目の前でにこりと微笑む黒髪の魔女に苛立ちながらパンドラ・は白い手で己の喉に触れる。言葉が話せぬのは厄介だ。言いたい放題言われるというのが気に入らぬ。手早く治す方法はないものかとあれこれ頭の中を探るが、昔から冬の庭の番人たる己に出来るのは奪うことで治療などは妹の領分だった。
「(あなた)」
「ジョゼと呼んではくださらないなら返事はしません」
「……」
、出来る限り関わりたくないと思ったのはイヴ・イヴェン以来である。
幼い少女のようにそっぽを向いて拗ねる女、名前をマリー・ド・ジョルゼルというらしい。そばかすの散った顔にある愛嬌とその言動に苛立ちは増し、眉を跳ねさせた。
「(なぜわたくしが自分より下位の者の名を呼ばねばならないのです。わたくしが用がある、と言っているのですよ)」
顔を背けつつが唇を動かせばきちんと顔を向けてくる。その身勝手極まりない主張をジョルゼルは聞き終え、そしてやはり「返事はしません」と切り捨てる。
「(聞かぬというのならそれでも構いません。わたくしが勝手に話します。あなたが本当にベレンガリアの地位を持つ魔女であるというのならわたくしたちの庭へ繋がる鍵を持っているはずです。それをお出しなさい)」
ベレンガリアの魔女の持つ鍵は古井戸へと繋がる。その井戸を辿れば懐かしき冬の庭と夏の庭。生と志、朝と夜、光と闇が寄り添うその庭ならありとあらゆる薬草が生息しているはずだ。夏の庭に足を踏み入れ、喉を癒す薬草を手に入れようと、それがの腹積もり。そしてこのジョルゼルが本当にベレンガリアの地位を持っているのか、その確認でもあった。
「いいえ、パンドラさま。わたし、鍵は持っていないの」
さてどう反応するかと待つ間もない。あっさりとジョルゼルは肩を竦めて首を降る。
「(なんですって?)」
「持ってないんです。でも、わたしは「ベレンガリア」の魔女。けれど鍵と魔女の名簿は受け継いでいないの」
「(そのようなことがあるものですか。13人の魔女の存在理由、わたくしも詳しく知るわけではないけれど、受け継ぐ道具も持たず名乗れるわけがありません)」
「ねぇ、パンドラさま。シェイク・S・ピアをご存知?」
この女、やはり紛い物かとそう判じかければジョルゼルが話題を切り替える。いや、切り替わってはいないのだとは悟る。
「(えぇ。記憶にはあります。わたくしの妹が唆した少女の一人ですね。今は詩人となっているとか)」
「えぇ、パンドラさま。その通り。彼女は哀れな人工の詩人。人に祭り上げられても詩は紡げるという証明者。ねぇ、パンドラさま。それなら、“魔女”を人工的に作れないわけがないでしょう?」
翡翠の瞳を品よく細めジョルゼルが告げる。昔々の物語。どこぞの島にいた「聖女」の話。彼女を崇め奉った閉鎖的な思考の島民たち、そこに這い込んだ政府の悪意。
「無知な娘は何も知らずに口にしたの。それは実の形をしてはいなかった。でも、味は石榴に似ていたかしら?赤黒くて粒々としていた欠片を一つ一つ摘んで食べた。乾燥していればマシだったかもしれないけれど、それはどこかベッドリとしていたわ」
それが何なのか、今となっては見当もつくだろうにあえてジョルゼルは言葉にしなかった。は眉を寄せ、反射的に己の腹に手を当てる。
「(おぞましいことをするのですね)」
かつてリリィ・シャーロックに子宮を奪われたには目の前の女への嫌悪感が募る。知らなかった、というだけで同情する気にはならない。吐き捨てるように言えば、ジョルゼルが静かに目を伏せた。
「だから、私が受け継いだのはベレンガリアの魔女の地位だけ。鍵も名簿も、私は持っていないのよ、パンドラさま」
「(ではそれは今どこにあるのです)」
燃えて消えてしまえるようなものではない。誰かが所持をしている。ベレンガリア以外が管理できるものではないはずだが、魔女や詩人を作り出した政府、何をしでかすかわかったものではないとは考えを改めた。
「どこかにあるんでしょうね。私に「実」を差し出した男は焼け死んでしまったけれど、たぶん、彼は持っていなかったわ」
