薔薇の花その口付け、一方的な契約
星空、漆黒の闇と海との境がまるで見当たらぬ。波間に揺れる真っ赤に燃える炎がその境界をはっきりと示してくれた。月夜の晩の乱戦。ゴール・D・ロジャーの船と拳骨のガーブの船の応戦。乱戦、混戦、接戦と戦好きにはたまらぬ全てがそこにあるようであった。何ものかが数分前に炎を放ったらしい。バカが、味方まで一酸化中毒で動けなくなる。
それで悪の根、それも、この世界最大の悪の種が駆除されるのであればサカズキももちろんその手を使った。だが、現在海軍の船と海賊の船はよく密接しているし、ゴール・D・ロジャーの船とこちら、どちらが人数が多いかと、判断しにくいほどのもの。その上、いくらガープ少将の船であっても精鋭ばかりが乗船している、というわけでもない。それに引き換え、ゴール・D・ロジャーの船は腹立たしいほど完璧だった。
サカズキの目の前でまた海兵が一人斬り伏せられていく。真赤に燃える髪の少年のものだ。麦わら帽子をかぶった青年。敵意、というよりは、この戦いを海賊らしい楽しみ方、しているように見てとれた。サカズキは奥歯を噛み締める。世に、犯罪者などいてはならない。犯罪者たちは、己らがいつ死ぬのか、海兵らに殺されるのかと日々怯えてさえいればいい。世の脱落者。法を守らぬ者どもが、享楽など得てはならぬ。世に謝して首を吊れ、というのが持論のサカズキからすれば、目の前で、戦いを楽しむ青年が気に入らなかった。それで、ゴキッ、と手首を鳴らし左手の一部をマグマに変化させた。随分前に、まだ、准将になるよりも前に口にした悪魔の実による身の変化。ごぅっと炎の勢いが一層増したような、そんな気配。圧倒的な熱量に周囲がどよめいた。が、対峙した赤毛の青年は愉快げに眉をはねさせただけである。手に持った剣を構えて、サカズキに、海軍本部准将に挑むつもりらしい。
片足を引き、体重を前足に移動させながら、巨大なマグマの槍となったサカズキの腕。勇み良く突進する、その途端。あたりに響く、声。先ほどから周囲に響く雄叫び悲鳴、断末魔の声ではない夜の帳をゆっくりと持ち上げて侵食するような声であった。突如に、先ほどまで轟々とうねっていた炎が掻き消された。声に、ではない。まるでその声が呼んだような、大雨に、である。
何の前触れもなかった。海兵であるサカズキにさえ、雨の予兆は何も感じられなかったというのに、突然、ザァアアァアと勢いよく雨が落下してきた。咄嗟にサカズキは悪魔の実による変化を解いて、素早く真横に大きく飛んだ。と、その場所に銀色に光る矢が無数に突き刺さる。それと同時に、トントントン、と足でも引きずるようなゆっくりとした足取りで、赤毛の青年に近づく人物。色褪せたショールとローブを何枚も重ねて合わせた格好の、小柄な老婆だ。目深にかぶったフードが顔を隠し、覗くのは暖色の髪のみである。あの赤毛の青年の縁者かと思うほど、よく似た色であった。この老婆がこの矢を放ったのかと、サカズキは続けて足下にまで容赦なく襲いかかってきた矢を引き抜く。鋭利にとがったもの。が、サカズキが触れれば銀は風化して塵のように消え果てた。
「ふ、ふふふ、炎はよくないねぇ。この船を燃やすなんて、それは許されないことだよ。こんなに見事な船じゃあないか。ふふ、ふ、ふふふ」
老婆の声は低い。船底を這いまわる蜥蜴の様な響きがあった。それでいて陽炎のように朧。面白そうに笑いながら、圧倒的に他を見下す傲慢さにわけもなくサカズキは苛立った。短気な方ではないと思っていたが、癇に障った。老婆の腕が動く。暴風が吹き荒れ、マストが軋んだ。船上に動かなくなった屍が吹き飛ばされるほどの強風である。サカズキは手すりを掴み、吹き飛ばされぬように耐えた。
(この力は、何だ?)
