常人には聊か寝苦しい、初夏というにはまだ早くしかし梅雨というにはカラっとした夜のことである。クザンは馴染みの女海兵の寝所から自身の寝所へと戻る途中ふらり、と気まぐれに立ち寄った、普段であれば顔を出すこともない海軍本部一般食堂を、ひょいっと覗いた。海軍本部マリンフォードの港町を飲み込んだ大戦からまだ暫く、しかし日々はありそして食堂を切り盛りする料理人海兵たちにさほどの変化はないもので、そしてその中でも「生真面目」という印象の強い最近料理人見習いを卒業したばかりの少年が熱心にレシピ本を見ながら何かを作っているではないか。
「よぉ、マリアちゃん。何してんの」
馴染みの顔であるからか、それともそういう気質ゆえかクザンは夜分の挨拶をとばしてそう声をかけた。煌々と明りをつけていた食堂内であっても深夜突然の声には驚くか「食堂のマリアちゃん」はびっくりと振り返る。女装癖はないと常に言い張っているが以前ドレークが「似合っている」とうっかり褒めてしまった真っ白いリボンはその金髪にしっかりつけられている。夜分であるというのにそれだけは外さず食堂にいるのか、とクザンはなんだか可笑しく思え、奇妙な笑顔を浮かべた。
「大将青キジ、こんな時間にどうかしたのですか」
「いや、ちょっとね。何、朝食の仕込み?」
「遊びもほどほどになさったほうがいいですよ。クザンさん、今まで付き合った女性になんて云われてるか知ってます?」
マリアはクザンの質問に答えるより前に、呆れたようにため息を吐いた。クザンの女遊びについては下手な将校よりもマリアのほうが詳しい。何しろ彼は食堂勤務であるから噂話をよく耳にするし、その女装した給仕、という点から女性海兵にも人気がある。きちんとした格好をすれば美少年の部類に入れて申し分ないマリアであるから、女性たちはそういう「美しい」少年に女装させることに対して妙な興奮を覚えているとかなんとか。
「あんまり噂って聞かないようにしてんのよね、おれって心臓弱いから」
「氷風呂に入っても心臓麻痺を起こせないような人が何を言っているんです」
「能力だからそれ。そういうオプションだから」
実際のおれは根性なしのチキン野郎よ、と冗談めかして言えばマリアが笑った。笑うとマリアは少年というより少女に見える。そういう笑顔、きらきらとしている様子は愛らしく、クザンはそっちの気は皆無だけれども、なるほどマリアにときめいて食堂通いをしてしまう海兵がいるのも頷ける。
「へぇ、で、なんて云われてんの?おれ。人でなし?それとも冷たい男って?」
「気になさらないんじゃ?」
「聞かないようにしてるってだけ。まぁ、折角だし教えてよ」
悪口か恨み言だろうと大方見当は付くが、最近はこれまでと少々、女性たちとの付き合い方を変えているという自覚があるゆえに少しばかり気になった。
マリアは眼を細めてじぃっとクザンを見つめ、そして顔を逸らす。再び手元にあったボゥルを引き寄せてその中のクリームをかき混ぜる。かしゃかしゃと手際の良い音、ぼんやりと眺めてクザンはひょいっと、マリアのリボンを掴む。
「悪口じゃないんだ?」
「クザンさんに遊ばれてもいいって、覚悟しているだけあって皆さんとても性格が良い方ばかりですよ。というかおれ、たとえ言っていたとしてもあなたに告げ口をする気はありません」
「マリアちゃんも性格良い子だよなァ、ホント、女の子だったら絶対誘うのに」
「おれが女なら、クザンさんは死んでもごめんですよ」
シャカシャカと振り返らずマリアはそっけない言葉を向ける。その白い瞼は女のようだが、しかし泡だて器を握る手は筋張っていて柔らかさというよりは男性特有の大きな手になる間近、というようだ。じぃっとその手を見つめている視線に気付いたマリアが眉を寄せボゥルをテーブルの上においてから自分の右手を左手で押さえ、ゆっくり掌を親指の腹で撫でた。
「段々とおれの体、男のものになってますからね。そういつまでも「食堂のマリア」じゃいられないですよ。そうしたら次の子でも、見つけたほうがいいですかね」
「背、また伸びたの?」
「えぇ、この一ヶ月で5センチほど」
「思春期の男の子の成長は早ぇなァ、おい。たけのこか?」
「クザンさんにだけは言われたくありません。何メートルあるんですか」
そういえば最後に身長を測ったのはいつだったかとクザンは首をかしげ、そして顔を顰めた。そうだ、最後に身長を測った理由が、そうだ。
