「……お前ら、いい加減にしろ」
いい歳をして何をしているんだと、センゴクは朝日の満ちた自身の執務室、机に手を乗せたいつもどおりの体勢で、低く唸るように呟いた。目の前には焦げたり凍ったりしてぼろぼろになった格好そのままの大将二人が正座している。二人ともずぶ濡れのままなのは、まぁ先ほどまで海に落とされていたからだ。
双方ぶすっ、としかめっ面。互いに「こいつが悪い」と前面に押し出しているその態度。赤犬は普段であればセンゴク元帥には丁寧な態度を取るけれども今回ばかりはそういう余裕もないらしい。
早朝センゴクが受けた報告によれば、大将二人が本気で殴り合い蹴り合いの喧嘩をしていると、そういうではないか。お前ら何しているんだと慌てて赴けば、既に到着していた黄猿が「センゴクさんの手を煩わせるまでもないよねぇ〜」とニコニコいつもどおりの笑顔を浮かべ大将二人を海に叩き落した後だった。
センゴクは「最高戦力」といわれるほどの海兵二人を交互に眺め、深い溜め息を吐く。
幸いまだ早い時間だった上にそう建物の被害もないため外部には漏れていない。何かしら処分をするべきとは思うがあまり大規模なものである必要もないだろう。しかし再発させぬ、という前提でのこと。どうせ二人の殴り合いの理由などセンゴクには見当が付き過ぎている。どういい含めたところでまた同じようなことがあるということは明白だった。
(全くもって、らしくない)
何度目かの溜め息を吐きながらセンゴクは焦げた赤犬の帽子の唾をじぃっと見つめた。らしからぬこと、とそう胸中で呟きつつ、しかし「仕方ない」と思わないでもない己があった。大将赤犬として、現在サカズキはまるで申し分がない。だが以前は、あの戦争が始まる前までは、この男にも欠片の「融通」というのがあった気がするのに今はその欠片も見当たらない。ただ真っ直ぐに、正しく正しくあろうとして、そうあることに問題のない生き物であるから、何の歪みもなく真っ直ぐになって生きている。しかし真っ直ぐすぎる生き物というものは当人がそれでまるで違和感を覚えずとも世界には違和感があり、その奇妙な「違和感」がほんのり、ひっそりと、時折サカズキを襲っているのではないだろうか。そんな予感がセンゴクにはあった。だがしかし、といってどうするということがあるわけでもない。だから「仕方ない」とそうセンゴクは判断するのだ。
暫く三人沈黙していて、やがてセンゴクは口を開いた。
「お前には秘書を付ける」
海軍本部幽霊騒動 02
センゴク元帥の執務室を出て、クザンはおっかなびっくり隣を窺った。同時に解放されたのだから、当然クザンの隣を歩くのはサカズキだ。先ほど以上の不機嫌そうな顔に、同じようにいらだっていたはずの自分の感情がどうでもよくなって、思わず眉を潜めてしまった。
(怒って、ンだろうなァ、やっぱ)
先ほど元帥の執務室で言われた言葉に、「大将」は何の不平不満も漏らさなかった。一瞬その瞳が「何故今更」といわぬわけではなかったが、クザンの見る限りはセンゴクの下した人事を承諾したようだった。
「…なんつーか、はは、いや、お前に秘書とか、今更だよなー」
この完全にギスギスとした空気を大将の執務室のある棟まで続けるのは気が滅入る。それに実際のところはどう思っているのかというのを聞いてみたかったもので、クザンはそう、言葉ばかりは気軽に口を開いた。
(サカズキに、秘書ねぇ)
サカズキは秘書官を持っていない。本来、将官クラスであれば、実戦任務の他に膨大なオフィスワークもあるわけで、通常は3人から5人程度の秘書官を持っている。スケジュールや書類管理、そのほか中将たちとの連絡のやりとりまで全て任される文官のエリート集団、ともいえる。センゴクの秘書団など武功こそないが、その有能さは海軍内でも広く知れ渡っているものだ。
