星に願いを 1
体中を苛む激痛には目を見開いた。途端塩酸でも掛けられたように眼が熱く爛れゆく。状況把握せねばならぬという本能からすかさず回復しようと意識したけれど、体の機能が上手く作動しなかった。それどころか全身が鉛のように重い。身を捩ろうとすれば容赦なく肌に何かが食い込んだ。茨だ、と気づいたのはその鋭利さに覚えがあったからである。あぁ、そうだとは思い出す。己は捕らえられたのだ。オハラの跡地で海兵に。この己があんな、まだ100年も生きていないだろう若造にさんざん体を調べられて、身を戒められた。屈辱に顔を顰めたかったがそんな余裕はない。どうやら自分、茨の縄で締め上げられたまま海に落とされているらしい。いや、落されている、というよりは、違う。これは。
「目が覚めたか。一旦引き上げろ」
「っは」
最後に聞いた男と同じ声が少し離れた場所から聞こえる。それと同時に、ギリギリとの体が釣り上げられた。海から、やっと空気のある場所。げほり、と海水を吐いては吊るされた格好のまま、周囲の音を聞くため耳を欹てた。
(ここはどこだ?)
「貴様の問いに答える義理などないが、己の状況くらいは把握してもらわねばならん。ここは海軍の船、私の艦だ。これより海軍本部へ帰還し、しかるべき処置の後貴様をインペルダウンへ連行する」
聞こえる声は、そうだ。あの男。帽子にフードというからすれば指をさして笑い飛ばしてやりたくなる格好の海兵。
「もう一度突き落とせ」
「っは」
小気味のいい返事の後、再びの体が海に落とされた。なるほど、とは冷静に判じる。ここはこの男の船の中、船底に位置する場所だろう。拿捕した海賊や罪人などを収容しておく場所。そして同時に拷問も行えるようになっているらしい。は現在首を茨の縄で絞められ、手と足にはしっかり枷が嵌められている。いや、手錠・足枷などという生易しいものではなかった。掌を両方鉄で刺し上方を潰して抜けぬようにしている。足も同様に釘のように両足同士を打ちつけられている。海に落とされているせいで回復もままならぬ。そのうえの体は冬薔薇の刻印による戒めで弱り切っている。
首を縛られているため、胃にはそれほど海水を飲まずに済んでいるけれど、穴という穴から、海水が浸入を試みる。久しくない、海の魔女に対する絶好の報復の機会に海が歓喜しているのがにはわかった。いつも以上に肌を苛む、酸のような水、皮膚が剥がれ落ち、肉が融けて行った。ぼろり、と水の中で手の杭が取れる。うち止めておくだけの肉がなくなったゆえのこと。
「醜いな。それでもまだ死なんのか」
「げほっ…がっ、ごほっ、ごほっ……!!」
拷問用に汲まれた海水がの血で真っ赤に染まる。男は目を細め、釣り上げられたの髪を掴んで顔を見つめた。このままでは骨まで融けるというくらいになってきたので茨を解き、どさりと乱暴に板の上に放り投げる。は体をくの字に折り曲げてガタガタと体を震わせた。恐怖ゆえではない。ただのショック症状である。体が震えるたびにボロボロと肉が灰になり、消え落ちる。体内に入り込んだ海水の所為で回復が思うようにならない。針の寝台、針の布団の上で眠るような痛みには唇を噛みしめた。これほどの激痛、そして屈辱などどれほど振りだろうか。この自分が、とは唇を噛み締める。こんな、醜態をいつまでも曝している気などなかった。ぱちん、と瞬きを一つして、は乱れた呼吸を無理やり整える。口の中でぶつぶつと何かを呟いて体を治し始めた。治すための詩篇ではない。腹のウンケの刺青だけは庇わなければならない。その為のものである。ウンケさえ無事なら体などどうにでもなる。
「ほう、そんな体でもまだ詩篇が扱えるのか」
男の感心したような声は無視をして、はとりあえずは片腕と片足だけでもと急げば、コンコン、と扉が叩かれた。
「入れ」
「っは。中将どの!用意ができました!」
「ここへ入れろ」
もう一度海兵のきっちりとした声。は何が起こるのかと気にはなったが、それよりも自分の体を治すことの方が先だった。シュウシュウと歪な音を立てて体が修復されていく。その場にいる海兵たちが化け物でも見るような眼でこちらを見ているのが分かったがそれがなんだというのか。やっと両目が修繕され、片腕が戻った。それと同時に、ぐいっと、頭を鷲掴みにされる。
「なっ、」
