真夜中、暗さがひっそりと辺りに響き街明りがおぼつかぬこの頃は妙に恐ろしい光景となっているのだと、そういう話を思い出す。海軍本部を有するマリンフォード、港町は先の戦争の爪あとが色濃く残る。未だ十分に復旧できていないことが夜の闇によくわかる。サカズキは大また、早足で進み、一箇所を目指す。海軍本部には海兵らの利用する宿舎、仮眠室の他に外来の客を持て成す貴賓室もある。絢爛豪華は海軍本部ではない。それゆえ貴賓室といえどそれほど豪勢な造りではないのだが、外見の美しさには定評があった。

サカズキは真夜中でも微かな明りに照らされた白亜の建物につく少し前に足を止める。

「なんじゃァ、おどれ、ついてきたんか」

小さな気配を感じて振り返れば目線のかなり下、廊下の上にちょこんとちまっこい白猫が後をついてきていた。サカズキが声をかければ満足そうに小さく鳴く。相変わらず小さなか細い声である。

「おどれはリコリスの傍におれ」

、とサカズキは子猫を呼んだ。どういうわけか唐突に表れた、真っ白い毛の子猫である。金色の目を大きくし白猫は微妙そうに小首を傾げる。

「あの様子じゃ、手首でも切り落としかねん」

まさか若い娘に全裸で夜這いをかけられるとは思わなかった、とサカズキは思い出す。クザンあたりなら歓迎したろうが、己は、まぁ男といえど、明らかに守備範囲外である。

そもそもサカズキは以外に手を出すつもりなどない。女に恥をかかせるというのも男の甲斐性としてはいかがなものかとも思うが、リコリスと男女の関係になる気はないのだ。

「あの娘は優秀な秘書じゃけぇ、ここで失うんは惜しい」

能力値は高い。確かにまだまだ経験不足ということもある。通常海軍本部、将官付きの秘書ともなれば「完璧」な状態で上がってくるもの。それを言えば、まだリコリスは足りぬ部分が目立つ。けれどそれを上回る期待値があるのも確かだった。

今夜のことがあり、今後赤犬の傍で仕事をするのが躊躇われるのなら推薦状を書いてG8のジョナサン中将の元へ送ってもよいだろう。将来的に海軍本部の役に立つ人間だ。即戦力を求められるここでもまれるより、教育に長け、そのゆとりもあるG8にやれば数年後確実に海軍本部に召集されるに違いない。

「あれが自決しねぇよう見張っておけ」

ひょいっとサカズキはを抱き上げた。子猫は軽い。こんなに小さなナリでよく生きているとサカズキは不思議に思う。

はサカズキの言葉をじぃっと聞いていたけれど、その金の目をまぁるくしたまま小さく鳴く。

「なんじゃ、嫌か?わしなんぞの傍におるよりリコリスの傍の方が安全じゃろうに」

これから己が行く場所を考えれば猫同伴、というのはまずい。しかし、まだ短い付き合いだがこの子猫は妙に頑固なところがある。ここできちんと言い聞かせねばしっかり付いてくるだろう。

子猫は不満そうに鳴き、サカズキの手からもぞもぞと這い出る。そのままどうするのかと見ていれば、器用に腕を伝ってサカズキの胸ポケットに入りこもうとする。

「……いつからここがおどれの定位置になった」

ぽいっと、当たり前のようにはサカズキの胸の薔薇を蹴り落とす。それが落下する前に掌で受け止め、サカズキは溜息を吐いた。すっかり収まって「満足!さぁ行こう!」という顔をする子猫。絵づら的にかなりツッコミを入れたくなる光景なのではないかとサカズキは思った。

「……」

少し考え、サカズキは胸ポケットから顔をほんの少しだすが隠れるように薔薇を添え、歩き出す。暴れない限りは、まぁ、これも仕方なかろう。今からこの猫を一人で帰すというのも、確かに無理だ。また鼠にでも襲われる。

そうして気を取り直して進む。マリンフォードで戦争が起きても被害の少ない場所として選ばれたこの場所は、先の戦争でもさほど被害を受けずに済んでいた。それゆえあまりひと気もない。サカズキは入り口に位置するその場所に警護の海兵、さらには政府役人が立っていることを確認してコツン、と靴音を響かせた。

「た、大将赤犬…?」
「このようなお時間に…いらっしゃるとは」
「急な用向きじゃァ、アーサー・バスカヴィル卿に通せ」

ふわりとあくびをしていた海兵をじろりと眺め、そして背筋を正す政府役人を見下ろして問いかける。夜半の急な大将の訪問は非公式であるとはっきり彼らに知らせているもの。妙な緊張感が二人の間にあった。しかしサカズキはあえてそれに気付かぬふりをして回答を待つ。

海兵は「はい、すぐに取次ぎを」と建物の中へ入ろうとするが、世界政府より派遣されている護衛官は一瞬警戒するような眼差しを赤犬に向け、そして目を伏せた。

「枢機顧問、バスカヴィル卿はお休みになられております。失礼ながら大将閣下といえど訪問には正式な手続きが必要であることをご存知ないのでしょうか」

よく躾けられた護衛艦である。政府役人というよりはアーサー卿子飼いと考える方が自然か。サカズキは眼を細めて畏まりつつもその場を退く気など欠片も無いという若い護衛官を眺める。サカズキは「急な用向き」とそう言った。仮にも大将が真夜中に枢機顧問を訪ねるのである。何ぞあったに違いないと、非公式ではあるが特例となるに十分な状況だ。しかしこの護衛官は用向きの内容を問う無礼をする以前にこちらの訪問を「非常識」と切り捨てた。

そしてさらに、正式な手段での面会はできぬが、そうではない、枢機顧問と大将としての面会ではないものであるのなら可能だ、とも暗に言っている。

明らかに、あの男、アーサー・バスカヴィルが事前にこの護衛官に知らせているからであろう。

どこまで人の神経を逆なですれば気が済むのか。サカズキはリコリスの口から一つのヒントを聞いたときから湧き上がっている怒りが更に燃え上がるのを感じつつ、しかし護衛官の冷静な態度で表面上の怒りは押さえ込んだ。

「枢機顧問を訪ねる用じゃねェ。わしが来たと、そう告げろ」

サカズキは怒りを押し殺した声で低く、護衛官に告げた。

「かしこまりました、サカズキ殿。私は案内をさせて頂きますコルデ・ハンスと申します。どうぞ、中へ。主人がお待ちしております」

コルデ・ハンスとそう名乗った青年は恭しく腰を曲げて丁寧な発音で発言すると、そのままコツン、と靴を鳴らした。世界政府役人は黒のスーツが基本であるがこの青年は燕尾服である。キッチリとプレスされ皺一つない黒の燕尾をまだ若いといえる青年が着こなしている様子にサカズキは違和感を覚えた。年のころならまだ十台後半程度だ。先の戦争でサカズキが手にかけたエースと背格好も似ている。執事の装いに見えるが、年齢的や物腰からは家や組織に仕える執事(バドラー)ではなく、一人の主人に仕える従者(ヴァレット)であろうか。髪の色は夜目には濃いブラウンに見えるが、十分な灯りがあれば金髪に見えるかもしれない。

先ほど見えた表情はおおよそ感情というものが欠落している。平板な声、抑揚のない話し方はCP9のロブルッチに似ているものがあった。

違和感はハンス、と名を聞き合点がいく。
四候の一つの当主の名だ。先代は死亡している。ではこの青年が若き跡継ぎか。と面識があっただろうかと考えるが、記憶を思い出せぬ以前にこの四候の貴族が魔女と係わり合いがあるということをあからさまにはしなかった。どのみち己は心当たりのないことだろう。(アーサー卿でさえ海軍本部内でに声をかけたことは稀である)

「こちらでお待ちください。バスカヴィル卿に取次いで参ります」

コツコツと磨き上げられた廊下を進みサカズキが通されたのは広間として使用されている一室である。4人掛けのソファが二つ向かい合い、中央にテーブル、端には暖炉という典型的な待合室だ。ここは海軍本部の所有する館のはずだが、滞在するアーサー卿はすっかり自分の別宅のように扱っていることが人目で知れた。

サカズキが着席するのを見届けるとコルデ・ハンスが丁寧に頭を下げて退室する。けして背中を見せぬその動きにサカズキは顔を顰め、ソファに体重を預けた。貴賓室のものとして使用されているだけあって上等なものである。だが、妙に自身の執務室にあるものの方が居心地がいいものだと思い、サカズキはこめかみにピクリと痛みを覚えた。

なるほど、どうやら記憶にはないがあの執務室のソファにもにまつわる記憶が多々あるらしい。サカズキは覚えていないことが、逆に「これが関係しているのか」と思えるのであるとも開き直っていた。思い出せないということは、関係の記憶であるということだ。それならこの痛みもあれがいた証拠、と相変わらずただでは転ばない男である。

そんなことはさておいて、そうしてサカズキが暫く待っていると扉がノックされた。礼儀を知る者の回数である。アーサー卿ではないと即座に判断すれば、事実その通り入って来たのは身なりを整えたメイドである。

アーサー卿がこの海軍本部に三日間滞在することになるのは知っていたが、その際に自分の屋敷から使用人を連れてきているのか。サカズキは呆れ、メイドが茶を入れるのを眺める。

