「ご覧なさい、リコリス。あちらにおわすは我らが主の天敵、お前がいずれ滅ぼさねばならぬ薔薇の魔女殿ですよ」

マリージョアの儀式の間に、こっそりと乳母に連れてこられた日のことをリコリスは忘れない。あれはもう十年以上前のこと。既に己の身体には海楼石の成分が馴染まされていたが、まだ他者に影響を齎すまでには至らなかった。銀の混じった白髪の年老いた乳母、かつては「毒姫」として教育されていたが、顔に傷を作り使い物にならなくなった。失敗作の一人だ。滅ぼすべき対象を与えられず生き続けることほど毒姫として屈辱的なことはない。リコリスや他の毒娘たちは己らの世話係りがそういった脱落者であることを知り軽蔑していた。しかし教育係として彼女らは優秀だというのは疑うべくもないことだ。

真っ白い大理石の床の上にこれまでリコリスが仕えるべき世界貴族が数人、いた。リコリスの記憶にある天竜人の方々はいつだって気高く貴族的な傲慢さを持っていた。それであるのに、今現在彼らは、これまで見たこともない体勢をしていた。彼らを前にすれば、人々は皆、どんな立場の者であっても床に膝をつけ、頭を下げなければならない。直接彼らを見ることは許されず、よいというまで顔を上げてもならなかった。圧倒的な、我らが誇り。リコリスは彼らに仕えることを誇りにしていたし、彼らが人々を跪かせる様を見て己の主人は何と気高く尊いのだろうと誇らしい気持ちになっていた。

しかし、今現在彼らは、普段彼らが人々にそうさせている、その、まさに、その体勢で床に伏しているではないか。

「ばばさま、なぜ主様たちが跪いているの」

リコリスはじぃっとその金かかった緑の目で広間を見つめ、乳母の言葉を理解するより先に問う。跪いた貴族たちは皆何かに怯えるように身体を震わせている。そしてそれらを一瞥もせず唯一平然としているのは、部屋の隅に明らかに先ほど唐突に入室してきたらしい一人の少女だった。

「あのさァ、全員バカみたいに這い蹲られると、ぼく、気分が悪いんだけど?」

鮮やかな暖色の髪を指先でくるくるといじりながら、その少女は眼を細め静まり返った部屋を退屈そうに眺めた。纏う衣服はリコリスたち毒姫が着せられるような華やかなものではない。分厚い野暮ったいショールに擦り切れた長いスカート。年老いた老婆よりもみすぼらしい姿であるというのに、街の浮浪者にも劣る装いであるというのに、露出した肌は陶器のような白さ。見える顔(かんばせ)に輝くような気品は「貴族」の集う間において多を圧倒するものがあった。

知らずリコリスは眉間に皺を寄せる。女として未だ完成しきれぬところはあるが毒「姫」と言うからには立派な「女」の生き物。己よりも美しい生き物であると無意識のうちに敗北を感じ、しかし、その少女のみっともない装いが少なくとも僅かに自尊心を回復させた。

「あれは誰?なぜあんなに汚い格好の子供がこの選ばれた者の場所にいるの?」
「ばばの言葉を聞いていなかったのですね、リコリス。あれこそが、お前が滅ぼさねばならない魔女なのですよ」

魔女、と改めてリコリスはその言葉を耳に入れる。

己は他の毒姫と同じように毒を食むみ生み出す者ではない。自分は、特別だった。苦いスープを飲まなくてもいいし、酷い拷問の訓練を受けずともよかった。それは全て、己が破滅させる相手が他国の貴族や革命家ではなく、政府にあだなす犯罪者でもなく、「魔女」ということだとそれは理解していた。

「魔女?へんなの、ばばさま、魔女はもっと年老いているのよ」

御伽噺で読んだもの、とリコリスは賢く答える。魔女を滅ぼさねばならぬ己は数々の童話を勉強させられてきた。他の毒姫たちが暗殺や色香の勉強をしている最中、リコリスが熟読させられたのは世に多く存在する童話の類に関する書籍。御伽噺の魔女たちは皆黒いフードにしわがれた顔。似にくい姿に醜い心の持ち主だ。

そうでしょう?と正解したことを褒めて欲しくて首を傾げれば、乳母が不快そうに眉を寄せる。そんな表情の一瞬後、リコリスをしようのない子だというようにため息を吐き、乳母がリコリスの背を押した。

