世界の冷たさに絶望しながらも

 

                  生きることしかできない


 

 

 

 

 




※このお話には他家「
ジョゼ嬢」の存在ちろっと出てきてます。
 おおっぴらな出番はまだしてません。今回はジャブ的な感じでさせていただきました。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




大海賊“白ひげ”が死んだというニュースは瞬く間に水の都にも届いてきた。パウリーはそのニュースを仕事中に駆け込んできた新聞会社社長から聞いたのだけれど(新聞会社社長はこの街の市長であるアイスバーグにいの一番に相談しに来たのだろう)政府御用達の造船会社ガレーラの若頭殿。おおっぴらにはいえないが政府以上のお得意さんは海賊と、そういうところ、そして海賊の往来も多い水の都での生活の長いパウリーはその報せを聞き思わず顔を顰めた。

「こりゃ、海が荒れるぞ」
「そりゃそうだろ。あっという間に白ひげのナワバリが血の海になる。海賊が活気付けば、造船会社は忙しくなるだろうさ」

ぽつり、と何となしにパウリーが呟けば隣で同じように新聞を見ていたタイルストンが、普段は大声で遠慮がないというのに、やけに周囲を憚るようなそんな窺うような声で答えてくる。左胸から腕にかけて「船大工」の刺青をでかでかと刻んだ大男、パウリーとて体格はよいのだがタイルストンの隣に並べば小柄に見えるというほど。そういうワイルドな男がひっそりと声を潜めているのが何だか「らしく」なく、パウリーは居心地の悪さを感じた。

「繁盛するのは大歓迎じゃねぇか。百も二百も船を見れる。船大工はセンスや才能いかんもあるが、何より経験がものを言うんだって、アイスバーグさんがいつも言ってんだ」
「パウリーにしちゃいい事を言うと思ったらアイスバーグさんの受け売りか」

ほんの僅かに漂った何か平常らしからぬものを振り払おうとパウリーは葉巻に火をつけ、普段どおりの調子で言う。するとタイルストンも豪快に笑う。大声で笑うと空気が震えた。パウリーは内心みょうにほっとした己に気付かぬように注意を払い、新聞から顔を逸らす。

海軍本部で行われた頂上決戦。その余波というのだろうか、時折地震や津波が水の都を襲ってきていた。アクアラグナに比べればマシではあるけれど、ガレーラはその被害を把握し迅速に指示を出したりなんだりでてんやわんやとしていた。その津波がやっと収まって1日。その後に知らされたこの「白ひげの死」である。

多忙だったため、パウリーはまだアイスバーグに、ガレーラの社長にしてこの都の市長である彼にまだ会っていなかった。日数にすれば三日だ。普段のパウリーなら1日5回はアイスバーグの顔を見なければ落ちつかぬので用が無くとも顔を出した。けれどなぜか、本当になぜか当人もよくわからぬのだけれど、パウリーはこの三日間、ガレーラに出勤してきていても、アイスバーグのいる社長室に足を向けずにいる。

指示は電伝虫で受けている。声を聞いていないというわけではないからだろうか。だが、なぜか面と向かって会うことを、なぜか、本当に、なぜかパウリーは「恐れて」いるらしかった。

そしてこの白ひげの死。

「なぁ、タイルストン。一番ドックに入ってたガレオン船、ありゃ明日にでも着水式かと思ったがもう少しかかりそうだっつー話を聞いたんだが」

ふと、何か頭にひっかかるものがあった。それが声高に主張を始める前に素早くパウリーは蓋をして仕事の話を振ってみる。これがルルであるのなら何か感じ取ったろうが、無骨な職人、よい意味でも悪い意味でも単細胞(失礼)な漢のタイルストンはそういう違和感はわからない。

