馬鹿だ。

馬鹿だとは思っていたが、ここまで馬鹿だとは思わなかった。

海軍本部渡り廊下から、訓練生の集まるグラウンドを眺めるクザン、呆れを通り越して哀れみさえ沸いてきながら、顔を引き攣らせた。

「な、なにしてんの、サカズキ」

目の前、せめて隠れろよ、という突っ込みさえ退ける堂々とした様子で、仁王立ち。海軍本部の最高戦力の一人が真っ直ぐ、グラウンドを眺めている。
確か、クザンが2時間前にここを通りかかったときと全く同じ体勢である。

……仕事しようよ、ホント。

まさかサカズキに対してそんな言葉を吐きたくなる日が来るとは思わなかったが、しかし、え、まさかが休憩取るまでずっとここでモモンガ中将に鋭い視線を投げ続ける気じゃねぇだろうな、と、そんな疑問。多分間違ってないだろう。

クザンのぼそっとした、しかし切実な突っ込みに、サカズキは一度ちらり、と視線を向けて煩わしそうに眉を寄せた。

グラウンドではが必死に走っている。クザンから見て、効率の良い走り方ではなかった。あれではすぐに息が上がってしまうだろう。後で会ったらそっとアドバイスでもしてやろうかとぼんやり思っていると、同僚に睨まれた。

「貴様、余計なことを吹き込もうとしちょらんじゃろうなァ」
「余計なことって何よ。サカズキだってちゃんが苦しい思いするの嫌だろーに」
「さっさと音を上げてわしの元に戻りゃええものを…妙なことに拘りおってからに。あれは無駄ことばかりしちょる……」

忌々しそうに言いながら、再度に視線を戻す。ぽりぽり、とクザンは頭をかいて、溜息を吐いた。

妙なこだわり、とサカズキは言うが、からすれば、考えに考えたことなのだろう。
サカズキが協力的になればがどれほど喜ぶか、どうしてこの馬鹿は解らないのだろうか。妙なところで石頭、鈍いのである。

「ちなみに仕事は?」
「終わった」
「え、2時間で…?」
「戦争前でもなければあの程度の量にそれほど時間はかからんじゃろう」

さいですか。

いちおうクザン、自分に回される量の二倍の仕事をサカズキが処理しているのを知っている。

さすが仕事の鬼。ストーカー行為(無自覚)の最中もしっかりやることはやっている。

「…で、何?ここで突っ立ってモモンガ中将に適度なストレス与えて…楽しい?」
「あれを見ろ」

呆れるクザンをスルーして、くいっと、サカズキが腕を組んだまま顎でグラウンドを指す。相変わらずが一生懸命走っている。が、それ以外何か妙なことなどない。

モモンガ中将は蛇ににらまれた蛙のように身動きできずにいる。

「何?」
「……普段履かん運動靴など、足を痛めるだけじゃ。先ほどから少し引きずっちょる、それに水分を採っちょらんけ。この日差しじゃァ、熱中症になるじゃろう」

……いや、訓練生は倒れてなんぼなんじゃないのか。

というか、海軍本部の訓練なのだから、は普通、もっと辛い思いをしているはずだろう。モモンガ中将がいろんな葛藤と戦いながら、今のところはとても、穏便なメニューになっているはずである。

サカズキの過保護っぷりに、クザンは目を点にして、走るを眺めた。

言われてみれば確かに、足が痛いのか踏み込むたびに顔をゆがめているし、汗で髪が額に張り付いている。呼吸が上手くできないのか肩を震わせて、今にも倒れそうだ。

倒れれば休めるだろうが、の性格を考えれば、意地でも倒れない。あの子はそういうところがあった。我侭で、どうしようもないが、しかし、意地を張る。

サカズキもそれがわかっているから心配でしょうがないのだろう。

クザンはぽりぽり、と頬をかいた。

「でもねぇ、がお前さんに泣きつくような展開にゃ、ならねぇだろ」

ぼそり、と言えば、ただでさえ不機嫌そうだった男の神経逆撫で。げしっと、蹴りをかまされた。本気だったらしい威力に、ヒエヒエの身の防御、ぼきぼきとクザンの左足が砕けたが、それ、完全に八つ当たりである。


(頑張れー、

メキメキと人体に戻りながらクザン、あと少しで休憩時間になるだろうから、その時にクーラーマスクでも差し入れてやろうかとぼんやり考えた。



+++




気持ちが悪い。

走り終えたの感想は、つまりその一言に尽きた。

頭がガンガンなっているし、心臓が落ち着かない。
どう息を吸えばいいのかもわからないし、足がガクガクと震える。

(走るのって、こんなに辛いんだねぇ)