「まさか先ほどので終わりだと?本部に着くまで24時間貴様を拷問にかける。適度に時間をやるから体は治せよ」
何をするのか、と、問う前に頭を水の中に突っ込まれた。後頭部を押さえつけられ、当然体はその足で押さえられている。先ほど入ってきた海兵はバケツに入った海水を持ってきたようだ。そのバケツの中にの頭を入れている。コップ一杯の水で人は死ねるのだから、これだけでも十分な責苦であった。暴れようにも強すぎる力がそれを許さない。今度は首を縛られているわけではないので鼻から、口から海水が入った。また目が潰れる、というところで、ぐいっと水から放される。
「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。終いだ」
男は簡単に数を数えてから、再びの頭をバケツの中に押し付けた。生半可に空気を吸わされ、一層苦しくなる。意識がかすむ、というところで、男は頭を持ち上げ、そしてまた沈める。そんなことをしばらく繰り返した。
「なぜこんなことをされるか心当たりはあるか」
げぼっ、と、海水を吐き肩で息をするに男が問いかける。苦しみと痛みで意識が朦朧とするはその言葉が上手く聞き取れない。何と言ったのか聞き返そうとして、体を蹴り飛ばされた。
「ぅ…ッ」
「貴様は本来こうされているべき生き物だった。それが500年前、貴様は逃げだし海を彷徨い生きてきた。この程度では生温い、世界が存在し続ける限り貴様はその身に苦痛とあらん限りの責めを受けるべきだ」
ずるずるとの体が壁に当たって落ちる。背骨が軋んだ。うちどころがよくないと、は蹲って体を庇う。男はその体に足をかけて無理やり仰向けにさせると、を見降ろしたまま、袖から垂れる茨で首を縛ってきた。
「しかし名目、形式は必要だ。質問に答えろ、オハラで発見された不審な少女。貴様は魔女か?」
とっくに確信があるくせに問うてくる。海軍という組織を考えれば通れぬ尋問なのか何なのか、そんなものには興味無かったが、答えてこの男に協力する義理もない。口をつぐみ、男を睨みつけると茨が引っ張られ、釣られたの体が、先ほど自分が真っ赤にした海水の中に落ちた。
「古典的だが、魔女かどうかを見極めるのはこの方法と決まっている」
再び海の中に突き落とされ、は先ほどよりもいっそう激しい痛みに絶叫し、引き上げられた時にはぐったりと体の力が抜けていた。
「……随分、安直な手段だね……」
「そうでもない。水の中に投げ入れ、沈めば魔女、浮かんで来れば人間だという。能力者ゆえの魔女、あるいは本物の魔女を見つけるには唯一、何の道具も必要ない術だ」
の嫌味や皮肉にさしたる反応もせず、男は堂々と言い放った。はその「古典的な方法」とやらをよく知っている。
魔女狩りが流行り始めてしばらく経った頃、政府が堂々と発行した「魔女の鉄槌」によれば魔女は水に浮かないとされていて、魔女と疑われた女の体を両手両足縛り、海へ水の中へ投げ込むのだ。普通、これはどんな泳ぎの名人でも沈むに決まっているし、そのまま身動きとれずに死ぬ。そこで死ねば、魔女は死ぬはずがないからこの女は魔女ではなかった、ということになる。それだけだ。
魔女狩り、その拷問。思いだしては嫌な気持ちになった。
最も盛んだったのは500年前からの300年になるという。その間に魔女の疑いをかけられた女が次々に捕らえられ拷問の末に殺されていった。その数は数十万とも、数百万ともいわれている。なぜ起きたのかという歴史的背景は、確か不況や天候の不調など、と本にはある。だが、そうではないことはや、そしてこの男のような、一部の人間にはわかりきっていることだった。
「たった一人、貴様を捕らえるそのためだけに多くの人間が殺された」
500年前に、パンドラ・の体から逃げ出した、影法師の。その、魔女を捕らえるために政府が放った一手。なりふり構わず、どんな手段、どんな犠牲を払ってでも、必ずを捕らえると。そのために行われた魔女狩り。
多くの女が死んだ。多くの女が殺された。大抵は美しい女、賢い女、金持ちの女と、凡庸ではない者ばかりで、今の世が凡庸になってしまったのは、秀でた女、秀でた胎が殺し尽くされてしまったからかもしれないと、いつだったか、誰かが皮肉に語っていた。
男の言葉に、は目を細める。どさり、と、落された床、上半身を起こして、身を引く。