あぁ、とふられた話題を頭の中で思い出してみて首を捻る。

「おれもまだ直接確認しちゃいないんだがな。昨夜のうちに仕上がってたのに今朝確認したらマストが折れて、あちこち損傷があったらしい」
「海賊の仕業か?」

ガレーラでは時折あることである。
支払いを拒み職人たちにフルボッコにされた海賊らが腹いせにドックに忍び込んで修理中の船に悪戯をする、などと、まったくロクでもない。もちろん警備はあるが、前回のアクアラグナ以降、正確にはアイスバーグ暗殺未遂後からガレーラは、人手不足だ。職人の数が大幅に減ったわけではない。ただ、これまでガレーラに喧嘩を売るバカを蹴り飛ばしてきた代表格が、ほんの少し、減ったと、それだけのことである。

しかし海賊の仕業であるのなら報復せぬ道理はない。パウリーが問いかけるとタイルストンは「いや」と首を降った。

「それが、今そういうことをやりそうな海賊の心当たりがねぇんだ。エニエスの事件があってから連中は妙に大人しくなってたからな」

そうだった、とパウリーは失念していたことを思い出す。

エニエス・ロビーでの事件の後、麦わら海賊団が出航の後に水の都は海軍の手入れが入った。まだ修理途中だった海賊船も没収されたし(当然その船の海賊らも)そのお陰でここ最近、仕事は落ち着いていたのだった。それで地震や津波の人手に借り出されたのだ、と思い出しパウリーは頬をかく。

「じゃあなんだってんだ?」
「さぁな。今調べてるらしいんだが、マストにしてもほかの損傷にしても刃物や何かで切ったあとにゃ見えねぇらしい。風が強かったからな。自然災害ってのもありそうだ」
「確かにな。ここ最近津波だけじゃなくて風も強かった」

受け合いながら、しかし強風如きでガレーラのマストが折れるだろうか、とも疑った。しかしタイルストンは詳しいことは調査結果を待てばいいと、そうあっさりと言う。

まぁ、確かにここであれこれ考えていてもらちもないこと。パウリーは頷いて、仕事に戻った。

一度焼けかけたガレーラ本社はあっという間に復興して、今はもう何事もなかったような、そんなあっさりとした顔で再び水の都に建っている。その当然というような本社の様子を見てパウリーは「どうだ、何があったってびくともしねぇんだ」と誇らしい思いの半分、なぜ何も変化しないんだと、そんな身勝手な思いを抱いていた。

「………」

そんなことを考えるな。

パウリーはぱしんと頬を叩いて、そのまま早足で持ち場へと駆け出す。しゅるりしゅるりと服の中でロープの擦れる音がした。

『全く、いっつもパウリーくんってば慌ててる。ちょっとは落ち着きなよね?』

懐かしい声がして、パウリーは後ろを振り返った。

「おふくろ?」

だが背後には造船風景が広がるばかりで、慣れ親しんだデッキブラシに跨る幼女の姿はない。







+++









「あんたたちのせいだ…!!あんたたちのせいで…!!おれのとーちゃんと、かーちゃんは!!」

唐突に怒鳴り込んできた子供をびっくりと見つめてきたのは青い目が一対。てっきりいつも見ていた船大工が二人と秘書がいるばかりだと思っていた少年は相手と同じくらいに驚いて目を丸くする。が、それも一瞬。この場所にいるということは、この暖色の髪のこいつも「仲間」だと、「同罪」だと、そう判断して勢いを取り戻す。

「かえせ!かえせよ!あんなおっかねぇもん作って、何が船大工だ…!ひとでなし!あくま!」

言いながら少年の目からぽろぽろと涙がこぼれてきた。

ほんの数日前のことが浮かんでくる。大好きな父と母の顔、浮かんできて、もう二度と見えないのだと突きつけられる。

少年はこの町で生まれ育った。
行き来の難しいグランドライン、さらにはアクアラグナなんていう厄介なもののあるせいでこの水の都はいつだって貧しかった。少年の父は船大工だったが、材料さえ満足に無いこの島で稼ぎはないに等しい。それでも母と父、それに少年の三人は仲むつまじく暮らしていた。少年の母は体が弱くて、いつも満足に食べられない所為で寝たきりだった。

