ある日の海軍中将の執務室
「咎打ちって、知っているかい?」
真っ赤なビロードの上に腰かけて機嫌よく先ほどまでは童話の絵本を開いていた、はずのの唐突な言葉。書類をしたためた手は止めずにサカズキはちらり、と一瞬目を向けてそのまま窓から差し込む光に照らされきらきらと明るい色を放つの髪、影になった青い目を眺めた。相変わらず人を、世界を小バカにしたような小さな笑みを口元に湛えている。こういう目をしているときはロクなことを言わぬということをサカズキはこの数年で知っている。が、が、サカズキには知らぬ情報を話そうとしているのなら、押しとどめるべきではない。歴史の本文は読めぬが、それでも世界のありとあらゆる謎を承知の。ふとした言動から、あっさりと大海賊時代を終わらせる手段を語らぬとも限らぬ。そういうところがにはあった。魔女の悪意は他人への、世界への無関心。何が重要で何が不要か承知しているのに、それでも、気まぐれに吐く言葉がどのような破滅を導くのか、興味はないのだ。己が大量の知識を構えていて(そして今はその殆どがサカズキの冬薔薇の刻印によって制限されているが)自らそれでどうこうしようとはせぬ。それが魔女というものだ。しかし、だからこそに魔女は危険、とされる。たとえば、今このサカズキのように、その魔女の知識を「真実」と知る者がいて、が戯れに口にした、今の世界の技術では「魔法」にしか聞こえぬことを実践すれば、それは、世をとどろかせることとなる。だからこそに、魔女なのだ。魔が刺したという言葉にかかる、女の生き物。
サカズキが仕事の手を止めぬことに気分を害することもなく、はひょいっと、本をソファの前のテーブルに置いてごろり、と寝転がる。真赤なソファにちらばる赤い髪は、布の赤などよりもよほど赤いもの。これが魔女の庭で最初に流された血の色なのだと思えば、美しい鮮やかさというより、禍々しさ、人の罪の深さを悔いるべきだ。
「罪人の頭の中にね、小さな杭を打つんだよ。まぁ、杭というよりは針に近いね。うちつけて、縛るんだ」
「薔薇の刻印の話か」
原理は違うが、似たようなものだ。の首に刻んだ刻印が、その蔦を体内に巡らせ、髪ほどに細いその蔦が神経を蝕み、脳の思考・記憶を司る部分を制御する。薔薇の刻印に魔女への思いやりなどなく、無遠慮にただ神経や体内を侵す。常人であれば耐えられぬ激痛、意識を失い、それだけでショック死するだろうものも魔女であれば死ぬことはない。
昨今世界政府ではその激痛を取り除く手段はないものかと研究されているらしいが、サカズキからすれば、罪人にそのような同情は失笑ものだった。あどけない少女の外見をしていて、この生き物の禍々しいこと。してきたことを承知すれば、永遠に海底に沈めて千の剣で苛まれるべきだとさえ思っている。
その刻印、その副作用の話。そういえばが口にするのは初めてだったが、しかし、正統ではないとはいえ、仮にも使い手たるサカズキにわざわざ話すようなことでもない。それでフンと鼻を鳴らせばソファの上のが目を細めた。
「わかりきっていることを、サカズキ中将にわざわざ言うほどこのぼくは愚かではないよ」
「ならば黙っていろ。仕事の邪魔だ。針で口を縫われたいのか」
「薔薇の応用のようなものさ」
ぴたり、とサカズキは投げつけようと手に取ったインク瓶、持つ指を小さく動かした。
「進んだ医療技術があれば可能だよ。この薔薇と違ってね。対価はいらないし、頭に小さな火薬を仕込めば、謀反・あるいはそれに近しい思考をした瞬間に命を奪える。思考の制御もできるから、従順な正義の死者を作るいい手段だと思うねぇ」
は、発言こそすることはないが海軍本部、あるいは政府の会議への出席を義務付けられている。椅子が用意されていても地べたに座り持ってきた積み木や、あるいは折り紙での児戯に耽るため図上で飛び交う、世界の動向や決定事項など聞いていないように思われた。
