酷い殺し合いもあっさり終了できるものなのかとパンドラはさめざめ思い、カツン、とヒールの踵を鳴らした。歩くたびにすらりと長い足が窺えるというのにこの戦場では目を留める色ボケの少ないこと。それなら露出をする意味はあるのかどうかと考えるが、女の露出は何も殿方へ向けられるばかりではない。女同士の競い合い。意識化でのどちらがどちらか、というための一つの武器の、そのように思えるパンドラ・であるから、今現在この戦場集結の場において寒いと体を震わせることはあっても、といって着込む気はないのだ。
「とりあえずアタシも新しい服が欲しいわ。いつまでもこんな囚人服じゃねぇ。女でいるのにもったいないじゃないの」
「えぇ、そうね、カタリーナ。あなたのその囚人服も素敵だけれど、女でいるのなら十分に整えられているべきね」
ふと隣を歩く若月狩りが呟くものだから、その言葉を拾い上げては小首を傾げる。どうも、どうやらこの黒ひげ海賊団の面々は女のそういう心に疎い。一人ひとりがそれなりに個性のある格好をしているというのに、が髪に花を飾ろうが、カタリーナ・デボンがいつまでも囚人服でいようが、まるで無頓着なのだ。
「ムフッ、ねぇ。、アナタなら次はどんな服がいいと思う?」
独り言にせずが答えたことでカタリーナ・デボンが顔をこちらに向けてくる。独特な笑い声だ。それでいてこの女には妙な愛嬌がある。過去どれだけのことをしたのか、それは、目覚めたばかりのには知るところではないけれど、それでも妙にこの女はかわいらしいところがあるように、この短い間には思っていた。
今現在戦争、戦争、の、終結。赤髪の海賊が現れて、その顔を立ててこの戦争を終わらせろとそのような要求。同じ海賊風情の言葉だろうに、あっさりと海軍の元帥殿は飲み込んだ。そのことがパンドラには解せない。殺し合いを始めたのは間違いなく彼らだろうに、そして彼らが殺した海賊たちと何の違いもなく、あの赤髪も海賊だろうに、この戦争は、終わったのだ。
そういうわけで、今現在パンドラ・はラフィットのエスコートを受けて黒ひげ海賊団の面々の元に戻り、そして丸太船まで向かい皆で仲良く移動中、とそういう最中。通り過ぎる負傷した海兵らがこちらを憎々しげににらみつけているが、戦争が終了したとそのように決まった以上、誰も手出しはせぬのだ。
(えぇ、きっと、さぞ悔しいでしょうね)
腑に落ちぬところは多い。としてはこの終了が気に入らぬ。あの男をこの場で殺すことができなくなった。屈辱に塗れさせることができなくなった。戦争が終わってしまった、とそんなことは到来この己には何の関係もないことで、それならあっさりと、いまも戦場にいて海賊を睨みつけているあの赤い大将殿を罵倒してやれるのではないかとおもうのだけれど、しかし、今現在の己はそうはできない。
己は今、黒ひげ海賊団の一員になっているのである。己が手前勝手なことをすれば、それはそのまま黒ひげへの負担になる。であるから勝手はできぬが、しかし、このしらがみというのがには面白い。
己のことはさておいて、あの赤犬にとってもそれは言えること、これが愉快と思わずにいられるものか。
(目の前で海賊たちが逃げていく。あなたの前を通過していく。あなたは海賊を「殺せなかった」事実がある。それなのに、あなたはリリスを殺したのよ)
指差して突きつけてやりたい気分だった。いや、リリスが殺された、そのことは胸が苦しくなる悲しい事実だ。だがしかし、そこであの大将が、赤犬が、海賊・悪を逃がしたという事実があるのに、を逃がすことはできなかったと、そのことが、パンドラにはたまらない。赤犬は犯罪者・悪を一切合切許さぬ構え、それであるけれど、この戦争の終結を元帥が決めれば従った。手出ししたいだろうが、していない。そうして逃げるのを許した。
あの男は己の意地を通すことなく、組織の人間としての己を通したのだ。
ならばなぜを殺したのかと、パンドラは笑い飛ばしてやりたかった。
