リコリスが秘書として迎えられたためか、今夜はあの一般食堂の料理人は嫌味の料理をよこしてくることがなく、サカズキは迷い込んだらしい猫の腹になんぞいれてやらねばと思い、珍しく食堂に足を向けていた。クザンが起こした肝試し大会とかふざけたものはもう終わったか、海軍本部内はひっそりと静まり返っている。

リコリスはまだ資料室にいるのだろうか。戻ってくる気配がない。しかし気付けば夜も随分と遅いもの、己は構わぬが、といって秘書である彼女にまで不眠を強いるつもりはない。戻ってきたら引き上げるように言うかと、そう考えながらサカズキは夜の廊下を歩く。

シャラン、シャランと、サカズキが歩くたび猫の鈴が鳴った。ガラスに銀が擦れるような音がする。すっかり水気を乾かした猫はごろごろと喉を鳴らしサカズキの胸ポケットに収まっている。普段は薔薇が添えられているポケットであるが、まさか猫と一緒にするわけにもいかず机の上に出してきた。

「全く、なんでわしがこんなことを」

まだまだやらねばならぬ仕事はあるというのに、子猫なんぞに時間を取られている。これならいっそ不審な侵入者であったほうが情報を得るなどの利があったもの。それであるのに胸の中の猫はただ腹が減ったと鳴くばかりで何の役にも立たない。

「暴れるな。落ちて踏んじまってもわしは知らねぇぜ」

最初は大人しくポケットの中にはいっていたが、段々と飽きてきたのだろう。猫はもぞもぞとポケットの中を動きまわり、そして顔を出してきた。小さな前足でひょいっと出て行こうとする、その体を掌で受け止めて、再び胸ポケットに戻す。猫は不満そうにこちらを見上げてきた。

「なんじゃァその面は。おどれのようなもんが暗い中をおっかなびっくり歩いてりゃ、カラスや梟にでも食われちまうぞ」

猫は夜眼が聞くというが、それ以上に猛禽類は優れている。海軍本部奥に位置するこの場所はわりと自然の鳥類が多く生息しているのだ。こんなに小さな猫は格好の餌になろう。言い聞かせながら、サカズキは何猫相手に真面目に話しているのだろうかと溜息を吐いた。だが猫は人の言葉がわかるのか、真剣にこちらの話を聞き、そして「そんなに子供じゃない!」とでも言うように小さく鳴いた。

「わしの拳ほどもねぇ分際で大層じゃのう」

子猫が何を言うのかとサカズキは呆れる。しかしそんなに言うのならと、膝を曲げて子猫を床に降ろした。よく磨き上げられた廊下を子猫がトテトテと小さく音を立てて歩く。サカズキが大またであるけばあっという間に子猫は取り残されるだろうから、普通以上に速度を落としてゆっくりと歩いた。子猫は一生懸命にサカズキの隣についていこうとするが、やはり少し遅れる。その度に小さく鳴いてサカズキを呼び止める。

立ち止まって振り返って、サカズキは子猫を見下ろす。きちんとサカズキが顔を向けなければ子猫は何度でも鳴く。「ちゃんと聞いて!」とでも言うようなその駄々っ子じみた泣き声は妙に耳について、振り返らずにはいられない。

「この分じゃ、夜が明けちまうじゃろうに」

サカズキが十歩歩けば猫が鳴く。そうしてまだ目的の半分も進めていない。食堂には何か猫が口に出来るものくらいあるだろう。できればあの小憎たらしい料理人(マリア)のいる一般食堂なら猫を任せて都合を付けられるのだが、こんな調子では一般食堂に着くのは明日の夕方になる。それならと将官が使う食堂に向かうことにしているのだが、それでも猫の速度では朝になる。

溜息を一つついて、サカズキは片膝をつき猫の首根っこをひょいっと掴もうとした。

「……いい度胸じゃのォ、おどれ」

しかし察したらしい子猫はひょいっと、その時ばかりは素早くすり抜ける。サカズキは膝を着いた妙な大勢のまま停止し、逃げられたのだと悟って顔を顰めた。

サカズキの手の届かぬギリギリのところまで逃げて、子猫はその小さな顔を見せる。「自分で歩くよ!」と言うその顔にサカズキは片眉を跳ねさせた。妙な意地を張る猫である。というか、そもそもなんで自分は夜分に猫と真剣にやりあっているのか。