遠い過去を思い出しているのかジョルゼルは胸から下げていたペンダントを握り締めていた。その仕草、己の言動が少なからず彼女の古傷を暴き立てたのだとわかるが、しかしそんなことパンドラには関係ない。
それでは夏の庭に入り込むことはできぬではないかと、振り出しに戻ってしまい不愉快げに息を吐く。
「(わたくしは喉を治したいのです。このままでは何も出来ないわ)」
ちらりとパンドラはジョルゼルを見上げ薬草の知識はないのかと問うて見る。魔女というのは何も絡みの女というだけではない。人知れぬ叡智に富んだ女のことも指す。自身毒物や獣の種類には詳しいもので、そういう得意分野が目の前の魔女にはないのかと、そう見てみればジョルゼルは緩やかに首を振った。
「いいえ、パンドラさま。その首の傷は私には治療できません」
「(あら、そう)」
期待していたわけではない。そっけなく頷き、は長い髪を指で梳く。それなら別の手段を考えようと、そう切り替えた途端、にこりと笑いながらマリー・ド・ジョルゼルは懐から小さなガラス瓶を取り出した。
「でも、から譲り受けた薬ならありますよ」
+++
対面した女が気安く扱っていい相手ではないことをジョゼは肌できちんと感じ取っていた。それでも魔女としての心構えはきちんと身にしみている。どのような相手であれば自分自身を見失うことなく毅然としていること、それが女の意地であり自尊心、傷つけられねばけして敗北の二文字を焼き付けられることはない。
「(あなた、今なんとおっしゃって?)」
こちらを初めて真剣に警戒する緋の瞳を受けて、ジョゼはさてなんと答えるべきか考えを巡らせる。目の前には「この世で最も美しい」と言われるパンドラ・。長きに渡り眠りにつきその豊かな胸の内で憎悪と狂気を募らせていたというわりに、見る眼には正気しか宿っていない。それもそのはず、この女性に抱いていた狂気はによって取り払われているのだ。
毒で中和されたとかなんとかが通説の。けれどそんなわけはないとジョルゼルは判じていた。結局のところ、パンドラ・という女性、夏の庭の番人たるリリスを憎んでいたのではないか。真っ赤に熟したリンゴの毒を食み緩やかに死に近い眠りに微睡みながら、林檎によって選定された配役の結末に心を晴れやかにしたのではないか。
白雪姫の林檎は姫君に選ばれた者を眠りにつかせ、そして妃たる魔女を焼き殺す。あんまりにも有名な童話。はっきりとは知らぬという顔をしながら意識の下でははっきりと、妹の死を、焼き殺されるという結末を予期していたのではないか。
それであるから彼女は今正気なのではないか。
カッサンドラの魔女。あの幸薄いキキョウはその死の間際に「わたしはを憎んでなどいなかった」とそう悟ったように、妹を愛していると囁く女は、その死の間際に気付いていたのではないだろうか。彼女の狂気の源は世界に向けてのものではなくて、ただ一人、彼女が「愛している」という妹に向けた憎悪であるとすれば、それは、の死と共に消滅して当然だろう。
真相は定かではない。けれど、そんなことをジョルゼルは思う。
そして自身、それをわかっていたのではないか。
「から譲り受けたものがあるんですよ。私が「親切」にする度、彼女は貸しを作るのを嫌がっていたからいくつか貰ったものはあったけど。その中でもこれは特別なの」
言いながらジョルゼルは掌に載せた小瓶を見つめる。繊細なアンティークガラス瓶。エメラルドグリーンに薔薇のエンボスが入っている。が、いや、正確にはリリスが愛用した品の一つであることがその薔薇の文様から知れるもの。
中には瓶の葉が二枚入っている。何の葉かジョゼが答える前に、が嫌な物を見たと言わんばかりに顔を顰めて唇を震わせた。
「(白薔薇の葉ですね)」
「さすがはパンドラさま。えぇ、その通りです」
「(わたくし、薔薇など大嫌いです)」
「知りませんよ、そんなこと」
言ってジョゼはベッドサイドのテーブルに事前に用意していたティポットの蓋を上げ、そのまま湯を入れた保温性の高い魔法瓶を傾けて湯を注ぐ。こぽこぽと小気味のよい音を立てて十分に湯が入り込んでから蒸らし、一度湯を捨てる。そしてその中に葉を一枚入れ、砂時計を引っくり返した。