だが、わかり辛い魔女の言動を、よくよく理解してみれば不思議なことなど何一つもない。複雑に絡み合う、一見なんのかかわり合いもなさそうな、ただ思いついたままに言われるようなその言葉も、記憶確かに繋ぎ合わせれば、どうなるか。
「紙に書けるか?」
「サカズキ中将がそうした方がいいと言うならね」
すっと立ち上がったサカズキを、が上半身を起こして見上げる。その青い目にはどこまでも幼い少女のあどけなさ。サカズキがきつく睨みつけても、やわらかく瞳を揺らすのみで、さしあたっての感情も見当たらぬ。
(よくも、白々しく言うものだ)
先日の会議での議題。再犯防止のために何か効率の良いものはないかと、そういうことだ。金はいくらかかっても構わぬ。インペルダウンの終身刑ではないものは、再び世に放たれる。世に悪をひとつでも減らすために、海賊は問答無用で縛り首だが、しかし、悪は海賊だけではない。そして一度悪、あるいは悪事に手を染めたものは、その可能性を知ってしまった以上、容易には、「一般」に戻れぬものだ。たとえば、死ぬほどにひもじい思いをするものがいたとて、一般であれば働く、あるいは人の手を借りる、という集団しか浮かばぬものだ。理性があり、自尊心があれば、必ずそのどちらか、あるいは法の内の手段を取る。だが、一度でも「盗む」「殺して奪う」という選択肢に気づき、そして実行してしまったものは、同じ状況に陥った時に、再度その選択肢が頭に浮かぶものだ。良い例でいえば、さまざまな経験をすることにより、自身の選択肢、引き出しを増やす、ということと同じだが、物事は何でも表裏一体。良い例もあれば悪い例もあるもの。
それで、どのような手段を取れば悪の再びの発芽を防止することができるかと、そういう議題が上がっていた。悪の芽が咲いてからでは遅いのだ。可能性は根絶やしに、というのがサカズキの持論で、そして海軍本部、世界政府の上層部のほとんどの主義でもあるのだが、ほんの数人、いや、性格には3人が、その、絶対的正義に疑問を投げつけている。
(アーサー・ヴァスカビル卿。ジョージ・ペンウッド退役大将。コルデ・ハンス司政官)
鬱陶しいほどに名門の血と、勲章に塗れた3人組は「罪人の扱い」についてサカズキやセンゴクと真っ向から敵対していた。センゴクとそう変わらぬ年齢でありながら、3人はそれぞれ世界政府の重鎮、海軍の重鎮、法の重鎮という厄介ぶりだ。その思想や、あるいは影響力の危険性に、政府関係者に内々に暗殺されかけたことが何度もあるらしいが、未だに3人とも、腹立たしいことにご健勝である。彼らが本気で「罪人の再犯防止」を唱えているわけではないのは、サカズキの目には明らかだった。あの3人の名家の当主、CP9に調べさせてもボロは出さなかったが、しかし、の知人なのだ。サカズキが生まれるよりも前に、あの3人と、そして先日戦死した1人と、は何らかの交友を持ったことがあったらしい。
「10分以内に仕上がるか」
「ある程度書いたら、あとは研究者にぼくから直接話せば、先日きたあの坊やの頭脳なら変わるんじゃあないかな」
「ベガパンクか」
「そう、そんな名前だったかな?なんでもいいけど、あの坊やは面白いね」
「だがまだ民間人だ」
「ふ、ふふふ。あの坊やは逃れられやしないさ。どのちみに、いつにかは海軍のものだろうよ」
言ってひょいっと、が指を振る。手品程度の魔法ならば未だ使うことに不便はないらしい。それで白い紙とペンを取り出してさらさらと何かを書いていく。サカズキはあいにくと高度な科学を理解するほど知識に富んでいるわけではない。冬薔薇を扱ってはいるし、その仕組みを理解もしているが、しかし、それは“あの男”がサカズキにも理解できるように教えたからだ。
さらさらと書きこんでいくを眺めながら、サカズキはふむ、と机の縁に腰かけて口元を覆う。