しかし、サカズキはを捕らえてから、クザンが知る限り、その秘書官をおいたことがこれまで一度もない。自分でさえ最低人数である3人の秘書を抱えているというのに、だ。
理由は様々あると「憶測」はされている。だがクザンが思うに、魔女を擁した大将には不要だと、サカズキ当人が判断したからではないのか。
秘書官は大将の執務室の隣に秘書室を構える。サカズキの執務室の隣は、あの子の部屋だった。
気付いて思わず顔を顰めれば、一歩先を歩く形となったサカズキが振り返ることなくフン、と鼻を鳴らした。
「わしにゃ不要じゃァ思うちょるが、元帥の決定なら従わにゃァならん」
先ほどの問いに対する回答である。こちらの疑問に素直に答えることが珍しい。クザンはどういうつもりなのか一度じぃっと、その後頭部を凝視して、顔を引き攣らせた。
「…お前、無理難題押し付けて三日くらいで追い出す気だろ」
「追い出す気で仕事はさせん。わしがやれェいう仕事に耐えられねェようなモンはわしの部下にゃいらん」
うわ、最低だお前、とクザンは声に出さず突っ込んだ。
秘書いびり、というようなかわいらしい名前ではない。不要だから追い出す、というスタンスで扱うわけでもない。ただ自分の秘書になるのなら、それなりの量はやるのだということをはっきりとわからせて、逃げ出すかどうかを測る、ということだ。
サカズキの仕事量はハンパではない。しかも最近は例の事件もありサカズキですら徹夜せねばならぬ日々が続いている。センゴク元帥はそういう明らかに多すぎるほどの仕事をサカズキがせぬようコントロールする意味を含めて秘書を置くように言ったのだろうが、当のサカズキは今の自分に合わせろ、とそう要求するに違いない。
そういえば、以前「サカズキ中将付きになったら最後家族には二度と会えない」とかそんな噂があったが、あれも別に大げさではなかったということだろうか…。
「わしの仕事は1から10まで出来る範囲でこなしてりゃァえぇもんじゃアねェ。1から10まで任せりゃ、100はやるような人間でねェなら、態々秘書に抱える理由はねェな」
「お前の希望にかなうようなのは、センゴクさんとこの秘書団長くらいじゃないの?」
「じゃから言うちょるじゃろうがい。わしに秘書なんぞ不要じゃァ」
サカズキをコントロールでき、さらにそれだけの仕事量がこなせるとなれば、海軍で「最も有能」とされる文官、センゴク元帥の秘書団の長くらいなものだろう。初老の老人、センゴク元帥の同郷、以前は戦場に出る海兵だったが、足を痛めてから補佐官になり、センゴクが少将に上がった際に専属の秘書官として指名され以後その能力を惜しみなく発揮しセンゴクを元帥の地位まで押し上げた影の功労者。気苦労が耐えぬゆえか白髪交じりで実際より10は老けて見えるものの、その老練な眼差しはかのアーサー・ヴァスカヴィルを前にしてさえ一歩も引かなかった伝説ホルダー。常に優しげな笑みを引きながら、その目がちっとも笑っておらぬことで有名だ。
「いい年していつまでも何もかも自分でできるとか思ってんの?」
「わしができねェと思うちょるんか」
サカズキに秘書、というのはなんとも、いないのが普通だと思っていたので違和感がある。しかし、そろそろ置かねばまずいだろうということをクザンも感じていた。毎晩のように仕事をし、眠らず走り続けるようなことをしていて、身体はともかく精神がどうにかならないわげない。いや、どうにかなるのならまだマシだ。恐ろしいのは、どうにもならないことだと、そうクザンは思う。走り続けていることが「当たり前」になって、休まぬことが「当然」になってしまえば、何かどうしようもないことになってしまう、そんな予感があった。
ふと、クザンは嫌なことを思い出した。昔のことだ。あの子がいた時ではない。その、少し前、正確にはクザンがあの子に会う数日前の出来事だ。