そしてそのカップが満たされるかどうか、の頃合に再度扉が開いた。

「こんばんは、サカズキくん。もちろん毒入りですよ、それは」
「……」

夜分の訪問をした己も礼儀がないといえばないが、開口一番にこの台詞を吐くのも如何なものか。サカズキはカップに手をつける気は欠片も無かったとはいえ、やはり苛立った。

深夜であってもきっちりと身なりを整えたアーサー卿が従者を傍らに入室してきた。歳は随分といっているはずだが、その軍刀色の瞳はいつまでも衰えるところがない。海兵の強者とはまた違う種の、「やり手」であるのは間違いない老人だ。いや、老人という言葉でさえこの男には「手段」の一つなのだろうとそんなことを思う。

「わしの用向きはわかっちょるじゃろうのぅ」
「いいえ、まるで」

サカズキの向かいに着席し、アーサー卿はメイドが差し出すカップを受け取る。サカズキが今にも殴りかかりかねんほどの怒気を向けているというのにまるでそ知らぬ顔をして茶を楽しむ姿。

「ただ、近々貴方がお訪ねになるだろうという予想はありましたよ。何の用件かは、まぁ、心当たりがありすます。それに私のあれこれがそう簡単に暴かれることはないと自負もしておりますので。おそらくサカズキくんの用向きは、私にとっては取るに足りぬことなのでしょう」

なぜこの男を今すぐ殴り飛ばすことができないのか。サカズキはクザンとトカゲを二人同時に相手にしてもこれほど苛立ちはせぬだろうと実感しつつ、眉間に皺を寄せる。

「取るに足りんことで、態々面会を許すのか」
「えぇ、私たちは貴方からのものであれば、たとえ障子の張替えの時期の相談を真夜中にされたとしても拒みません」

この男の戯言に一々神経を反応させるだけ時間の無駄だ。サカズキはアーサー卿の言動の中の無駄な部分、気にするべき部分を頭の中で選別することに専念した。「私たち」と複数で言う。それは四候のことだろう。海軍本部大将の権限では四候の貴族らへの発言権など殆どない。彼らは「貴族」であり、己は「海兵」であるという絶対的なものがあるゆえのこと。貴族が兵を使用できても、兵が貴族を使用することはできぬ、とその原点ゆえである。

しかし四候の貴族はサカズキには呼び出されても構わぬのだとそういう姿勢。四候の中で剣(騎士の象徴、四候の貴族はそれぞれ「聖杯」「高価」「剣」「棍棒」を家紋に含ませている)を司る家の当主がそのように言うということはこれは四候の総意であると知れるもの。

どういうつもりだと顔を見れば、アーサー卿は懐から一枚の手紙を取り出した。比較的新しい紙に薔薇の蝋印の押されたものである。

「あの方が最期まで貴方のことを案じておられた。そしてくれぐれもよろしく頼むと、我々に託したいけれどそうはならぬことをわかっていらっしゃったからこそ、あの方は我々に一つだけ「命令」をされたのです」
「……その手紙は、あれのものか」

文字に見覚えは、ない。しかし女手によるものであるとはわかるもの。細い字ですらすらと書かれた文面。サカズキは手紙を手にとって、その文字を指で撫でる。何か感じるものがあるわけではない。だが、これがの手によるものである、とは言葉ぶりからわかった。

「あの方が我らに下した命は、唯一つ。貴方の相談相手になることと、そのように承っております。余計なことと、お思いでしょうな」

サカズキはふん、と鼻を鳴らす。この己がアーサー卿になんぞ助けを求めるわけがない。そんなことはありえない。とてそれは判っていたのではないか。

「そもそもあれがそうしろと言うたところで、おどれらがわしに協力するたァ思えねぇな」
「えぇ、もちろん」

にこりと、穏やかにアーサー・バスカヴィルが微笑む。真夜中であることが嘘のように、真昼に親しい友人が訪ねてきたような態度の笑みだった。サカズキはこんな夜更けにこのような笑顔を浮かべられるこの老人にどこか化け物じみたものを感じ、の知人、そして四候の、悪の貴族と称される男であるのなら、まともなわけもないと改めて認識する。

「あの方もそれをよくわかっておられた。私たちの心情も、貴方のこともよくわかっていて、それでも、今後の海で起こりうることを考え、貴方をたった一人で残すことをどれほど恐れたか。あの方は貴方のために我々に命令したのではありません。あの方の心にある不安を軽くするために、この手紙を出したのですよ」

元々「相談相手になる」と言うのは、協力するかどうかはまた別問題であるともいえる。そして相談をするということは本心をさらけ出すということ。サカズキも貴族らも、それは絶対にありえないこととは判っていただろう。その上、おそらく彼らはサカズキが「懇願」すれば協力するだろう。もそのように含ませているかもしれない。だがサカズキが彼らに本心から頼みごとをするようなことは、万に一つもないのだ。

「聞くが」
「何でしょう」
「その手紙、なぜ燃やさねェ」

この対応は理解したと切り替えて、サカズキはアーサー卿を睨みつける。魔女の道具は元よりも、の痕跡があるものは何もかも無かったことにしなければならない。サカズキは己の記憶にある限りの足跡を焼き払ってきた。何が世の災いの種となるか判らぬもの。リリスの日記とて、使った調度品とて、元々はただの日記、道具だったはずだ。それが長い年月、深い憎悪を経て世をゆがめるものとなった。

アーサー卿ともなればそれをわかっているはず。それに、とて最期の願いとして頼んできたのもだ。サカズキは己の中に唯一残ったとの最後の瞬間を思い出す。声の記憶はない。ただ、握り締められた手の強さと、話した内容だけを覚えている。

がサカズキに頼んだことの中に、全ての物の処分があった。

「燃やすつもりは欠片もありませんよ」
「魔女の縁の品じゃ。放置できる代物じゃァねェ」

災いの可能性がある。サカズキはここでアーサー卿に暴力を振るってでも奪う可能性を考える。しかし、アーサー卿がこの手紙を燃やさぬことと、そしてそもそもサカズキが今夜ここへ来た理由、関係ないものではないとそう気付き、周囲の温度を上げるのみに止めて問うた。

「リコリスを、おどれらはどうするつもりじゃ」

ぴたり、と空気が止まったような気配がした。目の前のアーサー卿は相変わらず茶を楽しみ、そして悠然とした態度のままである。しかし、どこかしら、サカズキが核心を突いた手ごたえはあった。

「このところ起きちょる猟奇事件、トカゲや詩人の娘が口に出しちょるっちゅうことは詩篇絡みか魔女絡みじゃろう。急遽わしの前に現れたおどれら貴族に馴染み深い毒娘のリコリス。あれは「魔女になる」とそう言うたが、言うに事欠いて「薔薇の魔女」になると、そう叫ぶ。そんなことは不可能じゃろうに、しかしあの娘の顔は」
「あなた方能力者の記憶にある「泣いている少女」によく似た顔なのでしょう」

サカズキの言葉を遮って、アーサー卿は静かに答えた。

「すぐに気付いていただけるかと思ってましたが」
「つくりは似ちょるが、微妙に違う」

すぐには気付けるものではなかった。を捕らえる前にサカズキは冬薔薇を手に入れた代償で飢餓を感じなくなっていたが、記憶にはある。昔何度も何度も夢に見た、泣いている娘の記憶。確かにリコリスに似てはいる。けれど雰囲気や、表情、が違う。それであるからサカズキはリコリスの悲しみに沈む顔を見るまで気付けなかった。

あの娘、あの、森の中で泣いていた、娘の顔。

あれは誰か。
あれは。

「リリス、夏の庭の番人と似た顔の女をわしに引き合わせて、何のつもりじゃァ」

夢の中で、あの娘は泣いていた。髪の長い、少女と言うよりは少し年の上の、しかし女性というにはまだ幼さのあった娘。自身で体を抱きしめ、震わせて唇を噛み耐え忍んでいる。夢の中は色がなかった。顔もよく見えぬから、確かにあれはリコリスに似ているとも思える。だが、そうではない。あの、泣いている娘の顔をサカズキは知っている。

あれはだ。

まだリリスと呼ばれていた頃の、何もかもを憎み憎まれ世界を滅ぼそうと願い、身を破滅させられた、愚かな娘。大陸に渡り名をリリシャーロと変えて、剣を振るい、目を赤くして鬼と罵られながらも己の罪を理解していた、幼いリリスの心の姿である。

あの夢を見た能力者は皆、パンドラに恋をするという。それであるから飢餓と王国を追われた魔術師を結びつけた。だからこそ、あの夢の娘はパンドラであるとも思われた。しかし違う。そうではない。

あの夢の中で泣くリリスは、声にならぬ声で叫んでいる。姉を助けてくれと。誰でもいいから、姉を救ってくれと、必死に、必死に頼み込む。

王国滅亡の折に、捕らえられたパンドラは赤騎士と手を取って逃亡した。しかし、リリスは追っ手となって赤騎士と殺し合い、そして姉を捕らえた。

それ以降パンドラの心は病んだ。自責の念がリリスを苛み、そしてあれの取った行動が悪魔に餓えを植えつけた。

「何のつもりか、見当付けていらっしゃるのでしょう」
「意味のないことを…」
「意味のない?魔女の存在が無意味などと考えるものはおりませんよ」

思考を遮るように響くアーサー卿の声にサカズキは深い怒りを覚えた。

お互い言葉にはしなかったが、アーサー卿の目的は、魔女の復活だ。

消滅した「悪意の魔女」の復活。

そんなことができるのかと考えるが、ようは500年前のノアとリリスがしたことの模倣である。リリスはノアの体を得て「」となった。ノアは海に捧げられるべき花嫁であったがそれを奪い、は海に憎まれた。