だから少年は出来る限りのことをした。廃材を拾って裏町に売りに行ったり、父親がいなくて母親が働かねばならぬ家の子守をして食べ物をわけてもらったりと、そういう風に、生きてきた。

「何が海列車だ…!何が、この島を救うだ……!!」

数年前に、この島を救うことになるという海列車ができた。少年は父に連れられ見に行った。『これがこの島を救うんだ。そう、トムさんが言ってる。なぁ、おいパウリー、嬉しいじゃねぇの』と、そう父は言った。

それなのに。

「おまえたちのせいで…!おまえたちの作ったもののせいで、とうちゃんと、かあちゃんが……!」

ぐいっと、パウリーは黙っている少女の胸倉を掴む。上等な服だ。パウリーはこれまで触ったこともない布だ。そういうものを当然のように着ているこの少女、恵まれているんだと一目でわかった。恵まれていることは、腹が膨れているのは悪いことだと、その時のパウリーは本気で思っていた。ひもじい思いをしている人間は多くいるのに、お腹がいっぱいだと、そう思っているやつもいる。そのことがパウリーにはゆるせなかった。そしてその恵まれたやつ、は、この造船会社にいるのだ。

敵意をむき出しにして叫び、感情のまま少女を殴ろうと拳を振り上げた。

「…!おい!何してる!!」

人を殴ったことならある。裏町で生きていくためには子供だって大人と対等にならなければならない。外を出歩けば殺されても仕方ない、それが貧しい水の都の現実だった。だからパウリーは目の前の「敵」を殴るのに躊躇しなかった。おもいっきり力をこめた。

それなのに、その拳を振り下ろす前に、ぐいっと、後ろからさらに強い力で腕を掴まれ動けなくなる。

「!!な、なんだよ!放しやがれ!!」
「ンマー!なんだ!おい、!なんなんだこのガキは!」
「名乗るマナーがあるように見えるの?アイスバーグくん」

突然背後から現れた船大工が顔を顰める。パウリーはこの顔に見覚えがあった。薄紫の髪に薄汚れた手ぬぐいを巻いている。ここの船大工だ!喉の奥で叫び、掴まれた腕を振りほどこうとするのだがびくともしない。

焦りいっそう暴れる少年をちらりと一瞥してからアイスバーグは床に倒れこんでいるに顔を向けて問いかけるが、首を傾げるばかりである。今まさに暴力を振るわれんとしていたとは思えぬほど飄々とした様子の少女にアイスバーグは呆れたようにため息を吐き、ぐいっと少年の腕を背中に回して捻り上げる。

「!!痛てててっ!!痛ぇな!何すんだよ!!オッサン!」
「オッサン…!?ンマー!!おれはまだ30歳だ!!」
「あのね、それはアラサーっていうんだよ、ぼく最近教えてもらった」

妙に得意そうには言うが、オッサン発言に対しての擁護ではなさそうである。

あれか?ちょっと前からココロさんがおれの洗濯物をお前たちのと分けるようになってるのはそういう理由だったのか、などと考えつつアイスバーグはこほん、と咳払いをした。

「ンマー、とにかくなんだ。お前は。見たところ客じゃねぇだろ」
「ふざけんな!だれがこんなクズ会社の客なんてするか!」
「ねーぇ。アイスバーグくん、この子吊るしていい?」
「潮の高さに注意して吊るせよ」

あっさり言う二人にパウリーはちょっとした恐怖を覚えたが、しかし、ここで少し頭も冷えた。ぐっと拳を握り、肩を振るわせながら船大工を睨みつける。

「ほんとのことだろ!人殺しの道具なんて作りやがって…!おまえたちのせいで、おれのとうちゃんとかあちゃんは死んだんだ!」

叫び、パウリーの目にまた涙が溢れてきた。

忘れもしない。海列車が開通して、それで島の暮らしぶりもよくなるとそう誰もが喜んで、喜んで、喜んだ。父は仕事のあてができ、そして母も少しずつ歩けるようになった。

半年前のことである。

海列車を作ったという魚人の船大工の裁判が行われるから。父は是非彼が無罪になるその場に立ち会いたいとそう言って、そして母もお礼を言いたいと、そう言って、家族三人で出かけた。

「あのときまで…!皆があんたたちを信じてたんだ!!それなのに…!それなのに…!」

地獄のような光景だった。
ガレーラ製の殺戮兵器が突如として海に現れて、司法船を襲った。パウリーたちはその攻撃に巻き込まれ、そして両親は死んだのだ!

