「…な、なんだって貴方がここにいるのよぉ…」

きつい眼に怯え交じり、扉を開けたリコリスはたじっと一歩後ずさって体を震わせた。

午後の海軍本部、この頃は現在のG1支部に本部を移転する計画が上がり実行されるかどうかという微妙な頃合い。海軍本部内ではぴりぴりと緊張が走り、赤犬付きの秘書であるリコリスも様々な細事にまで気を張らねばならなかった。己が働き詰めということは自然上司であり敬愛する赤犬サカズキも仕事仕事の毎日で、それであるからリコリスは二週間前からなんとかスケジュールに隙間をつくり、今からほんの15分ほどの休憩時間をサカズキにプレゼントしようとしていた。

じきに会議から帰ってくるサカズキに入れたてのお茶とこの日のために取り寄せた老舗名店の和菓子を用意してくつろぎの空間を、と、そういうところ。もちろんサカズキのこの休憩をもぎ取ったしわ寄せはリコリスに来る。このお茶や菓子の準備とて仕事の片手間に行い負担はあった。けれどリコリスはそれでもあの人のために何かできるのなら嬉しかったし、準備をしている時間も楽しんだ。まるで苦ではなかった。穏やかなひと時を過ごしていただければそれで十分と、本気で思っていたのだ。きっと静かで幸福な時間になるだろう。そう思えばリコリスの心は自然華やいだ。この時間をもぎ取るためならどんなことでもすると、そう決意をするほどに。

「やぁ、お嬢さん。お邪魔しているよ」

それなのに目の前には悪魔がいる。これはいったいどういう冗談だ。大将赤犬の執務室、真っ白いソファに当然のように腰かけて勝手に用意したらしいティセットを広げ午後のお茶を楽しむのは良く熟したラズベリーのように赤い髪の少女がいた。肩まであるウェーブのかかった柔らかな髪を窓からの光にキラキラと輝かせ、薔薇の蕾のような唇を楽しげに吊り上げ薄い色眼鏡越しにリコリスを見上げてくるその表情は愛らしい。しかしリコリスには悪魔の笑みにしか見えない。なぜこの場所に悪魔が存在するのか。驚きのあまり表情を浮かべられず黙るリコリスを気にする様子もなく悪魔は一寸考えるように唇を尖らせてから咎めるように眉間に皺を寄せた。

「感心しないな。仮にも赤犬殿の秘書なんだろう?Gnadiges Fraulein、大将閣下の部屋に入るのならたとえ留守であるとわかっていてもきちんとノックをするべきだね」
「厭味ったらしい言い方をしないて頂戴!」

芝居がかった口調。お嬢さん、Gnadiges Frauleinと言う言葉は今では滅多に使われない。古めかしい言い方で相手を茶化す。愚か者なら気付かぬその棘も聡明なリコリスは気づく。相手に一定の「教養」があると承知しながらこき下ろす。言葉全体にも十分悪意を含ませながら単語単語で相手を見下す魔女の話し方。リコリスはカッと顔を真っ赤にして声を上げた。その様子を魔女はにこにこと目を細めて眺めるのだからタチが悪い。

リコリスは先ほどまでの幸福な気分がいっぺんに台無しになるのを感じ、しかし、この魔女相手に「敗北」など己のプライドが許せなかった。

荒くなる息を意地だけで抑え込み、リコリス・ボルジアは一度目を伏せて再度開く。手に持つのは大将赤犬が夕刻の会議に必要な書類。そうだ、己は大将付きの秘書。その誇りを胸に刻み、キッ、と眼下の魔女を睨みつける。

