誰かの叫び声が聞こえたような気がして、リコリスは花を摘んでいた手を止めた。“カンタレラ家の娘”通称毒姫たちが暮らす森の中の屋敷から少し離れたこの場所はリコリスの一番の気に入りで、天気のよい日は姉たちと一緒に花を摘むのだ。しかし連日の雨で毒姫たる姉らは外へ出ることは出来ない。己だけが天候に関係なく外へ出ることが出来たのは、ひとえに己が特別だということを、リコリスは自覚していた。
毒姫は言葉の通り全身が毒である。触れればどんなものでも侵し、害することのできる彼女らは貴族社会になくてはならぬ存在だと、そうリコリスは教育係に聞いている。
雨の日にうっかり外に出て、肌に雨水が当たり地面に滴り落ちでもすれば、それだけで猛毒になる。それゆえに彼女らはこのような天気の日には屋敷の中に押し込められる。しかし梅雨時とはいえ、そんなことがもう一週間だ。中々雨がやまぬので、すっかり気が滅入ってしまっている姉たちのために、リコリスは外の世界を偲ぶ何かがないものかと探しに出ていた。
しかし、そんな中、リコリスは誰かの叫び声がほんの少し聞こえたような気がした。
いや、そんなはずはない。ここは島の奥にある森の中、人里離れた場所であって、来訪者は殆どいない。いたとしてもお偉い貴族の方々の使い、悲鳴を上げるような無作法をするものか。
リコリスは顔を上げて、雨の降りしきる周囲を見渡した。
「誰かいるの?」
声をかける。雨の音、それに森の木々の揺れる音がする。戻りの遅い己を姉らが案じて世話係、庭師に呼びにこさせたのか、とも思う。けれども答えはない。獣たちすらこの森にはおらぬのだ。昔はいたらしい。けれどカンタレラ家がこの島を所有してからは、動物たちは子孫を残すことをしなくなったという。気が触れたように海に飛び込み溺れ死ぬ動物の話を、リコリスは耳の聞こえぬ年老いた庭師から聞いたことがある。
柳の木の擦れる音が人の悲鳴のように聞こえたのだろうか?首を傾げる。まだ幼い、丸みを帯びた顔が水溜りに写った。この顔は彼女のひそかなコンプレックスだった。姉たちはまるで花のように美しいのになぜ己だけこのように幼い顔なのか。美しくないわけではない。けれど「完璧」には程遠い。万人が「十人並み以上」とは認めても、振り返ってまで確認してはくれぬ。そういう、中途半端肌の白さ一つ取っても、リコリスは姉たちに勝てるものがない。それもそのはず、だからこそリコリスは「特別な毒姫」に選ばれたのだ。
思い出し、ぎゅっと、リコリスはしゃがみ込んだ。長いスカートと、雨を避けるために被った雨着が泥に沈むが、気にならなかった。そうだ、そうなのだ。己が「特別」になったのは、他の毒姫たちと違い、苦いスープや拷問の訓練を受けずに済んでいるのは、ただ単に己が。
「あぁ、こちらにいらっしゃったのですね」
思考に沈むリコリスの耳に、雨の間をぬって入ってくるような静かな声がかかった。知らぬ声だと反射的に感じとってリコリスは素早く立ち上がる。いざと言うときのために常に毒姫が持たされている短剣を構えれば、今度はまた違う声が聞こえた。
「へぇ、ちっこいナリでえぇ目ぇしはる。どないです、アーサーはん。うちの見込みは」
軽薄というものが声を出すのなら、まさにこのような、と思うような声が背後からかかった。振り替えればいつのまに背後に回られたのか、長い黒髪の狐を思わせるような雰囲気の青年が立っていた。顔はわからない。この視界の悪い中というのに青年は仮面をつけていた。白い陶器のような滑らかな、しかし細部に渡って美しい装飾の施された、本で見たカーニバルの仮装用の仮面に似ている。口元だけが露になった仮面の男、そのくっきりとした口元が唖然としているリコリスを密かに笑う。