「あの事件で死者は出てねぇはずだが…」
「あの時はな!おれの親はあの時大怪我したんだ!その怪我がもとで、仕事もできなくて、金もなくって、治療もできなかったんだ!」

海列車が開通した。生活に希望が見えてきたとはいえ、それでもまだ、十分ではなかった。いや、準備はできていたのだ。家族三人幸せになれるように、これからだ、とそういうときだったのに。

叫ぶパウリーにアイスバーグは顔を顰めた。何か言いたそうな、しかし何を言っても無駄だとわかっている顔である。ぐっとパウリーは唇を噛み締める。

責める言葉はここに来るまで山のように沸いてきた。憎む心はこの半年間湯のように煮えたぎっていた。けれど今こうして張本人を目の前にして、ただただ悔しいだけだった。

悔しい、そうだ、何が悔しいのか。

誰もがトムという魚人を、そしてその二人の弟子を信じていた。海列車という奇跡のようなもののすごさを誰もが認めていた。それを齎してくれた三人に感謝と、敬意を持っていた。

それなのに裏切られた。そして、両親を殺されたのだ。

乱暴に涙を拭い、パウリーは叫ぶ。

「なんでだよ!なんで、どうしてとうちゃんたちが殺されなきゃならなかったんだ!人殺し!人殺し!返してくれよ!!父ちゃんと母ちゃんを返してくれよ!」
「……」

叫んでいるとパウリーは悲しみを忘れられた。怒鳴って、相手が間違っているのだとそう突きつけると気分が晴れた。しかしその代わりにもっともっと、という憎悪が沸いてくる。どうしようもない、歯止めが利かないのだ。アイスバーグは何も言わない。ただ黙って、顔を顰めてパウリーを見下ろしているばかりだ。これが反論でもしてきたのなら、パウリーはもっともっと罵るつもりだった。けれど何も言わない。何も言わなくとも、パウリーは罵倒を続ける。

「おまえなんか船大工なんかじゃ、」
「っていうか、そんなのぼく関係ないし?それで殴りられかけるとか、すっごいかわいそうだし?ぼく」

どん、と、パウリーの背中が押された。いや、蹴り飛ばされたのだと気付いたのは地面に頬を押し付けられたからである。ぐっと小さく呻くとその背中を踏みつけたままの体勢でどこまでも傲慢に少女の声が響く。

、よせ」
「煩いよ、おバカ。どうせいいたい放題言わせてあげるんでしょう。ぼく、そういうのすっごい嫌」
「間違ったことは言ってねぇだろ。こいつは」
「何が正しいかなんてぼくに意味あると思ってるの?」

尊大にふんと少女が鼻を鳴らす。こうなっては宥めるのは難しいと経験上アイスバーグはわかっていた。しかし今現在ボキボキと少年の背骨が軋んでいく音が響いているもので、それを放置するわけにはいかぬ。疲れたようにため息を吐いて、アイスバーグはの頭をぽん、と叩く。

「おれが頼んでるんだ。止めてやれ、
「そういう風に言われるとぼくが困るって知ってるのにきみっていうよね」
「ここぞというときだけじゃねぇか」

真面目くさった顔でアイスバーグが言えば、が肩を竦める。しようがない、と小さく呟いてパウリーの背中から足を離す。げほげほとパウリーは咽た。

「俺まで殺すのかよ…!」
「ふふ、そうだよねぇ、そうしたらご両親のところにいけるよねぇ。それも優しさっていうのかい?」

完全に悪役の見本のような台詞をはき、少女が胸を張る。

パウリーは悔しげに顔を顰めて、また罵ろうと口を開きかけるのだが、今度は背中ではなく前からぐいっと、少女に押し倒された。硬い床に背中を打つ。先ほどしたたかに踏まれていた上でのこの衝撃はこたえるが、苦しそうな顔をすると相手に見縊られると、そんな強がりがあった。