「卑しい賞金稼ぎが大将閣下に何のご用です。約束のない方を合わせるわけにはいかないわ」

リコリスにいは悪い冗談にしか思えないが、頂上決戦にて死したはずの「」らしい。なんだそれ、どういう冗談だ。詳しいことはリコリスには知らない。けれどいろいろあって、やっとサカズキ大将がとの過去を清算し、自分にもチャンスがある思った途端、当たり前のように現れやがった。あぁ本当に憎たらしい。生き返ったのか?と聞いたが「そんなオカルト展開はない」と魔女当人が即否定。じゃあどんな反則技使ったのだ、とリコリスが疑問に思うのも無理はない。

何があったのか聞いても赤犬は(もちろん青キジも)答えてくれない。けれど、かつて「」だった魔女は今現在「」とそういう名で賞金稼ぎをしているそうだ。

「それとも、きちんとサカズキさんと約束をしているのかしら」

一瞬、リコリスは口に出して己が「怯え」ていることを自覚した。自分は秘書として赤犬のスケジュールを管理している。仕事一徹の人だから、すべての時間は「仕事」になり、リコリスに知らぬことはない。だからの訪問も「約束されたこと」ではないと確信がある。それでもリコリスは「自分の知らないところで赤犬が魔女と約束をしているのでは」とそれを恐れた。むろんリコリスに赤犬の私生活を縛る権利などない。だが妙な葛藤があった。大丈夫だと思う反面、この魔女には己は敗北するしかないという怯え。問うてみたものの、こちらの問いかけの答えが魔女の赤い唇から洩れることを恐れる。だからこそあえてリコリスは「サカズキさん」と、の前で赤犬の名を親しげに呼んでみた。あの夜以降リコリスはけしてサカズキの名を呼ぶことがなくなったというのに。

「まさか、アポなしさ。ついつい勝手に上り込んできてしまった、僕も礼儀知らずになったものだよね」

白いカップを持ち上げてがこちらを見ずに紅茶を楽しむ。その姿にほっとした。リコリスは背筋をただし、はっきりと宣言する。

「そう、ならつまみ出されないうちに出て行って。これ以上無様な振る舞いをしたくはないでしょう?」
「ねぇ、お嬢さん、君って気の毒になるくらいMっ子なんだね。僕とサカズキの関係で今更礼儀正しくするべきなんだろうかって、そういう疑問を抱いてその末の行動なんだよって、言って留めをさしてほしいのかい」

堪えきれなくなってついにリコリスは片手を振り上げた。

 

 

 

 

 





つみくずし

 

 

 

 

 

 







「殴られたのか」
「その前に彼女の顔を僕がひっぱたいた。今頃腫れた顔のまま目も腫らしてるんじゃないかな」

問うてくる声は聊か不機嫌。はカップを膝の上のソーサーにカチャリと合わせてから執務机に向かっている、外から戻ってきたサカズキに顔を向けた。午後の静かな海軍本部。昨今何ぞ大事でもあるのかどことなく緊張感のある空気だが、今の己にはきっと関係のないことと知ろうとはしない。

答えた後も相変わらずの仏頂面を続けるサカズキには小首を傾げた。

「怒らないの?君の秘書さんに手を上げたんだけどな」
「女同士のいざこざに首を突っ込むほど野暮じゃァねェ」

おや、とは目を細める。あれか?女が二人して言い合うその対象が己であるというのは男の甲斐性の一つとかそういう認識か。いや、まさかこの堅物のようなサカズキに限ってそういうことはないだろう。ならばサカズキはサカズキなりにリコリスと、そしてを尊重してくれていることになる。ありがたいのか、それともリコリスには気の毒なのか、判断がつきかねては肩を竦めた。

そしてふとはサカズキのカップが空になっているのに気付いた。「おかわりは?」と聞くと「あぁ」と答えるものだから、ソファから身を乗り出して向かい合ったサカズキのカップに新しい紅茶を注いでいく。昔はサカズキには緑茶か、そういう渋い物しか合わぬと思っていたのだけれど、こうして紅茶を出せばきちんと付き合ってくれている。といって一応用意した茶菓子(横文字のもののみ)には一切手を付けない。だからはそのことが一寸だけ可笑しくて笑ってしまう。