いや、その根底をもう少し複雑に解明するのなら、そもそも「夏の庭の番人」パンドラの妹姫であり、井戸の中で死した双子の妹であるあの娘があればというものは蘇ることができる。長年信じられてきたパンドラ=、という話の元になった事実、といえばわかりやすかろう。

結局のところは、というのは夏の庭の番人リリスの分かれた姿であると言える。妙に物語じみた話ではあるが、こと魔女の話、もはや今更でもある。

リリスの存在さえ確保できれば、再び「」を生み出すことはできる。そして、今回リコリスがノアの役割になるのだろう。

リリスに似た顔はそのためだ。寄り代となるには何かしらの類似点がいる。それを切り口にすればできるのだということは、半年前に東の海で没落した世界貴族が証明した。(第一部Longオリジナル編参照)

リコリス・ボルジアのことをサカズキは考える。もともとはを葬るためにあったという毒姫。しかし、そんな存在の噂を聞いてアーサー・バスカヴィルをはじめとする四候の貴族らが許すはずがない。彼らはリコリスを、毒姫の存在を葬ろうとしたのではないか。彼女を害する可能性のあるものを一切認めぬと、それが四候の貴族らのスタンス。サカズキもよく知っていた。

滅ぼされ、リコリスが彼らに何をされたのかはサカズキは知らぬ。だが、殺されずに、魔女に差し出す死体として今の今まで繋がれてきたのだろう。

リコリス、あの娘は被害者だ。

を思うアーサーらによって利用されている哀れな娘ではないか。アーサー卿らに利用されようとしていることはわかっている。だが、それでも出し抜けると思っている。

サカズキは少し前にリコリスが己の体に跨って叫んだ言葉、その覚悟を思い出す。

魔女になると、そうあの娘は言った。被害者であれば守られように、あの娘は魔女、加害者の側になると言う。

この世界は、たとえ年端も行かぬ子供であろうと海賊旗を掲げた途端に滅ぼされる悪になる。徹底されるべきルールだ。悪になる可能性、悪の芽として葬るべきもの。魔女になるというのは、それと同じことである。

その覚悟すら、アーサー卿らにとっては都合がよいだけのものだろうに。

一度目を伏せて、サカズキは思考を切り替えた。今判ずるべきことはリコリスのことではない。サカズキが怒りを覚えた原点はリコリスが利用されているという事実からではなかった。

再度アーサー卿を睨みつけ、殺気を向ける。

「わしが、このわしが許すと思うちょるんか。アーサー・バスカヴィル」

の死をサカズキは認めた。そして受け入れている。それでも、クザンをはじめとしまだ諦めきれぬ連中のなんと多いこと。あの手この手を使い、真理や悪意を駆使してを取り戻そうとしている。そのことがサカズキには許せなかった。

あのとき、がどのような思いだったか。
けして望んだ結末ではなかったはずだ。ほかに何か手段はないか、考え、そしてそれでもその道を選んだ、あれの覚悟をサカズキは思う。

泣いて、いたのではないか。
あれは臆病なところがあったはずだ。死が恐ろしくないわけがない。
それでもは選んだ。

「あれの選んだ、その結末を侮辱することはわしが許さん」

蘇ると言うその「手段」を、サカズキも承知はしていた。だが、あれは死を選んだ。それで構わぬと、全てを覚悟したのだ。たとえ「復活」などという反則じみたことが可能であっても、それは「リリスの分身の」でしかない。

まるっきり同じ船を作り出すようなもの。結局は、サカズキが心に抱くにはなりえないのだ。




+++




向けられる怒気、殺気の鋭さにアーサー・バスカヴィルは眼を細めた。直情型に見えて冷静、というのがの評価した赤犬という男と、その事実をこれまで認めてきたが、それでも苛烈なところは否定できないのだろう。

アーサーはサカズキと同じく毒入りの茶を口に含み、さめざめと心が冷えていくのを実感する。

(この男、何も知らないのか)

情報はある程度そろえている。だがそれらはトカゲや詩人の娘が提供しているにすぎない。の前進たる夏の庭の番人の存在は覚えており、そしての復活が可能であるということを理解はしているようだが、しかし、まるで状況把握ができていない、とアーサーは失望した。

まずこの男は、の死後魔女の戦争が勃発していることに気付いていない。気付いていたのならこの男は早々に手を打っているはずだ。

魔女の戦争。「悪意の薔薇を抱く魔女」の座をかけて争う戦争。アーサーが掴んでいるだけで既に30人の死者が出ている。今夜トカゲ中佐の介入によりまた一人死亡した。

あの黒髪の魔女候補の娘。名前は何と云ったか。あぁ、そうだ。ベアトリーチェ。天候により飢饉が起きて滅んだ村の生存者。まだ幼い少女、ひっそりと村が滅亡してからも一年も生き延びたのは村人の死体に手をつけたからだ。アーサー卿が偶然立ち寄ったその島、死体村と言って差し支えないその場所で、腐った人の体を食糧として生き延びたあの少女をアーサーは見込んだ。

出会ったのはほんの三日前だ。しかし、すでにベアトリーチェは魔女の招待状を得ていた。

無力な娘、悲運な女が魔女の戦争に招かれる。この現状をどうにかしたければ、その力を勝ち取れと魔女の囁き。アーサーがベアトリーチェを引き取ると言うと、あの娘は当然だと頷いた。「だってあたしは招待を受けたのだもの。それならあとは世界の流れがあたしを戦場へ連れて行く」そうあの娘は言った。その覚悟、受け入れている瞳は美しかった。

しかし、とアーサーは思い返す。

それでもあの娘はトカゲの逆鱗に触れた。魔女の戦争にはルールがある。アーサーは男だ。そのルールは知らぬ。けれどベアトリーチェは知っていたはずだ。それであるのにルール違反を犯して、そしてトカゲに滅ぼされた。

どこかに似ていただけに、アーサーは落胆した。あの娘が薔薇の玉座を得たのなら、リコリスとは違った意味で相応しいが生まれただろうに。

いや、しかし、そうはならなかったのではないかとも思う。

魔女の闘争。現在ひっそりと各地で勃発している争い。その最終結果は薔薇の玉座を手に入れる魔女の誕生である。

アーサーはの復活を願っている。しかし、薔薇の玉座を誰かが手に入れることがの復活になるのではない。誰かが薔薇の玉座の主となった瞬間、アーサーは永遠にを失うのだ。

そもそも、「」と「薔薇の玉座」は、一致するようで一致しない。

はリリスの分身。そうして生まれた生き物が魔女の至上である薔薇の玉座の主となった。つまりは、自身が前回行われた魔女の戦争の勝者というわけである。

だからこそ=薔薇の魔女とそう思われがちだが、少し意味合いは違う。

アーサーはの復活を願う。そのためにも、アーサーがを取り戻すまで誰も薔薇の玉座の主となられてはこまるのだ。

ベアトリーチェを引き取ったのは、戦いを長引かせるためだった。しかしあっさりとあの娘はトカゲに滅ぼされている。

それは忌々しい結果であった。だが、アーサーの思惑の外で、別の誰かが今回の魔女の戦争の邪魔をしている、という事実があった。

(招待状を得た魔女候補の女性たちを殺している者がいる)

この事実を、サカズキが気付いてくれていればアーサー卿には都合がよかった。だが、未だ結び付けられていないのが現状だ。そもそも魔女の戦争が起きていることに気付いていないのだから仕方がないといえば、それまでだったが。

アーサーとて、その「誰か」の確証があるわけではない。心当たりは、ある。

もちろん魔女の戦争を長引かせてくれているという点ではありがたいが、しかし、目的は戦争を長引かせる、ということだろうか?

(その人物が私にとって、敵には違いないのでしょう)

惨殺された死体の検分をアーサーも立ちあった。ひどい有様だった。何か深い、どろどろとした憎悪が感じられた。人の死体をここまで無残にすることが可能なのかと、外道・悪の貴族の名を頂くアーサーをしてそう思わせたほどの死骸となっていた。

その死体に共通するのは子宮を奪われた、ということである。子宮は魔女にとって深く意味のあるもの、というわけではない。だが、、いや、パンドラとリリスにとっては子宮というものは因縁のあるものである。アーサーはかつて見たリリスの日記の本文を脳裏に思い浮かべた。

リリスの日記は全13巻からなる黒い背表紙の本である。もともとは夏の庭の番人たるリリスによって記されていたが、後期にはリリィ・カーネーション(白牙の魔女:リリシャーロ)と呼ばれるようになった彼女が書き手である。

『 ×××年 ×期 ×月×日 連合軍第××部隊隊長:リリィ・カーネーションが記す。

陛下は追手として私を遣わしただけでは納得されていなかった。私のあとから百人の兵を送られた。私はシュヴァリエ達と共に馬を駆り、逃げ出した謀反者バージル卿とその妻となった王国の生き残りの魔術師の元へ辿り着いた。雨が降っていた。視界さえおぼつかない中、なぜ追いついたのだと赤騎士は私を罵った。