しかし少女はそんなパウリーの虚勢なんぞ気にするそぶりも見せず、ぐいっと縄を引っ張った。いつのまにかパウリーの首には荒縄が巻きつけられていた。

「感謝をおしよ、坊や。アイスバーグくんが頼むから殺しはしない。でももう二度とここに来ようなんて気にならないようにこのぼくが、躾けてあげるよ」

瑠璃のように美しい青の目が細くなって、そして毒々しい光を孕む。パウリーは恐怖がわきあがったが、しかしそれでも、敵意は失わなかった。

「負けるかよ…!お前たちみたいな人殺しなんかに、水の都の船大工の息子が負けるもんか…!」

強く叫べば、その途端、少女の眉が不快そうに跳ね上がり、ぐいっと、縄が上に引っ張られた。






++





げほり、と喉を押さえてパウリーは咽る。葉巻の煙が上手くすえなかったのか、げほげほと喉を鳴らして顔を顰める。

仕事上がり。今日はヤガラレースもないのでじっくりと残業をしてきた。納期が近いものが請負の中であるわけではないが、出来る限りパウリーは気の済むまで仕事をしてから帰宅する。

随分と遅くなってしまった。もうやっている店もない。一人暮らしのパウリーは外食が多い。以前は夜かなり遅い時間まで開いていた店が一軒だけあったけれど、それはもうない。

しかし腹は減った。パウリーは自宅の冷蔵庫の中を思い出し、首を降る。ロクなものは入っていない。確か卵と牛乳、それにパンだ。だがパンは一欠けらだ。これにベーコンでもあればいいんだが、と呟き、パウリーは苦笑する。

そういえばが水の都に滞在しているとき、毎朝作ってもらった朝食には必ず卵料理があった。だからパウリーは家の卵は欠かさない。いつがきてもいいようにと、そうしているのだったと思い、なんだかおかしく思う。

「そういや、おふくろ。無事かねぇ」

なるべく考えないようにしていた。

海軍本部で戦争が起きた。パウリーが「おふくろ」とそう呼ぶは海軍本部にいる。直接会ったことはないが、の傍には海軍大将がいるらしい。まさか戦争に参加はさせられていないだろうと思うが、しかし世界戦力が傍にいるのなら大事はないだろうとも思う。

またひょっこり顔を出すだろう。

「って、それより今は俺のメシだ」

どうする俺!とパウリーは真っ暗な水の都をひょいひょいと進みながら唸る。幸いなことにこの数日忙しかったため珍しくまだ給料は残っている。であるから金がなくて食べられない、ということではない。店さえやっていれば。

時刻は日付が変わるかどうか、というところ。さすがにこんな時間までやっている店はこの水の都にはない。治安のよい街ではあるが、夜は水の恐怖もあるため外出するものは少ないのだ。その上今はあちこちまだ壊れた場所がある。月明かりのみで歩き回るのは慣れたものにも難しいもの。パウリーはわりと夜目がきくが、それでも徒歩のみの移動は危なかった。

「ジョゼ、そうだ、ジョゼの店はやってねぇかな」

保証はないが、この街で「変わり者」と名高い彼女の店なら気まぐれにこんな時間までやっていることもあるかもしれない。時折丑三つ時までも開店していたことを思い出し、パウリーの顔が輝く。

ジョゼ、ジョゼ。この水の都にある飲食店。小さなこじんまりとした個人経営。喫茶店というかバーというか、やる気のない店であるとしかいえない。店主ジョゼの気まぐれ次第では子羊の赤ワインソースが出たり、コップに突っ込まれたセロリだけ(しかも切ってない)が出たりと、そういう店である。