「そうね。カタリーナ。あなたはとても魅力的な体をしていますから、何を着ても似合うと思うけれど、わたくしならあなたにイヴィニングドレスを着ていただきたいわ」
「そういうお上品なの、嫌いじゃないけどね。ムフッ、暴れるにはちょっとばかり心もとないじゃないの」
「あらいやだ。カタリーナ、長い裾から流れるように除く足首ほど女性らしさを感じるものはないとわたくし、そう思っておりますのよ?」
砲弾の音も止み、カツカツと歩く音が響く。深いところではまるで別のことを考えながらパンドラは表面上はカタリーナとの会話を楽しむ。女同士の会話など所詮そのようなもの。頭では違うことを考えながら表向きはおあつらえ向きの微笑。だからこそパンドラは楽しめる。それはカタリーナも同様であろうか?いや、違うだろうとは判断している。まだ短い付き合いだが全ての女が「お姫様」「魔女」のどちらかの要素を持っている中であっても、どうも、どうやらこのカタリーナ・デボンはそうはなっていない。それが新鮮であり、だからこそ彼女はその女の身でインペルダウンという場所の最下層に男囚人らと変わらぬ扱いを受けていたのではないか、そう、そんなことを思う。
そういう意味で言えばはカタリーナに興味があった。や己にとっては女というものは必ず姫君か魔女。だがそうではない可能性がカタリーナを見ると考えさせられる。それこそ、己が知らねばならぬことなのではないかと、そんな予感だ。
姫君、魔女。その枠から離れることができれば、あるいは己は何かしらの運命だとか、そういう埒もあかぬものから逃げ出すことができるのではないか。そして、の白雪姫の技によって奪われた狂気という力を、別の形で取り戻すことができるのではないか。
「そうそう、尻尾を巻いて逃げるがよい。これ以上この場に貴様らのようなものがいるのは不快なのだよ」
一瞬思考に沈んだの耳に、聞きなれぬ、だが意識下で恐怖を湧き立たせる声が届いた。
「!?」
咄嗟にパンドラは左へ大きく跳び、そしてカタリーナは獲物を構えた。後もうすぐに丸太船にたどりつく、というその間際。少し前を歩いているシリュウと黒ひげが立ち止り、そして顔を顰めた。一足早く丸太船に到着し、出航準備を整えている面々も突如湧いたとしか思えない気配に顔を出す。
「………狂い咲きキキョウか?白ひげんとこの」
少しの沈黙ののち、現れた人物の正体を正確にしようとシリュウが葉巻を地面に捨てながら問う。いや、問いの形というよりはそれは呟きに近かった。
瓦礫の上に立ち、真っ直ぐ真っ直ぐな姿勢。そうして高圧的にパンドラを見下ろすのは髪の長い一人の娘だ。娘、という形はしているが雰囲気はまさに「女」とするに相応しいどこか毒々しいもの。長い髪に、擦り切れたボロ布のようなものがかろうじて体にまとわりついている、という、乞食だってもう少しましな格好だろうと思える姿の、女である。
姿かたちは、白ひげ海賊団の「狂い咲き姫」キキョウ。カッサンドラの魔女と呼ばれる娘のものと思える。だがしかし、その雰囲気、髪の色が違う。色素の薄い灰のような髪のキキョウと違い、この女の色は輝く金色である。そしてなにより決定的に、盲目であるため顔を布で覆っていた彼女と異なり、その顔、燃えるように赤い瞳が露わになっている。
リシュウの声に「女」はぴくりと眉を神経質そうに動かし、赤々とした唇を歪めた。
「わたしが誰か貴様らなどが知る権利はない」
「わたくしは知っているわ。えぇ、忘れはしない。なぜ今このタイミング、この状況であなたが現れるのです」
女が侮蔑を孕んだ目でリシュウを一瞥する間に、パンドラは湧き上がる恐怖心を克服したのだろうか。ゆっくりと立ち上がり、油断ならぬ表情を浮かべながら現れた女を見つめる。
「おい、パンドラ、」
「お下がりください、猊下。この女の相手はこのわたくしが致します。どうか、お早くお行きになって」