『へんなの、クザンくんってまだ背、伸びてない?今何メートル?』
真っ白いソファに腰掛けた「あの子」がその青い目を大きく不思議そうに見開いて、そしてあどけなく提案してきたのだ。何メートルもないと否定すればころころと猫のように喉を震わせて笑い、そうだ。そうしてクザンはその後随分と久しぶりに身長を測って、それで。
脳裏にちらっと蘇った姿、声にクザンはぎゅっと掌を握り、しかし表には出さず壁に寄りかかったまま腕を組む。
「さァな、忘れた。で?おれの評判、悪いの?いいの?」
「『いっそ大声で泣いてくれれば慰めることもできるのに』って」
訂正、マリアちゃんは性格が悪い。クザンは両手を挙げて降参するようなポーズをとり、苦し紛れにそう呟いた。するとマリアは呆れたような妙な顔をして「聞いたのはクザンさんですよ」と容赦ない。そのままクザンはずるずると床に座り込んでしまいそうになるが、そういう姿をいくら馴染みとはいえ海軍本部の海兵に見せるのは嫌だから、堪えぐっと、腹に力を入れ、片足に体重をかける。
「なに、それ」
「自覚あるんですから聞かないでください。クザンさんと付き合ったことのある女性は皆、心配してますよ。あなたが最近毎晩のように女性のところに通ってるのは何も好色というわけはなくて、」
「ごめん、そこから言わなくていいわ」
ピキッ、とマリアの手のボゥルが凍りついた。クザンは意識してのことかそれとも無意識なのか判ずるのを止めて、咄嗟にボゥルを手放したマリアを見下ろす。素早く手放したのはさすが本部の人間といえる。あと一秒遅ければ両手くらいは凍ったろう。ひょいっとクザンは凍ったボゥルを掴んで器用にくるくると回す。
最近クザンは、毎晩毎晩馴染みの女性の寝所を訪れる。体を重ねて求めての只管濃密な情事の繰り返し。それでも夜明け前には己の部屋に戻って、そして真っ暗い部屋の中でひっそりと息を潜める。いや、部屋に着いた途端情事後特有の眠気によって眠りにつける。ようは睡眠薬代わりとさえ云って構わぬもの。女性らもそれを気付いているようで、てっきり恨まれていると思ったが、マリアの言葉は事実だろう。
「別に、おれはクザンさんを心配してるわけじゃありませんよ」
クザンがボゥルを台無しにしたことには触れず、マリアはテーブルの下から新たなボゥルを取り出すと並べていた材料を再び混ぜ、そして先ほどと同じ手順で何かをこしらえていく。どうやら何か練習中、というわけではないらしい。てきぱきと手早く、クザンが台無しにしてしまったからこそ、新しいものは素早く完成させようとしているようだった。時折レシピ本に目を落とす。クザンはその本に何気なく視線を向けて、その文字が誰のものか気付いて体を強張らせた。
サクサクと、マリアは真っ白い長方形の皿の上に出来たものを盛り付ける。イカとオクラの明太子和えやら酢の物、それにゆでた鴨のごまソースなど簡単だが手の込んだ一品がその上には盛られていった。そうして最終的には五品が並び、臙脂のお盆の上に乗せられ、その隣には既に徳利とお猪口が用意されていた。元々お猪口は一つだったが、マリアはふと思いつきもう一つお猪口を載せると、給仕経験が長いとわかるなれた様子でお盆を持ち上げ、それをクザンに差し出してくる。
「すいませんが、これを大将赤犬に届けていただけませんか」
【第二部・魔女の不在】
「海軍本部幽霊騒動編」スタート
サカズキが、戦争以降殆ど睡眠をとらなくなったことはクザンも気付いていた。それで別段大将としての仕事に影響があるわけではない。いや、寧ろこれまで以上にサカズキは「大将」としての振る舞いを強くしているように思え、将官らはその苛烈さを増した姿を「白ひげを討ち、さらに悪を討とうという決意の表れだ」と敬意の眼差しを送っているようだが、しかし、クザンはそうは思わなかった。
マリアの話によれば、サカズキは今日も当たり前のように徹夜を決めているそうだ。食事もいらぬというほど、仕事の鬼。一心不乱に職務につくその姿を、クザンはできれば見たくないのでここ最近、避けていた。会わぬようにしていて、だからサカズキが眠らずにいる、というのも直接顔をみてその顔に隈が合ったから気づいたとかそういうのではなく、仕事量が増え、そして部下たちの評判を聞き判断したことだ。