が本気になって、あの3人に自分の身の保護を頼めば、サカズキといえど拒めぬだろうし、地位はあの3人の方が上だ。が頼まずとも、3人が手を伸ばせばどうにでもなる。薔薇の刻印はサカズキにしか扱えぬが、しかしそれでも、傍に置いていなければならぬわけでもない。
今、は会議の議題をひとつ終わらせる材料をサカズキに見せてきたが、しかし、それにしても、あの3人の望む結末ではない。あの3人は、サカズキがに対して行う制裁(ただの暴力)を止めろと暗に言っているに過ぎず、が提案した手段で本当に罪人をどうこうしよう、というわけではないのだ。
だが、のこの手段があれば、議題は解決とされ、もうあの3人は罪人についての扱い、という名で吠えることはできなくなる。冬薔薇の応用をした手段で罪人が押さえつけられる、その技術が確立すれば、第一の被験者、オリジナルである薔薇を施されたは、その道理の中に含まれなければならぬからだ。
誰からも守られることを拒絶する。この生き物は、その結果がわかっているのだろうか。
「、」
「ちょいとごめんよー。よォ、サカズキ。も、今日は随分可愛い格好してるねぇ」
「クザン」
「やぁ、クザン中将」
何か言いかけて、サカズキの言葉は突然ひょいっと顔を覗かせたクザンに遮られた。入口、ではない。窓の外だ。サカズキの執務室は一階にある。そこから、サカズキよりも頭二つはでかい、やる気のなさが全面に出ている男が身を乗り出していた。
「邪魔だ。帰れ」
「まだ要件言ってないでしょーに。ところでなんでそんなに可愛いカッコしてんの?」
ひょいっと、勝手に入ってきてクザンがの体を持ち上げる。書き物をしていたはきょとん、と眼を丸くしてからクザンと、そしてサカズキを交互に眺めたのちに、ひとつ小さなため息。霜の降り切った目をクザンに向けて、気だるげに口を開いた。
「このぼくに、気安く触るんじゃあないよ。たかだか中将風情が」
「サカズキだって中将じゃん。それにちゃん、この前センゴクさんにもそんなこと言ってなかった?大将もダメなの?」
「サカズキ中将はぼくの主人。大将だろうが元帥だろうが、ただの人がこのぼくに触るんじゃあないよ」
「えー、でもちゃんかーいーしー」
「気色の悪い声を出すな、クザン。貴様は若い娘か何かか」
の髪を引っ張ってそのまま力のみで引き離すと、頭皮が軽くはがれるようないびつな音がした。慌ててクザンがぱっと手を放す。落下、であればクザンの意図通りソファにうまく落ちただろうが、サカズキは容赦せず、の髪を掴んだまま、壁に投げつけた。小さく呻き、壁にひびが入る。背から血が流れたが、今更構うようなことでもない。
「……ひどくね?ちゃん、何したよ?」
「センゴク大将を誹った」
「はっきりと、じゃねぇだろ」
「クザン、これについての扱いは、私に一任されているはずだが」
「目の前でかわいい女の子が怖いおにーさんに酷いことされてんの、見過ごせってか?」
「とうに100を越える老婆に何をいうか」
ふん、と鼻を鳴らしてサカズキはの頭を踏みつける。頭蓋を砕いてやりたいが、まだ先ほどの件、紙に書き終えていないだろう。クザンがぽりぽり、と頭をかいてソファにくつろいだ。人の執務室だが、この男に遠慮を求めるだけ無駄である。気の毒だ、なんだといいながら、しかし実際は言葉のみの避難でサカズキからを庇おう、とはせぬ。それがクザンの、中将まで上り詰めたところだ。
「で、なんだって、そんなカッコしてんの?この前あった時はいつものぐるぐる魔女ルックだったのに」
「見苦しい者を傍に置く趣味はない」
え、とクザンが一瞬間の抜けた声を出した。それに気づいたがサカズキはあえて自分から言うようなことでもないと黙り、机に戻る。それで、の体がシュウシュウと回復する音だけが響いて数秒。ぽつり、とクザンが口を開いた。何か恐ろしいものでも聞くような、おっかなびっくり、である。