「魔女殿をその目に見ても何も感じないとは、お前は「リコリス」の名はもったいないかもしれないね」

言われた言葉の意味はわからない。だがリコリスはその言葉を己に対する今現在の評価だと受け止めた。






海軍本部幽霊騒動






ぱちり、とリコリスは目を見開いた。息が苦しい、夢に魘されていたのだとすぐに気付く。昔の夢を、また見た。あれは何も恐ろしい内容ではないはずなのに、リコリスは何度も何度も、あの時の夢を見る。激しく鼓動する心臓を押さえ、上半身を起こしたままリコリスはその美しい眉を潜めた。

「……わたし、いつの間に寝てしまったのかしら」

結局昨夜は日付が変わって数時間してまで、まだ夜明けではなかったが、うっすらと空が明るくなってきた頃まで仕事を続けていた。隣の部屋から時折小さな物音がしたのであの大将殿も仕事を続けている。そう思うとリコリスは意地になって己も休む気になれなかった。

しかし今は部屋のソファに横たわっている。自分で歩いて行った記憶はない。少しでも横になれば眠ってしまうとわかっていたのでけして近づくまいとしていたのだ。

それなのに。

「……毛布」

リコリスは自分の身体に毛布がかけられていることに気付いた。あまり大きくはないが、部屋に備え付けられているものだ。自分はその場所を確認したが、出した記憶はもちろんない。

「………」

まさかあの大将どのが、居眠りをしてしまった自分をここまで運び、風邪をひかぬようにと毛布をかけてくれたのだろうか?

そんな考えが浮かび、リコリスは不快そうに顔を顰める。そんな気遣いをされる覚えはない。いや、これは良い傾向なのだと己は喜ぶべきだ。あの容赦のない真面目一徹の大将赤犬がこの己の身を気遣いソファまで運んでくれた。毛布は優しさであろうか、それを己は喜ぶべきだ。

だが、本当にあの大将どのがしたことなのか?

疑う心のほうがリコリスには強くなる。これが赤犬の仕業でないのなら、自分はまだ赤犬の心に踏み込めておらぬということ。そして、もしもこれが赤犬の仕業だというのなら、この身、海楼石と同じ効果があるこの己の身体に触れて、あの男は机からベッドまで運び込むことができた、ということだ。

もともと海楼石の手錠など、慣れれば能力を封じられるだけで通常の三分の一程度の動きは出来るようになる。しかし仮にも「毒姫」の名を頂くリコリスだ。満足に動けるようになるまで相当の時間がかかるはず。それでもあの大将どのは、リコリスを運べた、という、その事実になる。

あの大将どのなら、ソファに運ぶ優しさというよりは「お前の能力は効かんぞ」という無言の宣言である方が正しいのではないか。

そこまで考えてリコリスは首を降る。

「そうなら、わたしにも考えがあるわ」

すくっと立ち上がり、リコリスは部屋に備え付けてある洗面台で顔を洗い、髪を梳かす。鏡に映るのは燃えるような赤い髪に白い肌、薔薇色の頬の、どこからどう見ても美しい女。リコリスは己の美しさを自覚していた。長い髪を背に垂らし、新しいシャツに袖を通す。きっちりとネクタイを締めて部屋を出、隣の赤犬の執務室をノックした。

「おはようございます。サカズキさん」

朝日のように眩しい笑顔で執務室に入ると、そこには誰もいない。

「あら?」

てっきり部屋にいて既に仕事をしていると思ったのだが、予想外だ。赤犬の寝室はここではない。仮眠室ならこの部屋にある扉の向こうだが、まだ眠っているのだろうか。

机を見れば仕事はそのまま遣り残されている。赤犬の性格を考えれば一度仮眠を取ろうというのならきっちりと片付けて席を立ちそうなものだ。それであるのに机の上にはペンとインク瓶、それに書類が広げられている。

リコリスは気配を消し、足音を立てぬようにして仮眠室の扉を開けた。大将相手に己の気配を消せるか、という不安もあるが、そこは毒姫。能力者に限ってはリコリスは己の気配を察知されることがないと自負がある。そうっと部屋にはいれば、そこは小さな明りがベッドに灯されているだけの簡素な部屋だった。仮眠室というからには他に何か物も置かれていそうなものだが、赤犬の仮眠室にはベッドと明り以外の何もない。

その明りにしたって赤犬は必要ないのではないか、というような小さなものだ。

「……」

サカズキさん、と、そうリコリスは名を呼ぼうとして躊躇った。

これは、ひょっとして夜這いをかけるチャンスではないのか?