悪魔の実かとすぐに思う。自然系。風、釜井達の実のたぐいであれば、扱う者によってこのような芸当もできるかもしれない。だが、そうだろうか?
老婆はサカズキにはもう注意を払っていないようだった。何か興味のあるのは戦いの中心、ガープとこの船の主の殺し合いだというような無関心さ。赤毛の青年がはっと我に返って、老婆の体を抱き上げる。「何してんだ!!出てくるなって言っただろ!!」と怒鳴り散らす様子。だが老婆は低く笑い声を立てただけ。この己に説教をするのが愛しい、とばかりの様子。そのままひょいっと、その腕から逃れて、「バギーが殺されそうだねぇ」と世間話のように言う。ちっと赤毛が舌打ちをして走りだした。それを優しげな様子で見送った、「そうそう、若いんだから、あらた命を散らしてねぇ」などと言う。そしてそのままその老婆がさぁ、と手を叩く。それと同時に雨が一層強くなった。それと同時に轟く雷鳴。これはもう疑いようのないこと。この老婆、魔女の類らしい。サカズキはこれまで魔女に遭遇したことはなかったが、そういう生き物が存在しているという話は聞いたことがあった。先日准将にあがったばかりだ。この任務から帰還すれば、昇級式が控えている。その時に、魔女について聞くことになるが、まだはっきりとは聞いていない。(順序が逆になったのは、ロジャーとやりあうだろうガープの船に無理を言って乗せてもらったからだった。准将にあがれば、もうただの海兵ではいられなく。それをサカズキは知っていた。だから、せめて最後には、ただ力を振るう海兵でゴール・D・ロジャーに向かいたいと願ったのだ)
その魔女がロジャーのところに乗船しているという話も聞いたことがあった。海の魔女、悪意の魔女、嘆きの魔女と、人によって呼び名を変える生き物である。低い、押し殺したような魔女の笑い声が響く。炎が雨にかき消され、また豪風で容赦なく、海兵たちが海へ叩き落とされた。
不思議なことに海賊にはなんの影響も与えないらしい。魔女の大嵐かき消えた炎とはまた別の、緑の炎が海面に渡る。流れ出たガスに引火したとてこのような惨状にはらぬというほどの、炎の海。時折甲高い悲鳴が聞こえるのは海に叩き落とされた者の悲鳴だ。この水の冷たさで十分持つかどうか、というもの。凄惨な光景、サカズキの頭に海兵らの救出をせねばならぬ将校としての義務が浮かぶ。目の前の老婆がこの惨事を引き起こしていることはわかっていた。が、やらねばならぬことがある。一瞬、ほんの一瞬だけサカズキは揺れた。目の前の悪の根を摘む。が、海兵の命を救うのもまた、せねばらならぬことである。
その一瞬迷う心が、サカズキの動きをほんのわずかに鈍らせた。吹き荒れる風に帽子を飛ばされそうになる。押さえて、サカズキは魔女に槍を向けた。速度は光の能力者に比べるべくもないが、それでもただの老女が避けられる速度ではなかった。が、しかし、ひらり、と老婆が身をひるがえす。そしてパシン、とそのマグマの槍を叩いた。ぼぅっと、老婆の袖が燃える。それに軽い老婆の呻き。サカズキは手を休めずに、老婆の避けた先に足を伸ばし、そのまま小柄な体を蹴り飛ばした。老婆が壁に叩きつけられて、ずるずると沈む。確実に背骨に影響が出るようにと狙った一撃だ。サカズキは息を吐き、手袋の金具を止め直しながら老婆に近づく。首だけでも持って帰るつもりだった。ぐいっと、厚手のショールに手をかけ、背後からナイフが飛んできた。体を変化させれば何の意味もないが、力の差を知らせるために振り返らずに受け止める。そして、そのまま図上から狙い落下してきた赤い鼻の青年にナイフを投げ飛ばした。シュッ、と見事なまでの切れ味で青年の首が飛んだ。が、しかし、ニヤリ、と次の瞬間にその首が嗤う。能力者かと即座に判じた。刃物では殺せぬ能力か。ならば他の手段を取るまでである。悪魔の能力。無敵ではない。能力同士の相性や、決定的な弱点のあるものだ。自身も能力者であるからこそ、サカズキは承知していた。