馬鹿馬鹿しいと、サカズキは今更ながらに我に返って立ち上がった。

「迷い猫なら保護しちゃろう思うたが、おどれのような手前勝手な者は好きにすりゃァえぇわ」

梟あたりに食われても自業自得というもの。救いの手を差し伸べて取らぬのは当人(当猫)の自己判断だと、サカズキは猫相手にも容赦しない。ふん、と一瞥して踵を返せば事態を把握した猫が小さく唸る。ここで泣くように鳴こうものならまだ可愛げがあるが、意地を張り続けるその態度が気に入らない。カツン、と靴を鳴らせば、同じようにトテ、と肉急が床につく音がする。どうやら意地を張ってそのまま進むことに決めたらしい。それならそれで構わぬとサカズキは己も執務室へ戻ろうとした。

と、そこへサカズキの進む方向から腹の太った鼠が二匹ほど走ってくる。海軍本部頂上決戦後、急ピッチで修復作業は行われているものの、まだ手付かずのところはどうしたってある。そういうところに鼠が発生しているということは耳にはさんているが、餌を求めてこの奥までやってきたのだろう。サカズキはその姿を眼で追い、その直後、猫の悲鳴のような引き攣った声を聞いた。

「……猫を襲う鼠っちゅうんも、珍しい光景じゃのう」

振り返れば、意地を張り己と別れた子猫が溝鼠二匹に襲われていた。大きさは鼠の方が一回り大きく、子猫ではひとたまりもないだろうにそれが二匹だ。子猫なりに懸命に爪や小さな牙を使おうとはしているが、何せ泥に塗れて必死に生きてきた鼠と愛玩用として育てられてきた白猫では地力からして違う。すぐにその白い毛が赤くなり、サカズキは溜息を吐いた。

一歩前に踏み出し、鼠にあちこち噛まれている猫を見下ろす。

(誰かに似ている気がした。だがそれが誰かは思い出せない)

サカズキが近づけば鼠は目を赤く輝かせて敵意をむき出しにしてきた。この己相手にいい度胸である。踏み潰してもいいが、ちらり、とサカズキは白猫に目をやった。立ち上がろうとするが片足をやられたのか、起き上がろうとするたびに転げる。

今にもこちらに噛み付きそうな鼠は、獲物を取られると思ったのか鋭く鳴いてこちらに飛び掛ってきた。まともに受けるのも大人気ない。ひょいっとあっさり避ければもう一匹が隙をつくように飛んでくる。中々いい連携である。小動物もこういう仲間意識があるのかとそんなことを考えながら、サカズキは鼠を睨みつけてみる。すると鼠二匹は悔しそうにこちらを見上げるのみである。まさかこちらの体をよじ登るほどの勇気はないようで、ふん、とサカズキは鼻を鳴らす。

歩き出せば鼠二匹がチチチと鳴いて去っていく。諦めたらしい。動物には強者には歯向かわぬというものが本能から備わっているのか。鼠相手に何をしているのだと思わなくもないが、サカズキは、それならなぜこの猫は阿呆にもこの己に逆らおうとするのかと、そんなことを考え呆れる。

あちこち赤くなった猫は助けられたことを悔しそうにし、ふてくされているようだった。気の強いことだ。帽子の影の目を細め、サカズキは猫を見下ろして口を開いた。

「わしが守っちゃるけぇ、大人しゅうせぇ、








海軍本部幽霊騒動 10話








「うわ、すっげぇ組み合わせ。サカズキ、なにその子、誘拐してきたの?」

夜半人の執務室に訪れて開口一番に言うセリフがそれか。サカズキは顔を顰め、しかしクザンに続いて見えた赤毛に長身、吐き気のするほど顔の整った女の姿を視認した途端、真顔になって腕を振り上げた。