(サウロ)
あの時の自分と、サカズキは同じではないか。
自分の信じる「正義」のために、対立した「悪」をその手にかけた。あの時の自分を、クザンは思い出す。いや、あの子とサウロが同じだったわけではない。サウロは自身の正義のために己に立ちふさがった。だがあの子は、そうではない。あの子に「正義」はなかった。あるのは多を省みぬ「悪意」だ。クザンはなぜサカズキがあの子をその手にかけねばならなかったのか、その詳細は知らない。だが、あの子がサウロのような「正義」を掲げていたわけではないことはわかる。だから同じ、というのは、それはサウロに対して無礼であろう。
だが、殺意はどうだ。
クザンの殺意と、サカズキの殺意、共に「海兵として」というその、殺意は同じなのではないか。
海兵として、自身の掲げる正義のために親友、あるいは、何よりも大事な女性を殺した。
その瞬間、クザンは今後一切、己は己の正義を捨てぬようにしようと、そう決意した。己の掲げる正義は、サカズキのように過剰ではないが、サウロとは違っていた。だからこそ、サウロは死んだ。その、正義をクザンは捨てず持ち続けようと、そう、決めた。そうして、だからこそ大将にまでなった。
自分は間違っていない!と、そう必死に、必死に、叫んでいる、それは酷く滑稽だった。
そういう自分に、あの子は、なんと言ってくれただろう。雁字搦めになって身動き取れなくなって、それでも表面上は飄々と三人の対象の中でもっとも自由に振舞っているように見せて、本当は、息が苦しくてしかなかった、その自分に、あの子は。
「……いや、全然優しい言葉じゃなかったけどね…!!!」
「なんじゃい、突然」
思い出して思い切り、クザンは首を降った。
大声だったのでサカズキが訝って顔を向けてくる。クザンはパタパタと手を振ってなんでもないとごまかし、頭の中に浮かんできた、あの時のあの子の言葉、優しさの欠片もなかったのに、なぜ自分は、あの時からあの子を「好き」だと自覚していたのか。
(あの子の言葉には労わりや思いやりなんてなかった。だからこそ、おれはきっと、救われた)
だからこそ、サウロのことを思い出せるようになったのだと、そうクザンは思う。サカズキだけではない。自分にも、あの子は影響を与えてくれた。
「なァ、サカズキ」
「なんじゃァ」
ぐっと、クザンは腹に力を入れる。振り返ったサカズの目を真っ直ぐ見つめて、あの戦争後一度も使わなかったあの子の名を舌に乗せる。
「やっぱ、おれさ。ちゃんが死んだって、思えねェんだ」
空気が軋んだ。見る見るサカズキの顔に怒気が浮かんでくるのがわかる。しかしクザンは予想通りでしかなく、だからこそ何も感じなかった。ただ見つめ返し、そしてぐいっと、掴みかかってきた腕を掴む。
「わからねェか、あれはもう、」
「また殴り合いの喧嘩に発展するのかしら?大将二人に学習能力がないなんて、目も当てられないですね」
殴られると覚悟してのこと、それであるからあわてずにいたクザンと、殴られるとわかって言ったと理解しているサカズキ、双方の耳に静かな女の声がかかり、そしてその途端、クザンとサカズキは海にでも落ちたように体の力が抜ける。
「…っ!!」
「……なん、じゃァ、おどれ」
海楼石でも当てられたのかと思うほど、妙な感覚だ。だが、海楼石ではない。そっと、女の細い手がサカズキとクザン双方の身体に添えられていた。それだけだ。だが、海のものと同等の、妙な脱力感がある。
一体なんだ、と声の聞こえたほうへクザンは反射的に顔を向け、目を見開いた。