赤犬は厳しく、生真面目な男だ。もし、今日己に毛布をかけてくれたのが赤犬だとして、女性に対して気遣いを見せる性格でもある、ということなのではないか。女は男が守らなければならない生き物、そんな時代錯誤のような石頭のような思考をしていそうな男。もしここで赤犬が己に手をつけるようなことをすれば、責任を取る、くらいはしそうだ。

幸い大きなベッドの右側はリコリスが滑り込むには十分なほど空いている。大きなベッドだというのに、体の大きなはずの赤犬は中央で眠ることをせず左脇のみを使用している。

「………」

おかしい、とリコリスは一瞬疑問に感じ、そして一つのことに気付き、唇を噛む。その仕草が気配を濃厚にしたか、ばっ、と赤犬が起き上がる。

「……今なんどきじゃ」
「おはようございます、サカズキさん。まだ七時前ですよ」

起き上がった赤犬は一瞬リコリスを見つめ、そして二日酔いの後のように額を押え唸る。「寝るつもりはなかった」と呟いているがそれはリコリスに向けられた言葉ではなく独り言だろう。内心の動揺を悟られぬようリコリスは意識しつつ、部屋の窓に大またで近づいてカーテンを開けた。薄い白のカーテンでは射光の役割はなかっただろうが、シャッと勢いよく引けば光が部屋を照らす。

振り返れば既にベッドから降り、ジャケットに腕を通そうとしている赤犬がいる。

「朝食はどちらで?」
「半になりゃァ、食堂から届く。秘書を持ったちゅう話は通っちょるじゃろうからおどれの分もその時じゃろうな。早めに食いたきゃァ直接食堂へ行け」

暗に追い払われているのだというのはわかったが、リコリスはにこりと笑顔を浮かべて気付かぬふりをした。赤犬の堅い性格を考えれば、男の寝室に未婚の女がいるまでもいるんじゃない、ということだろう。だが己は赤犬と親密な関係になるつもりなのだ。この程度で追い払われる身分でいるつもりはない。

「折角ですからサカズキさんとご一緒させて頂きます。あら、この部屋、殺風景かと思ったら花瓶があるんですね」

先ほどは気付かなかったが、窓の近くにはガラスの花瓶がある。部屋の雰囲気に合うように色はそっけないが目を凝らせばかなり質の高いガラス工芸品であることがわかる。さすがが大将の部屋はいいものが揃っていると感心するが、赤犬はあまり興味なさそうに一瞥しただけだった。

「備え付けの品じゃろう。わしに花を飾る趣味はねェ」
「寝室に花を飾れば悪い夢を見ないって、そういう御伽噺があるんですよ」

折角美しい花瓶であるのにもったいない。リコリスは己の得意な童話から話を引き出し提案するが、赤犬は鼻で笑っただけだった。

「それにしても、本当に美しい花瓶だわ。水の都の噴水がイメージなのかしら?繊細な細工がとても見事で、水を入れればその影が形になるのね」

表面の切り方によって水を入れて映る影に模様を浮き出させることができる。その技術がこの花瓶に使われているのは間違いないだろう。一輪差しが美しいか、それとも二輪か。飾ればさぞ美しいだろうと顔を綻ばせる。

「欲しけりゃ持っていけ」
「よろしいの?」
「わしには不要じゃ」

リコリスは素直に喜んだ。以前住んでいた家でもリコリスは花を飾るのが好きだった。毎日庭から色取り取りの花を飾り、家族を喜ばせるのが嬉しかった。笑顔を浮かべ、礼を言えば、赤犬が「いいから出ていけ」とそっけなく言う。

これ以上支度をするのを邪魔すれば怒鳴られそうだったのと、花瓶の礼に今日は大人しく引いてあげることにしようとリコリスは腕に花瓶を抱え部屋を出た。

そして一度自分の執務室に戻り、花瓶をどの位置に飾ろうかとあちこち見渡す。

部屋は窓もあり、置くに相応しい棚や机もある。だがこれほど見事な花瓶だ。仕事中ふと顔を上げれば見える位置がいい。しかし執務机の上では何かあったときに倒す恐れもあるだろう。