「……お前の趣味なの?あのカッコ」
「私が変態か何かのような聞き方はわざとか?」
「いや、だって、ねぇ?」
クザンが視線を向ければ、きょとん、ともう復活したが壁に背をつけて座り込んでいる。まっ白い透通るような肌、やわらかなふと腿を覆う腿までの黒いストッキングに、レースのあしらわれた短めのスカート。襟首から袖まで手の込んだ、上等の衣服、かわいらしい、の言葉では聊か物足りぬよう。
の服装は、いつも老婆だってもう少しはマシな格好をする、というような地味な色合い、やぼったい厚手のショールだ。重くないのだろうかと時々疑問に思っていた。クザンから見れば、ずるずると、ぼろ布の塊が移動しているようにしか見えなかった。だから今日は、珍しく(外見の)歳相応の格好をしているなぁ、とほほえましく思ったもの。
てっきりの趣味だろうと思ったが、え、なんだこれ、ギャグ?と疑いたい。
「罪人風情に海兵の格好をさせるわけもあるまい」
「いや、別に雑用とかのTシャツ着せろってわけじゃないって。うん?いや、でもそれもかわいいかもねぇ。、ちょっとあとで俺の部屋に来てちょうだいよ」
「貴様、何をするつもりだ」
「え、普通にお着替え?」
「貴様があれにどんな下心を持っていようと構わんが、同僚のよしみで忠告はしてやる。男でいたいのなら止めておけ」
というか、こんな魔女に欲情するんじゃない、と呆れた声。クザンは興味を持った目でを見たが、対するはキョトン、と眼を丸くしているだけで別に、何か言うつもりはないようだったが、サカズキに水を向けられてゆっくり口を開く。
「力はほとんど使えないけどね、気に入らぬ男に体を許すほど弱ってはいないんだよ」
「えーっと、つまり?サカズキがおれをどうこうするんじゃなくって、ちゃんがおれをどうこうしちゃうってこと?」
「のみ込みの早い子は好きさ」
「え、おれ去勢されんの?」
「身の程知らずなことをしようとしたらね」
小さな無邪気な笑い声。そして真っ赤な靴をカツン、と鳴らして指を振る。先ほどまで持っていた紙が手の中に戻り、一読してからはそれをサカズキに差し出した。
「理論はこれだよ」
「そうか」
「あ、そうそう。そうだった、サカズキ、、ここにきた要件忘れるとこだったじゃねぇか」
短く話すとサカズキを完全に自分ペースに持ち込もうと、いや、無自覚なのかもしれないがクザンがのんびりと言いだして自分の入ってきた窓の外にひょいっと消えた。
「、鍵を閉めろ」
「うん」
すかさずサカズキが短く命じれば、はがっちゃんと容赦なく鍵をしめ、とどめとばかりに軽く指を振って溶接さえした。
「やっと静かに仕事ができる」
「いやぁー、すっかり忘れてた。これこれ、貰ったからおすそわけしようと。何?」
ぽん、とそれぞれいつもの場所に落ち着いて、これでサカズキ中将のいつもの執務室、となるところだったはずだ。それなのに、今度はきちんと扉からバタン、とあけてやってきたクザン。手に籠を持って堂々とやってきた。
思わず嫌な顔をした二人を不思議そうに眺める。
「あれ、ひょっとしてサカズキもも桃嫌い?」
「貴様が嫌いだ」
「ぼく味覚ない」
だから帰れ、と二人の目は一致していた。さすがに二人にこうも拒絶されるとクザンとしてもちょっとは凹むのだが、まぁクザンの頭の中ではサカズキ=ツン9割デレ1割、=ツン8割デレ2割、と決まり切っている。さして長くは落ち込まずに、作りは同じ中将の執務室。隣に簡易キッチンがあるのも承知で、ひょいひょいっと、一緒に持ってきたナイフで桃の皮をむいていく。
「まぁ、待ってろって。今剥いてやるから」
「サカズキ中将、あの前向きすぎる鬱陶しい阿呆、海に沈めていいかい」
「あれでも中将だ、失うのは惜しいが……構わん」
「はいはい二人とも、すぐ剥き終わるから慌てないでって。しかも俺の能力フル活用でちょっと凍らせたからシャリシャリしてて美味いよー」
