません!」

それでも己から見れば十分子供だ。二十三と言えばシェイク・S・ピアより若いではないか。若いとは思っていたが、まさか大将付きの秘書になる者が、まさか二十段前半とは。そういう若い娘が配属されたことにまた疑念は湧きつつも、サカズキは体の震えも収まっただろうリコリスをソファに下ろした。今度はすんなりと力が抜けたのか、赤い髪がソファの上に流れる。

「……助け、られてしまいましたね。サカズキさん。こんなはずじゃ、なかったのに」
「あの悪魔のような男を前にしちゃ、腰も抜ける」
「いえ、そうではなくて」

アーサー卿が悪魔である、という言い回しに否定はしないらしい。そのことが面白く思え、サカズキはリコリスを下ろしたソファの片隅に自分も腰を下ろす。置き上がることがまだ辛いのか、リコリスは額を押さえ顔を見えぬようにしてから、呟くような小声で続けた。

「今でもまだ、薔薇の魔女を、愛しているのですか」





Fin

 

 

 


 


(2010/08/16)

赤犬さんハビバ☆←もっと祝えよ