考えてリコリスは入り口の棚の上に花瓶を置いた。水を入れてどんな模様が出るのか知りたいが、それは花を用意してからのほうが赴きがあるに違いない。

「飾ったら、大将赤犬にも見てもらおうかしら。興味ないって仰っていたけど、美しいものは美しいのよ」

自然リコリスの声が弾んだ。これは吉兆だ。赤犬は、自分には不要とはいえリコリスに贈り物をしてくれた。あまり意味はないにしても、己は毛布の件のようにそれを「好意」を受け取り感謝を前面に押し出せばいい。お礼を言われて不快になる男などいないはず。赤犬がどんな狙いで己に毛布をかけ、また接してきたとしても、己はその裏にはまるで気付かず「ありがとうございます」と笑顔を浮かべ心底の感謝をすればいい。

花瓶を棚の上に置き、リコリスは満足げに微笑む。己に許された期間は限られている。その中でどれだけ赤犬に近づけるか、それが勝負だ。

「失礼します。朝食をお持ちいたしました」

コンコン、と軽いノックの音に、声変わりをしていない少年の声。食堂からの給仕係りだ。リコリスは返事をして扉を開けた。




+++




「はいはーい。今日の朝食はトーストとベーコンにスクランブルエッグ、朝からがっつりなお前さんにはさらに燻製肉とリンゴも用意してもらいましたー」

軽いノックの音とともに、てっきり礼の食堂の「マリア(本名セシル・ブラウン)」が朝食を運んできたと思い返事をすれば、現れたのは朝からだらけきった同僚だった。

「わしは毎朝米を頼んどるはずじゃが?」

もはや帰れ、と言っても無駄になることはわかっている。サカズキはクザンが運んできた朝食を一瞥してから睨みつけ、何か投げつけるものはないかと机の上を探った。だが生憎投げられそうなものはインク瓶くらいしかない。

「えー、だっておれ朝はトーストとコーヒー派だもん」
「……わしの所で食うてく気か、おどれ」
「ごめんね〜。サカズキ、わっしの納豆あげるから機嫌なおしてよ〜」

当然のように執務室に入りテーブルの上にあれこれ広げていくクザン。サカズキは額を押え、どう蹴り飛ばそうかと思案すると、ひょっこりその背後からもう一人の同僚が顔を出してきた。

「……いらん」

朝からなぜ大将が三人も一箇所に揃わねばならないのか。サカズキは頭痛を覚えた。ひょっこり飄々と顔を出したボルサリーノ。朝からいつものサングラスを装備と言う姿、にこにことして両手に持ったトレーの上にあるのはサカズキが普段頼んでいる朝食と大差献立だ。

サカズキがいろんな怒りやら感情を押し殺してそれだけ答えるとボルサリーノは首を傾げる。

「え〜?そうかい〜?折角今日はサカズキの好きなしそ風味にしてもらったのにねぇ〜」
「残念っすねー、あ、黄猿さん、ならおれ貰いましょうか?」
「いいよぉ〜、わっしが食べるから」

にこにこと、いつもどおりの笑顔を絶やさぬ黄猿。だが普段以上にその機嫌のよさが煌いているのはサカズキの思い違いということでもないだろう。何しろボルサリーノの姪であり、政府公認の「詩人」であったシェイク・S・ピアは戦争後その手配書を破棄され、現在は堂々と海軍本部を出入りできる身分となっている。

ピア自身はドフラミンゴに「仕えているので」と秘書に迎えたいというボルサリーノの誘いを断って未だ本部に来ることはない。だがこれまで姪のことをおおっぴらに口に出せなかったボルサリーノからすれば、まさに春が来たようなものなのだろう。

サカズキはテーブルの上に広げられる朝食、クザンがポットからコーヒーを入れている姿を眺め無碍にするのも大人気ないと溜め息を一つ吐いた。昨日からの殴り合いでそれなりにお互い「…まぁ、悪かったな!」と思わなくもない。これはクザンなりの歩み寄りかと、そのように前向きに考えることにして自分もソファに腰を下ろした。

「こうして三人で朝ごはん食べるなんて何年ぶりだろうねぇ〜」

着席すればボルサリーノが自分は湯のみにお茶をいれ手に持ってのんびりと口に出す。そういえば三人だけで朝食を、というのはどれほどぶりだろうか。早朝会議などで軽食を元帥・中将ら合わせて採る事はないわけではなかったが、こうして仕事前の、身分を意識せぬ状況で食事を、というのは珍しい。

