麗人、という言葉をパウリーが知ったのはいつだったか。

両親が死に、恨み恨んで殴りこんだ造船会社での騒動の後というのはハッキリしている。多分あのままの洟垂れ小僧の己で育てば無縁な言葉。麗人、淑女、レディというその、女性の品と美しさの所持者を称するに相応しい言葉を、教えてくれたのは瑠璃の目の養母であったはず。養母、、人に魔女だなんだと呼ばれているのは時々耳にしたけれど、それでもパウリーにとっては大事な母親、その人はアイスバーグとは違う目線と知識でパウリーを一人前にしてくれた。その人から教わったことは多くあるが、その中で「麗人」という言葉そのものを、パウリーはただ「知っていた」だけなのだと、今気付いた。

目の前で静かに頭を下げ目を伏せる、瑠璃の髪豊かな女性。その仕草一つ一つに品があり、静止する間際に軽く揺れる孔雀の羽のような睫からは光が弾けそうであった。

唐突に泣き出したかと思えばこの態度。流れる涙の美しさ。パウリーは器用な男ではないと自覚している。こういったときどう対処すればいいのかわからぬ。

「…お、おう…いや、別に、礼なんていいんだ。おれァただメシ作っただけで…」

目の前にいるのは正体不明の女性、ではある。得体の知れぬ部分の多さ。なぜこのような傷を負い、また部外者であるはずなのにこの島にたどり着いたのか。判らぬところの多い女性。それでもこうして今は神妙にこちらに頭を下げている。

それでパウリー、妙にドキバギとしてバツ悪そうに視線を壁に投げ、そしてハタリ、と気付く。

「……っ、やべぇ…!!!!」

ただ気まずくて壁を見ただけだったが、偶然視界に入ってきたのは掛け時計。パウリーの借金地獄による貧困生活にしては立派な古時計。今時螺子を丁寧に巻いてやらねば動かぬ大時計。ゆっくりゆっくりと動きながら、告げる時は、なるほど、完全に出社時刻を過ぎている。

飛び上がったパウリーはそのまま壁にかけてあるジャケットを引っつかみ、バタバタと部屋を出る。

「っと、そうだ!アンタ、まだ動くなよ!起き上がっちゃいるが重症なんだ。それに喉だってちゃんと見てもらった方がいい。マイケルんとこのママさんとジョゼに世話を頼んでるから、大人しくまっててくれよな!」
「……」

パクパクと女性が何か言いたそうにしたのはわかるが、生憎と構っている時間はない。遅刻、遅刻。このおれとしたことがなんたる失態!と、現在パウリーは自己嫌悪で一杯だ。基本的に「だらしない」と周囲に眉を潜められる男であれど、パウリーは船大工の仕事にはどこまでもストイックである。恩師たるアイスバーグへの恩返しというだけではなく、仕事場にはいつも無遅刻無欠席を誓い通う男。

ばたばたと騒がしくしながらパウリーは階段を駆け下りた。

眩しい朝日の光、今日も水の都は美しい。






 

 




世界の冷たさに絶望しながらも生きることしかできない


 

 

 







慌しく出かけていく男の背中を唖然と見送って、パンドラはぱちり、と瞬きをした。あれほど慌しい、騒々しい生き物はこれまで彼女の周りにはいなかった。人はここまでみっともなく動けるのかと感心しつつ、パンドラは目じりを指で拭う。

驚いたため、すっかり涙は引いてしまった。この己が人前で涙を零すなど醜態を曝した、という羞恥の湧き上がる暇もない。

それにしても、あの男の口ぶりからするに、この手当てをしたのは医者ではないのか。とても丁寧に処置されていて専門の知識のない人間のものとは思えない。あの男自信が手当てした、という可能性もないわけではないが、いくら非常事態とはいえあの初心な男が己の裸身に耐えられるか?とそういう、聊か茶目っ気のある疑惑もある。