そのジョゼ、元々は「よそ者」だ。どこから来たのか誰もわからない。ある日ひょっこり水の都にやってきて店子と話をつけて今の店を構えた。二階は住居になっているようだが誰も上がったことがない。パウリーよりかいくつか年上だとかで、そばかすのちった顔に黒髪、美人とはいえないが妙に愛嬌のある顔で時折ぎょっとするような発言をするもので、いつのまにか水の都の住人になっていた。

頭の堅いパウリーは普段であれば「深夜に女一人のところを尋ねるなんて破廉恥だ!」と言うところなのだが、生憎ジョゼ=店主・つまりは食べ物の提供者であるのでそういう方程式には当てはまらぬ。

それでひょいっと待たせていたヤガラに飛び乗りジョゼの店に向かおうとした。

「……ん?」

ずるずるっと、何かが引きずられるような音がした。水の流れの音に紛れてしまいそうな微かな音である。しかし耳に引っかかった。

パウリーはヤガラを動かさぬまま耳をすませる。

ずるずる、ずるっ、と、やはり何か、音がする。

「何だ?」

ヤガラに問いかけるがパウリーと同じく首をかしげるばかりだ。顔を見合わせ、パウリーはひょいっとヤガラから離れて路地に立つ。

どこかからか聞こえる音。どこだ、と耳を済ませて、すぐ近くだと知れる。

水の都の移動手段はヤガラが主だ。路地を行くこともできなくないが、住人は夜分になればなおさらヤガラを使う。そんな中動いているのは何だろうか。動物か、とも考える。だがずるずると何かを引きずる音など立てるか?

パウリーは葉巻を踏み消し、息を潜める。

何が妙なものがいるんじゃないかと、そんな気がした。

津波で何か流れてきたのか。時折海王類とまではいかずともグランドライン独特の生き物が打ち上げられることもある。そういうものが夜中にひっそりと目を覚まして水の都を移動しているのか。朝になれば住民がおきてきて悲鳴を上げるかもしれない。

服の下のロープを意識しながらパウリーは耳を済ませて音のもとを探り、慎重に慎重に奥へ進んだ。

ずるっと、少し大きな音を最後に聞こえなくなる。水の中に逃げた、あるいは落ちたのならそういう音もするはずだが、それはない。まるで力尽きたようである。

パウリーがゆっくりと進むと、ぬめっ、と足元が軽く滑った。

「っ、危ねっ!」

明りを持っていないのだ。うっかりここで足を滑られてしまっては事故につながる。思わず声をあげ、パウリーは口元を押さえた。

「……」

気付かれてはいないのか、きょろきょろとあたりを見渡すが、変わったことはない。路地裏のため、そして丁度雲が月を隠していて当たりは真っ暗だ。慣れているパウリーは壁を伝い記憶にある地図を確認することで何とか進めているという状況。

「…っ!?」

ひゅんっ、とその時、何かがパウリーの頬を掠めた。まだ火をつけていないで咥えたままにしていた葉巻が半分に切断され、ぽろりと落下する。

「……は?」

何が起きたのだ、とパウリーはわかららず間の抜けた声を出す。だが答えが返ってくるわけではない。ただ、今度はひゅぅひゅぅ、という、奇妙な音が聞こえた。

「誰か、いんのか?」

以前、に「そうやって応える不審者はいないよね」とからかわれたことがあるが、心情的にきいてしまうのは仕方ないのだ。おそるおそる、しかし、恐れてなどいないというように平時の声を勤めて出せば、またヒュウヒュウという音がした。何かいるのは間違いない。だが見えない。

眼を細め、路地の奥にいる何かを確認しようとした、その時、雲が晴れて月明かりが路地裏に差し込んだ。

「……」

最初に見えたのは、鮮やかな赤だ。そして酸素を吸って赤が濃くなった黒。その下には嘘のように真っ白い、ほっそりとした足。そのまま上を辿れば、赤く染まったナイトドレス姿の、瑠璃色の髪の女が赤くきつい目つきでこちらを睨みつけていた。