「さぁのう。わしらが大将に上がってからは初めてじゃねェか」

サカズキは記憶を辿りながら口にしてみるが、大将に上がってからは食堂に行くこともなくなり、お互い執務室で取ることが多くなったはずだ。覚えている限り、こうして朝ボルサリーノやクザンと食事をした覚えはない。言えばボルサリーノがにこにことしながら、湯のみを傾け、眼を細めた。

「そうだねェ〜。ピアくんがいたころは、一緒だったけど、あの時は魔女もいたしねぇ。わっしはピアくんがどうしたらニンジンを食べてくれるかわからなくてねぇ〜、魔女はなんて言ったんだっけか」
「あ、ボルサリーノさん、すいませんしょうゆ取ってもらっていいですか」
「え、きみってトーストにしょうゆかけるのかい?」
「最近新しい味にチャレンジしてるんです」

真面目きった顔でクザンが言えばボルサリーノは「若いっていいよねぇ〜」とにこにことしながらしょうゆを手渡した。サカズキはその様子を眺めてからクザンを睨み飛ばす。余計なことをするな、と訴えれば、クザンが肩を竦めた。しかし、この同僚に気遣われる日が来るとは。サカズキは不快に思う反面、しかし、今クザンが口を挟まねば己は何を感じたのだろうとも思う。ボルサリーノの言葉に、やはり覚えはない。幼い頃あの詩人の娘の食わず嫌いを直そうとボルサリーノがあれこれしていたことはもちろん覚えているが、その時あれが、がいた、という記憶はなかった。あれの存在だけがごっそりと抜けている。魔女の悪意の弾丸は、綺麗にその存在だけを消し違和感を覚えさせない。

忌々しいトカゲの顔がサカズキの脳裏に浮かび、思わず手に持っていたトーストを蒸発させた。

「おまっ、何!!?焼き加減足りなかった!!?」

ジュッと一瞬で消し炭になったトーストを見てクザンが顔を引き攣らせる。

「ど阿呆。いやな女の顔を思い出しただけじゃァ」
「あー、トカゲさん?」
「あれ以上性格の悪い女がどこにいる」

脳裏に思い浮かべるだけでも腹立たしいあの女。海軍の海兵になった分際で戦争中あっさりと海軍を裏切り(元々サカズキは魔女であるトカゲなんぞ信用していなかったが)戦争が終わると共にどこぞに姿を消した。探らせた情報では途中までは赤髪と共にいたというが、それもいつまで続くことか。

「そういやァ、一応トカゲさんが「」ちゃんってことになってんだってな」
「……政府の決定なら仕方ねぇじゃろう」

渋い顔をしながらサカズキは卵に箸を伸ばした。砂糖ではなくダシで味を調えられているあたり、洋風な朝食でありながらしっかり食べるものを意識された味付けである。海軍本部一般食堂ではなく、将官らの使う食堂から出される食事はそつがない。感心しつつ、サカズキは先日の政府の決定を思い出した。

「ま、トカゲさんはピアくんもお世話になったみたいだしねぇ〜。赤い髪に青い目、性格の悪さのどれを取っても海の屑どもの意識にある「海の魔女」そのものだし、当分のごまかしにはなるんじゃないかねぇ〜」

戦争終結後のその日の夜の内に、世界政府は魔女の喪失を把握し、そしてあのトカゲを「海の魔女」と扱うことを決定した。海軍本部から逃げ出したということであの女には現在賞金がかけられ手配書がばら撒かれている。海賊やそれなりの人物の間では囁かれてきた「悪意の魔女」「海の魔女」「嘆きの魔女」様々な名で呼ばれつつも、単純な「魔女」といえばただ一人を指した。その「魔女」は「トカゲ」であると、そう政府が世にその情報を発信した。

ボルサリーノの言うとおり当面のごまかしにはなるだろう。

だが魔女は、「世界の敵」は海軍本部に留められていなければならない。絶対的正義に反する絶対的悪。

「そうそう、赤毛の美女って言えばさ、サカズキの新しい秘書さんって赤毛の美人さんだよな」
「わっしはおどろいたんだよ〜。サカズキが秘書を取るなんてねぇ〜」

それぞれ大将の脳裏には黒ひげと共に姿を消した、世界の敵、が500年間政府を欺いてまで守り続けた姉「パンドラ・」の姿だろう。だが今は朝食。それぞれ心構えを大将とせぬよう、暗黙の了承のようなものがあり、二人が話題を変えた。