「ぼくの所為だって?始めたのは君たちだろうに。嫌なら止めればよかったんだよ。それを飽きもせず、ねぇ」
「多くの犠牲を払ったが、今日この日、貴様は私に捕らえられた。貴様の為に死んだ命の数だけ貴様は死ね」
ゴギッ、と鈍い音がしたと思ったら、の首が反対方向へ向いていた。首を捩られ、骨を折られたらしい。しかりパチン、とが指をならせば、それは元通りになった。
「何か、したかい?」
「魔女め」
「ぼくがそうだと言った覚えはないよ。どうするの、海兵、魔女の鉄槌によれば、自白がなければ魔女にはできないんだろう?」
少しのおしゃべりのおかげでの体も調子が戻ってきた。と言って、しみ込んだ海水や薔薇の戒めがなくなったわけではない。しかしそれでも、体を修復するくらいはわけないもの。
魔女狩りの拷問のこと、己とて知らぬわけではない。魔女と疑いをかけられたが最後、どんな女も必ず死ぬ、拷問のフルコース。あれならまだ、インペルダウンの拷問の方がましだと聞く。それを今から己がされるのだろうか。さすがに、痛みがないわけではないのでぞっと、は体を強張らせた。
「貴様のような生き物も恐怖心はあるのか」
目ざとく認めた男が小馬鹿にするように笑う。は感情を表に出したことを後悔しながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「無罪で殺された女性はゆうに五百万人ほどだったかい?残念だったね、一千万回殺されたって、ぼくの命は尽きないよ」
「そうか、それは安心した。一千万回貴様に致命傷を与えても、まだなお苦しみを与えることができるということか」
ガッシャン、と男が再度を海に突き落とした。
***
ゆっくりと刃が振り下ろされる。海賊は縛り首がお決まりだけれど、ロジャーはそうではなかった。それがどんな意味ゆえなのか、それはにはわからない。けれどギロチンでもなくて、火刑でもなくて、縛り首でもないその手段は、好きではなかった。
「……」
広間。集まった人の声が大きくて耳を塞ぎたくなる。ゆっくりとロジャーが歩いていた頃の水を打ったような静けさは今はない。今はただ、海賊王とまで呼ばれた男が、今は、無残に殺されようとしているそれを今か今かと待つ、それだけである。
ロジャーは死ぬのだ。今日、この日に死ぬと、あのひとが自分でそう決めた。シャンクスに呼ばれて、は弱弱しく顔を上げる。レイリーは、一緒には来なかった。シャンクスとバギー、そしてだけが、己らの船長の最後を見届ける。
「大丈夫か、お前」
「へいきだよ」
シャンクスはを気遣い、眉を寄せる。本当は自分だって苦しいだろうに、こんな老婆を気遣うものではないよ、と言おうとしては声が出せなかった。喉の奥に、魚の骨でもひっかけたよう、苦しい。胸に何か詰まっているような、押しつぶされそうな、悲しみが、苦しみが襲い来る。
(今日、ロジャーは死んでしまう)
背後から闇が忍び込んでくるようで、ぞっとして、は咄嗟にシャンクスの胸に頭を押し付けた。とん、と少し勢いがついたが、シャンクスは一瞬慌てただけで、きちんとを受け止めた。ドクドクと波打つシャンクスの心臓の音が聞こえる。は顔を上げず、カタカタと体を震わせた。
「お、おい、」
「へいき、だいじょうぶ…へいき、怖いことなんか、ない……」
この処刑、邪魔をしようと思えば、自分にはどうにだってできる。シャンクスとバギーもいる。しかし、も、そしてロジャーの船に乗った誰も彼も、彼の死を止めようとはしなかった。
『今日は死ぬのはもってこいの日だな。』
広間を、まるで王者さながらに威風堂々に歩く、ロジャーの目がそうに告げていた。は、本当は今日、この、彼の、己で選んだ船長の死の邪魔をするつもりだった。レイリーにはそれとなく止めるように言われたが、そんなことを気にするではない。ノーランドを救えなかった、あの苦しさをもう一度味わうくらいならロジャーに嫌われたって構わなかった。
しかし、その瞬間のロジャーの目が、のその決意を消し去ってしまった。
彼は死ぬのだ。今日この日、それが彼の、彼が決めた人生である。そこに魔女などを介入させて、彼の人生を穢してはならない。もし今日、ロジャーがによって救われて、そして奇跡でも起きて病が癒えて、再び海へ繰り出せることがあったとしても、それはもう、の愛したロジャーではないのだ。彼は、今日ここで、己が終わるものなのだと定めた。それを、魔女が穢してはならない。