「ハデにくらいやがれクソ海兵!!」
力量の差を解っていてなお、好戦的に挑む、その勢い。サカズキはふん、と鼻を鳴らした。さ程の脅威とも感じられぬ。だが油断するつもりはなかった。
「当然、一人ではないだろう」
言うのと同時に、サカズキの真横から、先ほどの赤毛の青年の繰り出した剣。脇腹をかすめかけるが、サカズキには避けられる。ちっと赤毛が舌打ちをした。
「バギー!今だ!!アイツを連れて逃げろ!!」
「バカかてめぇ!!あの魔女がやられてんだぞ!!オメェなんかが敵うわけねぇだろうが!!」
「ンなこたぁわかってる!!!」
言い合う暇などないが、必死に叫びあう青年ら。サカズキは、赤毛の青年を蹴り飛ばし、床に足で押し付けた。低く唸りながら、なおも赤毛が叫ぶ。
「行け!!バギー!!!!そいつを死なせてぇのか!!!」
くっ、と赤い鼻が呻いた。それで、老婆に向かって走りだす。それをこの己が許すと思うのか。サカズキは、赤毛の足の骨を砕いてから、素早く駆けだした。それでそのまま、赤い鼻の海賊を殺すべく手に力を込める。
「……この子たちに手を出すのは、許さないよ。特にバギーは駄目だ」
低い、悪意のこもった声。ゾクリ、とサカズキの背筋に寒気が走った。そして右肩にかけて、激痛が走る。矢に撃たれたのだと気付くのに一瞬かかった。魔女の矢。悪魔の能力などより声高く身に響く。そこから悪意が侵食してくるような、全身の温度を奪われる痛み。サカズキは顔をしかめ、歯を食いしばる。睨みつけた先、口から血を流しながら、真っすぐにサカズキを睨みつけてくる赤い、赤々とした眼。燃えるような、敵意に光り輝いている。サカズキは、知らずに目を見開いた。先ほどまで、老婆だと思っていた。低くくぐもった、押し殺した声。身を覆うぼろ布のようなショール。魔女は、しわがれた老婆であるという、先入観。大雨、大嵐の中、頭を覆っていた布がはぎ取られた、魔女。サカズキを見つめているのは、少女だった。暖色の髪に、まっ白い肌、真赤な目をした、少女。この状況、サカズキでさえ息を飲む絶対的な美しさがあった。ボロを纏っていようとなんら損なわれることのない、美しさ。
これほどに美しい生き物を、サカズキは知らない。
間違いなく、これまでサカズキが見てきたどんな人物、どんな景色、どんな宝石、花よりも美しい生き物だった。
そして次の瞬間、サカズキは海に叩き落とされていた。
◇
バッシャン、と落下した海兵にはもう目もくれず、は心配そうな顔をしてバギーとシャンクスに駆け寄った。バギーはその能力ゆえ、あまり重症ではなかったが、シャンクスは足の骨をやられたようだ。目くばせをすれば、バギーがクロッカスを探しに離れた。顔を顰めてはシャンクスを睨む。
「いつも言っているね、ぼくを守る必要はないんだよ」
「わかってる」
「ぼくは、レイリーとロジャーから君たち二人の面倒を見るようにって言われてる。だから助けているだけだよ」
「わかってる」
痛みのためかシャンクスが呻いた。はため息を吐きながら、そっとその足に触れる。骨の再生はあまり得意ではないけれど、できなくもない。そで口からしゅるしゅると夏の薔薇の蔦を這わせてシャンクスの足に巻いた。クロッカスが来れば麻酔をしてやれたのだけれど。気の毒に思いながらも手を休めない。ゴキゴキと強制的に何もかもが修正されていく音が鈍く響いた。それと交る、シャンクスのうめき声。気の強い子だが、通常であれば死んでおかしくない魔女の処置。それでも人の手に頼るよりは早く治るし、問題もない。耐えられれば。シャンクスにはそれだけの強さがあると認めていた。これがもしもバギーならはクロッカスの手にゆだねたろうし、容赦なく骨が砕かれ、皮膚が焼かれている状況、足の切断だって、見守っただろう。だが、この子供が片足を失うのは、よろしくはないと思ったのだ。