ほんの少し口の端を動かしただけなのにこちらを偶然見ていたか、あるいは何となく雰囲気で悟ったのか仕事をこなす手を一瞬止めて「どうした」と聞いてくる。はまさか「サカズキの気遣いがくすぐったい」などとこっぱずかしいことを口走る気にはなれず、「別に」と、やはり笑い交じりに言ってから、追求しようとするサカズキが口を開く前にその手元を指さす。

「仕事、忙しそうだね」

サカズキが部屋に戻ってきてから既に20分は経過しているけれど、未だ手を休める様子がない。山となった書類、ではないけれどそれなりの量が机の上に乗せられている。まさかサカズキが昨日の仕事を今日に持越しなんてことをするわけもなく、それならこの量は本日の、それも午後の分なのだろうとわかった。

「あァ、あのクザンですらよう働いちょるわ」
「うわぁ、それはすごい」

忙しさの度合いを知るのにこれ以上の物差しもない。が笑えばサカズキが仏頂面のまま「あれが末に元帥になるかもしれんたァ、今から先が予測できる」と珍しく疲れたように言う。サカズキやクザンから直接聞きはしないが、戦争後にセンゴク元帥が内々に引退を宣言したらしい。それで次の元帥殿を、とそういう話をも小耳にはさんでいる。誰がなるのか、までは知らない。サカズキもはっきりとは言わない。けれど何となくサカズキは「クザンがなりゃァえぇじゃろう」とそう思っているような気がした。正義一徹、そのサカズキ。けれどそう、何となく思っているんじゃないだろうか。理由はやっぱりわからない。

クザンが元帥になったら、きっとサカズキは今以上に仕事をするんだろうと想像してはふふ、と笑う。あちこちふらふらする元帥をサカズキが本気で怒鳴って連れ戻す。そういう想像をしたら楽しかった。何もかもが変わってしまって、もうの知る三人が大将、ではなくなってしまう「変化」が嫌だと思ったけれど、今でもほんの少し、その未来が「確定」されるのは嫌だけれど、けれど、クザンがだらしなくて、サカズキがクザンを怒って、と、そういう毎日がまだ「続く」のなら大丈夫だと思えた。

それにしても外から帰ってくるなり机について仕事を開始したサカズキをは「相変わらずの仕事バカ」と評価した。どうもどうやらリコリスは、あの気の毒な秘書殿はそんなサカズキを案じて少しの休憩時間を独断で用意しようとしたのに、とうの大将殿は一蹴にするというこのつれない態度。

はソファに戻り不要になった茶菓子のクッキーを真空パックのタッパーに入れて、持ってきたバスケットにしまい込む。昔はさっと腕を振れば何でもかんでも収納できたのに、今はきちんと持ち運びするしかない。

「順調か」
「うん?」

ティポットとカップだけを残してしまい終えると、見計らったようにサカズキが声をかけてくる。やはり仕事の手はとめない。何のことだとは一寸考えてサカズキを見た。丁度顔を上げたサカズキと目が合った。

「旅のこと?」
「あぁ、なんぞ問題はねェか」

例の場所で再会してからいろいろあっては賞金稼ぎをしている。一年で50人、内に10人は5000万以上の賞金首を含んで、政府に差し出す。それがと×××が決めたこと。サカズキがそれを知っているとは思っていないが、何ぞ感じることはあるのだろう。「旅」とこちらが言えば一瞬眉間に皺が寄った。

最後にサカズキに会ったのはふた月前。それから今日まであったことをあれこれと思い浮かべては小首を傾げた。

「何もないよ。順調さ」
「そうか」
「信じてないんだね」
「あぁ」
「そっかぁ」

容赦なく返される言葉に苦笑するしかない。「何ごとかある。順調じゃない」とそうわかっているならどうして聞くのか。この人Sなのか、と思いかけてもともとサカズキはドが着くSだったと諦める。