「おいおい、急にDV展開は止めろ。折角海兵どもが直したんだろう?」

こちらの振り上げた拳は、どこからか現れたデッキブラシによって防がれる。これを防いだのがこの女の攻撃道具である銃であればサカズキはそのまま殺し合いに発展させることもできたが、しかし、デッキブラシである。戦闘の意思はこちらにはない、とそう訴える態度。この女の意思がどうであれサカズキは魔女と対すれば即首の骨を折るのが道理だと思っているゆえに、加減をするつもりなどはない。はずであるが、トカゲという女はデッキブラシでマグマの拳を受けたあとニヤニヤとそれはもう卑しく笑った。

その笑い顔が癇に障る。乱暴に足で蹴り飛ばそうとしても、この女は防ぐだろう。

「……なんぞ取引でもしたか」
「さすが大将赤犬は頭の回転が速くて助かる」

いかに破天荒常識を弁えないといえどこの女は慎重なところがある。何か用があったとしてもこのタイミングで海軍本部にひょっこりと姿を現す無謀はせぬ。それでもこうして表れて、そしてこの己の前に出ているということは、命を害される恐れがない状況に自らを持ってきているということだ。

あえて言葉にはせぬが、この女に裏取引を持ちかけるようなのは世界政府の、五老星くらいだろう。

昨今起きている猟奇殺人事件に、後任の詩人についての話題ならこの女もいずれ関わること。それならいつまでも海を彷徨わせているより懐にという考えか。

「貴様のような女に恩情なんぞ不要じゃけぇ。情報だけ寄越して首を吊れ」

とりあえず一時この女は政府には必要な生き物ではある。サカズキはそれなら死なぬ程度に痛めつける分には構わぬかと、そういう物騒なことを考えながら遅れて入ってきたリコリスに顔を向ける。

「このバカに何かされたのか、リコリス」

見るからに憔悴している様子の己の秘書に顔を顰めた。クザンと、それにトカゲの組み合わせでは並みの人間には耐えられないだろう。大方クザンに言い寄られ、トカゲにからかい倒されたのかと、そう思って声をかければ、リコリスがその碧の眼を不安そうに揺らしていた。また何ぞ抱え込んでいるのだろう。目的があってこの場所に来た、そのことはサカズキも理解しているが、目的が何なのかは知らない。それゆえに己の中のみにため込むことがあるのだろうと、そう思い眉を寄せると、トカゲの失笑が耳に入った。

「何か言いたいことがありそうじゃのう」
「言ったら聞いてくれるのか」
「おどれのような女の言葉なんぞ聞く価値があるか」
「まァ、ないな」

ふん、と双方同時に鼻を鳴らせばクザンがほっと息を吐く。ここ数日の緊張をやっと解いたという様子にサカズキは顔を顰めた。

「サカズキさん、」

そういうトカゲとのやりとりはどうでもいいとして、こちらが声をかければリコリス、やや青白い顔をしてこちらを見上げてきた。表情を隠せると思いあがっているところのある娘だったが、今はどうしても感情を隠しきれぬというほど気が動転しているようだった。

一体あの女に何を言われたのか。

それが気になり、サカズキはトカゲを睨み飛ばす。すると再びトカゲがフン、と不愉快そうに鼻を鳴らした。そうして何か口を開く前に、サカズキの肩に乗っていた白猫のがひょいっと机の上に降り立った。

「卿は赤「犬」というからにはこう、大型犬でも飼ってそうなイメージだったが、まさか子猫ってどんな趣味だ?」
「一寸前に保護した。わしの飼い猫じゃねぇ」

リコリスのことは気にはなるが、トカゲの面前であれこれ問うても意味はないだろう。とりあえずサカズキはこの女を殺すのは五老星が「用済み」だと判断してからにすることにして、執務机に戻ると子猫の首根っこをひょいっと掴み上げた。

「どこかからか迷い込んだ。クザン、覚えはねぇか」
「いや。おれの知ってる子で動物飼ってる子もいるけど、こんなにちっさい猫はいねぇな。さすがに」

生後にすると1、2ヶ月、と言ったところだろうか。里親などにも出されるのは三ヶ月からというから、いかに幼いのかを思う。

リコリスに飼い主を探させようと思ったが、この調子で執務に関係のないことを押し付けるのもどうかと思い、サカズキはふむ、と考え込むように顎に手を当てた。

「ところで、サカズキ、この子なんかお腹減らしてない?」
「じゃろうのう。何ぞ食えるものはねぇかと思うたが、すぐにゃァ用意できんじゃろ」

一応食堂に行き、サカズキは子猫が口に出来そうなものなどないが、牛乳と煮干、それに炊いた飯は確保できた。それで器に入れてふやかしたのだが、白猫のは一口食べただけで「これは無理」という顔をする。