「お前らそれが目当てか」

秘書、秘書。新しい秘書。サカズキは己が秘書を持つなど数年ぶりのことで、どう扱ったものか本日中に決めてしまおうと思っていた。昨晩の仕事ぶりを見る限り、センゴク元帥が推薦しただけあって有能ということは間違いない。あとは逃げ出すのはいつか、ということだが、それまで秘書を上手く使うのは大将としての義務でもある。

サカズキは基本的に己のことは何もかも己で出来ると思っているし、秘書なんぞ不要とは思う。だがセンゴク元帥の決定だ。秘書当人が逃げ出すまでは、こちらも了承するつもりだった。

「いや、だってなァ、お前みたいな堅物にあんな悩殺ねーちゃんはもったいないって」
「わっしは久しぶりに三人で食事もしたかったし、折角だからサカズキの新しい秘書さんを見てみたいなぁって思ってねぇ〜」
「それを野次馬根性っちゅうんじゃ」

第一秘書の顔なんぞ見てどうだというのか。
仕事は顔ではなく能力でやるものだ。説教しようと口を開けばクザンが「聞きたくない朝からお前の説教なんて!」と耳を押さえる。

「ガキかおどれ」
「男はいつだって中2の夏なんだよ!」
「……わけのわからんことを」
「わっしは別に美人の秘書でもいかつい男の秘書でもどっちでもいいけどねぇ〜、でもピアくんが「お疲れさまです、おじさま」とか言ってねぎらってくれたら嬉しいよねぇ〜」
「そうそう、黄猿さん、そういう心境です」
「おどれは黙れ」

耳を塞ぎつつ話は聞こえているのか。クザンが「それそれ」と頷くもので、サカズキはとりあえず頭を引っぱたいた。食事の場なので互いに本気でもないし能力も使わない。

ボルサリーノはその様子をにこにこと眺め「でね、わっしのピアくんの可愛いところはね」などと、こちらの状況もまるで読まぬ話を始めようとする。

「もしかして黄猿さん、サカズキの秘書うんぬんは置いておいて、ピアさんの自慢話しに来ただけとか?」
「えぇ〜そんなことないよぉ〜?ただ折角だから同僚のお二方にわっしのかわいいピアくんがどれだけかわいいかを朝から教えてあげようかなぁ〜と思ってるだけだよぉ〜」

言いたくないが、サカズキはここで「あの詩人の娘はキャプテン・キッドの船にいたじゃろう」とでも言って話題を変えてやりたかった。だが言おうとすればそれを察したらしいクザンが「いやお前!その話題言ってみろ!!大変なことになるぞ!!」と必死に表情だけで訴えている。しかし、ボルサリーノの姪の話なんぞ朝から聞きたくもない。なら大将三人でどうルーキーどもに息の根を止めに行くかの話しをした方が有意義ではないか。

だがそのクザンの必死な眼差し「お前…!去年の『わっしの自慢の戦桃丸くん』の話を思い出せ!!」と告げている。

……戦桃丸の寝癖の話から弁当の食い方まで、ボルサリーノの見解と「かわいい」というポイント、さらには通常の海兵と比較した際の話まで延々とされたアレか。

あの時が傍にいたのか、それはやはり覚えていないが、しかし、できればあの記憶も一緒に奪え悪意の弾丸、とサカズキは思い出して額を押さえた。

そんな二人の無言のやりとりなんぞ知らぬ顔で、ボルサリーノはニコニコと話を続ける気満々。ずずーと味噌汁を啜りつつ「そうそう、それで先日ピアくんがね」と切り出してきた。

「最近あちこちで女の人がお腹を裂かれて殺されるっていう事件が相次いでるんだって言う話を手紙に書いて着てねぇ」
「すいません、黄猿さん、それ食事中に相応しいネタですか」
「なんじゃァ、ボルサリーノ、あの詩人の娘と文通しちょるんか」

色々突っ込みどころのある話にクザンとサカズキが思わず会話を切ろうとするが、ボルサリーノはニコニコとスルーする。

この男の「わっしのピア君はね」と始まった途端の自己中心的さは何だ。

「まァ、今は海の屑どもがあちこちで暴れてて荒れてるから死者も出てるとは思うんだよぉ〜。でも問題は、その被害者が一般人でも、一般人じゃないってことと、皆子宮を取られちゃってるってことなんだよねぇ〜」