「怒ってんのか」
「まぁね。君は、そう簡単には死なないけど、でもバギーはどうかな。あの子、君と一緒にいて、安全なのか危険なのか、わからないよ」
「お前が思ってるほど、バギーは弱くねぇさ」
痛みを堪えるためにか、シャンクスが笑う。頬を汗が伝っていた。は頷く。確かに、この船に乗っている以上、バギーもそこそこの天分はあったし、が思うほどに彼は弱いわけでもないだろう。過保護に過ぎているという自覚もあった。数年前、二人がこの船にほとんど同じくらいの時期にやってきて、それで、レイリーがに「二人の世話を頼むよ」と言ってきたときから、はバギーが心配でならなかった。こんな子がこの海でやっていけるものかと、さめざめ思った。シャンクスは、そんなことはなかったのだが、どうも、バギーは心配なのだ。
がやたらとバギーに構うのを、バギー本人はかなり鬱陶しがっている。それがまたには面白いのかもしれない。この船でも、の正体を知る者は殆どいない。その上、は普段老婆の姿に扮している。周囲は年老いた魔女のような女が孫を可愛がるように面倒を見ているのだと微笑ましがられている。バギーがぎゃあぎゃあ言いながらの世話を迷惑がるのが、ここ数年のお決まりの光景であった。
「バギーにはね、いつまでもいつまでも、あのままでいて欲しいの。ずっとずっと、きっと、何も変わらない。あの子はとても愚かで、弱くて、ずるくて、どうしようもない小物でいて欲しいの」
「それ、いったら怒られるぞ」
シャンクスが笑った。だが、どこか、喉を引っ掻いたような笑い声だった。痛いのかと、はその真意には気付かぬフリをして問いかける。気遣えば、シャンクスは「平気だ」と言うのだ。そしてじっと、その目がを見つめる。
赤い、意思の強い、器の大きさを予感させる青年の目。その目にはいつも夢や希望や信念が詰まっていた。しかし今あるのは、バギーに対しての嫉妬や、に対しての、欲である。は、数年前から、シャンクスが自分に対して、信頼や尊敬ではない、ある種の感情を強く抱いていることを気づいていた。シャンクスだけではなくて、これまでが長い時間をかけて出会い、知ってきた人間は、時々こういう目をする。は自分を解っていた。この体は500年前に、とある少女の犠牲を得てもらい受けたものだったが、500年の時を得て外見が変化している。最初はあどけない、ノアのそのままの顔立ち、姿だった。だが、次第に、の本来の姿に戻って来てしまっている。最初白かった髪が赤くなり、真赤な目が青くなった。時折、力を使うときは本来の赤を取り戻すが、それはノアの赤ではなく、の本当の目の色になっているだけだった。
の本来の体の美しさは、客観的に見て、も認めている。かりにも神の贈り物の名を、頂いている。醜いわけがない。
美しさは、厄介事だ。それだけがすべてになるわけではないが、切り口にはなる。そこからするすると水のように相手の心に入って行ける。それがは嫌だった。誰も、己を愛する必要などない。嫌ってくれ、憎んでくれ、罵って、物でも投げつけてくれればいい。どうせ、みなよりも先に死んでしまう。は自分の心の醜さを知っていた。こんなに醜い生き物は他にはいないとすら思っていた。だが、外見ばかりは嘘のように美しい。余計に、には醜く感じられるが、人は、容易く美しさにだまされる。