パンドラがこちらに注目しているのはわかっているけれど、あえてジョゼは振り向かぬ。にっこりと口元を上げながら、ここで背中を刺されでもしたらどうしようかしらと、まるで心配しておらぬくせにそのようなことを戯れに思う。
ゆっくりと十分な時間を取ってからジョゼは薄い茶器に湯を注ぐ。特別何かをしたわけではないのに薄く色のついた液体が湯気と伴いながら流れてきた。
「どうぞ、パンドラさま」
差し出しながらジョルゼルは、果たしてこの女性を助けることがどういう意味になるのか、それを考える。
あの戦争でとキキョウが死に、魔女の戦争が始まった。空白の薔薇の玉座を埋めるため、また崩れた魔女の宴席が再度選定されることになるのだろう。先の戦いの勝者であるリリシャーロが決めたのはセフィロトの樹に則った魔女の13階位。世に放たれた悪魔の実にひっそりと寄り添い正体を隠しながら秘密を守る12人の魔女を定めた。
それが今はジョゼを含み、現存している正式な魔女は5人だけ。この戦いで生まれた魔女が勝利し、新たに円卓を囲む魔女を定めればジョゼたちは「正規の魔女」ではなくなる。
魔女ではない自分、それがジョゼには想像できない。
幼い頃、己は確かにただの少女だった。無知で愚かで、けれど純粋で神さまを信じていた。そういう頃は確かにあった。
けれど魔女になり世の悪意を目にしてきた。
魔女でなくなったとしても、世を見る眼は変わらぬだろう。一度神に背を向けた女。どうなれというのだ。
夜の女王が目覚めた。そして彼女が勝者となれば、前時代の魔女である己らは皆殺しにされるだろう。リリスの勝利の条件はキキョウの願いの成就。あの哀れな娘が願うパンドラの死。それはリリスによって齎されねばならぬ。
己はどんな「結果」を欲しているのだろう。
魔女の戦争。それには興味がない。ジョゼだけではなく、前時代の魔女はみなそうだろう。誰も己が薔薇の魔女になろう、とは思わない。己らには「わたしはわたし」という誇りがあった。そして己らにとって薔薇の玉座はだけのものであるのだ。
それであるのなら、争いに参加せぬ己が望む「結末」はどのようなものだろうか。
リリスによる確実な死?
パンドラを殺め魔女でい続けること?
それとも、誰かが薔薇の玉座に着き、魔女ではない、ただの女に戻ることだろうか。
目の前のパンドラ・。彼女を助けるか、それともここで見捨てるか、それでその「結果」が定まるような、そんな気がした。
「(今のわたくしなら、毒を盛れば容易く殺めることができますよ)」
ジョゼの思考を読んだわけではなかろうが、真っ直ぐに赤い瞳を向けながらパンドラ・が静かに告げる。
「パンドラさま」
その瞳を見つめ返しながらジョゼは柳眉を寄せる。
それ以上は何も言わなかった。しかしそれだけでジョゼには十分。ゆっくりと目を伏せ、そして細工などなにもせぬまま茶器をに寄せる。
「召し上がってください。冷めないうちに」
世迷い事だと、ジョゼは自身の思考を切り捨てた。己は魔女であることを誇り、そして保ってきた。一時も煩ったことがないなどとは言わぬのだけれど、それでも己は「サンドリヨンの魔女」である。
そしてマリー・ド・ジョルゼルはこの魔女の闘争の傍観者だ。戦うことを拒否し、そして選ぶことも拒絶した。何があっても己を見失わぬ、ということではない。己は、幸福から常に遠い場所にいるとそう決めた。定めた。それはジョゼの意地だった。だから、己は何もせぬ。
人が過ちを繰り返すのをただ黙ってみている。それが魔女の、悪意の魔女たるの悪意であったというのなら、ジョルゼルにとっての悪意は、己が身の破滅をただ黙って見ている。それがジョゼの悪意といえよう。
茶器を手に取りパンドラ・はゆっくりと唇に近づける。微かに香る白薔薇。その茶器が傾こうとする、その間際に、ぴたり、とが動きを止めた。
「(あの子、何もかもわかっていたのね)」
飲み干せば声は戻る。というに飲まぬまま相変わらず空々しい唇が動いて問う。
「(わたくしは、本当にあの子を愛していていいのかしら)」