「ロジャーが決めたことだもの、ぼくの……船長が、決めたことだもの……怖く、ないよ」
己に言い聞かせるようにつぶやく。本当なら、自分はシャンクスや、バギーを気遣うべきだ。幼い彼らにとって今日はどんなに辛い日だろうか。レイリーほど悟っているのなら、笑い、泣き、酒を飲むことができるけれど、しかし、この、まだ幼い二人の海賊見習には、今日はつらい日になるはずなのだ。
それなのに今、自分はシャンクスの腕の中で震えてしまっている。
ごしっと、目をぬぐい、はシャンクスから離れる。
「ごめん、君だって辛いのにね」
顔を上げれば、赤い髪の青年の目に、何か浮かんだその感情、は気づかない振りをした。そう、知らぬ顔をしてもう何年経ったのか。この子の背が大きくなり、いつのまにか男になっていて、その目でを見ている。
***
「思えば、ひどいこと、したんだね…」
ぽつり、と呟いて、は後ろでに縛られたまま、両足を切り落とされた。溢れる血が床を真赤に染める。先ほどからありとあらゆる責苦、激痛はあるが、しかし思い出して感じる胸の痛みの方が勝っていてさしたることもない。眉ひとつ動かさぬに、これまでその拷問の全てを見守っていたあの男、帽子にフードの海兵がぴくり、と反応した。
「……全員部屋を出ろ」
「よろしいのですか?まだ処置は残っていますが」
「二度言わせるな」
っは、と、萎縮した海兵らが次々、早足に部屋を出ていく。パタパタと退散する足音を聞きながらは顔を上げ、残った海兵を見上げる。
「何?」
「なぜ抱かれた?」
「……さっきから、ねぇ、ひょっとして君、ぼくの心、じゃないね、何を考えているのかわかるの?」
「私の問いに答えろ」
ぐいっと、縄を引っ張られて喉が詰まった。はこの拷問、というか、ドSなふるまいにもそろそろ慣れてきたので、溜息一つで、うろんな目をしながら答える。
あの処刑の後、覚悟はしていたが、やはりの心は切り裂かれた。ロジャーの死に耐える音を聞き、心がわなないた。歓声が遠くに聴こえ、目の前が真っ暗になった。ロジャーは海賊時代の幕を開けたが、しかし、に、魔女にそんなこと、何の意味があるというのか。たった一人だけ、これから先一緒に生きていこうと思えたひとが死んでしまって、はどうすればいいのかわからなくなった。広場で人々が海への夢を口にする中、はシャンクスとバギーに引きずられるようにしてその場を去った。
そしてバギーと別れ、その夜、はシャンクスに抱かれた。
思い出しながら、はゆっくりと口を開く。
「あの子を殺したくはなかったからだよ」
抵抗はした。止めてくれと何度も何度も懇願した、殺すよ、と脅しもかけた。嫌いになる、とも言った。けれど、の小さな体はあっさりと組み敷かれて、あっさりと、開かされた。
「赤い髪の、貴様によく似た色の髪だな。まさか貴様の子か?」
「まさか。この体は死体だよ、妊娠なんかしない」
やはり自分の考えていることは、どうやらこの男には伝わってしまうらしい。考えている何もかもが、というわけではないのだろう。漠然とではあるが冬薔薇が告げている、ということか。かつての所有者たちはそういうそぶりを見せなかったが、しかし、もしもこれが、あらかじめある特典であったとすれば。思い至って、は唇を噛む。
(どうりでいつもいつも懲りもせず、ぼくに殺されに来たわけだ)
本来の冬薔薇の刻印の所有者は、に殺されなければ、子孫が残せない。女性を妊娠させても、に殺されなければその女性は子供を産めず、一緒に死んでいく。それが呪いだ。だがそれなら一代か二代で耐えればその苦しみも終わるもの。独身を貫いたっていいわけだ。それなのに、いつもいつもいつもいつも、飽きもせず彼らはに殺されに来た。その度に何度も何度も何度も何度も何度も何度も、気がおかしくなりそうになるほど、は彼らを殺し尽くしてきた。なぜなのか、不思議であった。その疑問が、今はっきりとわかってしまう。
(バカみたい)
「同感だ。貴様などを愛していると、錯覚し、貴様を救おうとした」
「魔女の心が読めるようになってる、君も十分化け物の仲間入り、その力を手に入れる対価は何を払ったの?」