だから、は普段老女に扮していた。ロジャーやレイリーは、無駄だと諭していたが、しかし、はなんとかしたかった。だからシャンクスたちと出会ってから半年は、二人はを腰の曲がった小柄な老婆だと信じていた。
それなのに、あっという間に、シャンクスはの正体に気づいて、そして、恋をしてしまった。バギーはそうではなかった。あの子供は、をただのとして扱ってくれている。それは貴重な存在だった。だからはバギーを可愛がる。バギーはを何とも思っていないから、それを鬱陶しがる。
ぎりっと、奥歯を噛み締めて、は顔を上げた。
「一度呼んだハリケーンは次第に強くなってくだけだね。そろそろ引き上げないと、お互い危ないって気付くかな?」
思考を切り上げて、立ち上がる。骨接ぎは終わった。あとはシャンクスの気力しだいだが、心配はしていなかった。は空を見上げる。大嵐。魔女の声で呼んだハリケーンは肥大していくばかりで、あとはただ三日三晩この場所を荒らす。あまり使いたいものではなかったが、船に火をかけられた以上も黙ってはいられなかった。
は一度海面を見る。先ほど沈めた海兵や、風で落ちた海兵たちは浮かんでこない。先ほどの帽子にフードの海兵は能力者だったようだから、これで死ぬだろう。はガープのいる方向へ意識を向けた。ここで何十人も海で死ぬようなことになったら、ガープは許さないだろう。
ふむ、と考え込んで、は重いショールをはぎ取った。そのまま口笛を吹くと、一時海面が静かになる。それでも嵐は吹き荒れる中、は指を振った。沈んだ数人はすぐに浮かび上がって、海軍の船にどさり、と無造作に置かれる。それを何度か繰り返していった。中には死んでいる者も少なくないけれど、死体がないよりはましだろうと魔女の心。だが、先ほど沈めた能力者の死体は見つからない。
面倒だが、とはそのまま海に飛び込んだ。
「!!」
背後でシャンクスの驚いた声がかかったが、それは、の知るところではない。
◇
海中、突き刺すような痛みがを襲う。意識を乗っ取られそうになるのを歯を食いしばってこらえた。水の中で海が嘶く。返せ、と。は海底を睨みつけた。暗い暗い海の底。祈りさえ届かぬさびしい場所。本来、そこに収まるはずだった天地の竜の娘を求めて、500年経っても声が高く脳に響く。
(黙れ!この体はもうぼくの物だ!!)
きつく睨み飛ばし、は肌を刺す棘を振り払った。沈められる筈だった生贄のための司祭長ノアは、海や世界を選ばずに、たった一人の友を選んだ。そのことを、は強制しなかった。ただ、提案しただけだ。こうする他ないのだと、そう、あの娘、ノアに教えただけだ。魔女はいつだって人を破滅に導くもの。何も悪いことはしていない。選んだのはノアだった。
はノアのことを思い出す。500年前、今は確か、政府の機関インペルダウンがある場所に、昔は存在していた小さな島。ヴァナ島という水の民、平たく言えば魚人の住んでいた、小さな島。そこにノアという少女が住んでいた。司祭長だった。まっ白い髪に赤い目の、美しい子供。彼女は混血だった。魚人と、そして、今は天竜人とそう呼ばれる生き物の間に生まれた、禁忌の子。異種間の交わりは繁殖能力を低下させ、短命を義務付けた。だからこそ、双方は憎み合うというのがの結論。まぁ、それはいい。
とにかく、ノアは混血でいずれ死ぬ運命にある子供だった。海への供物として、育てられていたが、世界の敵のパンドラ・を救うために、その体を捧げた。それだけだ。
は絡み付く茨を払い、血を流しながら海の中を探した。こうなるから、海にはあまり入りたくはない。海は己らの花嫁を奪ったが嫌いだったし、も、海が嫌いだった。の体が海に沈みやすいのは、悪魔の能力者たちとは違う。彼らは、能力と引き換えに海への供物となった。だから沈むのだ。抗わなければ、そのまま彼らは海への捧げものとなる。まぁ、それはいい。