冷めて温くなった紅茶を口に含み、は乾いていた喉を湿らせる。意識はしなかったが、問われた一瞬、自分は緊張したらしい。

(あのね、僕、もう昔のようにはいかないんだ)

言いたくなる。その言葉を飲み込んで、はソファに背を凭れさせる。記憶にあるより少し天井が近く感じるのは背が伸びたからだ。

カップを膝に乗せたまま目を閉じればカリカリとサカズキが羽ペンを動かす音が聞こえる。時折書類に不備、あるいは疑問を抱くことでもあるのか「ん?」などと小さく言葉を漏らす。その音を聞くのが心地よい。

「何か話せ」

黙って時間に身を委ねていると、てっきりこちらの存在など忘れて仕事に没頭していると思っていたサカズキが声をかけてくる。ぱちり、と目を開き、は「ふふ」と笑った。

「無茶ぶりをするんだね」

この自分がサカズキ相手にできる面白話のストックを持っていると思うのか。いや、ないわけじゃない。たとえばカマバッカ王国でサンジくんがオカマに追っかけられながら料理修行、あんてまさかのとんでも展開は笑えるけれどサカズキ相手にできる話題ではないし、そもそも海賊のネタだ。笑うというよりそのまま軍艦を繰り出しそうである。

「嫌か」
「困るよ」

悩むんだ、と眉を寄せて返せば同じようにサカズキが眉を寄せた。

「わしが何ぞ困らせるようなことを言うたか」
「言った」
「そうか」
「そうだよ」

ふむ、と考え込む。まさかあのサカズキが反省でもしてくれるのかとそんな恐ろしいことを思うが、まぁそれはないだろう。次は何を言ってくるのかと思えば、サカズキは自分の後ろ、つまりは執務室に備え付けてある寝室を顎で指した。

「寝てこい」
「いや、なんで?」

今のこの会話の流れでなぜそうなる。え、と状況について行けず突っ込みを入れると、サカズキは自分が至極全う、当然の言葉を吐いたという顔のまま続ける。

「そこじゃ、よう眠れんじゃろう」

そこ、というのはソファのことか。

「いや、寝ないし。別にお昼寝しに来たわけじゃないし」

パジャマとかないし、と言えばそのまま寝ろ、あるいは下着で寝ろと言われかねない。別に今更気恥ずかしいという間柄でもないと言えばそうなのだが、生憎まだこの体でサカズキとそういう展開になったことはない。

遠慮というか謹んで事態、というように手をあげて「No」と言うとサカズキが首を傾げた。

「そういやァ、おどれ、何しに来たんじゃァ」
「最初に聞こうよ、そういうことって」

リコリスくんがかわいそう、とは結構真剣に同情してしまった。こうして時折尋ねるようになってから一年は経つ。サカズキは海軍本部の情報をけして漏らすようなへまはしないのに、妙に自分に甘いんじゃないか、とは思った。普通海兵でもない人間が、それも世には魔女なんて呼ばれているこの己がひょこひょこと大将殿をご訪問、なんてしている。それなのにつまみ出すことも用件をはっきりと聞きだすこともしない。

(甘さって思うのか、それとも、なんだろうねぇ。何があっても、自分で対処しきれるっていう覚悟?)

思っては苦笑するしかない。どちらも一緒のように思えたからだ。それで、さてどう答えようかとサカズキを見つめる。

「仕事で構ってくれなくてもいいからきみの顔を見に、っていうのと、ストレス発散にクザンくんをからかいに、っていうのどっちがいい?」
「わしを怒らせたきゃァ後者を選べ」
「おや、きみも嫉妬なんてするんだねぇ」

軽口を叩けばフン、と鼻で笑われた。

「何を今さら言うちょる」

あぁ、なんてタチの悪い!