久しぶりに来る赤犬の執務室は、やはり明りがついていた。クザンはため息を一つつき、コンコン、と扉を叩く。
「クザンか。なんじゃい、急用か」
「いや、おつかい。マリアちゃんがサカズキにって。差し入れ」
「あの料理人か」
そういえばサカズキはマリアを女扱いはしなかった。きちんと本部の従属の一人として扱い、戦桃丸の頭を撫でるときと同じようにマリアの頭を撫でる。
入室し、クザンは「うわ」と顔を顰めた。
「……お前、過労で死にてェの?」
「バカタレ。わしがこの程度でどうにかなるか」
部屋の中には書類書類、とにかく書類の山である。戦争後様々な情報整理で多忙を極めているというのも確かにあるし、荒れた島への軍の派遣やら何やらで、仕事は毎日のように増えるというのはわかる。だがここまでの量をこの男は一人でやろうというのかとクザンは顔を引き攣らせずにはいられなかった。
とりあえずかろうじて足の踏み場はある。何も書類が乱雑に扱われている、ということでもなくて、毎朝秘書が出勤すると同時に一度この部屋の書類は全て片付けられるのだという。しかしその後新たに運び込まれ一日中フル回転、とそういうことだ。
この量を今日一日でやったのか。クザンはとりあえず呆れ、手ごろなスペースを作るとそのうえにお盆を置いた。
「お前さァ、限度ってもんがあんでしょうが。体壊すよ?」
いや、まぁ赤犬が過労なんてかわいらしいものを起こすとはあまり思えないものの、この量にはさすがに驚いたのでそう口にする。サカズキはフン、と鼻を鳴らしてから一度手に持っていた書類を置き、クザンが運んできたお盆に視線を投げる。
「おどれが食え、わしゃあいらん」
「正直言うとおれも食いたくねェんだけど」
すぐに返事をすればサカズキが片眉を跳ねさせた。
「気付いたか」
「いや、気付くっしょ。だって、どれもこれもお前が好きそうなヤツばっかだし、マリアちゃんって料理はそんな下手じゃないけど、得意なのってもっと洋風だし」
ちらりとクザンは自分が運んだ料理の数々を眺めため息を吐いた。
食堂のマリアちゃんがこんな真夜中にサカズキのためにこしらえた品。さっぱりとしていて酒との相性もよさそう。正直クザンはこれが自分の夜食に出されれば喜んで口にしただろう。だが、問題はマリアがなぜそれを作ったか、ということだ。サカズキが頼んだわけではないだろう。一般食堂のマリアが大将の食事を作ることなどない。つまりは料理人としての行為ではなく自主的、なぜマリアが自主的にそんなことをするのかといえば。
「久しぶりに見ちゃった。あの子の字」
(おれ、泣きそうなんだけどどうすんの、これ)
マリアが見ていたレシピ本は「あの子」が書いたものだろう。どういうやりとりがマリアと「あの子」の間にあったのか、それはクザンにはわからない。けれどマリアは、どうやら毎晩、徹夜で仕事をして体に負担をかけるサカズキに、「あの子」が書いたレシピ通りの料理を作って差し入れている。
クザンは床にぺたんと座り込んであぐらをかき、頬杖を付く。
正直なところ、クザンは未だに「あの子」の死が実感できない。
サカズキが「殺した」というのは、本当なのだろう。その後トカゲ中佐やシェイク・S・ピアの言動からもその事実は肯定される。パンドラ・がサカズキを「殺します」と宣言して姿を消したことからも、それは事実なのだろう。
だが、クザンはまだ完全には納得できていなかった。いつだってひょっこりと、サカズキの執務室を覗けばが、仏頂面をしたサカズキの傍で静かに本を読んでいて、そしてやってきた自分に「何しに来たの?」と迷惑そうに眉を寄せるのが、当たり前のように起こってくれるんじゃないかと、そんなことを期待している。
けれど毎朝毎晩、1日が始まるたびに「あの子」のいない一日が今日も始まるのだとそう、気が滅入る。
そして「あの子」が死んでから、ふとことあるごとに「あの子」を思い出させられるたびにクザンは心臓が抉られるような痛みを覚えるのだ。
サカズキの執務室、「あの子」が寝ていたソファ、中庭のブランコ、魔女の部屋、その中の品は当然のように焼き払われて一切合財「あの子」のいた痕跡が消された。それであるのに本当にときどき、ひょっこりと「あの子」の余韻をクザンは感じるのだ。