音はないが、言葉にすればそれはつぶやくような小さな音だっただろう。唇を動かさず、胸の内だけの言葉だったのかもしれない。けれどたとえ音にならずとも、つい唇が動くことはある。ジョゼに向けられた問ではない。だが、ジョルゼルは目を見開いた。
赤い赤いパンドラの瞳の奥に、揺らめいている色がある。憎悪と狂気に似たものだ。これまで傲慢ではあったが正気そのものだった彼女の気配が、ほんの一瞬、僅かに歪む。
「パンドラさま?」
反射的に、ジョゼはの細い肩に手を添えた。
「……大丈夫ですか?」
掴んだだけで砕けてしまいそうなほど心もとない薄い肩だ。触れれば氷のように冷たい。ジョゼが声をかけたことで、はっと、パンドラの瞳に正気が戻る。
「(……わたくしは)」
白昼夢から覚めたような様子でぱちりと瞬き一つ、パンドラは己の手にある茶器に目を落とす。その白磁器の淵を反対の手の指先で撫で、ゆっくりと持ち上げた。
そうして小さく傾く茶器、赤い唇が触れコクリと喉が鳴る様をじぃっと見つめてマリー・ド・ジョルゼル、傍観者であろうとする己が果たしてどこまでその姿を貫けるのかと、その不穏な音を聞きながらひっそり、胸のペンダントを握りしめた。
+++++
仕事が一段落し、日が傾いた頃合、パウリーは例の女が心配になって様子を見るため一時帰宅を決めた。普段であれば日暮れまでどっぷりとドックから出ることはないのだけれど、脳裏にちらつく、あの透明な涙。
すっかり慌てて飛び出してしまったが、彼女はもう泣いていないだろうか。
それがどうも、気になってしかたない。
ジョゼに任せたので大丈夫、とは思う。色々癖のある女だが、ジョゼは気立てがいい。なぜ結婚しないのかパウリーには常々疑問だった。言い寄る男は多くいるだろうし、パウリーの知る限りガレーラの船大工でもジョゼ懸想している者は1,2ではない。
ヤガラから飛び降りて部屋へ向かう。パウリーの借りているアパートメントは裏町に近く、日当たりの悪い場所だ。家賃安さに惹かれて決めたけれど、病人をこんな場所においておくのはよくないと、そんなことを思う。
トントンと階段を上がり、パウリーは勢いよく扉を上げた。
「ジョゼ!具合はどうだ!?……って、おい!!着替えてんなら言ってくれよ!!」
己の家であるからついノックを忘れた。扉を開ければそこには眩しい女の裸身、いや、正確には包帯で箇所を巻かれているけれどそれでも肌の露出の方が多い。一気に真っ赤になって、パウリーはくるりと背を向ける。
走ってきた所為というだけではない。ドクドクと心臓が脈打った。一気に血が頭に上り真っ赤になるのが見ずともわかる。目に、焼きついた一瞬。パウリーの聊か散らかった部屋、ベッドに腰掛けて下着を着けていたところと言う、青い髪の女性の姿。
恥ずかしながらパウリー、これまで女性の裸身は母の物以外見たことがない。(海列車で着替えたハレンチ女の姿は服に手をかけた途端目を閉じている)
「み、見てねぇからな…!その、一瞬だったんだ!!!」
自分でもっと上手い言い訳はできないのか!といやになりつつ、パウリーは女性の気配に全身の神経を集中させてしまう。ジョゼの気配はしない。一体どこに行ったのか。彼女がいれば己はこの場面に遭遇することもなかっただろうに!などと責任転嫁をしてみるけれど、それでどうなるわけでもない。
先ほど「着替えてるなら言ってくれ」とそのように怒鳴ってしまったが、彼女は喉を怪我しているのだ。喋れるわけがない。どこまで自分は気がまわらないのだと叱責し、パウリーは顔をしっかりと手で覆い、くるりと体を反転させて女性に向かい合う。
そしてそのまま頭を下げた。
「すまねぇ…!!悪気はねぇんだ…!!!だが、気は悪くしたよな…?本当に、すまねぇ…!」
「顔をお上げなさい」
「いや、でも…!」
「もう着替えは済んでいます。そのように殿方に頭を下げられても、わたくし、気分は悪くなるだけです」
短い会話。
そこで何かおかしいことに気付き「へ?」とパウリーは間の抜けた声を上げた。
今、聞こえたのは誰の声だ?