ただならぬ雰囲気を出すパンドラを黒ひげは首をひねって見詰めた。圧倒的な力を持つ女。この世にある悪魔の実を跪かせることのできる女と、それがティーチの中のパンドラという女の認識だ。あのだって敵わぬ、そういう女が今、死にかけているキキョウという(ティーチはキキョウと面識がある。当然だ。ティーチはキキョウが拾われる前から白ひげ海賊団にいた)くだらない女を前にして冷や汗を流している。
「うん?わたしは構わんぞ?そこの達磨の首もな、キキョウは所望しておった。身の程もわきまえずこのわたしに挑むというなら挑めばいい」
「キキョウ。あなたが奪い取ったその体の持ち主の名ですね」
「奪ったなどとは無礼なことを。貴様も承知のはず。わたしはいつだって誰かの願いを敵えてやって、その代わりにわたしの欲しい物を頂いているのさ」
女が愉快そうに喉を鳴らす。そうしてふらっと指を振れば女の細い手にストンと煙管が落ちた。羅宇の黒い、先は金の刻み煙草を嗜む道具。続けてパチンとやれば雁から煙が上がった。それを美味そうに吸いながら女はその赤い目を細める。
「やはり生身の体はいい。といっても、わたしとてこの体は本意ではないのだよ。わたしが欲しいのは1000年の孤独と憎悪を孕んだ娘の体。キキョウという娘の体は、どうも乳臭い。わたしには馴染まぬ、守られ愛されてきた娘の体だな」
「その評価、当人が聞いたら憤慨しますよ。カッサンドラの魔女はその身の不幸を随分と嘆いていらしたようですから」
「はは、はは。そうだろうな。わたしが唆す前に随分と、自分は不幸なのだと追い詰めていた」
唇から煙管を離し、女はちらりと周囲を眺める。海軍はいない。黒ひげ海賊団が無事逃げおせるように周囲には誰もいないのだ。パンドラは舌うちをしたかった。この場に、もしも赤犬や元帥、あるいは赤髪がいたらどうなっただろうか。己は少なくともこの場で黒ひげたちを庇うことはなかっただろう。この女の相手を連中に押し付ければいいだけだ。
だが今この場にこの女の正体を知るものは己しかいない。
「それで、キキョウと契約を?」
「あぁ。貴様の命、マグマの男の命、そしてそこの達磨の命の三つを望んだ。本当は何もかも、白ひげに害する命全てを望んだが、サービスしてやってもお代が全く足りないのでね」
「……わたくしの妹の命は望まなかったのですか?」
キキョウはを深く憎んでいたはず。それなのにその中に含まれていなかった。キキョウはの死を知らぬはずだ。そしてこの女の目的がの体であるから免れていたということはない。命など必要ないのだ。体さえあれば、それでこの女は事足りる。だから1000年前はたちが懇意にしていた村々に疫病をはやらせ、魔女狩りなどという行いをさせたのだ。解せぬ、という顔を向ければ、女がころころと笑った。
「あの娘、最期の最後に認めただけだ。「本当は、これっぽっちものことを憎んでなどいなかった」とな」
「……なぜ?」
「は、はは、は。そんなことわたしの知るところではないのだよ。ただそうと認めただけだ。だからわたしはの命は奪わない」
言って、女はふと興味を抱いたらしく口元に手を当てる。
「。は、は。、と、そう呼ばれ続けていたらしい。それは貴様の愛称であったのにな?500年間、あの娘はそれを使ったのか。はじまりはわたし、次は貴様。いつも、いつだってあの娘は自分の名前を持たぬのな」
ふらりと女の手が動いた。次の瞬間、パンドラの胸から血があふれだす。油断をしていた覚えはない。だが、攻撃を受けたのは事実だ。
ふらりと体を崩しながら、パンドラはこちらに歩み寄ろうとするカタリーナを制した。
「手出し無用ですよ。カタリーナ」
「助けるつもりなんてないわよ。でもねぇ、アタシたちのことも簡単にイカせてくれなさそうじゃない?」
「いや?そうでもないぞ。挑まねば今は見逃してやるぞ?」
ふわりと女は微笑を浮かべた。この状況下でなければ男の心をとろけさせただろう夢のような笑顔。もともとがキキョウの体ということが念頭にあっても、砂糖菓子のような甘さを感じさせた。