は丁寧に巻かれた白い包帯を指でなぞり、一度目を伏せる。

己はなぜこのような傷を負ったのだろう。世に己をここまで害せるものがいることがにはにわかには信じられぬ。己の妹であれば油断し、そのような結果になることもあろう。だが、リリスが、あの妹が己に決定的な暴力を振るえることは、きっとない。何よりあの子は死んでしまった。では誰か。

(わたくしの敵は誰です)

頭が痛むばかりで思い出せない。

敵は「正確」だというのはハッキリしている。この己の心臓を狙うではなく、喉を狙った。魔女に悪意があり、振るう業があるのならの悪意は「声」である。いや、根底を言ってしまえば魔女は皆喉を潰されてしまえば悪意をはびこらせることはできない。

魔女には童話の力があり、それはつまり「物を語る力」である。

声を封じられれば己の領分を語り聞かせ状況に引きずり込むことができなくなる。

己の「敵」はそれを把握したうえで喉を潰してきたに違いない。

だとすればそんな知識があるのは同じ魔女。あるいは魔女にとっての天敵といえる「王子さま」であろう。

(声を使えぬのなら回復には時間がかかる。今のわたくしにウンケの屋敷蛇はない)

パンドラと、それにの身に蔓延った不老不死の仕掛けは複数あるけれどそのうちの一つ。ウンケの屋敷蛇。が長年愛用してきたというそれは今はあの痴女極まりないトカゲとかいう女の腹に収まっている。取り戻す手段がないわけではないが一度他の女に染み込んだものを再び取り入れようとはの矜持が許さない。

もう一度作り出すという道もある。しかしそれには昔の通りの道具と材料、それに少々面倒なやりとりも必要になり現実的に考えて通常通りの体の回復を待つほうが早いのだ。

(わたくしはマーシャル・D・ティーチの傍にいるべきなのに)

歯がゆい。あの海賊たちは今頃どうしているのだろうか。戦地から離れたのはわかる。長く近海に留まり追撃を受けるほどめでたい連中ではない。だが今、彼らの元に戻ったとして、彼らと渡り合えるかといえば、そこまでは己を過大評価はできなかった。

の白雪姫の毒の所為で今の己には「狂気」がない。

それに加えて今は声も奪われている。それではあの、地獄の常連のような連中の傍にいてもこちらが飲み困れる恐れがある。

(今わたくしがすべきことは、傷を癒し、声と、そして狂気を取り戻すこと)

妹の懐かしい思い出の味に涙し、感動はした。けれど己に、そもそもそんな正気など、必要はないはずだ。

復讐には正気は必要ない。

憎悪、敵意、理不尽な要求を当然のようにわが身に受け入れて、その吐き気のする程の混濁の中でたゆたい艶然としていられる「異常さ」を取り戻さなければ、己は己ではない。

しかし1000年の長い年月を経て身のうちに含んだ毒はあっさりとの毒りんごによって中和されてしまった。この短い時間であの頃と同等、あるいはそれ以上の狂気を孕むことなどできるだろうか?

は眉を寄せ、苛立たしげに唇を噛む。

かつて己が与えられてきた屈辱、侮蔑、差別、絶望は今も欠片も忘れはしない。あれこそ「地獄の苦しみ」と言えるものだった。あれ以上のものがあるのか。

(もしあったとすればわたくしはそれこそ確実に発狂できる)

期待する半面、だが、この世にあれ以上の苦しみがあるのかという疑念もある。毎度毎度よくもまぁこれほどネタの尽きぬとある意味感心しもした、己に対して常に最新の絶望を齎した妹もこの世におらぬ今、はそれほど期待はできないと律してもいた。