「人の食うもんが食えるわけじゃねぇのか」
「まァ、猫まんまとかいうけどね。ちゃんがいたらわかるのに」
「いねぇヤツの話はするな」

ぴしゃり、と言えばクザンが黙った。は急に人が増えて心細くなったか、サカズキの手に擦り寄り身を隠すように縮こまる。

「ありゃ、何かサカズキに懐いてない?」
「知らん。出会いがしらにゃバケツに落としたんじゃがのう」
「何してんのお前」
「動物虐待って言うんだぞ、それ」

自分でも好かれる要因はないと思っているサカズキはクザンとトカゲの突っ込みをスルーした。それで子猫を見つめる。金色の目をした幼すぎる生き物だ。飼い主がいればいいのだが。このままこの執務室で飼うわけにはいかない。

「鈴をしちょるけ、野良じゃァねぇじゃろ」

名前は描いてあったが、主人が誰かわかるような手がかりはない。

とりあえずは朝にならねば手は打てないか、とそう思っているとが小さく鳴いた。サカズキが対処を迷っていることに気付いたのか、ひょいっと執務机から降りて、床に置いてあった皿に近づく。一応温めたミルクと柔らかくした粥と煮干はそのままで置いていた。すっかり冷めただろうと思うが、先ほどは食べなかったはずのが、何か決意をするように一度頭をこくんとやって、舌でミルクを舐め始める。

「あ、飲んだ」
「……」

あのサイズでいつまでも腹をすかせているのはよくないと、そう思っていただけにサカズキは少しほっとした。似合わぬのだが、事実なのでしかたがない。しかしがミルクを飲んでいるその姿をトカゲは不思議そうに眺める。

「というか、猫は牛乳飲んだら腹を壊すぞ?子猫は猫用のミルクと決まってるだろ」
「トカゲさん…あのさ、知ってたなら早く言おうよ、そういうことは」

しかし今更止めても遅い。子猫はとりあえず満足したのかけふっ、と小さく喉を鳴らし、口の周りについたミルクを前足でふき取り顔を洗い始めた。

「うわー、かわいい。何この癒しキャラ。サカズキの執務室にマジ似合わねぇけど」

短い舌でちろちろと子猫が毛づくろいを始める。体中をやろうとしているのだが、背中までは届かず、回しきって体重が支えられずコテンと転がった。

「サカズキ」
「なんじゃァ」
「俺が飼いたい」
「黙れバカタレ」

金魚の世話も出来ない男が何を言うのか。サカズキは睨み飛ばして、クザンが手を出さぬようにとをひょいっと掴み上げる。スーツに毛はつくが、今更ではある。そのままどこに移動させようかと思い、ふと目に付いたソファに投げ込んだ。小さなクッションのあるそのソファの上でが二三度跳ねたが落ちるまでにはいたらぬようで、一瞬驚いたように眼を丸くし、こちらを見上げてくる。その顔が面白く、サカズキは喉の奥を引っかくような音を立てる。

「腹が膨れたら寝ろ。明日は主人を探しちゃるけェ」
「サカズキって子猫相手にも全力だよな」
「話しかけて何が悪い。これは利口じゃ、わしの言うてることがようわかる」

事実こちらが話している最中は耳をピンと向けている。賢い猫だとサカズキは感心しているのだ。言えばスッとトカゲがに近づいていた。

「……このふてぶてしさに、赤犬への妙な気遣いさ、その上このソファでいい具合に落ち着いてる自称猫。毛や眼の色を取ってみればまるで関連性はないんだが…」

ぶつぶつと何か言いながら、トカゲが眉を寄せる。この女にしては珍しく、言いよどむようなその様子にクザンとサカズキは顔を見合わせたが、パンッ、とトカゲが何か思いついたように手を打った。そうしてこちらに大またで近づき、トカゲの指がサカズキのシャツを掴む。見上げ、口付けでも強請る女のような体制になり、その赤い唇が震えた。