「今はな。今は、キキョウの第一の願いは白ひげ海賊団、あの連中がこれ以上死なずにこの場から去ることなのだ。海軍とかいう連中は手出しはすまいが、貴様らはいつ気が変わってくだらぬことをするかわからぬから見張っていてほしいと、そのようにキキョウが願っているのだぞ?」
「その言い方ですと、今はまだあなたに食いつぶされぬ彼女の意思が残っているの?」
「当然だ。人を怨霊か悪霊かのように言うでない。今もほら、貴様の相手をしているよりはマルコやイゾウの手当てをしに行けと、身の程知らずにもこのわたしに怒鳴っている」
どう考えても悪霊だろう女が何を言っているのか。パンドラはツッコミを入れるべきか迷ったが、しかし言わずに留めた。
「ではキキョウ。今は随分とみじめでしょうね。己の意識はあるのに、手足はそこにあるのに身動き一つ取れず、その気まぐれな、悪魔そのものの女に利用されているんですもの」
「うん?確かにキキョウは愚かで無知だがな。臆病者ではないぞ?このわたしと取引するということがどういうことか、きちんとわかって、それで頷いたんだ。貴様と一緒にするんじゃないぞ?」
笑いながら、しかし不快には思ったらしい。女が目を細めとん、と地を蹴ったその途端、パンドラの体は海に突き落とされた。
++++
子供の声が聞こえる。
どこか遠く、遠くで、明るい歌を歌う子供の声が聞こえる。軋む縄の音はブランコだろうか。ひだまりの大樹の下で、その幹からつりさげたブランコに腰掛けて、歌う子供の声に似ていた。
もう随分と、昔のことではないだろうか。
井戸の中から出て、己は森の中に居を構えた。貧しいと言えば、貧しい暮らし。妹の背丈がきちんと定まるまで、粉ミルクも手に入らなくて、それで森の獣たちに頼み込んだ。森にある夏の庭と冬の庭、その番人を引受けるのなら、それなら助けようと満員一致で承諾してくれた。
「………」
眩しい光が瞼にかかり、パンドラはゆっくりと目を開いた。見上げる天井は石造り。船の中ではないとすぐに気付く。己が長い眠りから目覚めて必ず見たのは船の天井だったから、パンドラは警戒して飛び起きる。
「……っ」
上半身を起こしただけだが、体が酷く痛んだ。顔を顰め、しかし周囲を窺うことは忘れない。
「…………」
ここはどこだ?
己の意識の消える前のことを思い出そうとするが、頭が酷く痛んで思いだせない。パンドラは頭を押さえ、その手が包帯によって巻かれていることに気付く。手だけではない。体中が、きちんと手当てされている。
そっとパンドラは喉に手を当てた。
そうだ。己は喉を裂かれた。
(誰に?)
思いだせない。だが声が出なくて、難儀した覚えはある。そうだ。海の中を流れていた。だがなぜ?海はいつだってパンドラ・を苦しめた。酷いことしかしてくれなかった。だからここはパンドラにとって良くない場所である可能性が高い。手当てされていると言っても油断する理由にはならないのだ。
部屋の中を見渡したが、とくに拷問道具や何かはない。見た限り、居心地の悪そうな部屋だ。広さはそれなりの一部屋。パンドラが寝かされている大きなベッドに、あちこち散らかった本や衣服。男物の服だ。どれも薄汚れていてどれが使用済みなのかどれが洗ったものなのかわからない。絨毯には泥やほこりがこびりついていてパンドラは顔を顰めた。
ここがどんな場所だろうと、このような場所にこの自分が置かれるなど不快で仕方ない。
今すぐに逃げ出すべきか、それとも状況を把握してから逃げ出すべきか、あるいはこの己をどう利用するのか相手の出方を見て、その上でこちらが利用してやるべきか、あれこれ考えてみる。
「お?あ…!気がついたか?よかった!」
カラッと明るい声がかかった。かちゃんと部屋の扉が開いたかと思えばそこには見覚えのある青年が、両手にいっぱい何かを抱えて立っている。
(この男は、確か)
思いだそうと眉を寄せていると、青年は慌てて背を向ける。
「す、すまねぇ……!!見てねぇから!!」
「?」
「ふ、服は、その、アンタのはボロボロだったからよ……お、おれので悪いとは思ったんだが、枕元に置いてあるから!!」