まず目に入ったのは、炎のように赤い髪。献上品にするに申し分ないほどの澄んだ翡翠の瞳。装いは海兵の「正義」を背負うコートに、黒いシックなスーツ。纏う身体は無駄な肉のないように均等が取れ、スレンダーではあるが、女性らしい丸みがまるでないわけでもない。背は女性にしてはやや高め、真っ赤なヒールがそれを後押しし、すらりと長い足が強調されている。長い髪は首の後ろで二つに分けられ胸に流されている。美女と言って差し支えはないが、クザンから見てニコ・ロビンや蛇姫、それにと比べれば聊か物足りなくはある。だが百人が百人「美人」と認めることに間違いはない。その口元には小さなほくろがあり、どことなく愛嬌を感じさせた。
女は紅を引いた唇をほんの少し吊り上げて、唖然としているクザンと、眉間に皺を寄せているサカズキとにゆっくりと視線を向けてから、恭しくこうべを垂れた。
「良い出会い、とは言えませんけれど仕方せんね?お初にお目にかかります、赤犬さん、青雉さん。本日より赤犬付き秘書官に任命されました、リコリス・ボルジアと申します」
どうぞ、よしなに、と品よく付け足された声は、甘く鼓膜を愛撫するよう。だがクザンは、そんなことよりも、センゴク元帥が「赤い髪の女性」をサカズキの秘書に任命した、その真意が気にかかり、リコリス・ボルジアのその翡翠の瞳がゆっくりとサカズキを捉えるのを、乱暴に払った。ぐいっと秘書の腕を掴みこちらに引き寄せようとした途端、再び身体の力が抜ける。
「……何、どゆこと?」
「あぁ。申し訳ありません、青雉。急な事態に思えましたので、ご説明が後になってしまいましたね」
がっくりと膝を突くクザンを秘書官はにこやかに見つめ、小首を傾げる。その表情は「申し訳ない」とは欠片も思っていないことを物語っている。随分と良い性格をした女性がサカズキの秘書になるらしいと、そのことははっきりと理解しながら、クザンはぽりぽりと頭をかいた。
サカズキは膝を付くなどもってのほか、といわんばかりに堪えているが、その額にはたらり、と珍しいことに汗が流れている。
どういうことだろうか。この秘書の手には海楼石が仕込まれている様子はない。手袋さえしていない生身の掌だ。それなのに触れれば海楼石と同じ結果が悪魔の身にはあるよう。じぃっと秘書の翡翠の目を見つめれば、その翡翠の目、僅かに金かかっている。金のかかった瞳は異質、変種かあるいは近親結婚ゆえのものと、そんなラチもない話を思い出していると、秘書がついっと視線を逸らした。
そうして控えめに目を伏せて、開くその目の輝きはどこか、危うい。
「“カンタレラ家の娘”わたしは対魔女用に訓練された毒姫です」
+++
「で?赤犬さんをその妙な女と二人っきりにしてきたんですか?クザンさん、何してるんです」
職権乱用というわけではないが、起きたことをとりあえず整理しようと相談相手、食堂のマリアちゃんに昼食を届けて欲しいと大将命令を出し呼び出したクザン。香りの良いオムライスをお盆に載せたマリアちゃんは入ってくるなりそう容赦ない言葉を浴びせてきた。
「いや、妙な女って、マリアちゃん。センゴクさんがサカズキの秘書にって指名してくるくらいだし、身元は確かでしょ」
「海楼石と同じ効果を出すような女がまともだと思っているんですか?クザンさん」
「何、マリアちゃん、サカズキのこと心配してくれるの?」
妙につっかかるものでからかう意味を含めて言えばマリアが「この人は頭でも打ったのか」というような、心底気の毒がっている顔をしてきた。
「何バカなことを言ってるんです。おれが言いたいのは、そんな、反則技所有みたいな女がなんだって能力者の巣窟に来たのかってことですよ」
巣窟って、とクザンはあまりのいいように顔を顰めるが、まぁ間違ってはいない。通常伝説とさえ言われている悪魔の実、その能力者も海軍本部内ともなれば、わりと多く存在している。大将など全員そうであるし、おつる中将、センゴク元帥も能力者だ。
ボルジア家のことは、もちろんクザンも噂程度だが聞き覚えがある。
