ひょっとすると自分は世界で一番幸せなのではないだろうか。そんなことを考えたのは、いかにも愛しそうに眼を細められ、耳に薔薇の赤い花を飾られた瞬間だった。

色眼鏡というか、真っ黒いフィルター(言い方を変えればサングラス)の奥にはどんな色の瞳があるのか、それはの知るところではないし、きっとどれだけ長い時間を共に過ごしたところで知ることはないだろう。己の飼い主である七武海の一角、ドフラミンゴ(それが本名なのかどうなのかすら、には判じれない)はその色眼鏡、室内だろうが外さない。ベッドの中でまでしっかり装着、というのはどうなのだろうかとぼんやり頭の隅で思ったが、しかし、それはそれ。

「フ、フッフフ、似合うな、

機嫌良く、口元に普段とは違う、笑いを浮かべて囁いてくる。時折が見かける、部下や客に向ける言動とはどうやっても違う、底知れぬ恐ろしい男の、根底の中にふつりとあるだろう優しさがたっぷりと込められた笑み。強く抱きしめられては眩暈がした。

海に流れた時間の中で、世間知らずだったも少なからず、この男の噂を聞いてきた。王下七武海の一角、ドンキホーテ・ドフラミンゴ。誰よりも海賊らしからぬ海賊であるという評判は、悪い意味だったのか良い意味だったのか、その時にはわからなかった。けれど、それは良い意味だったのではないかと最近思う。

何しろドフラミンゴはを人買いの魔の手から救ってくれた。権力などで無理やり、ではなくて、きちんと金を出して買ってくれて、正式な手続き。だからはだれはばかることなくドフラミンゴの奴隷になって、そして、ドフラミンゴがを「自由にしていい」と言ってくれた。

「ありがとう。似合うかな?」

付けられた真っ赤なバラをそっと指で触れて、は小首を傾げる。ドフラミンゴに恩を感じている。だから丁寧な言葉づかい、できればきちんと敬称も付けたいのだけれど、が「ドフラミンゴさん」と呼ぶことを好まなかった。出来る限り砕けた口調で、呼び捨てにして構わない、とそう言ってくれる。まだ幼い、それほど形式ばった作法ができるわけでもなくて、初めてドフラミンゴに会った時、すぐにそう言ってもらえてほっと息を吐いたのを覚えている。

小首をかしげて見上げたを、ドフラミンゴは上機嫌になって頬を撫でる。サングラスに隠れて見えぬ目が細められているのだと感じ取り、もうれしくなった。

「あぁ、似合う。よく似合ってる。やっぱりお前にゃ薔薇だな。癪だが、赤い薔薇がいい」

言ってゆっくりとの頬を撫でる骨ばった指。やさしい声に、やさしい手。家が没落して、一家も離散して、何もかも失ってしまった。奴隷商人に買われて、もう自分の人間としての人生は終わったのだと、死ぬことしか考えられなかったを、助けてくれた人。

ドフラミンゴは、の太陽だ。








盲知って、眠れない夜と心中未遂









十数年前、はほんの少しだけ裕福な家庭に生まれた。ほんの少しだけの富だったが両親はともに優しく。使用人たちは家族のように(ある程度の分別は互い持ったままの理想的な状態であったと言える)親しく、小さくはないが大きくもない、赤い屋根の家で育った。庭には母が丹精込めて育てる植物が四季の彩り。夜は暖炉の前に家族三人で揃って、揺り椅子で編み物をする母、は父に物語を読んで聞かせてもらうことが好きだった。

それでも、あっさり幸せの瓦解。父の事業が失敗した。落ちる時は、あっさりと坂を転がる小石のように、コロコロと、ただただの転落。父はある日海に出たきり戻らなかった。海賊に襲われたのだという話もあるが、逃げたのかもしれないと、噂もあった。借金ばかりがかさんでいく。母はを守ろうとしてくれたけれど、無理をして病に倒れた。細くなっていく母を見ていられず、はある日自分の前に現れた奴隷商人が、金貨一枚を母の枕もとに置いていくのを、ただ黙って見ていた。もうどうしようもないと思っていたのだ。そんなを、ドフラミンゴは助けてくれた。服も、食べるものも、住む部屋も何もかも、ドフラミンゴは与えてくれた。

望むことは何でもかなえてくれた。が外に出たい、といえば、しっかりドフラミンゴの同伴付きが条件ではあったが、出ることも可能だった。

愛されているのだと、大切にされているのだと、そう思えばなんだかこそばゆかったが、しかし、何も持っていない自分ができるのは、愛し返すことだけだった。ドフラミンゴが自分を愛してくれているのなら、それは、とても幸福なことだった。