はっとしてリコリスは真横に飛ぶが、青年に短剣を掴むその腕ごと強くつかまれ、宙吊りにされる。
「は、離しなさい!無礼者!」
慣れぬ痛みにリコリスは顔を顰め、叫んだ。一体この男性は何者なのだ。この二人、一人はアーサーとよばれていたが、貴族にはよくある名ではある。身なりはどこまでも上等。アーサーと呼ばれた中年男性はきっちりとあつらえられた黒のスーツ、もう一人の青年はグレーのダブルスーツだ。リコリスを拘束する青年の腕には銀の鎖が巻かれ、リコリスが暴れるたびに金属音が鈍くした。強くつかまれているのに、不思議と痛みはない。しかし言い知れぬ恐怖がリコリスの身を襲う。
突如表れた二人の男、なぜ己は身を拘束されねばならないのだ。一体、何が起きているのだ。
困惑し、混乱しながらリコリスは必死に身を捩り、ぱんっ、と手を払った。その拍子にリコリスの指先が青年の仮面に当たり、弾け飛ぶ。
「っ、」
「コルテス様…!」
青年が蹲った。なぜ?リコリスの指先、確かに爪は肌に当たったかもしれないが、傷つけるまでには至っていない。というのに青年はまるで何かを恐れるように顔を覆い蹲る。その彼を老紳士が気遣い己の帽子をあてがうと、素早く仮面を拾いに行った。
何が起きているの?
リコリスは更なる困惑に襲われたが、しかし、まごついている場合ではない。二人が己に注意を払えぬ今がチャンスとばかりに踵を返して走り出した。
男の叫び声がかかるかと思いきや、苦しげに呻く声がほんの僅かに耳に届いた程度である。
がむしゃらにリコリスは走った。滅多に体力を使うことはない。泥の中を歩き、途中何度も枝が体に当たり、皮膚が裂けたがそんなことを気にしている場合ではない。リコリスの長い髪が枝に絡まれば、短剣でそれを切り落とす。容姿を構ってなどいられない。必死に、必死さが、あった。
逃げなければ。どこまでもあの男が追ってくるような、そんな恐怖がある。
なぜわたしはあの仮面の男が恐ろしいのだろう。利き慣れぬ言葉遣いに、ただ歪んだ口元を見ただけだ。けれどもリコリスは、あの男が恐ろしかった。
走って、走って、ようやくリコリスは愛しい屋敷にたどり着いた。
「お姉さま!!!」
ここまでくれば安心だ。ここには大勢の毒姫がいる。
ただの人間など、彼女たちの前では何の意味もない。それに屋敷には常に護衛もいた。普段は毒姫らが逃げ出さぬようにと監視し恐ろしい彼らではあったけれど、リコリスには今ばかりは頼もしく感じられる。
ここに戻ってこられた、わたしはもう大丈夫。
お姉さまたちがわたしを助けてくれる。
リコリスは大きな扉を開けて屋敷の中へ飛び込んだ。
「お姉さま!!!お姉さま!大変なんです、森に、森に怪しい人が!」
屋敷の中は真っ暗だった。晩餐にはまだ早いから、皆まだ部屋に閉じ込められているのだろう。しかし緊急事態なのだ。マナー違反だが、声を張り上げてリコリスは家族を呼んだ。蝋燭はどこだろうか。玄関広間にランプ一つないのも妙だと、そこでリコリスは訝った。
礼儀にかなわぬことをすれば、世話係の老婆が鞭を手に飛び出してくるはずだ。ぴしゃり、と鋭い鞭をくれて「そのようなお転婆では魔女にお目通りはできませんよ」と言いつけてくるはずだった。
「婆様…?お姉さま?」
庭師のハンスも、どこへ行ったのだろう。耳の聞こえぬあの老人、それでも肌で変化を感じ取って、いつだって駆けつけてくれた。
なぜ、誰の声もしないの?