にこにこと機嫌よく剥いていく。そしてそのまま皿2つに分けて二人に差し出すのだが、双方、凍らせた桃以上に冷たい目でクザンを見つめつのみである。
「いらん」
「おいしいって、マジで」
「いいから帰れ」
全くにべもない。まぁクザンもサカズキに歓迎されるという期待はしていなかった。それで、二皿の内の一つをひょいっと取って、長身を伸ばし「じゃあ帰る」とあっさりと言った。
それで本当に素直に出ていくその背をサカズキが不思議そうに、だが清々した様子え眺めていると、扉の下で一度クザンが肩越しに振り返った。
「ちゃん、桃好きデショ?」
短くいい、そのまま今度は振り返ることもなく出ていく。パタンと両開きの扉が閉じた後、サカズキは眉間に深い皺を寄せた。何をバカなことを。に味覚はない。生前の記憶として林檎を好んではいるが、味がわかっているわけではないのだ。
机の上の桃の皿を一瞥し、仕事に戻ろうとするサカズキに、が顔を向けていることに気づいた。
「なんだ」
「別に」
「言いたいことがあるなら言え」
「ぼくが何を言いたいかくらい気付いているだろうにねぇ。―――君は、朝も昼も食べてないから、それくらい食べればどうだい?」
ピクリ、とサカズキの眉が動いた。不機嫌になったことをこれでは悟るはずだが、目を細めただけで、そのままひょいっと指を振る。するとポットとティカップが一揃い現れた。もう一度が指を振れば、片手、膝上では本を開いたまま、こぽこぽと湯気の立つ香りの高い紅茶が注がれていく。それがほどよくなったところで、サカズキの机の上に置かれた。
「なんのマネだ」
「毒でも入れて欲しかったかい」
ガッシャンと、カップが床に叩きつけられた。割れて中身の零れる無残な姿、眺めることもなく仕事に戻るサカズキに、溜息すら吐くことなくは指を振って破片をしまう。カチャカチャとガラスの重なりあう音がわずかにしたあと、ぽつり、とが口を開いた。
「午後から、研究者に呼ばれてる。行ってくるけど、構わないね」
「元帥からの要望であれば致し方あるまい。せいぜい、良い実験鼠になってこい」
ぱさり、と音がしたので反射的に顔を上げれば、衣服を脱いだがそこにいた。クザンや他のバカではないのでそれで何か思うこともサカズキにはないが、唐突な行動に顔をしかめはする。すると、が腕を振って、いつもの野暮ったくてしょうがない例のショールや地味な服を出して着替えていく。
「誰が着替えていいと許可した?」
「あそこに行ったら、服が汚れるし、切られる」
「構うのか」
「少しね」
言って、が背を向けた。その白い背に刻まれた無数の傷を見てチッと舌を打つ。は意図して見せたわけではない。もう何の意味なのかも、覚えていないのだ。それだけだが、サカズキはどうしようもなく苛立って、ガタンと椅子を蹴る。
「なんだい?……んぅっ」
「黙って口を開け。胃に何も入れていかんよりはマシだろう」
別段やましいことをしているわけではない。ただ、クザンの置いて行った皿の桃を、乱暴にその口に押し込んだ。小さくカットされた、凍らされた桃はの口に入り、しゃりっと小さな音を立てる。白いのどが飲み干したのを確認して、サカズキはふたつ目の欠片を押し込んだ。
「ちょ、待ってよ。サカズキが、食べなきゃクザンくんが持ってきた意味…ないよ」
呼吸を乱されて軽く息をつきながら、が頭を振る。先ほど見せていた態度や言動とはやや変わっている。サカズキが近付く、ということはこういうことだ。まるで、生娘のような反応。幼い少女のもの。の傲慢な性質や、口調が薔薇の戒めによって制限される。クザンなどはこのの豹変っぷりを見て、「サカズキは懐かれてるんだ」と羨ましそうに言ってくるが、そうではない。そういう、ものなのだ。完璧ではなかった冬の薔薇の刻印も、やがてゆっくりと時間をかければ、常時からこのような態度になる。