私もなぜ追いつかれたのだと彼を罵った。お互い理不尽な罵倒であった。けれどどうしようもなかった。私の目は誰よりも森を知り、そしてバージル卿の細君の気配を感じられる。逃げ出した謀反人の首を陛下へ晒さねばならなかった。陛下は私に不信感を抱かれている。当然だ。私の顔はバージル卿の細君と同じ顔なのだから。連合軍に拾われてからたびたび私を魔女と罵り嫌悪するものがいたが、先の王国での働きでやっと私は軍内で認められてきた。その矢先に、王国で捕えられた女と同じ顔だったのである。陛下の疑いはもっともだ。指揮にも関わることと、そう言い含めてバージル卿の抹殺、および逃亡した王国の生き残りの保護を私に命じられた。

私はバージル卿を殺さなければならない。

共に来てくれたダンテ卿は私の代わりに戦うと申し出てくれたが、私たちの背後には私の命令を聞かぬ百人の兵がいた。私はバージルを斬った。 

 バージル卿の細君は身籠っていた。私たちは愕然とした。そんなことはあってはならない。父親は誰だ。バージル卿ではない。細君が私の矢によって連合軍に捉えられてから誰が彼女を辱めたのだろう。私とダンテは恐ろしさに立ち竦んだ。考えられるのは一人しかいないのだ。 

 バージル卿の死体の傍らで細君が泣いていた。私たちを罵り、世界を呪う言葉を吐いた。私は彼女を陛下の元へ連れて行かなければならない。しかし、腹の中の赤ん坊はこの場で殺さなければならなかった。その赤ん坊は、世界に存在してはならない。 

 私は暴れる細君の胎を裂いた。私の後ろには私を監視する兵たちがいる。彼女が妊娠している姿を見られた。ここで赤ん坊を殺さなければ、細君が殺される。彼女は叫んだ。舌を噛まぬよう、私の腕を噛ませた。ダンテが押さえつけてくれている。酷い力だ。私だけではできなかっただろう。抵抗する力が段々と弱まってきた。細君の意識が落ちたのだとは判ったが、私たちは躊躇わなかった。 

 胎の中には赤ん坊がいた。もう臨月に近かったからか、十分な人の形をしていた。私とダンテは顔を見合わせ、言葉を失くした。咄嗟にダンテはシュヴァリエたちに目配せをし、私たちの周囲を囲ませた。兵たちから私と細君を隠した。疑う兵の一人にダンテは魔女の処置をするため視界を遮るとそう説明した。私は素早く、赤ん坊たちを取り上げた。 

 私は兵たちを指揮する一人に胸を貫いた赤ん坊の死体を渡した。兵は私を疑い、これが本当に細君の胎から出てきたものであるのかと問いただした。私は疑うのならと全ての証拠を見せた。正真正銘。彼女の胎から出した赤ん坊の死体である。兵は納得した。そして気絶したパンドラ・の体を引き取り、私たちを残して帰還していった。その場で崩れ落ちる私の体をダンテが支えてくれた。私は重くなった体に慣れるため膨らんだ己の腹を撫で、バージル卿の血の付いた剣を払った。 』

アーサー卿はが長年世界からその存在を隠し続けてきたあの赤ん坊が、なぜ今になって世界の出来事に関わり、そして、魔女の決闘の邪魔をしているのか、それが疑問だった。

あの時、殺されずリリスによって助けられた赤ん坊。その後にリリスとダンテ・コルヴィナス卿の子として生まれた子の名を「・コルヴィナス」という。

「許さない?貴方の許しなど、必要とはしておりませんよ」

頭の中で今後すべきことを組みたてながらアーサー・バルカヴィルは足を組みかえる。なぜあの時の赤ん坊が今になって魔女の騒動に関わるのか。その真意を聞かねばならない。早急に・コルヴィナス、及びに今回の魔女戦争で最有力候補であるシェイク・S・ピアの捕獲する必要があった。しかし今は目の前のこの男の相手をするべきなのだ。

海兵、人間として一つの道を究めている立派な生き物であるとは言える。しかし、今回のことに関しては何も知らぬ、ただ意地だけのある男だ。

アーサーが切り捨てるとサカズキの眉間に皺が寄る。

の死を受け入れて、そしてその死を守ろうとしている大将赤犬。この男さえいなければ、そもそもは死ぬことなどなかった。今とて、アーサーが苦労せずともあっさりとは復活しただろう。

彼女が死を選び覚悟し、そして受け入れたという言葉は事実だ。だからこそ、アーサーがあれこれ準備をしたところで、何もかもを揃えていても、は蘇らない。彼女自身が死の床から出ずにいる、それはこの男の存在があるからだ。

消滅したに意地というものがあるのなら、それは「サカズキがぼくの死を認め、そしてその眠りを守ろうとしてくれている。大将としての覚悟。それならぼくは、死を選んだ魔女として黙しているべきだ」と、そういうことだ。

「忘れないでください、私は貴方が大嫌いなのですよ」

はっきりとアーサーは宣言する。

赤犬が拒もうとなんだろうと、そんなことは関係ない。アーサー・バスカヴィルは貴族である。貴族の義務は土地を守ること。そしてアーサーにとって守るべき土地というのは、リリスの体である。インペルダウンに隠されてきた棺、その中にはリリスの体がある。そして水の都の市長が持つであろう箱、それが揃えばの意思に構わず強制的に「」を生み出すことが出来る。

再び現れる「」が、アーサーが出会ったとは別人であるとしても、それでもアーサーは構わなかった。

「あなたがどうであれ、私は必ずさんを取り戻します」

それがアーサー・バスカヴィルの義務であった。世に魔女は必要だ。

もちろんアーサーはを崇拝している。彼女こそが四候の貴族らの永遠の女王陛下である。しかし、女王というのは一つの象徴だ。アーサーはを愛している。だがそれは、の不在を許すということにはならない。

アーサーが自身の飼うバスカヴィル家の犬にリコリスの家族を襲わせて滅亡させた折り、がアーサーに言った言葉があった。

『ねぇ、アーサー。きみはぼくの協力者ではあっても、けして『味方』にはならないのだね。きみはいずれぼくの敵になるのだね』

彼女は聡明だった。リリスとしての記憶を失っていてなお、・コルヴィナスの存在を世界から隠し続け、そして、アーサー・バスカヴィルたち四候の貴族と、表面的には「崇拝者・崇拝される者」のようでありながら、心を許しはしなかった。

アーサー・バスカヴィル卿にとって最も重要なのは守るべき土地に値する「リリス」の体を守り、そしてその意識の集合体であるを存在させることである。それは義務だ。アーサーは貴族。貴族とは、やるべきことをやる生き物である。

魔女の戦争が勃発したのは、今更ながらに考えればがアーサーに対して牽制をしているとも取れよう。アーサーがいずれ悪の貴族の義務として「」を作り出そうとしている可能性を、彼女は気付いていたのではないか。

それでは魔女の戦争を起こした、とも受け取れる。

自身の司る薔薇の玉座を別の女に就かせることにより、の存在を完全に消滅させようと、そのようにしていた。

そう考えれば「赤犬が愛した女が次代の薔薇の魔女になる」という決まりも、なるほど、それはの苦肉の策かとも思えるのだ。

赤犬が、ではない別の女を愛した途端、はこの世への未練を消し去る。

「あなたがさんを愛している限り、私はあの方を取り戻すことができる。つまり、私を止めたければ、貴方はその心からさんを完全に消し去ればいい。別の女性、そうですね、それならリコリスを愛したらいかがです。その途端、私も貴方も、完全にさんを失うのです」

アーサーは押し黙る赤犬の瞳を真っ直ぐに見詰め言い放った。

「サカズキくん、貴方は選ぶことになるのですよ。彼女の死を尊重し彼女を忘れるか、それとも彼女への思いを守り、私に彼女を手に入れさせるか」
「……選択か。選ぶ道などとうに決めちょる」
「意地を張り、今を続けるとそのように?」
「あれを手にかけた時、わしはわし自身へと誓った」

静かに黙していた赤犬は、ここではじめて真顔に戻り、記憶をたどるように目を細め、そしてこめかみが痛むのか2,3度その場所を指で押し、そうしてはっきりと、夜の室内に通る声で言葉を続ける。

「わしは海兵として魔女を殺す。あれは魔女としてわしに殺される。わしが取るべき行動は常に、海兵としての正義に基づくものじゃァ。おどれがあれの死を侮辱し、リリスの躯を暴きたてるっちゅうのなら、悪意を世に放つ、おどれを殺す」

だんっと、赤犬の足がテーブルを焼きつぶし、伸ばされた腕がアーサーの首を掴みかけた。

「ヤー、ヤー、ヤー。ほらな?うちの言うたとおりよし。アーサーはん、魔女の遺言大事もぇえぉすけども、肩書の通用せん相手に面会なんてしちゃぁあきまへんえ?」

圧倒的な熱を帯びたサカズキの手がアーサー卿の細い首を掴み焼き切る、ということは起きなかった。ふわり、と薔薇の匂いがしたかと思えば、サカズキの首に細い剣先が突き付けられている。

「……おどれ」

ぎろり、と赤犬は突然現れた第三者。フェンシングの剣のように細い剣を握り、サカズキの首に突き付ける青年を睨みつけた。その剣が貫かれたところでサカズキの身には何の影響もない。だが素早さの証明としては十分だ。青年は派手な装飾のされた仮面で顔の半分を覆い隠している。露出された口元は愉快そうに笑みが浮かび、見えぬ顔の美しさを窺わせるすっきりとした顎があった。