リコリスは叫ぶことをやめてゆっくりと壁に手をついた。こう暗くては歩きづらい。いくら長く住んだ屋敷でも、ここは対侵入者用に罠が仕掛けられているのだ。慎重に足を運び、リコリスは窓辺に近づいた。カーテンを開ければ少しは外の光が入ってくる。外の雨は激しくなっており、部屋の中の静けさと妙なバランスさがあった。
手探りで窓に進み、当たった布の感触に安堵した。
まるで見知らぬ場所に来てしまったようだったけれど、この感触は間違いなくカーテンだ。よくかくれんぼをして遊んで、リコリスは決まってここに隠れるのだ。その時見つからぬようにと目をぎゅっととして掴んだ、その感触そのままだ。
「マリアンヌ?」
カーテンを開けると、その裏に見知った姿があった。かくれんぼのときにリコリスと一緒にここに隠れる、一つ下のマリアンヌだ。金の巻き毛の愛らしい後姿を見つけてリコリスの声が弾む。
屋敷の明りがなかったのはかくれんぼをしていたからだったのね。
ほっとしてマリアンヌの肩を叩く。
「マリアンヌ、もう、どうして皆無視して意地悪するの?」
あの婆様まで一緒になってかくれんぼをしているのか、とリコリスはからかう声になる。しかしマリアンヌは答えない。
ぴちゃり、と、リコリスは己の足が何か水溜りに入ったような音を聞いた。
何かしら?
リコリスは反射的に下を向く。
「赤い、水?」
なぜこんなところに水が溜まっているのだろう。不思議に思い、首をかしげるがその途端、ぐらり、と目の前のマリアンヌが背中から倒れこんできた。
「!?」
突然のことで支えきれず、リコリスはマリアンヌの体に押され尻餅をつく。カーテンが引っ張られ、そのままぶぢり、と毟り取られた。
窓の外で雷が光、屋敷の中が真昼のように照らされ、そしてリコリスは悲鳴を上げた。
海軍本部幽霊騒動11話
乱暴にシャワー室に入り、リコリスは衣服を脱ぐこともせず蛇口を捻った。湯にならぬ水が体に降り注ぎ、熱くなった身体を冷やしていく。うな垂れ、長い髪が水を吸って重くなっていく。汚らしい。何もかも、リコリスには穢れているように思えてならない。この長い髪も、今回のためにあつらえてもらった黒のスーツも、支給された正義を背負うコートも、何もかもが、汚らわしい。今もまだ、青雉の身体の硬さが身に残っているようだ。耳元にかかる吐息。頬を滑る指の感触が生々しく思い出され、感じるのは吐き気だ。
気持ちが悪い。
今にも胃の中のもの全てを吐き出してしまいそう。しかし、それで吐き出せたとしても、この身体が穢れていることに変わりなど無い。
っは、と、リコリスは小さく声を出した。笑おうとして、失敗したという典型的な音だ。みっともない、わたし、みっともない。ずるずるとしゃがみ込み、リコリスは唇を強く噛んだ。
(どうして、いつもいつも、わたしばかりがこんな目に)
身体が震える。恐怖からなのか、怒りからなのか、判断付ける余裕がない。カタカタと震え、どうしようもなくなって、リコリスは嗚咽が漏れぬようにと口を覆った。
「……ぅ、っ…ぅ……」
泣くな、泣くな。泣いて何か変わるのか。リコリスは己に言い聞かせる。
何も、変わらないのよ。
いつだって、泣いたって、目が赤くなるだけ。いいや、違う。泣いたら「負け」になる。そう、リコリスは知っていた。十年以上前、育ったあの森の、あの屋敷の中。獣に襲われたような無残な死骸となった家族を前に、己はどれだけ泣いただろう。声を枯らして、泣いて叫んで、必死に必死に、家族の死体に縋った。何度も目を閉じて、これが夢なら覚めてくれと、そう、何度も頭を打ちつけた。
それで、どうなった?
それで、何が変わった?
どこへも行くことなどできず、と言って家族の身体を埋葬することもできなく、ただただ己は泣いていた。目の前で家族の死体が腐っていく、蝿がたかっていく、その光景を目の当たりにし、それも恐ろしくて出来なくなってからは、見ることをやめてただただ、己の寝室で泣いていた。布団を被り、腹が減る音も聞きたくないと泣いて、泣いて。
それで、どうなった。
『馬鹿みたいだね、きみ、お姫さまじゃァないのに泣いてるの。ねぇ、救いの王子さまは来ないんだよ?』
誰も助けてはくれなかった。
屋敷中が腐敗して何もかもが「無残」になって、やってきたのは黒尽くめの少女。悪夢のように美しい顔に侮蔑を含め、涙でぐちゃぐちゃになったリコリスの顔にそっとハンカチを当てた。
己は何もしなかった。
逃げることも、家族を埋葬することも、なにもせずただただ泣いて、泣いて、誰かが何かを変えてくれるのを待っていた。
それで、どうなった?