「おい、赤犬。おれと情交するか?」
「な、何を言い出すんですか、あ、あなた……!!!恥を知りなさい!!」

唐突に妙なことをのたまうトカゲの言動にはサカズキもクザンも慣れているといえば慣れている。それでも双方思いもかけない申し出というか、提案だったもので、クザンは驚き、サカズキはあからさまにいやそうに顔を顰めてとそういう反応をする一瞬後、なぜかリコリスが真っ赤になって叫んだ。

とりあえずサカズキはトカゲを殴り飛ばして引き離そうとしたが、ひょいっと避け、小首を傾げている。

「そっちの秘書の反応はどうでもいいんだが、なんだ、違うのか」
「いやぁ、びっくり。トカゲさんとサカズキのラブシーンとか、マジないわ。で、何が違うって?」

サカズキと同様硬直状態から戻ったクザンが頬をかきながら調子を戻すと、何か不審に思っている様子のトカゲに問いかける。何か妙なことでもあるのか。サカズキも気になった。トカゲというこの女は世の軽薄を全て集めて人の形にしたようなところがあるが、それでも立派な魔女である。その言動に意味があると疑えば、結局何か意味があるもの。

「いや。おれが赤犬にちょっかいかければその猫が飛び掛ってくるかと思ったが、声を上げたのはそっちの秘書で、なんだ、その猫、随分と寛いでるじゃァないか」

見ればリコリスは顔を赤くしてトカゲへの怒りを露にしているが、の方は至って平然としている。体をクッションの上に横にたえて、後ろ足で耳をかいている。バランスを取るのが難しいのか時折コテン、と転びかけているが。

「能力者じゃねぇかと疑ったか」
「卿は疑ったのか。あぁ、だからバケツに落下させたのか」
「体に仕込みでもされちょるかとも思うたが、調べて普通の猫じゃァいうのがわしの結論じゃけ」

タオルで乾かす祭に念のために調べたが、ごく普通の猫だった。それは間違いないと言い切れるのでクザンに知らせる意味でも口にする。基本的に大将ともなれば周囲にスパイが紛れ込むことなど多くある。動物を使った例は過去にはなかったが、可能性の一つとして考えられること。油断するなとそう常にサカズキは心がけていたことを思い出した。

「リコリス」

サカズキは先ほどから押し黙っている秘書に声をかける。もう夜も随分と更けた。長い1日だったように思う。朝から大将三人で食事を採り、アーサー卿の訪問、そしてクザンが肝試しなんぞというつまらないものを起こし、猫が己の執務室に現れ、このトカゲの登場である。内容が濃い、とサカズキは思い出し自分でも疲れを感じるのだから、女の身のリコリスは尚疲れているだろうと思った。

「は、はい」
「今日はこれで上がれ。つき合わせて悪かったのう」
「サカズキさんはまだ休まれないのですよね?なら私も、」
「明日も早い。おどれは十分こなした」

リコリスはちらり、とトカゲに視線をやる。トカゲを気にし、そして己のみが退出することを躊躇うようであった。ボルジア家の娘ならトカゲのことを承知なのかとサカズキは思う。油断ならない女ではあるが、それでもサカズキはトカゲ相手に下位に置かれる気もない。気遣いは不要だと一瞥すると、観念したのか頭を下げてリコリスが退室する。

「あ、待ってよ秘書さん。夜道は危ねェから、おれが送ってくって」
「妙なマネはするなよ、クザン。わしの秘書じゃけ」
「ハイハイ、わかってるって」

出て行くリコリスの後を追って、クザンが歩き出した。昨晩は秘書室にある仮眠室で眠らせたが、今夜は自室で休ませたほうがいいだろう。アーサー卿の登場でかなり動揺していたリコリスの細い肩を思い出し、サカズキは顔を顰めた。

女と見ればあっちこっちに声をかける同僚に釘をさし、その背が扉の向こうに消えるのを待ってから、サカズキは部屋に残ったトカゲを見下ろす。

「それでおどれ、何しに来た」






+++





「送ってくださってありがとう。夜道は少し不安だったから、嬉しいわ」

そう言って微笑む若い娘さんは、確かに可愛いしデートにお誘いしたくなる。けれどもクザンはちっともそういう言葉を自分が吐こうとしないことをわかっていて、リコリスの「素直な感謝」を聞き自分もにへら、と笑った。