ある意味会話が楽で助かるかもしれないとは前向きに考えることにした。それに、自分の思考が相手にわかったというところで何だというのか。基本的に魔女は嘘をつけない。それゆえ思ったことを口にするのがの常であった。別段、問題などないだろう。それに、正当な所有者ではないのなら、いずれそのオプションも消えうせるものだ。
嫌味のつもりではなくて、ただの好奇心から聞けば、男がスカーフを外した。露になる首筋、そういえば、とはあの島で意識を失う前に、見たものを思い出す。
「……へぇ」
絶句する、のは己らしくないので気に入らぬ、それでなんとか声を出したが、味気ないものだった。は目を見開き、広く開けられた男の胸元を見つめる。まっ白い肌だった。さすがは紫外線キッチリ防止ルックをしているだけある。の白さとそう変わらぬ、肌。傷一つない、その男にしては美しいとさえ言える肌の上に、今の首にあるものと同じ、冬薔薇が刻まれていた。いや、ただの人の身で刻んだ分、茨が太いけれど。
「貴様はこれがどういう意味なのか分かっていると聞いた。これを見せることは私には不利になり、そして貴様には有利になる。その上で見せることが、対価の一つだ」
一つ、と言ったか。それならほかにも差出したものがあるということ。それが何なのか、には想像がつかなかった、いや、完全に、というわけでもないが、この男が語らぬのなら聞くことでもない。それより、にはこの男が、それを承知で今この自分にそれを見せていることが信じられなかった。
冬薔薇の刻印。千年以上前の魔女の庭で咲いた花。を縛り、封じることができる力。バージルの血統以外は扱えぬ、それを無理に扱おうとするのなら、手段は一つだけある。
自らも薔薇に苛まれることだ。
「知ってて、それでもそれが欲しかったの?」
「確実に貴様を捕え、必要があれば殺すこともできると許された唯一の力だ」
の身は誰も傷つけることが許されない。世界の正義の証明者。こそが、いや、800年前に今の世界政府が樹立した折に、滅ぼされたあの巨大な王国。彼らがなぜ滅ぼされなければならなかったのか、彼らが悪であったことを、が体現し続けることにより、政府の正義の正当性が保障されていた。民衆に、ではない。世界に、だ。世界には妙な流れや道理がある。人の意思は関係ないしに、これが正しいのですと、堂々と定めればそれがなんとなく、そうなる、妙なもの。道理、というあやふやな、定め方のわからぬもの、しかし定まっているもの、その、妙なものの中で、政府にはが必要だった。
は、王国の生き残りの魔術師は、それゆえ誰からも憎まれる義務を持ちながら、何もかもから守られる権利を持っていた。何があろうと、魔術師パンドラ・は生き続けなければならない。
世界貴族、天竜人が傷つけられてはならぬ理由とは対極的な意味ではあるが、これも徹底されねば政府が根底から揺らぐことである。
だが、その唯一の例外があった。冬薔薇の刻印の所有者だけは、を傷つけることが許されている。何故か、それはも知らない。だが、そう決められているのだ。だからこの男が、昔に命を助けられたばっかりに、敵意を抱いた、あの海兵が、世の決まりを崩さずに己をどうにかする手段を得ようと思えば、これしかないだろう。
それにしたって、生身の人間が、魔女の知恵を受けて平気でいられるはずもない。正当な所有者ではなく、その身にと同じように薔薇を刻んでいるのなら、から奪った力と記憶はその当人へと流れる。と言って、のように扱えるわけではない。ただ、体中に魔女の呪いが行き渡るだけ。それはどれほどの苦痛なのか、あいにくにだって想像がつかないほどである。しかし、おや、と、そこでは気づいた。
「あぁ、そっか。君は能力者、それも憤怒の炎の末。マグマの身だったか」
ただの炎で薔薇が燃えることはないけれど、しかし悪魔の能力ゆえの炎、それも脆弱な炎ではなくマグマほどの熱量を持つものであれば、能力の相性、植物は炎には弱い。
「君が能力者であり続けている限りなら、薔薇の報いも受けずに済むと、そういうわけか」
ずるいね、と言えば男が鼻を鳴らした。
「貴様と痛みを共用する趣味も義理もない」
「でも、それをぼくが知ってしまえば、ぼくは君が死ねば自由になれるって、わかってしまったということだよ」
この男が死ねば、の薔薇の刻印も消える。がこの男を殺せばいいのだ。それがわかっていて、この男はこれを見せてきた。払った対価に名をつけるのなら「覚悟」というところだろう。