ぎゅっと、リコリスはシャワーを止める。俯いたまま、こぼれる涙と水を拭い、目を開く。濡れて服の張り付いた己の身体は成長した女のそれだ。もう、何もできぬ無力な小娘ではない。
(泣いていたって、何も変わらない。大将赤犬に会い、この少しの間に、わたしは忘れていた)
この2日間。己は大切にされた。
赤犬に、秘書であると、優れた能力を持っていると認められて、勘違いをしていた。
あの人を救いたいなど、魔女から解放して差し上げたいなど、そんなことを考えた。そして、愛してほしいと、あの人に愛してもらいたいと。いや、それが目的だった。その為に、ここへきた。けれど、それ以上のものを、リコリスは欲して、そして、その暖かな場所に自分がいられるのだと、そう思った。
リコリスは首を降る。
「…夢を見るのは、おしまいよ」
誰も助けてはくれない。
泣いても、何も変わらない。
それが現実だ。
誰も、わたしを助けてはくれない。
いつも、いつも、そうだった。誰も、結局誰も、わたしを助けてはくれない。
あの魔女のように、都合よく助けてくれる人がいるわけではない。
青雉の行動はショックだった。けれど、過去己を襲った悲劇からすれば、耐えられないわけはない。あれほどの不幸など、この世にはない。
第一、青雉の言葉は最もではないか。ここは正義の、最後の砦。世界の軍事力が集まるこの場所が、何も善意に溢れているなどと、そんなことがあるわけがない。隙を見せれば足元をすくわれる。ここは、そういう場所なのだ。だからこそ、ここにいるのは「油断ならぬ者」ばかり。だからこそ、リコリスの望みが叶う。
この場所で、たった一人、大将赤犬だけは違うかもしれないと、今でもそう思う。けれど、そうだとしても、大将赤犬が己に気をかけてくれたとしても、リコリスが欲しいものにはならない。正義の海兵、悪を許さぬ絶対的正義の、大将赤犬が「護る」ものはこの世に一つしかない。
あの人の一点の迷いもない正義に、寄り添う純粋なる悪の華。
甘い恋や、胸を締め付ける感情など、己はいらない。
誰もわたしを護ってくれないのだから、わたしは、戦うしかないのだ。
泣いてなど、いられない。そんなことに意味などない。
「だから、わたしは、魔女になる」
低く呟き、リコリスは己の髪を掴んだ。
+++
ぐったりと、クザンはベッドにうつぶせになって襲いくる感情をどうすればやり過ごせるのか、そういう不毛なことを考えている自分を「ヘタレ」とそう罵り、唸った。
「本当、クザンさんって役に立たないですね。それでも最高戦力ですか」
「どっちかっていうと、婦女暴行とかしないのが正義の味方だからいいんじゃないの?とかいうのはやっぱダメ?」
「優柔不断は男として最低かと」
ごろん、と寝返りを打てば容赦なくマリアの毒舌が降りかかる。全く、昔は多少なりとも可愛げがあったのにと思いつつ、クザンはアイマスクを外してベッドサイドに投げ捨てた。
なぜマリアがクザンの寝室にいるのかといえば、まぁ話は早い。
結局クザンはリコリスを強姦できなかったわけだ。それで落ち込んでいる、というか、まぁ、話をするためにやっぱり今夜も起きていたマリアに声をかけ、こうして部屋で飲む、ということになった。名誉のためにいうが、勃たたなかったとか、そういうことはない。
「罪悪感でも?」
持参したコップに酒を注ぎながらマリアが問う。少女のように美しい顔をしていながら、マリアは中々飲む。サカズキと勝負できるんじゃないだろうかとクザンは密かに思っているもので、彼と飲むときは潰れぬように注意しなければならないのだ。しかし、今夜ばかりは酔い潰れたい。
「マリアちゃん、意地が悪いね」
「と付き合っていたら、そうなります」
「罪悪感、ねぇ。浮かんできてくれてたらこんな落ち込まなかったかもなぁ」
「つまり?」
「あの秘書に対しては何も悪いとは思ってないのよ」