なぜ真っ赤になって後ろを向くのだろうか。解せぬ反応に首を傾げていると、後ろを向いていても見える耳まで真っ赤にし、青年が叫ぶ。
言われては自分の体を見下ろすが。包帯の上からきちんとYシャツが着せられている。大きすぎる気はするし、うっすらと肌が透けてはいるが問題ない。下は履いていないが布団に入ったままでは関係ないのではないか。
「……」
何か言おうとしては口を開くが、喉がひりつくだけで声は出なかった。
「……?おい、アンタ……大丈夫か?」
声を出そうとすると妙な音が口から出る。そして喉がひゅうひゅうと鳴るので男も気付いたのだろう。振り返らず、こちらの様子を尋ねる。パンドラはこう顔も見えぬのなら身振り手振りすることもできぬと苛立って、枕を男の頭に向けて投げつけた。
「って!おい、アンタ……何する、って…着替えてねぇのかよ!!」
「(指図されるいわれはありません)」
こちらを振り返り、また真っ赤になる青年にツーンと顔を反らしは唇だけ動かした。
「あ、そうか…アンタ、声が」
それで合点が言ったのだろう。青年は頷き、そして部屋の隅にある大きな机(製図机だろうか?)の引きだしからガサガサと何かを取りだしてに差し出した。
用紙とペンである。
なるほど筆談か。頭は悪くないようである。は完全上目線に感心してそれを受け取り、さらさらとしたためた。
そしてそれを男に差し出したが、男は首をひねる。
「(どうしたのです)」
「……アンタ、グランドラインの人間じゃねぇのか?」
「(?何を言って、)」
「ある程度の国の文字は読めるつもりだったが…ちょっとこれは、読めねぇな」
ここにでもいれば「はい!姉さんそれちょっと待って!」とでも盛大にツッコミを入れただろうが、生憎彼女はここにいないのでつっこめない。だが、この時パンドラの書いた文字は800年前に滅んだ王国の文字。つまるところ、この世で解読できるのはニコ・ロビン唯一人という、そういう文字。
「すまねぇ」
すまなさそうに謝るが、パウリーが読めたらそれはそれで問題である。
しかしそんなことは思い当たらないは「役に立たないのですね」と呆れている。筆談が無理とわかるとそうそうに紙を放り投げ、パンドラは溜息を吐いた。
その様子をどう感じたか、パウリーが居心地悪げに頬をかき、今更ながらに照れくさそうにした。
「えっと、その。俺はパウリー。この水の都のガレーラって会社で船大工をしてんだ」
知っている、とは頷いた。
この青年のことは、知っている。と共有した記憶の中にこの青年のことがあった。どういうつもりか、が養子にしたというこの青年。
なぜこの青年が出てくるのか疑問だったが、ここは水の都なのか。
海軍や海賊ではない、ということは多少なりともを安心させた。そしての記憶や思いが確かなら、この青年はけしてを裏切らない生き物だ。真っ直ぐで正直で、どうしようもないくらいに一生懸命であると、それがの評価。
だが、なぜ己は水の都にいるのだろう。
「あー…アンタを見つけたのは偶然なんだ。仕事が終わって帰る途中で、腹が減ったからジョゼんとこ、あぁ、ジョゼってのはこの街の料理屋の店主なんだけどよ、で、行く途中にアンタを見つけた」
ぼんやりとは思い出した。己は傷を負い、ずるずると体を引きずって石畳の上を這っていた。そこへ、この男が現れたのではなかったか。
「(一目で不審者とわかる女を助けて部屋に入れるなんて、随分と不用心ですのね)」
聞こえずとも言わずにいられないので言えば、パウリーが首を傾げた。やはり伝わらないのだろう。
「ん?なんだ」
こちらが何か言おうとしたことに気付き理解しようとしてくる。だが大したことではない。は手を振った。
「あ、そうだった。アンタ、腹減ってねぇか?待っててくれよ、今何かこしらえるから」
先ほどの大荷物は食材だったのか。パウリーは一方的に言ってから対面式になっているキッチンに入り、大きな冷蔵庫にあれこれ食材を入れていく。
この男が料理をするのか?