たとえば裏庭に緑の紫陽花が咲いていれば、いつだったかその紫陽花を「きれいだね」と言っていた「あの子」の顔を思い出し、そしてマリアがサカズキのために料理を届けていると知れば、それは、「あの子」がサカズキの身を死んでも気にかけているということのように思われ、息が苦しくなる。
「お前、どんだけ寝てない?」
「今朝一時間ほど寝た」
寝たっていわねぇよそれ。
突っ込んでクザンはぽりぽりと頭をかいた。
いや、自分も結構最近荒れているかなぁーと思わなくはないがこいつほどではない自信が出来てしまった。五十歩百歩というより、十歩千歩はあるんじゃないかと思う。
しかし、確かに「あの子」が死んでしまって一番応えているのはサカズキだろうとクザンはわかっている。どんな事情があるのか今もサカズキは話さないし、そして話したところでクザンは絶対に納得するつもりはないけれど、「あの子」を、あれだけ想っていた「あの子」を自らの手で殺めたサカズキだ。眠りたくないというのは、夢の中で「あの子」を見ることすら辛いのだろうと、そう察する。
クザンはため息を一つ吐いてお盆を引き寄せると長い箸を使ってきゅうりの酢の物を口に運んだ。
「あー、やっぱ暑い日は酢の物がいいよなァ」
「ここで食うな。自分の部屋で食え」
「お前んだろ、これ。ちゃんと食えよ、あー、でも、やっぱあの子のやつよりちょっと味、濃いな」
「……」
ぽりぽりとした歯ごたえが中々上手い。マリアちゃんは料理が下手ではないが、しかし「あの子」の本気になった手料理は、はっきり云って世界一の料理人が辞職したくなるほどだった。味覚のない「あの子」はどんな料理でも少々薄味だったけれど、それすらも気にならないほど美味かったと、そう思い出して箸を勧めると、サカズキが眉間に皺を寄せてじぃっと小鉢を睨んでいる。
「何よ?」
「……わしはいらん、貴様が食え」
「お前強情だよなァ、いいじゃん食べたって、マリアちゃんがかわいそうだろ、折角夜更かしして作ってくれてんのにさ」
「善意じゃァ思うちょるんか、貴様」
じゃなかったら何だ、とクザンは逆に聞き返した。本来仕事でもないのにサカズキのために作っているというのは、マリアが「あの子」を失ったサカズキを気遣っているからではないのか。そう思って眉を吊り上げれば、サカズキが喉の奥で引っかいたような、奇妙な笑い声を上げた。サカズキが声を出して笑うところなど戦争以来初めて見たとクザンは頭の隅で驚きつつ、眉を寄せる。
ひとしきり笑い終えてから、サカズキは椅子に背を凭れさせ軋ませ、ゆっくりと足を組みながら口を開いた。
「わしはもう、の顔も思いだせんわ」
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は?とマヌケそうな顔をしたクザンを面白そうに眼を細めて眺め、サカズキは食堂の「マリア」の寄越したお盆を一瞥した。
今日の料理もがかつて作ったものなのだろう。だが生憎今の己にはがこしらえたときの記憶がない。どういう理由で、いつどんな時にが自分にそれを作ったのか、思い出すことができない。口に運んだところで味など覚えておらず、クザンが言うような「違い」などわかるはずもない。
「トカゲの悪意の弾丸じゃァ、わしに撃ち込みおったあの女の悪意がわしの中のの記憶を食い破り無残になかったことにした」
唖然としているクザンに、サカズキはこれまで誰に言うつもりもなかった、戦争時後半の出来事を語る。トカゲがクロコダイルと共にこの己に刃向かってきた。どうせ誰かの言葉に従うような女ではなく、その上魔女というものをサカズキは欠片も信じていなかったため、その「裏切り」とやらはどうでもいい。だが、あの魔女はを殺した己からを「奪う」とそう宣言し、悪意を放った。
「十三に分けられ、わしがあの戦争で喰らった弾丸は十二。わしがあれのことで覚えちょるんは、わしがわしの正義のためにあれを殺したちゅう最後の記憶だけじゃけぇ」
恐怖など感じるつもりはなかった。魔女の弾丸を恐れるなど正義の名が泣く。大将として魔女は葬るものだ。己はを失う覚悟を持って殺した。それであるのに記憶を必死に守る気などあるわけもなく、そしてあの場でトカゲの弾丸を受けることを恐れれば、それだけ海賊どもの逃亡を許すことになった。それならの記憶なぞ邪魔になるだけ、そう判断して、己は立った。