最低ですね、とマリアがそれはもう美しい笑顔を浮かべる。おや、クザンは眉を跳ねさせた。てっきりマリアはリコリスを嫌っていると思っていたが、ここでまさかのリコリスの味方かと、そういう目をすれば目の前の青年は、小さく笑う。いや、微笑というより失笑。
「客観的に言っているだけですよ。おれ、正直あの秘書がクザンさんに犯されようが孕まされようが構いませんから」
「すんごいこと言ってない?ねぇ、すんごいこと言ってるよね?ちょっと引くよ?」
「実行犯が何を言っているんです」
いや、未遂だから、とクザンはこの辺念を押したい。
しかしこのマリア、よほどリコリスが気に入らぬ、それはへの愛情かと、クザンは腑に落ちなかった。そうではないはずだ。そうでは、ない。確かにとマリアは親しかった。けれど、ここまでマリアがの後釜!?気に入らない!という態度をするのは、妙ではないか。
「ねぇ、マリアちゃん。今朝の真面目な話なんだけど」
今朝、クザンはマリアと「真面目な話をしよう」とした。花瓶をマリアが割って、中々本気でマリアがの居場所を護ろうとしてくれている、そのことが少しばかりクザンには嬉しくて、だから、クザンはマリアが一体何をするつもりなのか、聞きたかった。共犯者になるつもり、ではないけれど、何かしらの情報の共有をしておいて損は無かろうかとそう思って提案したのだ。
「言いませんよ。おれが何を考えてるかなんて、そんなのいいませんよ」
「なんで?」
「だって、クザンさんはドレーク少将じゃないでしょう」
「そういうこと?」
クザンは呆れた言葉、ではない。納得した声を出した。それでマリアが「しまった」という顔をする。わざと、ではない。クザンの言葉をのらりくらりとかわそうとして、しくじった。まだ若いマリアは時折そういうことがある。リコリスもそうだが、マリアもまだ、ここでこの場所で、当たり前のように生きてる連中と上手くやりあうにはまだ早い。
マリアがじぃっとクザンは見つめてきた。
「愚かだと?」
失態をやらかしたことへの問いではない。マリアの「企み」いや、それは「信念」といえるものだろう。それに対しての感想を求める言葉。クザンは首を降った。
なるほど、そういうことか。
マリアはへの親愛からリコリスをどうこうしたい、のではない。彼の根底、あるのは恋焦がれ続けるX・ドレークへのこと。ドレークは、いつだっての身を案じていた。造反してからも時折がドレークのもとを訪れては、あれこれ世話を焼いてもらったと嬉しげに話している声を覚えている。ドレークはいつも、いつだって、が悲しい思いをしていないか、辛い思いをしていないか、痛い思いをしていないか、ちゃんと笑えているか、それを考えていた。
それを、誰よりも知っているのはマリアだ。マリアがどれほどドレークの意識を引こうとしても、ドレークはしか見ていなかった。話すことものことばかりだと、一度それでとマリアが喧嘩をしたこともある。
そのマリア、彼にとって「とサカズキ」その二人の、一つの空間を護ることが何よりも重要なのではないか。ドレークへの、忠義だったのではないだろうか。
ドレークはもう海軍本部に足を踏み入れることはできない。が木陰で安らかに眠れているのか確認することもできない。だから、マリアがするのだ。
大丈夫です、ドレーク少将、と。何も心配いりません、と。
マリアはドレークに尽くせることは何も無い。まがりにも彼は海軍で、ドレークは海賊だ。何もできない。けれども、マリアはを護ることによって、ドレークへの真心を尽くす。精一杯、心をこめてきた、のではないのか。
その、マリアからすれば、サカズキがリコリスを迎え入れるのは己のドレークへの心の向け場所を失うこと。マリアは、いつまでもサカズキがを思ってくれなければ困るのだ。はいない。だが、を想うサカズキがいる。そのサカズキを維持し続けることが、を失ったマリアが次にできる、ドレーク少将への誠意なのだろう。