常の癖で思わず肩を抱けば、ずきりと、斬り傷ではない種の傷みが走った。

「…?」

不審に思って己の二の腕、左肩に近い場所に目を落とせば、長い髪に埋もれがちになっているその部分に、くっきりと人の手形がついているではないか。

「………」

青あざになるほどしっかりと掴まれ長時間経たねばこれほどの痣にはならない。鬱血しているといってもいい。その痣。

一見して気味が悪い。

だがなぜか、は瞬時に嫌悪感が沸かなかった。毒々しい色を見せ、手形。大人のそれではなく、小さな子供の手のようなそれはグロテスクであるはずなのに、なぜだろうか。は、途端胸がぎゅっと詰まった。堪えきれぬ感情が震える唇からあふれ出しかねない。

カチカチと脳裏に浮かぶ白い髪に赤い瞳の、幼い子供。彼女は。

「それはノアの手。あの戦争でピアとキキョウによりから切り落とされ海に投げ入れられたその腕があなたをこの島まで引っ張ってきた、なんて言ったら、やっぱりそれはホラーかしらね?」

胸を押さえ呼吸を低くするの息しかせぬ部屋に、玲瓏たる声が響いた。

「………」
「ご機嫌麗しく存じますわ、パンドラさま」

入り口に首を動かせば、いつの間に現れたのか扉の前に立つ一人の女性。烏の羽のように黒い髪を腰まで伸ばしたそばかす顔のその女性。この己を誰か承知で謁見したにしては礼儀のない格好であるが、清潔そうなシャツと長い黒のスカートという聊か古風ないでたちにパンドラは好感を持った。黒いスカートはただ黒いというだけではない。数々の薬草や薬品の染みこませる古い魔女の装いに則られている。

パンドラが顔を向けたことで女は長いスカートから僅かに見える片足を斜め後ろの内側に引き、背筋はそのまま、もう片方の足の膝を軽く曲げる。しっかりと教育された淑女の目上の者に対する敬意を込めた挨拶だった。

「先に名乗らぬご無礼をお許しくださいね。お美しいご尊顔を拝見できた感激でつい作法を誤ってしまいました」

エメラルドの瞳を輝かせ女は言うが、はて己はこのように人に憧れられる人間だったかと、正気であるからこそ色々突っ込みを入れたくもなるパンドラ。見た限り魔女のようだが、そもそも現存する魔女は己を敵視するはず。このように、まるで春の到来を待ち焦がれたニンフのような目を向けられる覚えは、どう考えてもないのではないか。

声が出ぬので仕方なしにパンドラは仕草で女の名と正体を問う。すると黒髪のその女、そばかすの顔に微笑を浮かべ、赤い唇を震わせた。

「私の名はマリー・ド・ジョルゼル。ジョゼと呼んで下さいね。お察しの通り、えぇ、私は魔女です。魔女の戦争の勃発した今となっては「前時代の」といえる魔女の一人。得た地位は「ベレンガリア」司る童話は「サンドリヨン(南瓜馬車と硝子の靴)」の魔女の、ジョゼと申します」
「(あなたがベレンガリアですって?)」

聞き覚えのある名にパンドラは眉を跳ねさせた。こちらの声は届かぬとわかっているが、聞かずにはいられない。

「(ベレンガリアの名を持つ魔女はベロニカ・C・ベレンガリア。わたくしの師のお母上だけのはずですよ)」

先の魔女の闘いにて勝者となった薔薇の魔女の定めた「魔女の樹」のこと。パンドラ自身はそう知るわけではないけれど、それでも揺るがぬ「道理」があるのは把握している。

あの日、滅んだ「王国」に攻め入る前にリリシャーロが殺した老婆。抵抗も出来ぬ哀れな女。雨に打たれ馬と迷い込んだあの子を憐れに思って手厚く持て成したというのに、敵国の信者であると知った瞬間あっさり斬った白銀の甲冑のリリシャーロ。

流された血の赤き老婆は、だからこそ魔女の階位の中で「特別」な名簿を管理する魔女となったはず。

「(ベロニカは名簿と、そしてわたくしたちの庭へと繋がる井戸への入り口を守っているはず。「彼女」が滅びず存在しているからわたくしたちの庭は今でも守られている。だから、それはあなたではないわ)」
「いいえ、パンドラさま。私は間違いなく魔女です。そしてベレンガリアの魔女です。それはも認めている。覚えていないはずの罪の意識を彼女は感じ、私と会えば彼女は顔を顰めてたのよ」
「(あなた、わたくしの声が聞こえるのですか)」
「いいえ、パンドラさま。私には聞こえません。けれど唇を読むことは得意なの」