誰だ、とはサカズキは問わなかった。

「拳、下ろしてくれますなァ?大将はん」
「コルテス・コルヴィナスか。マリージョアを離れたとは聞いちょらんが?」
「お忍びどすぇ。こうでもせぇへんと、ほら、お弔いをできへんやろ?」

軽薄というものをこの世からかき集めて人の形にするとすれば、それはこういうナリ形、こういう声をしているものだという見本のような言動。仮面から覗く赤を帯びた黒髪をゆっくりと指で梳きながら、歳若い四候の貴族、コルテス・コルヴィナスはサカズキから剣を離す。

どのような公式な場であってもけして仮面を外すことのない、それがコルヴィナス家の当主である。サカズキもこの男の素顔を見たことはない。しかし、いつもうすら笑いを浮かべた様子、その辺の王族以上に位の高いコルヴィナス卿を咎める者など誰もおらぬ。何より、世界貴族が「けして仮面を外してはならぬ」と命じているのだ。

「アーサーはんもな、そないに挑発的なこと言わはって、サカズキはんがキレんわけないやろうになぁ」

サカズキは相変わらずマグマ化を解かぬが、それでもコルヴィナス卿はくるり、と背を向けた。やや芝居ががった調子でサカズキとアーサー二人の間を行き来し、腰に手を当てる。

「これはゲームどっせ?アーサーはんは魔女を蘇らせる、サカズキはんはそれを許さない。他のプレイヤーたちは薔薇の玉座っちゅう一つのゴールを目指して行動する。せやろぉ?」

くるくるとめまぐるしくコルテス・コルヴィナスの指が動く。なんぞ軌道でも描かれるかといえばそういうこともなく、ただの手慰みとしての意味しかない。

「うちの可愛いリコリスは参加者やおへんよ。リコリスはラッキーアイテムや。道具に思惑があるっちゅうんもおもろい。アーサーはんに人身御供にされるか、それとも念願かなってサカズキはんに愛されるか。どちらでもえぇわな?サカズキはんは魔女復活を阻止するためにリコリスを愛するっちゅうなら、それも一つ」

ひとつ、と指を一つ折る仕草をして、コルヴィナスは首を傾げる。

「ゲーム中に、他のプレイヤーを攻撃なんていけずなことしちゃああきまへんよ?無粋や。男のすることやおへん」
「おどれのルールなんぞ知るか。そこを退け、コルテス・コルヴィナス。おどれがの縁者とて邪魔すりゃ容赦はせんぞ」
「うちが死んだらパンドラは死にますえ。殺したらあかん。必ず捕えなあかん、世界の敵。はっきりとした正義の裏の悪が消えたら困りますやろ」

にこりと、仮面の奥でコルテスがほほ笑んだ気配がした。サカズキは忌々しげに顔を顰める。この、人を食ったような発言、ころころと笑い声をにじませる声をする青年。彼こそが四候の貴族を総べ、そして現代に残る魔術師の末裔である。

元々パンドラ・は不老不死ではない。その命を長らえさせたからくりが、「続く血筋」である。パンドラの血を引くコルヴィナス家が滅びず代々続く限り、パンドラの命は続く。そういう仕掛けだ。

「魔女の諍いの審判がトカゲちゃんなら、男の意地の見届け人はうちや。サカズキはん、アーサーはん、それにどこぞの海賊に、臆病者の、各々好き勝手やったらえぇ。せやけど、互いへの暴力的干渉はうちが許しまへん」

はっきり宣言すると、不意にひょいっと、サカズキの胸ポケットからが飛び出した。サカズキが引き戻すより早く、猫のはコルテス・コルヴィナスの傍により小さく鳴く。

「ヤーヤー、かぁいらしい子やね。サカズキはんの飼い猫なん?」
「今夜保護したばかりだ。好き勝手についてきちょるけ、そいつは関係ねぇ」

触るな、と言えばコルテスは両手を上げて「いけず」と言うきりである。しかし言いつけどおり触る気はないらしい。子猫がまた鳴いた。

「ヤーヤーヤー、どうも、どうも。リリスはんの飼うてたいうシュレディンガーの猫に似とるね。あの子猫はバジル・ホーキンスの船で確認されたと聞いとりますけど」
「白い猫なんぞどこにでもおるじゃろ」

サカズキは鼻を鳴らす。トカゲもこの猫の存在を怪しみ、しかし結局は「ただの猫」とそのように判断を下している。

「ただの猫があんたはんみたいないかついおっさんに懐くなんてどない奇跡です?」

納得いかないとコルテスは妙に真面目くさった声で言い、そしてアーサー卿が重々しく頷いた。

「あ、痛っ、痛たたたたっ、痛っ、ちょ、なして?!」

サカズキに対して随分と失礼な言葉を言ったからだろうか。白猫は気に入らなさそうに喉を鳴らしてから、ばりっ、と小さな爪をコルテスのズボンにひっかけた。まだ暑い日が続くためか、上質とはいえコルテスも薄い布を使用したズボンだったらしい。ぷつりと爪が貫通し、じんわりと血が滲んできた。

「痛いっ、な、なにしはるん…!?この子猫、可愛ないわ……!」
「蹴り飛ばすな。子猫のすることじゃろう」

爪を立てたまましがみつく子猫を振り払おうとコルテスが足を動かす。しかし必死には放されぬようにしているためますます爪が食いこんだ。それでコルテスが実力行使に出ようとすると、サカズキがぱちん、と指を鳴らす。の小さな耳が動いた。

、こい。おどれが怪我をすりゃぁことじゃ」
「うちはえぇのんか!?サカズキはん、うちよりそっちの畜生か…!?」
「猫の爪くれぇで死ぬわけじゃあるまい。は蹴られりゃ死ぬかもしれんじゃろ」

サカズキが呼べばはコルテスの足の動きに合わせてくるりと宙返りをし、サカズキのもとへ着地する。それでサカズキが膝を曲げて手を伸ばせば、それが当然というようにとことこサカズキの胸ポケットに収まった。

小さく鳴く声は「サカズキいじめるな」とでも言うようである。

「うわー、かわいない子やわぁ。サカズキはんそっくりやし。なんやの、その猫」

引っ掻かれた場所を確認するようにコルテスは脛をまくり顔を顰める。血は滲んでいるがさほど深い傷でもない。それでもパンドラの命を繋ぐため普段からその身を守られ痛みには縁遠いコルテス・コルヴィナス、不機嫌そうに鼻を鳴らしてから話を戻す。

「ところでサカズキはん、インペルダウンの棺が開かれたことは聞いとりますか?」

リリスの眠るとされる棺である。もともとの話を辿ればその存在は昔からあったといってもおかしくない。リリスがパンドラを眠りに就かせ、そしてノアの体を得て「」となった、とその話。では、それ以前のリリスの体はどうなったのだと、そう疑問に思うものだ。

パンドラ=と信じられていた長年のため、その棺の存在を探る者はいなかった。だがしかし、存在するものは存在している。誰にも探されずとも、ひっそりひっそりと、「」の元となったリリスの体を納める棺は受け継がれてきた。

世界で最も安全な隠し場所と、そうされたのがインペルダウンの最下層。

「先の大戦の前、あの黒達磨、いえいえ、マーシャル・D・ティーチ、黒ひげという海賊が、パンドラ妃を伴い監獄を訪れた。それはもちろんご存じでしょうな」

これまで黙していたアーサー・バスカヴィルが口を開く。つぃっと、いつの間にか用意されていた資料をサカズキに差し出す。

それを受け取り目を落としながら、サカズキの眉が僅かに跳ねた。

「パンドラ妃と違い、さんが不死たる理由はリリスの棺が「未開封」であったから。先ほど話に出たシュレディンガーの猫の実験と同じと言えばわかりますか」
「わしはそちらに明るくはねぇが。あれの実験は知っちょる」
「では詳しい説明はいりませんね」

アーサーは簡単にかいつまんで説明をする。

シュレディンガーの猫。その実験方法は箱の中に猫を入れ、死ぬかもしれない状況を同封する。そうして箱を放置しておけば、次に箱を開くまで中の猫は死んでいるか生きているかわからない。

専門的な話や解釈もあるのだが、ここでアーサーやサカズキ、そしてコルテスが問題にしているのは、リリスの棺の役割とシュレディンガーの猫の「要素」である。

は、いや、夏の庭の番人は童話や寓話などの力を利用する。

彼女が「」を作り出すにあたり使用したのはこの「シュレディンガーの猫」の「要素」なのだ。

棺の中に眠るリリス。その棺が開けられて中を確認するまで、彼女は死んでいるのか、生きているのかそれは誰にもわからない。だからこそ、彼女の意識であるは海をさまよえる。その要素がの根底と言えよう。そこにパンドラへの意識の封印や、愛を知ることへの鍵などが付属されはしたが、しかし元々は「リリスの棺」こそがの命の保証であった。

アーサー・バスカヴィルはだからこそ、リリスの棺があれば再度「」を取り戻すことができると、そのように考えているのである。

「正直なところ、うちも棺の中がどうなってるのか知りまへんのや。代々コルヴィナス家に棺の存在は伝わっとりましたけど、棺は開けられないことが価値どす。まさか、パンドラ妃が開けてしまうなんて思っとりまへんよ」

ソファに身を沈めコルテスは困ったように肩をすくめた。サカズキが見る資料にはインペルダウンにて撮影された棺が映っている。

黒い棺だ。金の装飾がされ、そして周囲を茨で覆われている。棺の蓋が開いていた。

「…………これがインペルダウンにあるリリスの棺、か?」
「それが長年、そうと言われとりますわ」
「内密のことではありますが、調査員を派遣しました。間違いなく、500年前のものです」