海軍本部、夜半ともなればひっそりと静まり返っている。例の肝試し大会は適当な時間になったら自主解散するように事前に言ってあるのでもうバラけた頃合だろうか。何の声もしない廊下を歩きながら、クザンは隣を歩く赤毛の秘書の気配を意識した。

言葉の上で赤毛というのは、どちらかと言えば金よりもやや濃い色の髪をいう。オレンジ色、というのが相応しいのだが、世にいる赤髪のシャンクスの印象が強いためか赤毛と言えば燃えるような紅を思うもの。リコリスの髪はどちらかと言えば、濃いブラウンに赤味をさしたものだろうと、改めて思った。トカゲの赤い髪を見るまでは、リコリスの髪の色はのものと似ていると思ったけれど、こうしてみるとまるで違う。

そのことにほっとしているのか、それとも残念なのかクザンにはよくわからない。

コツコツと、リコリスのヒールが鳴る。リズムがいい。クザンは自分が早く歩き過ぎないように気を使った。そういう気遣いがわかるのか、それとも別の思案でもあるのか、不意にリコリスがクザンの腕に手を添えてきた。

動揺を見せる男はかわいらしいと、以前がこちらをからかったことを、思い出す。それでなくともクザンは、普段であれば綺麗な女性にこうして腕をとられれば喜び心臓が跳ね上がっただろう。けれど、妙に頭が冷える。

不思議なことにリコリスは「誘う」というような意図を感じさせぬ、自然なタイミングで腕を取ってきた。男が女に、というよりは、礼儀を弁える男性に、礼儀を知る女性がエスコートされるために差し出された腕を取った、というに相応しい流れである。こちらの気遣いを受けて、当然のように身が動いた、教育された淑女であると、そう印象を与えてくる。

「サカズキが心配?秘書さん」
「あの方は私に心配させてはくださらないわ。でも、あの女性と二人だけで大丈夫かしらって、その、先ほどの発言もあるし」

さきほどの、というのはトカゲさんのノリノリ「情交するか」というご提案だろう。クザンは自分がその立場だったらどうしたかと考え「うん、何かすっごい怖いかも」と体を震わせた。

さすがのクザンも、トカゲ相手に情交は想像したくない。何と言うか、どんな展開になるのか考える前だけで恐ろしい。

心配、というリコリスの言葉に頷きつつ、クザンは気安い声を出す。

「あれでトカゲさんとサカズキは付き合い長いしね。ちゃんのこともあるし、おれには言えないこともトカゲさんとなら感情むき出しで言い合えると思うから、いいんじゃねェの?」
「彼女はではないの?」
「あれがちゃんなら、サカズキは惚れたりしなかったよ」

ぎゅっと、リコリスの眉間がよった。だがそれは一瞬、すぐに感情を消そうとする、その顔、白い顎をクザンは手で押さえ、肩を押してそのままリコリスの背を壁に押し付ける。

物音を立てぬようにと慎重になりつつ、クザンのもう片方の手はリコリスの腰を逃げられぬように押さえ込んだ。

ひゅっと、息を呑む目の前の美しいといえば美しい女性。碧の瞳を困惑と、若干の恐怖に染めながら、すぐに強さを取り戻そうとするその様子がありありとクザンにはわかった。しかし困惑からくる恐怖はそう簡単には消えぬだろう。

毒姫、海楼石と同じ効果を持つその体をクザンはあっさり押さえ込んでいる。先ほど腕をとられたときも、クザンは反応しなかった。その「違和感」に今やっとリコリスは気付いたらしい。

「大将青雉、アバンチュールは他の女性としてくださらない?」

それでもキッ、と眦を上げてこちらを睨むその顔はかわいらしいではないか。クザンは眼を細めて、リコリスのその唇に指を当てる。

「何企んでんの?秘書さん」
「企みのある私がサカズキさんの傍にいるのが気に入らないの?お生憎ね、あの人は私が何か目的があって近づいていることくらい気付いてるわ」
「だから?」
「私は赤犬の秘書です。無礼は、いくら青雉でも許されませんよ」
「ねェ、秘書さん。もっと面白いこと話してくんない?」