ぐるりと辺りを見渡すが、あの帽子にフードの海兵の姿は見えぬ。さすがに、海の底にまでならも助けられぬのだが、と諦めていると、目の端に何か移った。おや、とは目を開く。運が良い。ちょうど、海の岩と岩の間に落ちていたようだ。
足に力を込めて、そちらへ向かう。良い具合に海水を吸い、溺れて意識もないようだ。これで死んでいるのなら、死体をガープが処理するだけ。は男の生死はどうでもよかった。ぐいっと、乱暴に襟首をつかむ。と、小さく唇から気泡が漏れた。おや、虫の息だがまだ死んでいない様子。は男を掴み海上にあがりながら思案した。この男はバギーを殺そうとした。ここでとどめを刺しておくべきか。だが、は己の意思で人の命を奪うことはあまりしない。大量殺人なら昔に適度に行ったが、ここ最近は心配性なレイリーのお陰でめっきり、減っていた。自然系の能力者らしいから、魔女の飢餓でも植え付けてやろうかと、はさめざめ、思う。それで、意識のない男の唇にそっと、自分の唇を重ねた。海の中でのこと。もそれほど本分を果たせるわけでもない。ゆっくりと唇を合わせて、海水と一緒に舌を絡め取る。死にかけた男の唇は甘かった。はうっとりと、仄暗い快楽に酔いしれる。生死のその瞬間はには縁がなかった。だから、他人の、には何の興味も持てない者の、失ってもなんの痛みも抱けない者の、死のにおいが好きだった。くすくすと笑いだしたい思いを堪えて、は海面に顔を出す。それで、ひょいっと指を振って手頃な木板を呼びだすと、男の体をその上に横たえた。板は薄いから、も乗れば沈む。そういう危うさ。これでまた生き残れるかどうかは男の運である。は体を宙に浮かせたまま、もう一度男に口付けた。気道を確保し、胸を力いっぱい押す。そのまま口と鼻を塞いで息を吹き込んだ。その二三度の繰り返し。この魔女が海兵の人工呼吸などと笑う反面、随分と興味深いもの。そう言えば、生死などどうでもいい人間を助けるのはどれくらいぶりだろうか。胸を押し、息を吹き込む。やがてげほげほと、男が大量の海水を吐きだした。すぅっと息を吸う音がする。おやこれならもう安心かと、がっかりしたのかほっとしたのかはわからない。だが、次の瞬間、は首を絞められた。
「……なぁに」
「なぜ、助けた。私は貴様の敵だ」
死にかけていたのに元気なこと。男が敵意に満ちた目での首を片手だけで器用に閉めていた。は苦しそうに目を細めて、口元に笑みを浮かべる。
「気分」
はっきり言って、腕を振る。ざっ、と男の腕が切り落とされたが能力者。それはすぐマグマに代わって板を焼いた。
「もう一度海に沈んだら、また助けてあげるよ」
「……貴様は、必ず私が殺す」
「ふ、ふふふ。できないことを言うもんじゃあないよ。能力者風情が」
みるみる面積の少なくなる木板を踏み、男が後ろに大きく飛んだ。そこは海軍の船である。大嵐で撤退準備をしているようだ。男は憎々しげにを睨みつけ、マグマとなった槍を飛ばそうとしてきた。が、その前に膝を崩す。背から血が噴き出した。自然系の能力者にあるまじき負傷である。驚きに目を見開く男を愉快げに眺めて、は声を弾ませた。
「ほら、ね?できっこないよ。自然系の能力者は、その力で魔女を傷つけることはできない。特に君は、ぼくが触れたんだ。その命尽きるまで精々ぼくに焦がれるがいいよ。悪魔の飢餓は、苦しいらしいからね。自殺したって、いいんだよ?」
穏やかに微笑む。こういうときが、は一番楽しくて、そしてわびしかった。だが声ばかりが明るくなる。血を流した男が憎悪に満ちた目でを睨み飛ばしてきた。それでも、その目には魔女を求める男の飢えが見てとれる。それに伴う男自身の動揺も、同じようにわかった。さめざめ眺めて、は心に沈殿する重いを沈める。罪悪感なのか憐憫なのかそれとも自身への蔑みなのか、判断しにくい。それで、ふわり、と柔らかな笑みを浮かべて、己を憎む男の目を見つめた。