これまで、サカズキの部屋の窓からぼんやり海兵らの訓練を眺めたことはあった。

そのたびに「うわぁ、大変だねぇ」と完全に他人ごとのように思い(事実他人ごとだったし)そのほかは何も考えなかったのだが、こんなに苦しいものなのか。

、やっと走り終わって、もう動かなくていいというのに未だに呼吸が苦しいと顔を顰める。

普通に考えれば、立ち止まるよりゆっくり歩いていた方がいいのだろうが、そんなことは知らぬ子。

くらくらと眩暈のする頭を押さえながら、皆に送れること50分、練習再開は10分後だ。

本当はこのまま冷房の効いた部屋(クザンの部屋)にでも逃げ込んで寝てしまいたいのだけれど、そうもいかない。

少し休めるなら、とは日陰を探した。

(あ、あそこ丁度いい)

グラウンドの隅にちょうどいい具合に人がおらず、木が影を作ってくれている場所を見つけた。
朦朧とし、ふらふら、とした足取りでそちらに向かおうとすると、どん、と何かにぶつかる。

「きゃっ」
「おい、お前、女みたいな声出すなよ。情けない」

前をしっかり見ていなかった、どうやら誰かにぶつかったらしい。尻もちをつきながら、は自分を見降ろす青年を見上げる。

確か、同じ訓練生だ。
先ほど自分が走っている最中にモモンガに何か意見を言っていた金髪の青年である。

じろり、と見降ろされ、はむっとした。
ここしばらく、は「素直」「良い子」を自分的には押し出して頑張っているものの、基本的に己の性格「傲慢」「尊大」であると自覚している。

ぶつかってしまったのは自分だったが、自分よりも背の高い男、ふらふらと小さな子供が近づいてくるのが解らなかったはずがない。

ということは、明らかに故意である。
それに、これまでが見知ってきた男性は皆(時々例外はいたものの)親切だった。
礼儀をわきまえていたし、たとえ非がこちらにあったのでも、転んでいれば手を差し伸べてくれた。

傲慢な話だが、、そういう無礼な態度には慣れていない。

「謝罪もしないのか?」

眦を上げるを青年が見下す。はこみ上げる吐き気と、それに怒りと闘いながら、はぐっと、歯を食いしばり、ゆっくり立ち上がる。一度座った所為で体はより重くなった。

「ごめん、ぼく、前見てなくて」
「名前は?」

謝罪を求めたくせに、の言葉を遮って問う。確か、初日におつる中将の部屋で全員初の顔合わせをした時にそれぞれ名乗ったはずだが、覚えていないのか。

は同期となる者全員の名前ならもう覚えている。
この青年は興味がないなら覚える必要がないとでも思っているのだろうか。

だよ」
「ファミリーネームは?ないのか?」
「ないよ。ただの
「ふん、孤児か?」

だったらなんだというのか。
は青年、グリフィス・ニコラスを睨む。

知っている。名門グリフィス家のご長男どの。
の旧知であるアーサー・ヴァスカヴィルやジョージ・ペンウッドと並ぶお貴族様だ。

確かグリフィス家は代々、世界政府の要人を排出している。現在の当主は世界政府上層部に名を刻んでいた。

「ぼくに何か用?ニコラスくん」
「なれなれしく呼ぶな。お前みたいなのがどうして、この選ばれた訓練生の中にいるのか不思議でならない」
「それは中将に聞いた方が早いんじゃないの」
「聞いた。足手まといになるとはっきり申し上げた」
「ふぅん」

今現在、たちの階級は「新兵」だ。

いくら「未来のエリート候補」なかなかのイレギュラーな存在とはいえ、そのたかが新兵が中将に意見するなど。

ニコラスには自分の家柄に対する自負が見て取れた。

そう言えば、最初に走り終えたのも彼だったかと、は思い出し、それならほかの連中全員が彼にとっては足手まといなのかもしれないと思う。

「それで何だって?」

さっと、ニコラスの顔が屈辱で赤くなった。

おや?とは目を細める。
モモンガ中将は家柄や何やらを尊重するようなつまらない男ではない。おそらくニコラスが「みんなのためを思って」進言した言葉を一蹴にしたに違いない。

「お前には関係ない」
「変だね、ぼくのことなのに」

きょとん、と首を傾げて、は不思議そうな表情を作る。体は相変わらず辛いが、やっぱり自分他人をこうして追い詰めていると気分がいい。

そんな外道なことを考えていると、きつくニコラスに睨まれた。

「とにかく、お前は足手まといなんだ」
「そうだね」

自覚はある。

「わかっているなら、今日今すぐ辞めろ。これ以上、俺はレベルの低い人間と一緒の訓練を受けるのは耐えられない」
「忍耐力が培われるなら、ぼくも役に立てるってことだね」