顔を上げれば、目の前には瑠璃の髪の女性が一人。ベッドにちょこんと腰掛けて、身支度の済んだ姿でこちらを見つめている。
「なんです。女性の顔をまじまじと見るものではありませんよ」
「………あんた、声が」
喋っていたのは例の麗人。ガラスで出来た鈴を転がす音よりも、夜鳴鳥の歌う声よりも透き通った、美しい声といえばこれのことと思わせられる静かな声。美しい顔の女性だとは思っていた。その立ち振る舞いの何もかもが美しかった、けれど話す声を聞けば、さらにその美しさが完璧なものとなった気がするのだ。思わずその美しさに一瞬時が止まってしまう。
「この時間はお仕事中なのではないのですか」
ぼうっとして黙るばかりのパウリーに女は眉を寄せながら問う。それでパウリーは時間を再び取り戻して、見惚れていたことを気恥ずかしく思った。頬を掻き、視線を逸らしながら、当たり障りのない会話をしてなんとか場を取り繕うとするのだけれど、この男に気の利いたことなど言えるわけもない。
「……その、具合は、どうかと思って。あ、腹ァ減ってねぇか!?」
「いいえ、結構ですよ。体は痛みますが、それほどでもありません」
「そ、そうか…!よかった…!」
「あなたには手間をかけてしまいましたね。手負いとはいえ、見知らぬ人間を抱え込むなど、面倒だったでしょう」
しゅるりと布のこすれる音がしたと思えば、女性が立ち上がり、そのまま部屋を出て行こうとする。
「ちょ、どこ行くんだ?」
「これ以上面倒をかけられません。あなたは日常を取り戻しなさい」
言ってパウリーの前を通り過ぎる。が、その顔色はやはりまだ青いのだ。無理をしていることは明らかで、パウリーは顔を顰めながらぐいっと、女性の手首を掴む。
「待て!」
「なんです」
「い、いや、その」
掴んだ手首の細さにパウリーはぎょっとした。親指と人差し指が着いて余る。触れた肌は氷のように冷たいのに、パウリーを睨み上げる瞳は炎のように赤い。
「恩ある方と思うから多少の無礼は許しましたが…その手をお放しなさい」
「い、いや、それはダメだ!」
「なぜです」
「放したら、アンタ、出て行っちまうだろ!?」
だから放さないんだ、と言って怯みそうになる自分を奮い立たせる。女性の手首を強く掴むなど、破廉恥極まりない。男が力で女を抑え込んでいる、というのもパウリーからしたら「酷い事」だった。だが、今この場でこの女性を行かせていけないのだと、そう思う。
こんなに細くて冷たい体をしている。
怪我だって、喉は治ったようだが、まだ身体に深くあるはずだ。
「だったらなんだというのです。あなたには関係のないことですよ」
「いや、そう言っちゃそうなんだけどよ…!でも、駄目だ!」
女の言葉が知らず、パウリーの心に刺さる。自分には関係のないこと。こんなに近くにいても、別の世界で生きているんだと、そう突き放す目。それを、ほんの少し前にパウリーは燃え盛るガレーラの中で見た。
「だからって関わっちゃならねぇ理由にはならねぇだろ!!」
目の前の女の赤い瞳が、あの時の炎を思い出させる。あの時、くるりと「あいつ」は背を向けた。パウリーはロープに縛られて、体中は傷だらけで、けれど手を伸ばしたかったのだ。
掴めていたら、けして放しはしなかった。
「あぁそうだ!おれはアンタの名前も知らねぇし、アンタがどこから来たのかも、そんな怪我してんのになんで出て行こうとしてるのかも、何も知らねぇんだ!でも、おれは…!アンタと会って、助けたいと思ったんだ!!」
女性に怒鳴るべきではない。どんな時だって、女性には紳士的であれと(破廉恥時除く)そう心がけてきたパウリー。けれど今は感情が溢れ出して歯止めが聞かない。
「……なぜ、泣いているのですか」
口を開けばまだ何か言ってしまいそうで、パウリーはぐっと唇を噛んでいた。手を握る力を強め、きつく目を閉じて、しばらく。
ぽつり、と、先ほどまで拒絶しか感情の含まれなかった声が、今度は戸惑いを伴って呟かれた。
はっとして気づけば、パウリーの顔は濡れていた。あの時のように、みっともなく、涙があとからあとから溢れ出していて、それに気づかぬほど己は感情に駆られていた。
慌てて手を放し、ごしごしとパウリーは袖で目をぬぐう。乱暴な手つき、擦れて痛いくらいだが、そんなことは構わない。