にこり、とジョゼが微笑む。そばかすの散った顔には茶目っ気があるが、どうもその瞳には陰りがある。当人望んだ能力ではないらしい。人の顔色、唇の動きに注目していなければ生きていけぬ半生であったと、それだけで知れるもの。

見かけどおりの甘やかな女ではないとパンドラは判断した。どちらがどちらという女の争いに引き込む前にこの女は己を「美しい」と称して敬意を示し、こちらを上に置いた。魔女として争う気のない意思表示であると同時に、それは「くだらぬ女の諍いに興味は無いの」と笑んで言う女のいやらしさがあった。

それは彼女が彼女自身の「美」を受け入れていることに他ならぬ。山や空が美しいのは当たり前。けれど己には己の愛嬌と美しさがあると、そう、開き直りではない、一つの真理を得ている女の、高みの見物根性である。(いや、といって彼女が「特別な女」というわけではない。そもそも女というものはそうでなければならぬもの。他人と美を競い合うことの愚かしさ。花には花の、星には星の美しさ。けれど魔女はそれを競い当然とする。いや、そうではない。たとえば成熟した魔女であればどちらがどちら、などという次元を、そもそも考えぬのだ。そしてそれこそが「魔女」に相応しい女である)

油断ならぬ相手の出現にパンドラはこの水の都でも己は魔女の本分を取り戻すことができるかもしれないと、その可能性を見出した。平和ボケしたこの島にいてじゅくじゅくと傷口が膿むように正気が満々てはたまらない。この女のような「道ならぬ生き物」が傍にいれば、少なくともこれ以上正気になることはないだろう。

「(あなた、と言いましたね。あの子のお友達?)」
「えぇ、とても親しくさせていただきました。友達だ、なんて答えたのを彼女が知ったら顔を真っ赤にして怒鳴りそうですけど」
「(先ほどからの言動から察するに、あなた、わたくしの知らぬことを承知のようですね。親切心から教えに来たのか、それともあの子のようにわたくしとも言葉遊びを楽しむのか。どちらです)」

切り込むように言えば、黒い髪の魔女が心外そうに眉を跳ねさせた。そばかすがあるのが惜しいほど白い肌をほんのりと赤く染め、やや伏せ目がちな目でパンドラを見やる。

「お笑いにならないでくださいね?『野次馬根性とミーハー根性でかの麗しのパンドラさまにちょっかいをかけにきただけで、私、この戦争やらなにやらに関わったり役に立つ気なんてこれっぽっちもないの!』なんて、そんなことを思っています」

あとはパウリーに頼まれたから、などと殊勝なことをいいつつ、その目は愉快極まりなく輝いている。思わず絶句するパンドラを愛しげに眺めて、マリー・ド・ジョルゼル、その美しい黒髪を揺らした。




+++





トントンと響く槌の音を背に受けながらパウリーはガレーラドック内を走っていた。遅刻した、と言っても15分程度。だがパウリー、遅刻は遅刻、とそう恥じている。一番ドックの自身の持ち場で部下たちにしっかり頭を下げ今日の分の細かい指示を出してから、仕事面に関してはどこまでも生真面目な男、きちんと雇用主、アイスバーグに謝罪しようと、そういうわけで走っていた。

「副社長になったってのに、前とちっとも変わってねぇ、また借金取りから逃げてんのか?」
「アイスバーグさん!」

社長室までまだある、本社建物に入るより先に、ひょっこりと姿を現したアイスバーグが面白いものをみるように眼を細めて言ってきた。社内ではあるが、彼がいるには珍しい通信室からの登場。パウリーは慌てて立ち止まり周囲を見渡した。