棺の中は空だった。
何も入っていない。

その周囲に咲く白薔薇は確かにリリスの扱う夏の薔薇ではあるが、しかし、中には死体どころか髪の毛の一本たりともない。

サカズキは写真を凝視し、そしてばさり、とテーブルの上に落とした。

「わしも、そしておどれらもに謀られたな」

もしこの場にがいればにんまりと笑ったころだろう。

を存在させることを義務とする四候の貴族らは、もともと棺を開けることなどできない。開けた途端に、リリスの死体を見た途端、が消滅する恐れもあった。そうであれば彼らは棺を「本物か?」と確認することはできぬのだ。棺が「本物」である保証は、棺が存在することでが存在していることと、そう納得するしかなかった。

だが、棺は空なのだ。

これは500年かけたリリス、いや、の仕掛けである。

サカズキは喉の奥で笑い、そして膝の上で頬杖をついた。

「この棺を手に入れてもあれを蘇らせることはかなわんぜ。アーサー・バスカヴィル卿。こりゃ、偽物じゃ」

なぜ空なのか。死体はどこへ消えたのか、とそれを判断するより早い。コルテスはおそらくサカズキであればこの棺が本物か、あるいはリリスの体がどこへ消えたのか何か心当たりがあると思ったのだろうか。

だがしかし、そんなことを考えるより、答えは判り切っているではないか。

「元々、棺には鍵がいる。その鍵はパンドラの箱に納められちょる。そしてパンドラの箱を開くことができる鍵は、あれが常に首に付けちょったルビーじゃ」

いかにパンドラといえど、本物の棺を開けるわけがなかったのだ。はパンドラの箱の行方を知らなかった。そしてその首に付けられていたルビーの価値も知らなかった。もともとは夏の庭に落ちていたものをサカズキが拾い、そしての首に飾らせた。その鍵なくして開いた棺は、偽物だ。

サカズキは安心した。

がそこまで読んでいたとは思わないが、死を選んだあれの覚悟と経緯を理解する。すぐ簡単にあっさりと復活することのないように、あの手この手を事前に売っていたという確認ができた。

それなら己は、のその死を守るべきだろう。

世界の敵はパンドラがいる。詩篇の回収には詩人がいればいい。悪戯に、世に魔女を存在させる必要などどこにもないではないか。

ゆっくりと息を吐き、サカズキはソファを軋ませてコルテス・コルヴィナスを眺めた。悔しそうな様子でも見せれば面白いが、しかし、不意にコルテスは軽薄さを消し去った。

「それならえぇよ?うちかてその可能性は考えた。偽物なら、本物がどこかに安置されとるんなら、それで安心よし。せやけど、」
「なんじゃァ」
「この棺が本物で、リリスの体が入っていた可能性もありますやろ」
「鍵なくして開けられるわきゃ、」
「リリスなら。夜の女王の方のリリスなら、どないどす?」

めまぐるしく情報が飛び交う。サカズキは出された名にぴくり、と小指を動かした。

「先の大戦のおりに、カッサンドラの魔女、キキョウが死したっちゅう事実をうちは魔女の名簿で確認しとります。せやけど、おかしい。キキョウはあの戦争の後半、現れた赤髪に斬りかかった。そして、不死鳥マルコや他の海賊連中と共に去って行ったと、聞いとります」

数時間前、そういえばトカゲもそのようなことを言っていた。「あの時キキョウは死んでいる」と、そう言っていた。サカズキは聞き逃していたが、だが、死んだというのなら、あの時、赤髪が己の前に現れた時、見たキキョウは「何」なのだ?

サカズキはキキョウという魔女をよく知るわけではない。だが、あの時の態度は少し妙ではあった。魔女は男に頼らぬもの。それが、あからさまに泣き叫び、不死鳥に縋っていはしなかったか?

「あれが夜の女王、井戸の中でパンドラを唆したリリスとしたら、どないおす」

あの時、の意識は消えかけていた。いつ夜の女王・リリスに体を奪い取られたとしてもおかしくないと、当人がそのように語っていた。だからこそサカズキはの死体を焼きつくさなければならなかったのだ。

あの時、既にリリスは忍び寄っていたのなら?

元々体を持たぬ生き物だ。それが体を得る契約で夏の庭の番人リリスをこの世に生み出した。いずれ成長した夏の庭の番人リリスの体を貰うために、夜の女王は双子の関わる村々に疫病を蔓延させた。その騒動の結果双子の片割れであるリリスは魔女として捕えられたのだ。そのことをサカズキは考える。

キキョウの体は本来望んだ体ではないはずだ。一時の借り宿にはしても、満足できるものではない。

の死により、ノアの体が乗っ取られることはなくなった。せやけどかわりに、リリスの体が無防備になった。既にリリスの体を奪われているとしたら、なぁ、サカズキはん」

どないします、と、コルテスが問う。

なるほどこの青年はアーサー卿とは違うと、そこでサカズキは悟った。コルテス・コルヴィナスの目は貴族としての義務ゆえに「」を取り戻すということではない。この青年はまず第一に「夜の女王を勝たせない」ことである。

先代のコルヴィナス卿はアーサー卿の知己であったが、この青年は時代が異なるため思考も変わっているのだろう。

「殺せますか。この世の始まりの魔女を。あんたはんの愛したの本質ともいえるリリスを、あんたはんは殺せますか」

真っ直ぐに問うてくる青年。棺が本物か、偽物か。そして今何が起きているのか、そのことあれこれを考えなければならないことが多くある。けれども原点は何一つ変わらない。

「あれは死してリリスの存在を葬ると決め、わしもそうと選んだ。何べんでも同じことを繰り返す。わしは何度でも、目の前にあれがおりゃ、何一つ遺さず焼き尽くす」

もしもアーサー卿の思惑が成功し「」が再び世に現れたとしても、あるいはの意思を継ぐ薔薇の魔女が誕生したとしても、そしてリリスの体をのっとって夜の魔女が存在したとしても、サカズキのやるべきことは、何一つ変わらぬのだ。

何度でも、目の前に魔女がいればサカズキは躊躇わずに手にかける。

そして、サカズキは気付いた。小さく白猫が鳴く。ぴたりとサカズキが、自身の根底にある感情を自覚して体の動きを止めた途端、白猫が胸ポケットの中から顔を覗かせて小さく鳴いた。

(わしがあれの死を認めたのは、もう二度と、あれを殺めることがねぇようにと、そう、思うたからか)








+++








ぴちゃん、と水音には目を開いた。懐かしい臭いや音がする。目を開けば何か見えるかと思いきや、しかし、視界には何も入ってこなかった。完全なる暗闇なのだとすぐに理解し、そしてはこめかみに手をやった。

妙な吐き気と、それに頭痛がする。

あたりを見渡すが、やはり何も見えない。闇の中、ではなくて光がないからだと思った。闇というのは何もない。けれどここは「暗闇」だ。どこか、の場所である。

(ぼくは、)

は言葉を放そうとしたが声が出ない。いや、出そうという意識はあったが、声の出し方を忘れてしまっている。体は動くのだから脳は動いているのだ。

(ぼくは、なぜここにいる?)

己の名は覚えている。、そういう名前。昔はリリス、リリィ・シャーロック(リリシャーロ)など何度か名前を変えたことがあったが、今はとそう呼ばれてきたはずだ。

今?

今というのは、いつのことなのだ。

頭を押さえる。自分の名前、そしてどういう生き物かを覚えている。なぜ、ここにいるのだ。己の覚えている記憶で最も新しいものをは探った。

思い出そうと癖で髪を梳きながら違和感を覚える。自分の髪は短いはずだ。そうだ。戦争の途中、伸びた髪を肩まで切り落とした。それなのに、今はすぅっと長く梳けるのだ。

(ぼくは、どうしてここにいるんだろう)

体を動かせばぴちゃん、と水が跳ねた。

水?

そうだ。今、己は水の中にいる。と言って底は浅く、体を起こしたの臍までもない。両足を立て、膝を抱えるようにしては片腕を真横に伸ばした。すぐに指先が壁らしいものに当たる。

(……ここは、もしかして)

思い当たることがあり、反対の腕を伸ばした。やはり指先が当たった。が両手を広げてそれが半径という程度の、狭いスペース。足を延ばしきることもできない。

壁に触れればごつごつとした、石が積まれているのがわかる。長年水気を帯びていたからか苔の感触があった。が立ちあがり、そして周囲を手探りで触れてみれば、一か所に爪で引っ掻いたような跡があるのがわかった。

間違いない。

ここは、井戸の中だ。

そしてこの井戸は。

(ぼくと、姉さんが死んだ場所)

鬱蒼と生い茂る森の中にひっそりと存在した井戸。歌う骨が投げ込まれて井戸としては誰も使用しなくなったと、そういう話が残る、古びた井戸だ。

になるまえ。まだリリスと呼ばれるよりもっと前、己らを恐れた両親によって頭を打ちつけられそして投げ込まれた井戸である。

頭が痛むのはその所為か?