白ひげとの頂上決戦からまだ一週間かたたないが各地の荒れ具合はサカズキの耳にも入ってきている。動けるものはすぐに本部を出航し各地の沈静鎮圧に向かった。サカズキとてこの機会に徹底的に屑どもを葬りたいところだが、その動ける戦力の分配や物資の移動など、大将にはこなさねばならぬ仕事がある。最高戦力でありながら、大将は純粋な「力」だけ使うことはできないのだ。大将や元帥、中将らが書類にサインしなければ動けぬものがあり、その為サカズキや他二人の大将は未だ本部を離れられずにいる。

ボルサリーノの言葉にサカズキはぴくり、と眉を跳ねさせる。

「子宮を奪われちょるんか」
「そうなんだよねぇ〜、誰が何のためにそんなことするのか。でももっと不思議なのはねぇ、その犯人が「一人」だっていうことなんだよ」
「手口が一緒なら同一犯でいいんじゃないですか?」

一人の何かしらのイカレた人間が各地の騒動に乗じてそんな事件を起こしているのでは、とクザンの見解だった。だがボルサリーノは「同一犯だから不思議」だという。

「……犯行現場は?」

ふと、サカズキは思い当たることがあり、一つ問いかけた。

ボルサリーノの姪っこ自慢はさておいて、あの慎重な詩人の小娘がただの伯父への世間話のネタにそのような凄惨な事件を出すだろうか。
そしていくら飄々とした言動が目立っていても、ボルサリーノはサカズキの同僚「大将」である。何の意味もない話題を合えて強行することがあろうか。(姪っ子自慢が本当にしたかった、という可能性はさておいて)

サカズキの問いかけにボルサリーノはにっこりとサングラスの奥の目を歪める。

「一人一人が全然違う別の島の町。最初の被害者は頂上決戦が終結した直後、それでこの一週間で殺害された人数は八人。移動時間を考えればまず普通なら一人の人間には不可能だろうねぇ〜」
「殺害された女たちの共通点は?」

こちらで確実な答えを出すのではなく、まずピアの情報を受け取ってからという慎重な姿勢にボルサリーノが「サカズキはさすがだね」とわからぬ言葉を投げてくる。しかしサカズキはその真意を深く読むことはせず、答えをせかした。

クザンは今までの話を聞き「なぁ、それってもしかして」と何か言いかけているが、サカズキはそれを睨んで黙らせる。

ボルサリーノは一度目を伏せ、姪の手紙の内容をよく思い出すように間を置いてから、朝食の残っているテーブルの上に一つ、二つ、とクザンの使った角砂糖を並べていく。

「殺気も言ったとおり、死体の共通点は子宮を奪われているということ。生前の共通点は、皆それぞれ事情は違うけれど「孤独」であるということだとピアくんは書いていたねぇ」
「孤独?抽象的に過ぎる」
「お〜ぉ〜、それは、そうだよねぇ。詳しく言えば、八人のうち3人が娼婦、相手は海賊で非合法の薬の売人。2人は平凡な町娘で一般人の被害として事件も処理されてるんだけどねぇ〜、調べてみれば家に不幸あって没落してる。その没落した原因っていうのが、シャボンディでの奴隷オークションでの売上見込みが回収できなかったっていう理由でねぇ。それで急にまとまった金銭が必要になった者と、婚約者を海賊に殺されたって言うんだけど、こっちも調べてみりゃあなんだろうねぇ〜、婚約者を海賊と一緒に殺したんじゃねぇかっていう可能性があるんだよねぇ〜。で、残りはやはり同じように海賊に家族を殺された子供が一人、駆け出しの賞金稼ぎがひとり、あとは歌姫、なんていうのもあったんだけど、どれもこれも、調べりゃあ黒いのがよく出てくるんだよねぇ〜」

年は最年少が8歳、最年長は28歳。一見共通点はありませんから取りざたされておらず、なにより海賊被害の方が目立っていので新聞にも取り沙汰されないらしい。

直感的にサカズキは、その殺された被害者たちは魔女の素養を持っていたのではないか、とそんな気がした。

海軍本部頂上決戦直後に発生した、女性の連続殺害事件。被害者は「ただのか弱い女性」ではないものたちばかりで、そして子宮を奪われ死亡している。子宮とは女の象徴の一つであると以前何かの書籍に書いてあった。思い出し、眉を寄せて顔を上げればクザンと目が合う。

「……なんじゃァ」
「…あのさ、今何が起きてるか…予想とか、立つ?」
「わしは確信のねぇことは口に出さん」
「でも、もしかしたらちゃんが、」
「あれはもう死んだ。それは間違いねぇ」