「?珍しいですね。何か問題でもあったんですか?」
「いや」

アクアラグナ後立て直されたガレーラ本社でアイスバーグが忙しくしていた姿はパウリーも知っている。麦わらたちの船を作るもう片方で何か設計図を描いているのだと教えてくれたのはだった。その計画がどういうものなのかはまだパウリーは教えてもらってはいないのだけれど、アイスバーグのやることなら手伝いたいと、いつか教えてくれるのを心待ちにしている。

通信室、何か新しい材料の手配などだろうか。目利きの職人は多くいるが、ここぞという船の材料はアイスバーグ自身が動くのが常である。問えばガレーラ社長は軽く答えただけで詳しいことは口にしない。

そうですか、とパウリーが短く言えばアイスバーグは小さく笑う。

「なんだ。構って欲しいのか」
「ち、違いますって!そんなんじゃなくて、ただ、その」

信頼されておらぬような、そんな気がしたなど女々しいことは言えぬ。突き詰めればパウリー、この暫く不安であった。例の事件の後、ガレーラカンパニーは立て直され、職長の席もまだ空いているものがある。アイスバーグが己を信用してくれているのはわかっているのだ。そうであるから、「あの時」己は偽の設計図を託された。わかっている。わかっているが、パウリーは、どうも、どうやら、不安なのだ。

もうそんなことはないとわかっている。けれど、けれど、アイスバーグがまだ何か大きな秘密を抱えているのではないか。一人きり。そして、その秘密を己は知らず、何もすることができない。

いや、違う。そうではない。そんな、前向きな感情ではないとパウリーは首を降った。

そうではない。おのれの「不安」それは、もっと、自分勝手なものだ。

「アイスバーグさん、俺は、」
「ンマー、ただ知人から連絡があっただけだ。社長室の番号は教えてるんだが、生真面目なヤツでな、態々こっちの通信室にかけてきた」

顔をしかめて俯くパウリーの頭にポン、とアイスバーグが手を置いた。昔と随分と変わっている背丈であるのに、アイスバーグはこうして時折パウリーを昔のように扱う。

「ガ、ガキ扱いしないでください!」
「ンマー、そりゃ、悪かった。ところでどうした。慌ててるみたいだが、お前のほうこそ何か問題か?」
「あ、いえ」

顔を真っ赤にして怒ればアイスバーグは笑うのみである。話題を変えられてパウリーはそもそも己の走っていた理由を思い出す。遅刻した旨を伝え丁寧にわびればアイスバーグは「真面目だな」とそう返す。

「時間は絶対だって、そう躾けられてきましたんで」

おふくろのしつけです。と、付け足せば普段であればの知己のアイスバーグも頷いて何か2,3、軽口のようなことを言うのであるが、パウリーが養母の存在を口に出した途端、それまで穏やかだったアイスバーグの顔色が悪くなった。

「アイスバーグさん?」

怪我は完治しているはずだが、まだ突然体調が悪くなるようなことがあるだろうかと考えパウリーは伺うように名を呼ぶ。アイスバーグは若干眉を顰めたまま一度周囲を窺い、そしてパウリーに視線を戻す。

「そうだ。ここ数日、お前に会ってなかったから、そうだったな。俺の口から言うべきだな」
「?何かあったんで?」

真面目な顔でこちらを見下ろすアイスバーグに、パウリーも背筋を伸ばす。

一瞬頭の隅に浮かんだのは養母のこと。だが、彼女は問題ないはずだ。彼女は海軍本部にいる。いつもいつだって笑顔でいてくれていることがパウリーの幸せであるとそう伝えたことがあった。そういえば彼女ははにかんだ。『小生意気を言って!』と頬を染めてデッキブラシでパウリーの頭をコツンとやった。

それであるから今このアイスバーグの真剣な顔は何か、ガレーラのことか何かか、あるいは、そうだ。いなくなった職長達の(パウリーは名前を連想することすら躊躇った)所在でもわかったのか、などと、とは関係ないことを無意識のうちに並べ立てる。(妙な「予感」など何一つ己にはないと、そう蓋をする滑稽さにすら、パウリーは背を向けた)