鼻で笑い飛ばしたからてっきり冗談かと思ったのにこの大将閣下はなにとんでも発言をかますのか。ぼっ、とは一気に顔が真っ赤になるのを感じ、たまらなくなってソファに顔を埋めた。カップはきちんと避難させている。

「寝るなら奥で寝てこい」
「だから寝ないってば!何その話題続行?!」
「顔色が悪い」

ぎゃあぎゃあと恥ずかしまぎれに騒ごうとしたのに、真面目な顔と声で真っ直ぐに言われた。ぴたり、とは黙った。




+++





「よう寝ちょらんのじゃろう。体を壊したらどうする、バカタレが」

押し黙って顔を顰めるをため息一つに一瞥して、サカズキは執務机から離れた。大股での座るソファに近づき、その頬に手を伸ばす。元々色は白かったが、最近は日の下で活動することが多いのか肌は少し焼けている。それなのに「顔色が悪い」とわかる血色だ。触れても黙ったままのにチッと舌打ちをして、サカズキは聊か手荒にその体を抱き上げた。

「ねぇ、僕はお昼寝しに来たわけじゃないんだけどなぁ」

抗議の声は一応上がる。だがここまで実力行使したあとではさして意味もないとわかっているようで、落ちぬようにとその腕が首に回された。相変わらず体温が低い。
部屋に入って顔を見たときからずっと気になっていた。の顔色は悪く、そして化粧や眼鏡、髪で隠しているつもりらしいが、その目の下には隈がある。
寝ていない、と指摘して肯定する素直さなどないだろうが、言わねば余計誤魔化し続ける。が賞金稼ぎの真似事を始めた。そのことを聞いたとき「あの魔女の餌食になる海賊が増えるのか」と思いはした。だから放っておいた。だから暫く気付かなかった。

「痩せたな」
「これでも「前」よりは10キロ近く増えてる」

抱き上げた感触は二月前に会ったときよりも軽くなっている。「前」はどうだったのかは思い出せないので仕方ない。サカズキは寝台の上にを下して蒲団をかける。その服のままではくつろぎにくいだろうが、若い娘の衣服に手をかけるわけにもいくまい。自分が退室すれば勝手に脱ぐだろうと触れずに置いた。

寝室のカーテンは締まっている。眠るなら暗い方がいいが、僅かな明かりは必要だ。それでサカズキは手明かりを灯した。

「寝ちょれ」
「いや、だからさ、僕何しに来たのさ。お昼寝しに?態々海軍本部に?」

蒲団の中でぶつぶつと文句を言う。その口を塞いでやろうかと思うが、思うまでに留める。サカズキはベッド脇の椅子に腰かけて、横たわるの前髪を払った。

(二月前に負った傷が、まだ残っている)
(体中に、微かな血の匂いが染み付いている)
(腕の骨が僅かに歪んでいる)

幼女、とまではいかないが、未だに幼さを残すその顔、体は見かけ通りのもの。怪我をすれば傷を治すのに常識的な時間を要する。その細腕には見かけ通りの筋力しか備わっていない。

(そんな中で、「昔」のまま海に君臨しろと求められる)

「睡眠を取らにゃすぐに倒れるぞ」

癖のついた前髪を払い、色のついた眼鏡を取る。度は入っていないそれをは後生大事に使い続けている。眼鏡を取れば一瞬びくり、とその体が震えた。しかしすぐになんでもない態度を取戻し、ぶつぶつと文句を再開する。

「きみだって寝てないくせに」
「バカタレ、わしは鍛えちょるけ、そうヤワじゃねぇ」
「ヤワくないよ。腕立て伏せ、膝ついてだけど100回休まずできるようになったし」

自慢げに言ってくる。笑い飛ばすべきだったが、サカズキはそんな気分にもなれなかった。

(なんでこんな生き物が海に出ている)

誰が原因だ、と考えてサカズキは奥歯を噛み締めた。に見えぬ位置にある掌をぎゅっと握りしめる。

(わしじゃねェか)

誰の所為でこれが半死半生の道を行くことになった。
誰が原因で「こう」なっている。

それらは全て己の所為だった。

(あぁそうじゃ)