は顔を顰めた。台所に立つのは女の仕事。男は足を踏み入れてはならぬ場所だと、そのような考えが彼女にはある。
それにこちらは彼を知っているが、パウリーは己を知らぬだろうになぜ不審がらないのだ。の記憶にある青年は確かにそういう生き物だが、しかし、には疑問だ。己は不審な怪我を負った女。担いでここに連れ込んだのは善意であっても、治療代や、それに食事の代金だってかかっているはず。ここで体を求められでもするのなら「そういうことか」と判断できたが、あの男はそれもない。それどころか、薄い服の上からでもこちらの体を見るのを遠慮した。
「あ、アンタ、たまごは平気か?アレルギーとかねぇよな?」
ひょいっと顔を覗かせて聞いてくる。
その姿には額を押さえた。
青年の成長しきった体が着ているのは、割烹着なのか、それは。フライパンを片手に、無精ひげを生やした男が、真っ白い割烹着姿で料理をしている。
……つい少し前まで、己は「生活」とは無縁の場所にいなかったか?
響き合う銃声やら悲鳴の音、硝煙、血の中にいたというのに、なぜ、どういうことがあって今現在こんな状況にいるんだろうか。
「(……頭が痛いわ)」
マリンフォードの港からこの水の都は中々距離があるはずなのに、どういうわけかここにいる。どれほど時間が経っているのかわからないが、己の髪の長さを考えて一週間はたっていないはずなのだが…。
今頃黒ひげたちはどうなっているのか。何処にいるのか。ここにいないのなら己がそこに行かなければ。はまだ、黒ひげと行動を共にするつもりである。あの男は鍵だ。赤犬を殺すという目的もある。
「できた。口に合うかわかんねぇけど、怪我したときはメシ食うのが一番だっておれのおふくろが言ってたぜ」
「………」
折角が真面目に思考に沈もうとしているのに、大皿を持ってやってきたパウリーがそれをブチ壊す。
口が聞けたのなら自殺したくなるほど罵ってやるのにと歯がゆい思いをしながら、はこちらに寄こされた皿を見下ろす。
スクランブエッグにベーコン、それにニンニクで炒められた青物だ。血はつくれそうである。
「(……毒でも入っているのですか)」
「ん?なんだ?苦手なもんでもあったか?」
「(なんでもありませんよ)」
確かに空腹だった。目覚めてから狂気に取りつかれていた所為で空腹感など覚えなかったが、こうして白雪姫の毒により正気に戻されてからは、感覚はまとものつもり。いい具合に焦げたベーコンの香りが食欲をそそる。
この男が敵でないという保証はどこにもない。の養い子といえど、どこで政府や海軍と連絡をとり、己を油断させ捕えようとしているかわからぬのだ。
だが、今は大人しくすることにするべきだと、は自分に言い聞かせた。早い話、食欲に負けたのだが、その辺、彼女の自尊心のために触れないでおく。
ゆっくりとはホークでたまごを丁度いい形に分け、口に運ぶ。
懐かしい、味がした。
「…!?お、おい!?アンタ…どうした!?俺また塩と砂糖間違えちまったのか!!?」
ぽろぽとと、の頬を涙が伝う。意識してのものではない。人に見られるのが嫌で咄嗟に顔を覆った。
「…いや、味は普通…だよな!?おふくろから教えて貰った通りのはずなんだが……」
泣きだしたに戸惑い、パウリーは味がまずかったのかと味見をしてみるが、おかしいところは見つからぬ。それでおろおろとした態度でを窺う。
「(……そうですね。この男は、そうよ。あの子が育てたのだもの。味くらい、知ってるわ)」
懐かしい味だ。
今はもう、随分と昔のこと。それでもこの体は覚えいていたのかとにはこたえた。赤子時代を終えて、ある程度成長した妹が作ってくれた料理の味。あの頃は砂糖など滅多に手に入らなかったけれど、少しの砂糖と、それにはちみつを使ってあの子は作ってくれた。
あふれる涙をなんとか押さえ、はもう一口、タマゴを運ぶ。懐かしい味に、ほんの少し、この男の優しさのようなものが感じられる。妹は愛情をこめて教えたのだろうか。
ゆっくりと飲みほして、は未だおろおろとしている青年に顔を向けた。
この男が敵かどうか、その判断はまだつかない。なぜ己を助けたのか。これからどうするつもりなのか、まるでわからぬし、己も今後どうするのか定まっていないのだけれど、けれど今はこの味を思い出させてくれた。そのことをは感謝することした。
「え?あ、おい!?な、なんなんだよ、突然!」
静かに、は頭を下げる。
毒々しさの似合う彼女にしては、それはあまりにも純粋でそして誠実な、礼。受けてパウリーは只管恐縮し、あれこれと意味のないことを言いながら、照れて真っ赤になった。
Fin
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