先ほどまでの勝気で傲慢な目が、今は熱に浮かされたように揺れている。脳がしびれている所為だと冷静にサカズキは判じて、三つ目を口の中にねじ入れた。の眉が苦しそうに寄る。の体、味覚がない、というよりは、何を口にしても、砂を噛むようにしか感じられない、鉛を飲み込むようにしか感じられない、それはすべて苦しみでしかない、と言った方が正しい。けほっ、と苦いものを飲み込まされたあとのように咽せ、俯く。その顎を掴んで上を向かせ、サカズキはの青い目に映る自分の姿を確認した。
「気が変わった」
「なぁに?」
「今日は私も付き添う」
の目に困惑の色が浮かんだ。魔女の体は科学者たちの良い教本だ。切り刻み、様々な薬やすべを試す。死なぬ体は、よい開発の役に立った。たとえば、先日発表された、長い間グランドラインのある島を騒がせていた疫病の特効薬はが同じ疫病にかかることで、ありとあらゆる研究がされ、できたものだ。何もかもがさまざまなものの犠牲、あるいは経験の上に成り立っている。を使わずともいずれは出るだろう結果だが、しかし、を使えば早く、人が失うものも少なく済む。
「あまり、見ていて気分のいいものじゃあないよ」
「罪人の責め苦を眺めたところで、何か思うことなどあるものか」
何度かは見たことがあった。あれなら、インペルダウンの拷問の方がマシだとクザンが言っていた言葉を思い出すが、その通りだ。不死の魔女であるからこそ、耐えられる、いや、耐えられはせぬが死ぬはせぬ、というだけの、行い。心の強い海兵でも、その光景を見て嘔吐したという。
「私が貴様に同情などすると思うのか」
「唯一にして絶対、この僕を許さず、恐れず、ただ憎み敵対し続ける、その覚悟が君の支払った薔薇の刻印への供物の一部。そんな優しさは悪夢のようだよ」
ふと、の目が赤々しく燃えた。魔女の目。世の破滅よりも己の身の破滅を願う、その歪んだ眼。一人黙って首でも吊ればいいものを、そういうことができぬのだ。だから、世に悪意をばらまく。公害、害獣以外の何ものでもない。サカズキはぎゅっと、の首を絞めた。
「人の…貴様のような醜い女を愛する、その心の気が知れんな」
言えばコロコロとが嗤う。それで手を伸ばしてサカズキの頬を掴み、うっとりと眼を揺らしてそのまま唇を近づけてきた。甘い桃の味のする唇が触れ、小さな舌が差し入れられる。絡め取って主導権をこちらに奪い取れば、ダンッ、と、がサカズキを押し倒した。乱暴に両手でサカズキの襟首を掴み、帽子とフードに隠れがちな目を覗き込んでくる。
「君だけは、僕を愛しているなどと馬鹿を患うでないよ。そんなの、つまらないからね」
「当然だ。世の正義の裏に潜む、貴様の悪意を私は知っている。貴様は醜い、誰よりも、その身も心も、何もかも、醜く爛れきっている。古き友を助けるつもりなど欠片もない癖に、まるで己の身を犠牲にして守ろうとしているようなフリをする。その姿、醜悪すぎて吐き気がする」
はらり、との髪がサカズキの頬に掛った。そのまま双方、底知れぬ互いへの激情を隠し、再度がサカズキに口付けてきた。
「お皿回収しに来たんだけどー…お前らなにイチャついてんの?」
「ノックくらいしろ」
「イチャついてないよ。どこに目を付けているんだい」
悪意に満ちた口付けの数秒、それを困ったような声でさえぎったのはクザンの間のびした声だった。サカズキはを退かし、もサカズキから離れて、それで二人ともにべもない答え。
クザンはあきれながら「っつーか、お前ら結婚すれば?」と呟いたのだが、サカズキは心底いやそうな顔をし、が上等な冗談でも聞いたかのようにころころと面白そうに笑った。
(世界で一番、君が大切だよ!)
(必ず貴様を殺してやるから待っていろ)
Fin
・まぁ、つまりはそういうことです。
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