「ち、違ぇよ!これは…目に画びょうが刺さったんだ!」
「失明しますよ。どんな言い訳ですか」
呆れながら女は洗面台にかけられていたハンドタオルをしゅるりと引き取ると、そのまま必死にぬぐおうとするパウリーの腕を取り、その頬を抑える。
「擦れば腫れますよ」
「っ……だ、だからこれは……!」
「わたくしの勝手だけでこうなったのではないですね。誰かにいじめられましたか」
「ガ、ガキ扱いすんな!!おれはもうとっくに成人してんだよ!」
「わたくしからすればあなたは随分と子供ですよ」
母親が子供をあやすようにポンポン、と、慣れた手つきで女がパウリーの涙を拭う。間近にある彼女のその美しい顔にパウリーは思い出したように顔を赤くした。
パウリーは背の高い方だが、彼女はその頭一つ分低いというだけだった。女性にしては背の高い方だろう。だからなおさら接近しているように思え、どうすればいいのかと体を強張らせる。
「……あなたのような子供を知っていました」
只管緊張するパウリーを愉快げに眺めて目を細めてから、女性は静かに唇を開く。
「胸の内に刺さって抜けぬ棘を持っていて絶えず血を流していた。抜けばいいのに抜くと、その棘が我が身から離れていくのが恐ろしくてずぅっと、胸の内に抱えていた、痛いとも言わぬ、不器用な子」
遠く遠くを見るようにどこか虚ろ。戸惑うパウリーが眉を寄せ何か言おうとする前に、再び女が口を開いた。
「でも、その子はもうずぅっと昔に死んでしまった」
言って、女の手が再びパウリーの目じりに伸びる。
「だからあなたはお泣きなさい。そうすれば少なくとも、わたくしの心は晴れます」
「お、男が…人前で泣けるかよ」
「このわたくしが泣きなさいと言っているのです。口答えは許しませんよ」
その言い回し、誰かに似ている。だ、とパウリーは思い出し、途端、笑ってしまった。
「なんです。わたくしは泣けと言ったのですよ」
「はは、いや。アンタ、こう言っちゃなんだが俺のおふくろによく似てんだ。おふくろみたいな言い方をするヤツなんていないと思ってたけどな」
「……随分と、素晴らしい性格の女性もいるものですね」
「まぁな。ちょっと過激なところもあったが、いい母親だ。アンタと話が合いそうだ」
己には甘く人に「気合の入った親ばか」と言われていただが、各所各所では厳しかったし、自分以外の人間には随分と傲慢な物言いをしていたのをパウリーは知っている。けれどそれも彼女の愛嬌。不思議と憎めぬのだから、とこの街で愛されている。
それにしても今日は妙な日だ。一日に二人も、毛を逆立てた猫のような人間に出会った。シュライヤは今頃製図を書けているだろうか。残してきたことを思い出しながらパウリーは女性に片手を差し出した。
「…なんです?」
「改めて挨拶させてくれ。俺はガレーラの船大工でパウリー。あんたは?」
いつのまにかパウリーは涙が引いていた。溢れ出していた激情が、今は穏やかになっている。そういえば、泣いたのはあの時以来だった。エニエスに乗り込んだときも、己は涙を落とさなかった。水の都を出るときに、は何度もこちらを振り返り、何か言いたそうな顔をしていただが、結局母は何もいわなかった。
「……どこまでも無礼な男だこと。このわたくしに手を握り返せなどと…」
見つめるパウリーを睨み女はぱしん、と手を払う。不快不機嫌極まりない、という声だ。先ほどまでは慈悲深い聖母のような、そんな面差しであったのに、この変化。
逃げようと思えばすぐにでも女は部屋から出て行ける。それを女もわかっている。けれどそうしてじぃっとパウリーが見下ろして数分、やはり不機嫌という態度には変わらぬが、それでも、ため息交じりに女が口を開いた。
「わたくしは・L・コルヴィナス。……と、そうお呼びなさい」
Fin
(2010/01/14 20:03)
当初は喋れない時間を結構多めに設定してたんですが、なんか結構大変なので早めに回復していただくということにしました。
あ、別にあんまり関係ないですが、さんのLはLaurierから。
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