(でも、どうしてぼくはここにいるんだろう)

姉が夜の女王リリスに唆されて己の名を彼女から頂き「リリス」となってからは一度も近づいたことのない井戸である。

(そうだ。ぼくは、ぼくは、白ひげがエースくんを助けようとして、それで起こった戦争で。そうだ、ぼくは)

ぱしゃん、と井戸の水が跳ねる。は肩を押さえた。急激に記憶が呼び覚まされる。そうだ。己は、あの時にサカズキに頼んで燃やして貰った。もう二度と目を開けることがないように。もう二度とこの世に生まれてくることがないように、一切の容赦をせず燃やしてもらった。サカズキのことだ。ヘマをするわけがない。

それなのに、なぜ己はここにいる……!!

そんなことはあってはならないはずだ。己が死ねば、魔女の座に空席ができ、そして真っ先にトカゲがその有力候補として悪意の剣に襲われる。しかしトカゲの性格を考えれば彼女は拒絶するだろう。そして次に優勝候補となるのはピアだが、彼女はけしてそうはならない信頼がにはあった。ピアが魔女になったのはただの結果である。ピアの目的は魔女になることではなく、ボルサリーノを悪意から守ることだ。その彼女の目的を傷つけるようなことはしやしない。何より、ピアに悪意は似合わぬもの。

そうなれば魔女の戦争が起きるはず。サカズキが巻き込まれるだろう可能性もあった。だからこそ、はサカズキに申し訳ない気持ちで最後いっぱいになって、そして「ごめん」とそう言ってしまった。

あとに起きることに、己はなんの関わりもできないのに、サカズキにだけ面倒事を押しつけてしまうと、そう思った。

(なのに、どうしてぼくはここにいるんだ)

井戸の中。手の感覚もはっきりとある。己は死んだはずだ。ノアの体がなければ動けない。

いや、違う。

己にはノアの他に、体があったではないか。

「…………どういう、こと」

ぽつり、とやっと声が出る。は聴こえた声に愕然とした。ノアの体を使用した己の声、ではない。この声は、この、やや喉の奥で引っ掻いたような、掠れた声は。

はひょいっと腕を振った。ノアの時は右腕だったが、今度は左腕である。何も起こらぬことを期待した。だが、左腕が弧を描くと、の望んだものが落ちてくる。

「……鏡よ鏡、教えておくれ」

震える声で、は現れた鏡を両手で持つ。手鏡より随分と大きなおぼんと同じサイズの鏡だ。金の装飾、目の前のものをけして写さぬ鏡。持つ手が震えているのを自重しながら、は問いかけた。

ぽうっと、鏡が淡く発光する。目の前のものを正直に移す鏡ではない。しかし、はさらりと流れた己の髪の色を確認できたし、そして立ち上がった己の体の背も理解した。

「目の前に映る、この姿は誰のもの?」

鏡は言葉を話すわけではない。表面に赤の文字が現れる、それがこの鏡の言葉である。がごくりと息をのんで答えを待っていると、スラスラと文字が書かれていった。

『あなたのもの』

鏡はそう答える。

の手から鏡が滑り落ちた。





+++





どれくらいの時間が経っただろうか。は気付けば鏡を放り投げ、膝を抱えて蹲っていた。こんなこと、あってはならない。どうして己は再びリリスの体に戻っているのだ。

いや、考えれば一つの道理、ではあった。
元々ノアの体を借りたの意識はリリスの体から流れたもの。ノアの体でのチャンネルが消えれば、元のリリスに思考が戻るのも道理。

だが、それならなぜ己は「」のままなのだ。

腕を振って物を出す、というのは魔女の仕業。そしての技である。戦争時、はリリスの意識に引っ張られた。そして妙な意地を張ったが、まぁいろいろあって自分自身を「」とそう定めた。

そして己はとして死んだのだ。その死は絶対的なもの。もしリリスが目覚めることがあったとしても、それはとしてではなく夏の庭の番人たるリリスとしての目覚めであるはずだ。

それなのに、今己ははっきりと「」でいる。

「……サカズキ、そうだ。サカズキは…」

己がであるのは心にサカズキがいるからだと、そう確認してやや顔を赤らめてからは放り投げていた鏡を拾い上げる。

サカズキは、あの人はどうしているのだろう。戦争はどうなったのだ。いや、サカズキが負けるなどそんな展開はまずあり得ない。けれどルフィはどうなったのだろう。白ひげは死んだだろうが、そのほか、ピアやトカゲはどうなった。姉は、どうなったのだ。

それにサカズキは酷い怪我をしていた。白ひげに本気で攻撃されたのだ。己が死んでからどれくらい経っているのか、それをは恐れた。もしも100年、1000年が経っているとしたら、どうしよう。それこその時から己が恐れたことではないか。目覚めて、己の愛した者が誰もいない世界。その孤独を思い出す。(その恐怖心を持っているなど、やはり己はなのだ)

「鏡よ鏡、ぼくに見せておくれ。あの人は、サカズキは今何をしているの?」

童話の道具、白雪姫の魔女の鏡の使用方法はいくつかある。鏡自身に答えを問うには「教えておくれ」そしてはるか遠い場所を見るには「見せておくれ」とそう言えばいい。他にもあるのだが、まぁそれは今は関係ない。

これで墓場とか白骨死体が映し出されたらぼくは笑う、とそう思いつつはどきどきと鏡が映るのを待った。

先ほどとは違う色の光が輝き、そして何かが映し出される。

「……サカズキ」

見えたのは記憶にあるのと何もかわらずサカズキの姿である。包帯などを巻いている様子はない。怪我は治ったのか?それほど月日が経っているようにも見えなかった。相変わらず眉間に皺を寄せ、口元が顰められている。

はほっと安心し、顔が綻ぶのを感じた。サカズキは無事だ。生きているし、場所は海軍本部だろう。執務室の奥にある仮眠室にはも覚えがあった。胸をなでおろした次の瞬間、は顔を引き攣らせる。

「…………え、なぁにこれ、浮気?ねぇ、これ浮気なの?」

はい、ちょっとまってストップ。と、は鏡を振った。だがの意識なんぞお構いなしに鏡ははるか遠い場所で、おそらくはリアルタイムに起きているだろう事実を映してくれやがる。

「……ふ、ふふ、ふふふ……なぁに、この女…なぁに、この状況?」

落ちつけぼく、と言いながらの声が震える。

鏡の中では、赤毛の女性が一糸まとわぬあられもない姿でサカズキの体に跨っていた。とても残念なことにこの鏡は音声は拾ってくれない。そのため一体どういう状況なのか映像だけでしか判断はできないのだが、の目には、いかにもこれから恋人同士ではじめます、というようにしか見えない。

「…………おいこら鏡、今すぐこの映像消さないと、ぼくは割るよ」

すでにみしっ、と可能な限りの力を加えている。しかし魔女の脅しに屈するようなら真実の鏡なんぞやっていられない鏡は今度はアングルを変えて移しだしやがった。つまりは、先ほどは天井からの映像だったが、今度は二人に近づき、真横からのもの。サカズキの腹部にいい具合に女のふとももが当たっているのや、露わになった乳房がサカズキの胸板に押し付けられているのをはしっかりと確認してしまった。

べしんっ、とは鏡を壁に投げつけ、そのまま足で踏む。

「………サカズキの浮気者……!このぼくが死んですぐに他の女をベッドに連れ込むなんてどういう神経してるのさ!!!」

いや、実際どれくらい経っているのかはしらないが、あんまり外見も変わっていないようなので1,2年内ではあるのだろう。(実際一週間前後だが、が知れば「なお悪いよ!」というに違いない)

「べ、べつに、ぼくのことずっと思ってて欲しいわけじゃないよ…?!そりゃ、ちょっとくらいはいつまでもぼくのこと忘れないでいてほしいとか…そういうのもあったけど…でも、でもサカズキはかっこいいんだから、きっとすぐに恋人できちゃうんだろうなぁとか思ってたし…」

ぶつぶつと言っていると、鏡が文字で「うるさいバカッポー」とつっこんできたが、の視界には入っていない。

「そもそも!ぼくがこんな思いするのはぼくがなんでか生きてるからだよ!死んだままならこんなの見ることもなかったのに!」

ついには理不尽なことを叫び始め、はがんっ、と井戸の壁を蹴る。かつてはパンドラが頭を打ち付けたり爪で引っ掻いたりしてなんとか破壊しようとした井戸の壁。蹴り程度でどうにかなるわけもない。

「……それにしたって、ぼく、なんでここにいるのさ」

蹴って足が痛くなったのでは冷静になってみる。

己は死んだ。だが現在は元のリリスの体で、どういうわけかの意識として元に戻っている。サカズキは絶賛浮気ッ中。悪意の魔女が再び戻ることなんてあってはならないのだが、はその前に、はたして己は今「生きている」という状況なのだろうかと首を捻った。

森の中で落ち葉がひらひらと地面にたどりついたとして、それを誰も見ていなければ証明することができないし、そしてそれは現実、という確証にはならない。哲学的な話をすれば、目の前にコップがある、ということを現実にするのは自分が見ている他、誰かもう一人が「ここにこういうコップがある」と視認することが条件である。一人だけでは妄想・幻覚。しかし誰か別の人間が、第一の人間と同じ状況を認めることで、それは初めて現実になる。

それであれば、今現在己が「いる」という状況は、あやふやなものなのだ。

ついっと、は頭上を見上げた。月の明かりさえ届かない深い深い井戸の中。ここに永遠にいることになるのかもしれない。それは、確かに死には近かった。この井戸は誰も近づかない場所だ。己はここで朽ち果てる。それもいい。

己が薔薇の魔女となったのなら各地で起きる魔女の戦争も強制的に幕引きとなろう。巻き込んだ女たちには悪い、とは思うが、何が起きるのかわからないのが人生だと諦めてもらうほかない。基本、は他人がどうなろうと関係ないのだ。

「……いや、違う」

おかしい、とは再度顔を顰める。

この身は本来の己のもの。だが、今は「薔薇の魔女」「薔薇の玉座」の主ではないと気付いた。そういう気配がしない。己は今現在ただの「夏の庭の番人」であり「剣の帝」である。

魔女の素質「」としての領分はある。だが、この状態はまるで。

「……まるでぼくも魔女の戦争の参加者のようじゃあないか」

確かに、もともと己であるから薔薇の魔女、というわけではない。勝ち取ったものだ。だから、死したから、その資格が奪われ、欲しければ再度勝ち取れと、そういう状況になっているのか?