最後まで言わせず、サカズキは言い切る。

魔女関係のことで何かが起きているのか、それさえまだはっきりとはしていない。だが魔女関連のことであるのなら、のことが無関係ということでもないのだろう。だが、そうだとしても、それは「の死」という絶対的なものがあるからこそのものだ。

死んだ。
それに間違いはない。何一つ、変わらない。

何かが起きているのだとしても、の死が関わっているのだとしても、それだけだ。

何か問題があるのなら、サカズキは大将として、そして魔女に関わった海兵としてその問題を解決させる義務はある。だが、何も期待することはない。

「ん〜、おっかないねぇ、二人とも。また殴り合いたいならわっしは二人を蹴らないといけないんだよねぇ〜。今度は海じゃなくてタライ海流まで飛ぶといいよぉ〜」
「黄猿さん、納豆かき混ぜながら物騒なこと言わないでください」

すかさずクザンが突っ込みを入れればボルサリーノは「冗談だよぉ〜、大事な同志の二人を殺すわけないでしょぉ〜」と笑いながら言うが、サカズキの目から見て、あれは本気だった。同僚に対してボルサリーノは理解や敬意を示しているが一番はセンゴク元帥だ。昨日赤犬と青雉が殴り合いの喧嘩に発展して戦国元帥の貴重な睡眠時間が削られたと知ったボルサリーノの対応は…とても素早かった。サカズキは随分久しぶりに海に落ちたと、あまり思い出したくない昨日のことを思い出しながら、無事だった二枚目のトーストに手を伸ばす。

しかし、何が起きているのかはっきりとはせぬが、今優先すべきことは各地で起きている海賊どものバカ騒ぎの鎮圧だろう。本部の指示系統とてまだ万全ではない。やらねばならぬ仕事は多くあり、詩人の小娘がタレ込んできた情報を大将が躍起になって追いかける暇はない。

「誰か」が「何か」をしようとしている。

それは確実だ。だが、それが「何」なのかはまだサカズキにはわからない。

「ん〜、やっぱり朝は納豆だよねぇ〜。あぁ、そうそう、サカズキ、ピアくんがねぇサカズキなら「何が起きているかの予想は立たずとも、「誰が」殺しているのか」はわかるんじゃないかって言ってたよぉ〜」

ひとまずは思考を切り上げようとしていたところに、再度ボルサリーノがまぜっかえす。

どうやらよほど、己の姪が出してきた話題に意識を向けさせたいらしい。それは大将としての感情か、それとも姪っ子煩悩な伯父としてのしようのない思考ゆえか。サカズキはどちらもどちらのような気がして深く考え頭痛を引き起こすことが嫌で、とりあえずは何か口に出そうと言葉を捜す。

それにしても、そのピアの口ぶり。何が起きているのか、あの小娘は解っているようだ。それでこちらに話題を投げている。その根性は流石は魔女だと感心する反面、わかっているならはっきりとそう書けと怒鳴りたくなる。

「おどれの姪がわしなら判ると言うちょるんなら、心当たりは一人だけじゃァ」

残った「」の記憶は最後の瞬間、その時のみ。だが、「」のこと以外の魔女の記憶はまだサカズキにはあった。

あの気に食わぬトカゲというバカタレが気付かなかったか、あるいは気付いていて見逃したのかそれはサカズキにはわからない。だが、サカズキははっきりと覚えていることがあった。

「え、犯人の心当たりあんの?」

つぃっとクザンが身を乗り出す。ボルサリーノは相変わらず何を考えているのかわからぬ顔だが、こちらが「答え」を出すのは当然だという、そういう顔をしていた。どちらも忌々しい、と胸中で罵り、サカズキはため息を吐く。

魔女の消失から起こった連続殺害事件、奪われた子宮、同一人物では反抗不可能といわれる事故現場の間隔、そして被害者の「正しく生きていない」という共通点。おそらく被害者は子宮を奪われるまで、致死量の血を流しても死亡しなかっただろう。調べればわかることだが、サカズキには確信があった。

「……ひょっとしてパンドラ?」

黙るサカズキが中々口を開かぬので、クザンが痺れを切らせて口に出す。しかし、サカズキはそれには答えず、誰に言うわけでももない。なぜ気づかなかった、と己を責めるように、呟いた。

パンドラではない。

・コルヴィナス。の産んだ、魔女の息子じゃ」

そんなことができる、そしてする理由がある者は、この世でたった一人しかいない。





Fin



(2010/08/09 18:24)