「実は、」
「悪いんだが、教えてくれ。一番ドックへはどう行けばいいんだ?」

一瞬の沈黙という決意の後、アイスバーグが口を開けば、その声にかぶさるようにして二人の真横から若い男の声がかかった。

「ん?」

周囲に人はいないが、一目で「今シリアス中!」と判ろう空気である。しかしその表れた青年。黒い帽子に公孫樹色のジャージ姿のどこか猫のようなしなやかな動作の青年、今やっと気付いた、というようにその白い顔をきょとん、とさせる。

「なんだ、取り込み中か?」
「いや。大丈夫だ。今日付けで一番ドックに移動になった5番ドックの船大工だな?」

青年の顔を見てアイスバーグは話そうとし決意して詰めていた息を吐き、額に手を当てながら応対する。

「あぁ。アンタ…社長か。朝っぱらから社長がこんなところで何してるんだ?」
「おい!お前!さっきから何アイスバーグさんに失礼な態度取って…」
「ンマー、別にいいだろ。パウリー」

生ける伝説の船大工であるアイスバーグに気安い態度を取っていることですらパウリーには許しがたいのに、青年、タメ語である。憤慨して怒鳴ればアイスバーグが肩を竦めた。

「よくありません!こういうのはケジメでしょう!雇われてるんですから雇用主には…それに貴方はこの水の都の市長だ!!敬語、ないしは丁寧語を使うじゃないんですか!」
「ンマー、それで落ちるような株でもねぇだろ。なぁ、シュライヤ」
「悪いが俺はアンタと違って職人気質じゃない。それに、堅苦しいのは苦手なんだ」

ぼそぼそっと呟くように答えるその青年。纏う雰囲気から「社交的」ではないとはわかるけれど、パウリーは軽く血管が浮いた。

「ンなこと関係あるか!造船ってのは腕もそうだが、チームワークがものを言うんだよ!どんなに人見知りっつったって、それこそハトに代弁させるヤツだっていた……」

言いかけてパウリーは途端顔を顰める。

頭の中に思い浮かべぬようにしていた、シルクハットに白い鳩がちらつき、ぎゅっと掌を握り締める。

「ンマー、何だ。丁度よかった。お前に引き合わせようと思ってたんだよ」

バツの悪げに押し黙ったパウリーを横目で見て、アイスバーグは特にパウリーに何をいうわけではなく、船大工の青年、シュライヤに顔を向ける。

「こいつは一番ドックの職長で、ンマー、この度ガレーラの副社長に就任したパウリーだ。暫くお前はパウリーのところで仕事を覚えろってことで一番ドックに上げた」
「……評判は、よく聞く。あんたがパウリーか」

唐突にパウリーが勢いを失ったことにはさしたる興味も示さず、感情の篭らぬ目を向けてシュライヤは首を傾げる。明るい場所が苦手なのか帽子の影にありながら眩しそうに目を顰めるその顔、パウリーは「似ている」とそう思う自分を押さえ込みながら、何とか口を開いた。

何もしていないのに、何もされていないのに口の中がカラカラと乾き、掌からじんわりと汗が滲んでいる。

「……一番ドックに来たってんなら、その性根、叩き直してやる」

かろうじてそれだけ強気に言えば、撫子色の猫っ毛をふわりとさせてその船大工は「そりゃ、怖いな」と声音はまるで現実味なく言葉を返した。





+++




後は頼む、とそう短く言い残してアイスバーグは社長室に戻っていった。飄々としていても多忙な身、まだ納得いかぬところはあるがパウリーは「アイスバーグさんからのお達しなんだ」と、まさにガレーラ職人の模範のような素直さで自分を納得させ、再びシュライヤに向かい合った。

「で、名前は?」
「聞いてなかったのか」
「……〜〜名乗れっつってんだよ」

ここでキレるな、耐えろ俺。と、必死にマインドコントロール中。フルフルと肩をふるわせパウリーが呟けば、シュライヤは面倒くさそうに眼を細めた後、しかし素直に口を開いた。

「シュライヤ・バスクード」
「そうか、俺はパウリー」
「知ってる」

名乗られたら名乗り返すのが礼儀だろ!