この男はその憎悪を忘れないでいられるだろうか。苦しいからと言って、愛情にすげ換えてしまうお決まりの展開になるのだろうか。いや、それが道理なのだろう。解っている。何を、自分は期待しているのだろうか。は時々、己で己がわからなくなった。魔女が触れさえしなければ、発病せぬ飢餓もあるのだ。それなのには能力者に飢えを教え込む。浅ましいのは己かと自嘲しながら、はデッキブラシに跨った。
苦しげに顔を顰める男を振り返ることなく、その先はそのままロジャーの船に向かう。
大嵐の中を飛びながら、は、自分は誰かに殺されたいのだろうかと、考えた。死ぬわけではないが、眠りにはつける。己はもう、眠りたいのだろうか。
は船尾に立って己を迎えるロジャーに気づいた。戦闘後とは思えぬ、生き生きとした表情、いや当然か、ガープと殺し合っている時、ロジャーはとても楽しそうだった。エドワードともそうだった。ロジャーは殺し合いの中で生きている。それだけではないことをはわかっているが、しかし、海賊だから、それもあった。
「俺の魔女は、随分と慈悲深いんだな」
「ガープくんが引き下がらないでしょう。全員海に沈めてしまったら」
非難されているわけではないとわかっていたが、は言い訳のように答えた。ロジャーは笑い、雨でぬれたの髪をくしゃり、と撫でる。くすぐったそうに声を立てて笑い、は指を振って、いつもの重くぼろ布のようなショールを被る。
「無駄なことを。そんなことをしたって、お前は冗談みてぇに美しいんだ」
「できる限り、ぼくは顔を隠していたいんだよ」
ぐるぐると体じゅうをショールやらただのツギハギだらけの布地で覆いながら、はすたすたと甲板を歩く。手当をしている者や談笑しているもの様々だ。は無意識にバギーを探したが、見当たらない。シャンクスとともにクロッカスの手当を受けているのだろうか。見つからないのならそれでも構わない。後ろを振り返ればロジャーが海軍の船をじっと眺めていた。その背が何を感じ考えているのか、それはには興味のあるところではなかった。
力を使ったから疲れた。それに、海水はの意識を奪う。こくん、と瞼が重く感じられて、早く休もうと気が焦る。ずるずると重いショールを引きずりながら、は自室へと向かった。
途中船員たちがに声をかけてくる。無事だったことへの賛美や、あるいは嵐を呼んだことへの礼、様々な声を後ろにしながら、はあてがわれた部屋の扉を開ける。それで、ガチャリと念いりに鍵をかけてから、重い服をすべて床に落とした。肌に直接触れる空気にぶるり、と身ぶるいをしてから、部屋に設置されているバスタブに指を振って湯を張る。そのままお湯に体を沈めると、ほっと、は表情を和らげた。じんわりと体の芯まで温まる心地に目を細める。小さなの体には、バスタブは十分な広さがあった。足をゆっくりと伸ばして頭を縁に預ける。あふれた湯は床を濡らす前にシャボン玉となって宙に浮かび、割れれば水の魚になって湯に戻る。はゆっくりと息を吐きながら、バタバタと騒がしい船内を思う。死人が出たのなら、あとでが死者への手向けを読まねばならぬ。海賊は歌うものだったが、海の魔女は海の死者のために歌うものだった。割り切ることはできないらしく、ロジャーやシャンクスが顔を曇らせるのは嫌だったが、人は死ぬものである。せめて晴天の下であればいいのにと天気を思い、はぶくぶくと湯に頭を沈める。
薄く光る水の中で、ふとは海中で触れた男の唇を思い出した。
そう言えば、この自分から誰かに口付けるなど初めてではないか?