代々世界貴族に仕えてきた貴族の一つで、常に黒服を纏い彼らの補佐、あるいは欲求に応じて様々なものと手配、法律を扱うこともある選民意識の高い連中だ。その中で「カンタレラ」というファミリーネームを名乗る者は女性のみという。
乳母車の下に毒草を仕込み、慣れて来れば褥に入れる、毒入りの乳を飲ませて徐々に身体を馴染ませ、成人する頃にはその身は一つの「毒」となる、美しい娘。生まれたときよりそうなると決められ仕込まれる。けれど毒は人を殺すおの、満足に生きながらえられる娘は十人に一人もおらぬという話。以前が愉快そうに話、その次の日ドフラミンゴが蹴られていた。
「ボルジア、カンタレラの娘、ねぇ。対魔女用って話が本当だとすると、今更なんで出てくるのかって疑問もあるわけよ?」
リコリス・ボルジアの言葉が本当だとすれば、だが。彼女はに対するために存在していたということになる。
そもそも、世界貴族が、魔女に見下されることをいつまでもよしとしているわけがない。あのプライドの高い連中、をその足に踏みつけてやるためならどんなことでもすると、その妙な意地。その結果、己らお得意の「毒姫」に、毒ではなく海楼石を含ませることを考えたとか、なんとか。
「対?海楼石が効果あるのはだけじゃないでしょう?っつーか、ぶっちゃけより大将らのほうが深刻な状態になる気がしますけど」
「そう、そこよ。確かに魔女には海楼石が効く。でも、そもそも海楼石でどうにかできる一番は、能力者なんだよねぇ」
ぎしり、とクザンは椅子に寄りかかり眼を細めた。
あの赤毛の「秘書」という女。どういうつもりでサカズキに近づくのか。
センゴク元帥は何を考えて、を思い出させるような赤毛の女を大将付きになどするのだ?
海楼石の効果を含んだ「毒姫」というのなら、クザンやサカズキにすら「有効」ということだ。それを彼女当人が先ほど実践してみせた。もちろん、能力が使えぬからといってどうなる「最高戦力」でもない。だが封じられることがある種の「有利」になることはあろう。
魔女が失われたことは、当然世界貴族らも気付いたはずだ。その上でサカズキに己らの『毒姫』を添わせようとする意図がクザンにはわからない。
そしてリコリス当人は、なぜ自身の正体をばらし、警戒されるようなことをあえて言うのか。
眉間に皺を寄せて唸ると、マリアがため息を吐いた。
「ここで考えてても答え、出そうにないですよね」
「まぁ、おれ面倒なこと考えるの向いてないからねぇ」
情報が少なすぎる。クザンはやるときはやるし、勘も鈍いわけではないが、生憎今はまだ「始まった」ばかり、あるいは、始まってすらいない、という状況ではないのか。そういう中でどれほど考えたところで答えなど出るはずもない。
「困ったねぇ」
「もう少し困った顔したらどうです」
「いや、困ってるよ、すっごい困ってる顔しているから、ここは優しいマリアちゃんがおれの代わりにサカズキの執務室に、ちょっとこう、様子見に行ってくれないかなァって、期待しちゃってもいい?」
「最高戦力が他力本願ですか」
「おっさんできるだけ苦労したくないのよねぇー、お願いしていい?」
甘えるような猫なで声を出して言えば、即座に「気持ちが悪いですよ」と返される。全く持って容赦ない。これが女の子であれば可愛いねェとクザンは和めるが、生憎、どんなに可愛い格好をしていてもマリアちゃんは立派な男の子だ。
そのうち声変わりして野太い声にでもなるのかと、来る未来は残酷だと頷けば、マリアが察したのか「絶対筋肉マッチョになってやります」とまたも可愛げのないことを呟いた。
多分そういう未来はないだろうとクザンは妙な確信を抱きつつ、そうなったらそうなったでマリアちゃんファンクラブは良い具合に泣くだろうから、それを見るのも楽しそうだ、とは思った。
+++