何もかもが変わってしまったのはある夜のことだった。その日はとても雷が強くて、海は荒れていて、はただ恐ろしくて、ドフラミンゴの胸にすがり付いていた。の暖色の髪を撫でながら、ドフラミンゴはとても楽しそうにしていたのに、しかし、そのの部屋を叩く音。使用人たちの控えめな、ドフラミンゴを呼ぶ声。鬱陶しそうにしながら、を抱いたまま応じるドフラミンゴに、使用人の言葉。誰かがドフラミンゴを尋ねてきた、と、そういう話。

その時のドフラミンゴの豹変振りを、は忘れない。これまで己に見せてくれていたどんな表情とも違う、戸惑いながら、しかし、歓こらえきれぬ喜びが全身から感じられる、様子。どうしたのかといぶかしむにはもう構わずに、さっさと身支度を整え(その時間さえおしいといわんばかりに)出て行ってしまった。それっきり、どれほど待っても戻らない。これはおかしい、と思ってはこっそりと部屋を抜け出した。普段、といる時はドフラミンゴは何を置いてものそばにいる。大事な仕事の話があっても、ドフラミンゴはを片時も離さなかった。それなのに、今はあっさりと、ドフラミンゴがいなくなってしまったのだ。

ドフラミンゴの部屋の隣にある。それで、そうっと隣の部屋を、覗きこんだ。扉の隙間から漏れる光景、雷が鳴り響くたびに、小さく上がる、悲鳴。己のもの、ではなかった。は目を見開く。
大きな寝台の上、ではなくて、部屋の隅、窓ガラスが乱暴に割られていて風や雨が入ってくる、荒れているのに、気にした様子もなく、ドフラミンゴがその部屋の隅に座り込んでいる。窓を背にして、その腕の中にいるものに雨も風も雷の音も届かぬようにと、大きな体で護っている。

「っ、う……ぅ…!」
「大丈夫だ。この俺がいるだろう?泣くなよ」

これまで聞いた事のない優しい声で、ドフラミンゴが小さな少女をあやしている。暖色の髪は雨に濡れて赤々と、真っ白い肌は暗闇の中で透明度が強い。は凍ったように、動けなくなった。あの、子供は誰?いつも、雷の日に、あの腕の中にいるのは自分だ。だが、ドフラミンゴはそしてその子供は、それが一番正しいことのように、何の違和感もなく、その光景を作り出している。

唖然とするをしり目に、ドフラミンゴの腕の中、悔しそうに、少女が歯を食いしばりながらか細い声でぼそぼそっと、呟いた。

「君なんかに頼るなんて…!!嵐さえこなかったら…こんなことしないのに…!」

悔しそう、それでもドフラミンゴから離れない。はかっと頭に血が昇って、今すぐ扉を蹴り、ドフラミンゴの腕の中に収まっている少女の横面をひっぱたいてやりたくなった。だが、そうと左足に体重を移動させ、踏み込んだ刹那、ドフラミンゴの、これまでが一度だって見たことのない、サングラスの奥の目、素顔が、雷に光って見えた。その目が、腕の中の少女を愛しむ。

「フ、フッフフフ、なんであれ、俺は嬉しいぜ」

嬉しそうに笑い、そして、「」と呼ぶ。の、己のことを、呼んでいるわけではなかった。いや、違う。そこで、初めては、ドフラミンゴに拾われた奴隷の少女は、気づいた。自分は、ではなかったのだ。違う、いや、そうだったのに、いや、違う。は、本当は、ドフラミンゴにとって、というのは、ただの名前ではなかった。己に、似合うからと付けてくれたただの名前ではない。

己はただ、“”の代わりだったのだ。

ドフラミンゴの腕の中で、少女がうなる。厭そうに、心底、煩わしそうに、唸る。もうそれ以上見ていられなかった。は一目散に走りその場を去って、己の部屋に戻る。先ほどまでドフラミンゴのいた場所にうずくまり、顔を枕に押し付けて声を殺して泣いた。大嵐、きっと自分がどんなに大声を出したって、隣の部屋には聞こえない。いや、たとえ聞こえていたって、ドフラミンゴは、もう、のもとへは戻ってこないだろう。普段、がか細い悲鳴を上げただけでもすぐに飛んできて「どうした」と案じたのに。その度には心配性だと眉を寄せて笑いながらも、幸福を感じずにはいられなかったのに。なのに、けれど、その、すべての記憶が、今は氷のたがねで臓腑を抉られるほどの痛みを与える。

大嵐、何もかもが大きな音を立てて崩れていく。

その日、の世界も崩れて行った。






Fin






あんまりにあんまりな話ですネ。神経質なまでな描写で長くすると本当に救いようがない話だったので短くしました。ちなみにヒロイン(?)の父親の事業が失敗したのはドフラの所為。海に出たところを海賊に襲われたのもドフラの根回し。うわー、最低だ!
書いてて面白かったので、もしかすると軽い続きやるかもしれませんが、これ…誰か読んで楽しいのか