「自分は殺されない自信があるの?」
「できると思うのなら24時間いつでも私を狙えばいい。それは貴様の権利だ」
「……なるほどね、ぼくに殺される、その権利も引き継いだわけか」
子孫うんうんのところがどうなっているのかは知らないが、この男、海軍でもいい地位のようだしもうとっくに子供の一人や二人くらいいるだろう。それなら今更、に殺されなければ子供が生まれない、という呪くらいどうだというのか、という程度なのか。それにしても、この時代のバージルの子孫は何を考えてこの男に薔薇を移したのだろうか。この男に聞けばわかるだろうかと口を開きかけ、は諦めた。
「答えは決まり切っている、あえて聞く愚かさはないようだな」
「気が遠くなるほどの時間かけてぼくを救えなかった彼らだ。それなら別の手で、と、そんな気遣いこのぼくにする必要なんてないだろうにね」
冬薔薇が、の感情や何もかもを所有者に伝えてしまうのなら、歴代の所有者はみなを最も身近に感じ、そして想ってしまってきたということだ。が笑えば、心が軽くなり、泣けば胸が締め付けられる。伝わる心は絆になり、想いが募り、それが愛になる。何度も何度も繰り返されるうちに愛はますます深くなり、に己を殺させてしまうとしても、それでもいつか救えればと、その一心ゆえのこと。
「それでも上手くいかなくて、今度は、絶対にぼくを愛さない、君みたいなドSを所有者にしてみた。ぼくの何もかもを知って、その上でどうするのか、ギャンブルだね」
救う気があるのか、と聞けば、男はあっさりと否定してきた。それが小気味よく、は目を細めて笑う。
「ロジャーが死んでしまった今、別段死にたいなどとは思わないけれどね、君を殺してみるのも面白そうだ。首輪をつけたからと言って油断するんじゃあないよ、従順に飼われる猫にはなれないんだからね」
「貴様も重々承知しておけ。何があろうと私は貴様を愛しはしない。貴様に憐憫も湧かん。それゆえ、貴様が死んだ方がマシだということしかしない」
それは中々新鮮だと、は肩を竦める。思えば、それはかなり愉快ではないか。この世で唯一、この自分を正当に傷つける権利を持ち、そして能力者でありながら飢餓に苦しむこともなく、の何もかもを知ることができるのに知りたいとも思わない。けして自分を愛さない、しかし、最も、その役が相応しく充実するだろうひと。
もしも、己を愛してしまったらどうするのだろう。ふとそんな疑念がわいた。ありえないだろうし、そんな展開は自分も心底つまらないのだが、しかしこの、絶対に愛さないと自信がある男がそんな展開に陥ったら、さてどうするつもりか。
考えが読まれたらしい、ぐいっと、首を掴まれて引き寄せられた。息が感じられるほど近くになり、相手のまつげの影まで見える。は目を大きく見開き、男の目に自分が映っていることが妙に不思議に思えた。男は目を細めて、口の端を吊りあげる。
「その時は、貴様と心中する他あるまい」
「おや、ぼくのためにかい」
「貴様を葬り世の悪を絶つ。私の正義のためだ」
その答えがは気に入った。喉を鳴らして笑い、は腕を伸ばして男の首に腕を回す。そのままゆっくりと口付けて、目を細めた。
「ねぇ、君はぼくに殺されるか、ぼくを愛して一緒に死ぬか、それともこのままずっと、を保てるか。それしかないんだね。ねぇ、それ、なんだかとっても楽しそう」
囚われるのも悪くないかもしれないと、は微笑む。どう考えても健全な思考とは言い切れないし、どちらかと言えば「え、これヤンデレ?」と突っ込みたくなるけれど、それはそれ。それを言うならこの男とてツンデレ属性か、と突っ込んでやらねばならなくなる。そんなのは面倒だ。
舌を入れれば、噛み切られた。容赦ない、とは体を引き、自分の両足で立って男を見上げる。
「これから先、君が死ぬまで一緒にいれそうだ。よろしく頼むよ、海兵さん」
Fin
アトガキ
さんが物凄く暗い思考の上にヤンデレって…。最近組長で書きなれてる所為で何度も「わし」とか「じゃぁ」とか打ちました。サカズキさん危うし…!!過去編なのに組長の影響がこんなところにまで…!!!(ガクガク)
(11/21/2009 10:47 PM)
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