などと怒鳴ってもきっと無駄である。

パウリーは脳内にあのやたら礼儀作法にきびしたっか養母の姿を思い浮かべた。もしこの場にいれば、きっと彼女はこの青年を罵倒し蹴り飛ばし足で押さえつけながら躾けをしただろう。虐待、などと言ってはいけない。加減を知っているからこそパウリーは生き延びているのだ。(説得力皆無)

しかしこの場にはいない。パウリーは自分の忍耐力の限界に挑戦する日なんだと言い聞かせ、とりあえず愛想のいい表情を作った。

「と、とにかくこれからわからねぇことがあったら俺に聞け。ガレーラにいりゃすぐに一人前の船大工になれるからよ!」
「ここは海賊相手に商売してるんだろ?船大工なんてするより、海賊相手の用心棒をするほうが性に合ってるんだが、そういうのはないのか」

駄目だおふくろ、おれ短気かもしれねぇ。

まるでこちらに歩み寄ろうとせぬ態度に早くも断念しかけ、パウリーは聞き捨てならぬ単語を耳が広いぴくん、と眉を跳ねさせた。

「おい、船大工なんて、とはなんだ」
「……たとえだ。悪気があったわけじゃない」
「船大工になりにガレーラに来たんじゃねぇのかよ」

意識して落とそうとしても、聊か剣呑な物言いになってしまう。パウリーにとって船大工は世界で一番輝く職業だ。誇りある仕事だと思っている。それをないがしろにするような発言には、どうしたって噛み付かずにはいられない。

船大工になって己がどれだけ人生を変えられたか。

「別に、食うに困らなきゃなんだっていい。元々は賞金稼ぎをしてたんだ。腕には多少、覚えがある」
「あーそうかよ。なら賞金稼ぎに戻りゃいいだろ。この街にゃフランキー一家っつー解体屋兼賞金稼ぎの連中がいるからよ」

頭のフランキーが麦わらたちとこの町を出て行ってからは、フランキー一家もガレーラカンパニーの傘下(というよりある意味下請け)になっているのだが、やはり本来の賞金稼ぎ業はやめぬようで、裏町の治安を守るという名目でやはり好き勝手してはいる。

投げ捨てるように言えば先ほどまでつんけんしていた様子の青年が、途端押し黙る。

「……」

黙った態度、顔を顰めた様子に言い過ぎたか、とパウリーは反省する。己はアイスバーグさんからこの青年を任されたのだから、ここで投げることなどしてはならぬのだ。つい売り言葉に買い言葉で言ってしまった、と思い直し謝罪するべきかと思う。

見ればまだ、随分と幼い、子供の域をでぬ青年ではないか。

生意気な言動とスラッとした背丈で年齢がわからぬが、見える顔はまだ幼さを残している。歳は聞いていないが16,7くらいだ。そういう「子供」が賞金稼ぎなんぞヤクザな商売をしていた。海の非常さをパウリーは思い出して、口を開く。

だがパウリーが何か言う前に、ぽつり、とシュライヤが口を開いた。

「……もう、賞金稼ぎの稼業はしない。妹の、アデルのために、真っ当な、日の当たる仕事をしたい。しなきゃ、ならねぇ」

相変わらずぼそぼそっと小さな声ではあるが、その言葉には深い決意が感じられた。思わず驚いてパウリーが顔を見れば、バツの悪そうに帽子で顔を隠す。隠し切れぬ耳が赤いことを指摘する、のは大人気ないとパウリーは思って、それで、ぽん、と、シュライヤの背中を叩いた。



Fin

 

 

 



(2010/01/05 18:55)