周囲の温度が下がった。リコリスの体が僅かに震える。クザンはその唇が震えださぬのは立派だと褒めつつ、首を傾げた。

「おれはさ、今何がどう起きてるのかってのはわからねェよ?自分が何をするのが「正解」なのかもわかんねぇし、何ができるのかも全く不明。でもさ、知ってるか?リコリス」

初めて名前を呼んだ。耳元で囁くようにして言えば、リコリスの体が強張る。男を知らぬ女ではないと、そこでクザンは悟った。寧ろ、過去に男からの理不尽な陵辱を受けたことがあるゆえに、心の奥底に封じていたその忌まわしき記憶によって身が竦んでいると、そういう状況のようだ。

それでも何とか力を込めて逃げようとする、その細すぎる手首を掴み、クザンはいっそ寝物語に聞かせるような優しげな声を出す。

「おれが手ェ出した子に、サカズキは絶対に手ェ出さねェんだよ。同僚間で取り合いとかしたくねぇって、真面目だよな、あいつ」

お互い入りたてのころから既に能力が特出していた。だから自然、つるむことが多かった。気心の知れた友人はサウロただ一人だったが、サカズキと過ごすことは多かった。それで、自分らも男なもので女性を意識した時代もある。そういう時、サカズキはクザンが気にかけた女性、あるいは手を出した女性には一切異性を感じないようにしていた。あの男なりの礼儀というか、友情ゆえなのだろうと気付いたのは随分後だ。たいてい、クザンが惚れる女性は後にサカズキを好きになってしまうので、なら応えてやってよ!と言ったこともある。だがサカズキは、どんな事情があろうと状況だろうと、クザンが手を出せば、絶対にその女性に対して異性を意識せぬのだ。

クザンが何を言いたいのか理解したリコリスが、その碧の眼を見開く。顔から一気に血の気が引き、逃れようと体が必死に動いた。

「放し、」
「例えばここでおれがお前さんに酷いことをしちゃうと、サカズキはお前さんに同情するし、おれのこと殴って最低だって言うかもしれねぇんだけど、でもさ、お手つきには変わりないんだよね?絶対にサカズキがお前さんを「女」と見ることはなくなるわけよ?」
「大声を出すわよ…!!」
「やってみる?おれの火遊び止めるのはサカズキか、ちゃんだけだって調べてねぇの?」

そのサカズキはトカゲと嫌味合戦でもしているのだろうし、はいない。そうだ、そもそもがいないからリコリスはサカズキの傍に現れた。

「誰も助けはないからね?かわいそうだけどさ」

クザンは、一体今何がどう動いているのかさっぱりわからない。リコリスが何の目的で来たのか、サカズキがそれを承知で何を考えているのか、トカゲさんの目的、その他もろもろ、自分はまるで取り残されている。まるで無関係だ、関わるなと言われているようで、それが当然であるとも自分自身で思う反面、けれど、クザンは諦められないのだ。

目的がどうだろうと、何が起こるのだろうと、そんなことはもう己には関係ない。

「とにかく俺は、ちゃん以外がサカズキの傍でうろちょろしてんのを見るのが嫌なんだよね」

明らかに、リコリス・ボルジアはサカズキ狙いだ。ただの恋愛感情、というのではないだろう。それが目的とも思えないが、一つの手段ではあるのだろう。それであっても、クザンは気に入らない。

「誰か助けて!」

反射的に叫ぼうとするその口を強引に押さえ込む気はない。クザンは叫びたいのならそうすればいいと思い放置したが、やはりしぃん、と夜の闇が広がるばかりである。サカズキの執務室から随分と離れてもいる。いくら耳のよいサカズキでも目の前にトカゲがいる以上そちらに神経を向けていなければならぬので気付く可能性は低い。

誰の声も返らぬ闇に、リコリスの瞳の恐怖が増した。

クザンはうんざりとせぬよう気を使いながら、溜息を吐く。

「ここは海軍本部よ?誰かを救うための正義の海兵が、何助けなんて求めてんの」




Fin

(2010/10/04 18:57)