「自分勝手だなぁ、とは思うよ?」
「クザンさんほどじゃありませんけどね」
どんぐりじゃなかろうかとクザンは思ったが言わなかった。ひょいっと上半身を起こしてコキコキと首を押さえる。
「ま、結局人なんて自分勝手な生き物でしょ。自分のためならなんでもするってね」
「じゃあなんであの女を犯せなかったんです?」
「直球だよね、マリアちゃんって」
やはりその話に戻るのか。クザンは壁に背をつけて顔を顰める。リコリスを抱くと、それができないわけではない。今頃部屋で泣いているだろう彼女のもとに押しかけて続きをしたっていい。
しかし、目の前にちらつく赤い髪と、あの泣き顔が、まずいのだ。
色はのものとは違う。顔だって、違う、はずだ。けれど、何かがクザンの中に引っかかる。
「リコリスのあの泣いた顔、どっかで見たことあるのよねー」
「初対面では?」
「初見よ、初見。でも、そう、もう随分昔から、知ってる子に似てんのよ」
誰か、と一度ぼかしたが、クザンはもう「誰に」似ているのか、話しながら気付いてしまった。
あの顔は、何だ?
トカゲも言っていたではないか。あの、顔。美人とはいえぬ、しかし十人並み以上の、顔。あの顔だけなら、躊躇わなかった。気付かなかった。
「能力者が、それも自然系の能力者が見る『悪夢』って、マリアちゃん知ってる?」
「パンドラの夢ですか」
当然のように返されてクザンは聊か驚く。海軍本部、将官クラスからでなければ知らぬパンドラの名
を、あっさりと呟くマリア。そして飢餓のことも知っている。なぜか、と思い、答えはすぐにわかった。自然系だけではない。肉食系の能力者にも飢餓はある。ドレークにも、あった。だからマリアは調べたのだろう。
名家の生まれ、そこそこの貴族、というのは謙遜か。
「あれがパンドラ、つまりはちゃんだって長いこと思ってたけどね、ちゃんはパンドラじゃなかったし?それじゃああの髪の長い女の人って誰なんだろうって、そう不思議だったわけよ」
夢に見る。泣いている女の子の夢。髪の長い、身長もそこそこの、女の子が泣いている。そういう夢を、能力者になってから何度も見た。
飢餓を齎す原因だというのなら、それはパンドラであるべきだった。悪魔が求める、ただ一人の女性。だからこそ能力者はパンドラを求めるのだと、そう知らされてきた。そのパンドラの影法師たるを求めるのは道理のことと、飢餓を抑えることができるのはがパンドラだからと、そう、聞いて来た。
だが、そうではない。そうでは、なかった。
は、パンドラとは待ったく違う別の人間。それなのに、なぜ飢餓が押さえられた?そして、あの夢の中の女の子は、誰だ。
「あの、泣いてる女の子。リコリスの顔とそっくりなのよね」
間延びした声でクザンは呟き、いやそうに顔を顰める。
長年ずっと、夢に見てきたあの顔で懇願されてしまって、己はリコリスを抱くことができなかった。リコリスの意思がどうこう、ではなくて、あの子が泣いているような、そんな気がしたのだ。
「本当、今何がどうなってんの?」
謎ばかりが多くなる。夜が深くなるにつれて、わからぬことばかりだ。
サカズキはどこまでわかっているのか、のことを忘れているのに、それでも詩篇のことやパンドラ、の前身は覚えているのだから、クザンにはまるでわからぬ謎も、やはりわかっているのだろうか。
そんなことを考えて、クザンは目の前のマリアの顔をじぃっと見つめた。
「……なんです?」
「いや、本当。これでマリアちゃんが女だったら慰めてもらうのになーって」
戯言程度に呟けば「おれが攻めですよね?」と絶対零度の微笑みで返され、クザンは降参するように手を上げたのだった。
Fin
(2010/10/22 18:22)
・一応次回で幽霊編終了予定。
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