今日から己の上司となる男は尊大で、はっきり言えば傲慢とさえ言える。リコリスは自らに宛がわれた執務室に山と詰まれた書類と向き合い、改めて自分の身を呪いたくなった。
ボルジア家の娘として、リコリスは厳しい修行はあったものの何不自由なく生きてきた。天竜人という絶対的な主人を持ち、その誇りを守ることを何よりもの名誉としてきた己が、なぜ軍の人間ごときの下に付かねばならぬのか。
いや、理由などわかっている。はっきりと、しすぎているではないか。
ぐっとリコリスは唇を噛んだ。
己はまずこの海軍本部でせねばならぬことは、大将赤犬に気に入られることだ。そうでなければ、もはやどこにも居場所などない。戻る場所があればいい。だがもうないのだ。あの頃の不自由のない名誉と栄光に彩られた生活に焦がれたところで、それはもう過去のこと。
今日初めて袖を通した正義を背負うコートは入り口のコートかけにかけられている。リコリスは腕につけた髪ゴムを外し、その豊かな赤毛をかきあげて頭の高い位置で一つに、まとめた。出来れば長い髪は下ろしていた方がいいのだとセンゴク元帥には言われている。だが暑苦しい頭でこの大量の仕事など無謀極まりないではないか。
「取り組む気力はあるか」
「……サカズキさん。秘書官としてこの扱いは不当であると申し上げたところで聞き入れてくださらないのはわかっておりますから、取り組んで貴方をぎゃふん、といわせるしか道はないんじゃありませんか?」
声の方向に顔を向ければ、予想したとおり大将赤犬が新たな仕事をその片腕に持って扉の下に立っていた。
仕事の分配もいずれはリコリスがやらねばならぬことだ。そうであるから今日こうして大量の仕事を投げられることは不当、ではない。「どんな仕事が日々、どの程度の量であるのか」くらいは本日中に把握せねばならぬ。それを思えば赤犬は上司として当然ことをしている、ともいえる。何もできぬ新人のように扱われて物の位置や仕事の初歩的なことを教えられる方がリコリスの身には「不当」と言えよう。
だがしかし、あえてリコリスは「不当」と次げた。赤犬が面白そうに眼を細め、軽く眉を動かす。
「おどれは大将付きの秘書官として配属された身じゃろうがい。十分に仕事をこなすことは義務、どんな成果を出そうと当然のことじゃろうに。わしが感心するわきゃァねぇと思うがのう」
この男は可愛げというものの持ち合わせがないのだろうか。
別に褒めてください、と言ったわけではないが、そのように取られたのか。屈辱で顔を赤くし、今ここで自分がその気になれば簡単に貴方など踏みつけることができると、そう教えてやりたくなる。
だが、聞いた噂によればこの男の好みというのは赤毛で小柄、それに幼い顔立ちというではないか。リコリスは、顔は十人並み以上との自負もあるが、背の高さにも定評がある。つまりは小柄なタイプではないし、顔立ちも年上に見られたことがあっても若く見られることはない。この男の好みの外見は赤毛であるというところしかないのだ。ただでさえ苦しい状況、性格の好みは表面的には生意気であっても自分には従順、という雪女のような性格を好むらしい。ここで噛み付いて印象を悪くしたくはない。
耐えるようにデスクに隠れた拳を握り、にこり、と口の端を吊り上げた。
「感心されなくとも、喜んでいただけるよう努力をします。一日も早く、サカズキさんに認めていただけるのなら、わたし、何でもしますから」
この場に映画カントクでもいればわたしは絶対に主演女優にスカウトされたに違いないと、リコリスは感情を抑えて告げた自分に拍手を送りたくなった。
(わたしは、この男に愛されなければならないのよ)
Fin
(2010/07/26 18:56)
・んー、スランプ。
毒姫は三原さんの「毒姫」からです。
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