女の片手はその喉を押さえている。パウリーは音の正体を知った。

ひゅうひゅうと音を立てているのは女の喉だ。穴が開いている。それが女が呼吸をする度に奇妙な、そんな不気味な音を立てている。ごほり、ごほっと時々血が溢れるらしく、女の胸は真新しい血で輝いていた。

喉を押さえる手と反対の手はパウリーに向けられている。手を差し伸べるというよりは、何かそれが一つの攻撃の手段のように見て取れ、先ほど葉巻を切断した何かしらはこの手によるものかと、そんなことを思う。

「……って、そんなこと考えてる場合じゃねぇ!おいあんた!大丈夫か!?」

女の顔は血と泥で汚れている。泥?この、水の都には土は殆どない。ではこの女はどこから来たのか、疑問に思うが、まず血だらけで怪我をした人間が目の前にいるのだ。とにかく医者、応急処置をしなければ!慌ててパウリーが近づこうとすると、ヒュン、とまた何かが通り過ぎた。今度はざっくりと耳の横の髪が切断された。

「おい!俺はパウリー!ガレーラの船大工だ!あやしいもんじゃねぇ!」

夜分女性が一人きりでいて、男が突然近づいてきたら恐怖もあろうか。考慮はしたかったが、見ている限り怪我は酷そうだ。パウリーはなるべく怯えさせぬよう声のトーンを下げながら、両手を挙げて訴える。

「あんたを医者に連れて行きてぇだけだ。向こうにはヤガラがいる。ここにつれてきて、そのままあんたを乗せるから、信じてくれ」

女の目から敵意には消えなかった。何か言おうとしているのだろうがひゅうひゅうと喉が鳴り、血があふれるばかりで声にはならない。たまらなくパウリーは声を上げた。

「無理すんな!死んじまったらどうすんだ!」

手負いの動物だってこんなに敵意に溢れた目はしないのではないかと思うほど、女の目に輝く警戒心と敵意、いや、それは憎悪のようにも思えるほど、強く激しい感情がパウリーを拒絶していた。だが、放っておくことなどできるわけがない。

パウリーはわしゃわしゃと頭をかいて、考える。

女に乱暴なことはしたくない。これは本心だ。いつだって女というのは守るべきものだと、そうパウリーはに教え込まれてきた。だがここで紳士的な態度をしていては死んでしまうかもしれない。

母の教えと人命、どちらがどちらかと、そういう天秤は本位ではないが、しかし、ここで意地を通すよりは、やはり人の命というものは重いに決まっているのだと、そういう答えはあっさり出る。ただ、あとの問題は、初対面の女性に対して無礼をはたらけるのかと、自分への葛藤である。

「……よしっ!いける!俺はやればできる…!」

半分マインドコントロール入っている。

パウリーはぐっと自分に言い聞かせ、己を睨みつける女にぐいっと近づいて(そのまま何度かカマイタチのようなものが襲ってきたが)何とか抱き上げた。

「!〜〜!!!〜〜!!」
「あ、暴れんなよ!傷が広がっちまうだろ…!」

抱き上げてからも女は大人しくしない。寧ろ捕らえられたことを嫌がるように身を捩る。その怪我でここまでの力が出せるものかと感心したくなるほどの勢いであるが、しかしパウリーにはたまったものではない。

ぴたり、とパウリーはヤガラへと進もうとしていた足を止めた。それを隙と判断したか女がいっそう暴れるが、しかし、パウリーは一つの覚悟をしている。

「悪い!」

きちんとお詫び一つを言ってから、パウリーはごんっ、と女の額に自分の頭を思いっきり打ちつけた。
ようは、頭突きである。

一応手加減はしたのだが、狙い通りというかなんというか、女はあっさり気絶してくれて、そしてパウリーはほっと息を吐く。

とりあえずヤガラに乗せて、医者に見せよう。





Fin




始まりました水の都編。

(2010/11/17 21:02)