何か男への特別な感情があったわけではない。もし、あるとすれば、それは魔女の仄暗い破滅への願いだろうとは解っていた。
海の魔女となって500年。人の死を間近で見てきて、もう500年。心が病んで来ていることはも気づいている。だが、耐えられないことはなかった。ではなぜ己への破滅を願うのか。それは、簡単だ。ロジャーが、死ぬからだ。病は、確実にあの男をむしばんでいる。クロッカスは痛みを和らげられるが、それでも、完全に取り除くことなどできぬ。も、己の全ての知識を用いても不可能だった。
グランドラインにそのすべはないかと探してのこの航海。だがは答えを知っていた。誰も、ロジャーを救うことはできない。解り切っていた。だから、は己の破滅を願うのだ。
ロジャーはの太陽だった。ノーランドが死んで、心の病んだは400年、誰にも見つからぬようにひっそりと息をしているだけのものになっていた。
それなのに、ロジャーはを見つけて、そして、「俺と来いよ、俺の魔女になれ」とそう言った。手を差し伸べた。
(ロジャーは、わかってないんだ)
心が解けだすような、奇跡。こんな自分へと伸ばされた手、その指先のきらめき、眩しさに目を細めたに、笑いかけるその、奇跡。の世界が、世に飽いた魔女の世界が表情を変えた。その、奇跡を、ロジャーはわかっていないのだ。
はロジャーのためなら、なんでもできた。こんな自分を、探してくれた、ロジャーを、その笑った顔が、自分に向けられた時から、はロジャーの魔女になった。
ぎゅっと、は湯の中で唇を噛み締める。
(あの海兵は、ロジャーが死んでしまうまえにぼくを殺してくれるだろうか)
絶望を、叩きつけられるその前に。ロジャーを失うことを、はわかっている。その絶望に、耐えられるだろうか。いや、耐えられたとしても、耐えたくなどない。ロジャーのいない世界など、には考えられなかった。太陽がなくて、どう生きていけばいいのだ。はもう、ロジャーに会う前に自分がどう息を吸っていたのかさえ、忘れた。
願うのはただひとつ、ロジャーが病で死ぬ前に、誰かがを殺してくれることだ。は死ねぬが、このノアの体が傷付けば、どうしようもなく修復不可能なほどに傷付けば、体は回復するために眠りにつく。それは、百年後か、それとも千年後か、それはにはわからないけれど、しかし、少なくとも、目の前でロジャーを失うことにだけはならない。
は自殺することができない。そして、自分のまわりにいる人間は、を殺すことなどできないだろう。
あの海兵は、を殺してくれるだろうか。
そういう、仄暗い、重い、思い。抱えては海を渡る。レイリーは、その不健康極まりない思考に時々窘めるような眼を向けてくるが、声に出して何かを言ってきたことはなかった。レイリーは、そういうところで諦めた人間だった。は、憐憫もわかない。
ぱしゃん、と湯をはねさせて、は顔を上げる。顔を手で拭い、ぽたぽたと前髪から滴る水の音を聞く。そっと、指先で唇をなぞって、浮かべる笑みはどこまでも魔女の狂気を孕んでいた。
は、この唇の感触を忘れないでいようと、心に決める。ぺろり、と舌で唇をなめればあの男の味が思い出されるようだった。
あの海兵は、きっと、この魔女を愛しはしない。あの目は、誰も愛しはしない冷たい瞳。己自身の中の絶対的な正義、その信念のみのためにどんなこともできる、それは一種の狂気ですらあった。その闇、いや、苛烈な熱をは、あの男の舌先から感じた。飢餓を抱えても、を愛する愚行は選ぶまい。むしろ、憎悪を募らせる。それは、深く、深く、マグマのような響きを持って、熱く、熱く、膨れ上がる憎悪。
はゆっくりと息を吐いて天井を見上げる。
手を伸ばせば、水がきらきらとランプの明かりに輝いてきらめく。あの男の顔も声もすぐに忘れるだろうけれど、あの目と、そしてあの唇の感触だけは、覚えているだろう。そういう確信があった。
Fin
*まぁ、病んでますよね。さん。こっからトムさん死亡までさんの性格は最悪です。
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