今はもう、のことを殆どなにも覚えていない。どんなことで泣いたのか、どんなことで笑ったのか、どんなことで、己を好きだというたのか。何も覚えていない。ただ覚えているのは、その命を奪うと覚悟したときの「理由」とそして、体を溶かされながら握り返した手の力だけだ。
記憶がないのだ、当然、眠ったところでの夢を見ることもない。クザンが、自分が眠らないのは夢の中でに会うことが辛いからだと、そう思い違いをしていることには気付いていた。だが、夢すら自分は見ないのだ。
「……もっと早く言えよ、そういう大事なことはさ」
「重要か?死したあれの記憶などわしの正義には不要じゃろう。あれがおらんでもわしは前に進まにゃァならん。おらんものの記憶を優先させるなんざ、」
ガダンッ、とサカズキは壁に背を打ち付けた。クザンが本気でこちらに向かって拳を振り、マグマでその拳を溶かしたものの即座に氷の強度を上げて結局振り切った。ガラガラと穴の開いた壁、瓦礫が崩れる。サカズキは帽子が脱げたことに気付いた。傍に落ちていたので拾おうかと腕を伸ばし、その胸倉をクザンに掴まれる。
「忘れたんなら聞けよ…!!!おれでも、黄猿さんにでも、ピアさんにでも…!!!!あの子を知ってるのはお前だけじゃねェんだから、聞いて、あの子のことを覚えろよ…!!」
「おどれはバカか。それとも阿呆か。聞いて、知って、どうする」
再び殴られた。だがやられっぱなしでいる気もないサカズキ、そのまま腕を取って、殴り返した。ばぎっと首の骨を砕く勢いで殴るが砕けるのは氷だ。しかしシュウシュウとこちらの拳の熱量が上がり、即座に水になる。クザンは普段であれば「待て待て!!!」と情けない声を出して逃げるが、今日ばかりはそうもならぬようで、ぐっとこちらの首を掴んできた。
「お前が…!!!あの子のこと忘れるなんて許さねェぞ!!!!」
「おどれの主張なんぞ知るか!バカタレ…!!!」
また、殴りあう。時折覇気の混じった「本気」が繰り出されお互い血が出るが構っている暇はない。クザンが殴ればサカズキも同じようなぐり、互いに鼻血が出、唇が切れた。
(聞いて、知って、どうする。それはあくまで知識じゃろう。わしとあれが体感した記憶が消えた。他人から聞いた情報を、あれとの「記憶」とそう、思い込むことなんぞ、できるわけがない)
殴り、殴られながらサカズキは、僅かにまだ残ったとの最後の記憶を思い出す。この数日、戦争が終わってから、何度も何度も何度も、ただ繰り返し思い出した。何度も何度も何度も何度も何度も、ただサカズキは記憶の中で何度も、を失った。だがあれだけが、己の中に残った正真正銘の「事実」なのだ。
「わしが…!!!あれを忘れるものか…!!声を、顔を…!!何もかもを忘れようと、わしがあれを、を忘れることなんぞあるものか…!!!!!!」
食堂の「マリア」の地味な嫌がらせ、もう奪われた記憶の中のあれとの思い出を「さぁどうだ」と提示して思い出せぬ苛立ち、忘れたという実感のつきつけを、そう地味な嫌がらせで毎晩してこようと、毎朝毎晩、あれのいない日を迎えねばならずとも、それでも、それがなんだというのだ。
この心にある「正義」と「大将」としての義務。絶対的正義。それが消えねば己は何の問題もない。何よりも正しい正義であろうとしたその己の意地があれば己は己を見失わない。己を見失わなければ、その真っ直ぐとした道の正反対の場所にいた、あれの存在を常に想う。
失った恐怖など、感じてなんの意味がある。
(眠るたびに確かに「いないのだ」と深く実感されられることはあった。それがどれほどの恐怖なのかクザンに教えるつもりはない。それを恐怖であると、それが恐ろしいと逃げるつもりもない。だが眠らずに動き続けていれば、確かに、安心している心もあった。だが、それを認める気はない)
サカズキは腕力のみでクザンを壁に押し付け、ぐっと、その胸倉を掴んで自分の顎より上に持ち上げる。最初の勢いを失い、ただこちらを唖然を見つめているその青い目を睨み飛ばしながら、サカズキは低く唸るように口を開いた。
「あれの記憶なんぞ、わしはいらん。ただあれを想う心がありゃ、それでいい」
(いっそ、大声で泣いてくれたら慰められるのにな)
(2010/07/14 21:16)
作業BGMは「厄/神/様の/通り/道」
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