軽口をたたいた瞬間、の視界が真横にそれた。

「ッ!!」

頭を殴られたのだと気づくのに少し時間が必要だった。
頬を張り飛ばされ、唇が切れる。

いくら、若いとはいえ、のような小娘からすれば、立派な体格をお持ちのニコラスの一撃。

首が痛くなるほどの衝撃に、は体を崩し、地面に倒れ込んだ。

「生意気な口を聞くな!!ここは海軍本部だ!!正義のために、誰もが強くなければならない!!弱い奴は今すぐ逃げだせ!!!」

そのを見下ろし、ニコラスが叫ぶ。崩れ落ちたの胸倉を掴み、声を張り上げた。また殴ろうとするのか、振りあげられた手、はっと、は目を見開いて叫んだ。

「お願い!!止めて!!」
「殴られたこともないのか!?俺はお前みたいなのか一番嫌いなんだ!!」

の叫びは、ニコラスへ向けてのものではなかったが、しかし彼にはそう捕えられたよう、低俗なものに制裁を加えるような、燃える眼差しでへ手を振りおろした。

ぱしん、と、乾いた音が再度響く。
再びの衝撃、今度は最初よりも痛かったが、はほっとした。

心の中でクザンに感謝しながらはぎゅっと、唇を噛み、様々な感情を押し殺してから、とてもすまなさそうな顔を作り、ニコラスを見上げる。

「ごめんなさい。迷惑、かけているってわかってるんだ。でもぼく、どうしても海兵になりたい。うぅん、ならなきゃ、ダメなんだ。だから、一生懸命がんばるから、お願い」
「口だけだ。どうせ、お前は逃げだす。だったら俺の邪魔にならないよう先に逃げだせばいいんだ」
「逃げないよ」
「どうして言い切れるんだ。たかが走ったくらいでもう立ち上がれないようなヤツが」
「誰だって最初はそうでしょ。ぼく、これまで走ったことなんてほとんどなかったんだ」

ニコラスの目は相変わらず冷たかったが、が心から謝罪しているのが伝わったらしい。すっと、掴んでいた手を放し、の腕を掴んで引き起こす。

「本気で海兵に、本部の海兵になりたいと思っているのか」
「なりたいからここにいるんだよ。思ってなかったら今頃ソファで本でも読んでる」

また軽口をたたいたが、今度は殴られなかった。
代わりに、ニコラスは眉をよせ、じっとを見つめている。

「なぁに?えっと、グリフィスさん」
「――ニコラスでいい。お前は弱いし、女みたいな顔をしているから、きっとそのうち音を上げて嫌になる」
「今でも十分嫌だよ。辛いしね」
「でも逃げないのか」
「こんなに苦しい思いをして走った時間、無駄にしたい人っている?」

ふん、と、ニコラスが鼻を鳴らした。笑った、のかもしれない。
もニコリ、と笑って、ニコラスに手を差し伸べた。

「心配してくれてありがとう」
「心配?俺が?冗談だろ。俺はお前がいると訓練の質が落ちるのが嫌なんだ」
「ぼくはできるだけ前向きに考えるようにしているんだよ。だから、ありがとう」

もう一度くいっと、手を差し出した。
ニコラスはその手を眺め、軽く叩く、握り返してくる。

「名乗らなかった無礼を詫びる。俺はグリフィス・ニコラス。お前が弱くて阿呆なのはわかった。でも、根性なしじゃないってことも、わかったつもりだ」
「ぼくも、みんなに迷惑をかけてしまっているってわかったつもりだよ。だから、がんばる」

和解できたということなのだろうか。
の頬は相変わらず腫れて痛かったし、そのことについてニコラスは謝罪はしなかった。
間違ったことをしてはいないということだろう。
確かにも、殴られても、まぁ、ちょっとしかたなかったかもしれない、とも思う。

(若いんだしね)

ニコラスが聞けばまた怒りそうなことをぼんやり思い、はそう言えば、と顔を上げた。

「ぼく、トイレに行って吐いてきたいんだけど」
「トイレまで行っていたら、道場に遅刻する。こういうときは、茂みに行って穴を掘ってその中に吐けばいいんだ」

ニコラスが建物に付けられた時計を見た。こんなことをしていた所為で、訓練再開まであと5分ほど。
道場はすぐ近くだが、、結局少しも休憩できなかった。

「そう、わかった。ありがとう」
「俺はついていかないぞ。女子じゃあるまいし、一人で問題ないだろ」
「当たり前だよ。ニコラスくんはもう行くの?」
「あぁ、お前の所為で遅刻したくはないからな」

おや、とは笑う。
今のは嫌味ではなくて軽口だった。

それで手を振り、トコトコと、走りたくなかったが、そうも言ってられない、茂みに入り、溜息を吐く。

「何してるの、サカズキ」



Fin