「……………」

はうつむき、そして手を握りしめた。

魔女の戦争を止めるには、誰かが薔薇の魔女になるしかない。そのためには己はこの井戸から出て、そして魔女の戦いに身を投じる。今度は己を守る「世界の敵」としてのオプションはない。その上「夏の庭の番人」としての知識と力、それに剣の帝としての剣の腕しかない。魔女として十分な力は、ない。いかに前回の勝者と言えど、魔女の争いを勝ち上がれる保証はなく、そして何より。

「………また、サカズキに殺される」

きっと、サカズキは怒るだろう。
なぜ死したままでいなかったのかと。見苦しく生き返ったのか、と、そう怒る。お前の覚悟はその程度だったのかと、そう失望されることをは恐れた。

何度だって、サカズキは海兵として己を殺してくれる。

「………また、あんな思い、するのはヤだなぁ」

最後の時を覚えている。覚悟はあった。これしかないのだと、わかってもいた。けれど悔しかった。本当は、死にたくなどなかった。いつまでも変わらず、サカズキの隣にいたかった。けれどそれはできないと、覚悟して諦めて、そして死を選んだ。

あの時サカズキは、己の選んだ答えを受け入れてくれた。それは幸福なことだった。だが己はこうして、元に戻ってしまっている。サカズキは失望するだろう。ならあの悲しみはなんだったのか、と、そう、失望するに違いない。

は唇を噛む。

己でなくても構わないではないか。魔女の戦争。誰かが勝つ。そして、悪意の魔女となって、その役目を果たすだろう。己があえてそうならずとも、誰かがやってくれる。己はここで、「死んだ」ことにして、サカズキの心に生き続ける。

そういう結果だって、いいじゃないか。

ぎゅっとは蹲り、首を振った。

「……とか、さ。いいわけないよね!」

顔を上げ、そして水で顔を洗う。ぽつりぽつりとこぼれていた涙を合わせて洗い落し、ぐいっと腕で拭った。

「姉さんのことだってまだ残ってる。それにぼくはピアくんに魔女を救う王子さまになるってそう、約束したじゃァないか!死んだらそれまで、でもぼくはどういうわけか今いるんだから、それならぼくは、ぼくは、ぼくとしてあるべきだ!」

己の体でとして意識が戻った、その理由の見当がないわけでもない。リリスの体の防衛本能。夜の女王に体を乗っ取られぬためのもの。あちらのリリスと戦うには、そもそも夏の庭の番人としてのリリスだけではまず力不足だ。あのリリスは、いずれ夜の女王に体を渡すことを誓わされている。けれどもであれば「寝言は寝ておいいよ」とそう跳ねのけて争うだけの強さがあった。それであるからリリスは、もしやあえてとして戻ったのだろうか。

「とにかくこの井戸からでないとね。でも、どうすればいいのかな。ぼく、デッキブラシは使えないしねぇ」

登るのか、と嫌そうに顔を顰める。まぁ、普通に考えて無理だろう。この井戸は凹凸が極端に少ないし、リリスの体は長年使用していなかっただけあって筋力が極端に低下している。今は半分夢の中の状態に近いためきちんと動いていられているが「外」「現実」に出た途端、この体の死体としての強さが表に出ることは明らかだった。

「こんなところに都合よく人が通るわけもないし?どうしよう」

困りつつ、髪が長ければラプンツェル、って、降りるのは出来ても登るの無理だよね、とそんなことを口で呟く。

そうしていると、はらり、との顔の前に何がが垂れ下がってきた。

「…………なぁに、これ」

ぼうっと鏡の明るさで照らしてみれば、の頭上から縄が垂れ下がってきているではないか。は途端に真面目な顔をして頭上を見上げる。もちろん入口さえ視界に入ってこぬほど深い穴。何か見えるわけもない。だがロープは本物だ。ぐいっとは引っ張る。すると、ぐいぐいっと、反応があった。

「………さて、どういうことかな?これは」

その縄には意図的なものを感じた。何者かが垂れ下げている。偶然井戸を見つけて水にありつけぬかとロープをたらし深さを調べて次にバケツを送り込む、ということではない。確実に、下に誰かがいるとわかっていて、そして、垂らした。その縄を掴んだことで「登ってこい」あるいは「掴まれ」というようにぐいぐいっと反応したのだ。

蜘蛛の糸という話なら知っているが、縄というのは覚えがない。縄、藁で編んだ縄だ。は目を細めて縄を凝視する。

何者の仕業なのか、それを考えるよりも今この縄を掴まなければ出る手段がないのが現状。

ぐっと、は縄を掴んだ。そしてこちらが体重をかけたことで縄の先にも力が込められる。外の世界と繋がった。その途端、はリリスの体の「現状」を自覚させられた。

「………腐ってるんだね」

ぼろっ、と、掴んだ腕がもげかける。咄嗟にぐるっと縄を腕に巻きつけた。縄は腐った体に食い込みえぐったが、骨で何とかとどまった。掴まずともこれならいけるか、と痛みはあるが、としては堪えられぬものではない。歯を食いしばり、腐って崩れかけた足、太ももに縄を巻きつける。

ぐいぐいっと、ゆっくりとロープが上に上がって行った。

本当なら、自力で這い上がるべきなのだ。

井戸の中は産道に似ている。

己はこうして生まれてくる。井戸という子宮を通り、外に出る。そのためには自身の力で登り外に出なければならないのだ。赤ん坊は必ずそうして外に出て産まれている。けれど今の己にはその力がない。だから、誰かに助けられている。

はその自覚があった。そしてその助けてくれた者が己にとって「恩人」となる。

さて、一体井戸の外には誰がいるのか。は段々と上がって行き、そして光の見えてきた頃、眩しさに目を細めた。月明かり、真夜中のことと思っていたが、どやら外の世界は真昼のようではないか。

ズル、ズルズルッ、と縄を引き上げる音がする。いくら軽い体であるとはいえ、深い穴から己をここまで引っ張り上げるなど大したものだ。そんなことを感じつつ、の体は井戸から這い出、そして、縄を掴んだ男と目が合った。

びっくり、とはその青い目を見開く。

てっきり、そこにいるのはアーサー・バスカヴィルか、あるいはコルテス・コルヴィナス。意表をついてのダメ息子のかと思ったが、この展開は予想していなかった。

驚くをちらり、と見てから、その人物はぐいっとの体に手をかけて完全に井戸の中から救い出す。ところどころが酸素と日光により腐敗を進め、ぼろぼろと崩れていく体に感情の伺えぬ顔を向けてから、おそらくは用意していただろう布で日光から遮るように隠す。ここでは自分が素っ裸であることに気付いたのだが、どうもこの男相手に羞恥心というものは湧きあがらない。

「思ったより、腐食が進んでいない」

押し黙り続けるのもどうかと思ったのか、黙々との体に包帯を巻き始める男がぽつり、と呟いた。それは褒め言葉なのかとどうも頷きにくいもので、は曖昧に苦笑いをして、そしてきょろきょろとあたりを見渡した。

やはり、ここは森の中だ。鬱蒼と、木々が生い茂っている。周囲には男の仲間と思われる黒いマント姿が多く見られ、この井戸の周りでキャンプを開いているようだった。男がもくもくとの相手をしているのを遠巻きに眺めつつ、「よかったですね!船長!」などと言っているのが、どうも、妙ではないか。

は小首を傾げ、そして真っ直ぐに目の前の男を見上げた。こうして己に向かい合い膝をついて居るのに視線は随分上になる。背の高い、けれどサカズキとは違う体格だ。細いわけではないけれどひょろっと長い、という表現が似合う。その藁ににた髪をなんとなしに掴んでみて、は口を開いた。

「どうして、きみが登場するの?バジル・ホーキンス」





Fin





(2010/11/08 AM2:13)


幽霊騒動、まさかここで終了、というところで終了です。
長々とした話にここまでお付き合い頂き…!!本当、ありがとうございました!これ合計3万字なんだぜ!ないわこれ!とか、途中で疲れて読むの諦めた方とかね!絶対いるよこれ!!

話と本編の展開の都合上、本当はもっと後の方でやるはずだったさん再登場をここでごり押しで突っ込みました…(遠い目)え、これ魔女の不在編なんだけど、その魔女ってさんじゃねぇのかよ、とか、結局幽霊騒動の幽霊って出オチ?とか、まぁ思わなくはないんですけどね…。

……考えてたこと全部書いたらこの倍以上にはなるんだぜ☆

さて、それでは、次回は「夜のサーカス」編にてお会いしましょう


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