わかっている。わかって、いるのだ。

「あの日」自分が起こした行動が、選んだ結果が「こう」なった。

を殺め、日々を送った。段々と日々に精彩を欠いて行く。それでも耐えられると思っていた。自分自身で選んだことだった。だがサカズキは、耐えられると思った「のいない日々」を終わらせようとした。

その結果がこれだ。魔女の力など一切ないひ弱なに「魔女」の人生を強いることになった。

後悔など己の人生において一度とてするものではないと決めている。だからサカズキはあの時の自分の行動に「腹が立って」仕方ない。

己がからかつての「強さ」を奪った。魔女としての力、素質。海賊のひしめく海をのらりくらりと渡って行ける叡智。それらはサカズキの「所為」でから失われている。それでもは「昔のまま」として振る舞わねばならない。14,5の娘と変わらぬのに、1000年を生きた魔女のように理不尽と向かい合い、道理に背かれる。

賞金稼ぎをしている、と、その現実がサカズキには理解できない。この細腕で何ができる。殺されないように逃げ回ることだって難しいだろうに、そんな毎日を一年も続けている。寝ていない、のではない。眠れないだけだろう。息をつくことすら難しい世界に放り込まれた。一瞬でも気を抜けば「魔女」に恨みのある者たちの手に落ちる。そういう中に、サカズキはを放り込んだのだ。

(なぜ耐えられなかった)

己を詰る。罵倒する。のいない日々をなぜ続けなかった。己の海兵としての正義はそれで何の問題も、一点の曇りもなかったはずだ。正義を掲げ、悪を許さず、駆逐する。絶対的正義の名の元に正しく生き続ける。己が己であり続けることに、の不在はなんの不都合もなかったはずだ。

それなのに、サカズキはノア・クリスの死をきっかけに「魔女」を探し始めてしまった。魔女の不在を否定した。

(わし一人が耐えりゃァいいだけのことを、耐えられんと挑み、結果がこれか)

はっきりとわかっている。目の前で苦痛をひた隠しにするこの娘、これは「」ではない。だがサカズキがを取り戻そうともがいた結果、がいる。

いや、違う、と言うのは御幣があった。は魔女だった。、だった、と言うべきだ。サカズキが捕え殺したではない。けれどその記憶と「である自覚」を持っている。そして本人も「自分は違う」と理解している。

こんな茶番はない。
こんな結果のために、自分はを殺したのか。

「ねぇ、今度さ、次に、来るときは前もってきみにちゃんと連絡するからさ」

知らず険しい顔をしていたのか、が顔をこちらに向ける。ぼんやりとした青い目でじっと見つめる。魔女の瞳ではない。見つめ返してもなんの障害もない。瑠璃と同じ色の目を見つめ返してサカズキは「なんだ」と聞き返す。どこか少しだけ外に出て一緒に歩こう。そう続けてくる。時間があれば可能だろう。本部の外でなくとも本部内の渡り廊下を歩くだけでもは文句を言わぬとわかっている。サカズキは差し出された手を握り返すことなく頷いて、そして再びの額に手を置いた。

「あぁ、そうじゃのう。おどれがちったァましな顔色をしちょったら考えてやらんでもない」
「うわぁ、トマトジュース飲まなきゃねぇ」

軽口をたたく。コロコロと笑い、そしてふっと息を吐いて、がこちらに背を向け寝返りを打った。眠るとそういう姿勢だろう。サカズキは長居する気はなく立ち上がり執務に戻ろうとする。執務室と寝室を隔てる扉に手をかけた途端、の言葉が背にかかった。

「きみは何も間違えていないんだよ」

言葉の意味を理解するより先に、サカズキは、これまで一度も、己もも、けして互いの名前を呼ばない。そのことに気付いた。





FIN






(2011/06/08)

つみくずし⇒罪苦尽(く)し、罪崩し