死んだように横たわるその体を抱き上げてルッチ、眉を顰める。血まみれは当たり前のように彼女の服を赤く染め上げ、酸化してさらに別の色へと変化した。ルッチの気配に気付いたのだろう、閉じていた眼がゆっくり開く。青い目、いや、真紅の瞳。彼女の瞳が時折変化することをルッチは知っていた。それがいつどのような時なのか、それは、気付かぬほうが良い。
「ふ、ふふふ。手を貸してね、ルッチくん」
「当然です、パンドラ」
言われるまでもなく、その為にここへ来た。海軍本部、最奥にひっそりと存在する彼女の住居、箱庭。CP9としての任務を完璧にこなせばルッチはここへの訪問をほんの一時許される。現在は水の都に潜入中だが、この特権を手に入れるためにロブ・ルッチはガレーラの休日を使い別の任務をこなしていた。
今回の任務に赴く前、働きすぎだとカリファに窘められた。潜入任務についてもう四年、休日は全てパンドラの為に使い、休みはガレーラ職人として過ごす夜くらいなもの。しかし、それでガタなどくる並みの生き物ではない。
傷に響かぬようにゆっくり抱き上げる。手当てをしたかったが、この方に限ってそれは不要だ。消毒、縫合などの一切、逆に痛みを与えるだけと知っている。ならば己に出来ることなど殆どなく、こうして腕に抱き上げて彼女の望む場所へ連れて行くことしかできない。それでも、彼女が冷たい床の上でいつまでも動けずにいるよりは、役に立てているのだろうか。
「どちらへ?」
「うん、お風呂。寒くてさ」
「血を流しすぎです」
抱き上げた体は怖ろしいくらいに、軽い。アバラ骨が指に当たるほど。当たり前のように食事は必要としない方だ。
「今日の赤犬の……理由は何だったのですか」
「知らない、気温と湿度が気に入らなかったんじゃないの」
手っ取り早く暖を取ろうとする。己が抱きしめてそ温度を分け与えればと、叶えられぬことを思う。
きみは美しい
ぱしゃりと湯を跳ねさせて、表情を和らげた。ミルク色の湯の上にぷかぷか浮かぶ、黄色いアヒルの玩具。
「買ってきたの?」
カーテンの向こうに控えているだろう男に声を掛ければ、少しの沈黙、躊躇うような、しかし、言葉には答えねばと心構え。
「はい。差し出がましいこととは思いましたが」
「かわいい」
「喜んでいただけたのなら、何よりです」
うん、うれしい、と呟いて、浮かんだアヒルの玩具を掴む。確か少し前、最後にルッチと会った半年前にお風呂にはアヒルだと、そういう話をした覚えがある。それをこの男が覚えていたのがまずには面白い。いや、諜報員などやっているのだから記憶力がよいのは知れたこと。しかし、潜入時であっても愛想のよい生き物にはなれぬロブ・ルッチが、よりにもよって可愛らしいアヒルの玩具を買ってきたことが、には体の痛み一切を忘れてしまえられるほどに面白かった。
ころころと声をあげて笑い、肩までじっくりと湯につける。どんな顔をしてルッチがこれを買ったのか。ちょっと気になる。
「ねぇ、ルッチくん」
「はい、なんでしょう」
「今度一緒に買物に行こうよ。蜂蜜のいっぱい掛かったワッフルとか、イチゴのパイとか。チョコガラージョとか、ルッチくんが買ってくれたら面白い」
生憎との体、食べ物の味などわからぬけれど、そういう風景は見てみたい。素直な欲求。己といる時でさえ仏頂面でしようのないロブ・ルッチが可愛らしい菓子の名を言うさま、想像してはころころと笑う。
「貴方が喜んでくださるのなら」
が笑えばルッチが畏まる。言葉に出すほど容易いことではないともわかっていた。まず、いくらロブ・ルッチ、政府の信頼の厚い男とはいえ、自分を外に連れ出せる権利は持っていない。ふらふらと海を彷徨ってしようのないイメージのあるだが、ガレーラへの定期的な滞在以外では、この二十年と少し、サカズキに伴われる以外で外に出かけたことなど、片手で足りるほど。
それでもが望めばルッチはどうにかしようとするだろう。その為の取引材料、事欠かぬ昨今の情勢を、どう思い煩えばよいのか。は一度目を伏せて、湯で顔を洗う。つとめて明るい声を出す、ただでさえ、ルッチは、ロブ・ルッチには酷いことをしているのだと、自覚がある。これ以上の夜に引き摺りこむことは、さすがに躊躇われた。
「前にSiiとクザンくんと、サカズキと四人で遊園地に行ったことがあるんだけどね、その時にサカズキがクレープと林檎のベーグルを買ってくれたんだよ。あのサカズキが、ふふふ、注文している時なんの呪文かと思ったよ」
なんでもないことのように言い、あえて不快に思うだろうことを言う。魔女の悪意などではない。はこれを己の憐憫だと知っていた。人がまがごとを繰り返すのを黙って見ているのが、の魔女たる由縁だけれど、しかし、もうこれ以上ロブ・ルッチには何もしてほしくないと、思っているのだ。
「……えぇ、そうですね」
サカズキを引き合いに出して、不快に思わぬ男などいないとは知っていた。あのミホークでさえあからさまに眉を顰める。サカズキと自分の間にあるものは甘い感情などではなく、ただ、いつか殺し・殺されるその約束だけなのだけれど、自分を「愛して」しまった彼らにはけしてできぬ約束。それをが至高のものとしているものだから、彼らにいらぬ、劣等感(にも似た、敗北感)を与える。
最初からこうして切り捨てるのなら、いっそ言葉など交わせぬようにすればいいのにと思いながら、はルッチをどうしても退けられない。今だってそうだ。自分から買物に行こうと言い出したくせに、この、しうち。
それでも、はルッチが自分を見詰めてくる眼から、目を背けられない。愛などではない。そんなものを持てるほど、自分はまともな生き物ではない。ではなぜか、答えなどわかっている。
「ねぇ、ルッチくん、ぼくがいなくなったら悲しい?」
「戯れでもそのようなことを仰るのはお止めください。考えたくもありませんね」
カーテンの向こう、先ほどのサカズキの名で下がった機嫌が一層、悪くなるのがわかった。悟らせるほどあからさまにはせぬルッチだけれど、、これでもルッチよりも何倍も何倍も生きている。人の感情、それほど鈍感ではない。
「貴女のいない世界など滅んでも構いません」
心の底から、本気で言っているのがわかる。それでも、はそれを信じることができない。だからこうして、何度も何度も、問うのだ。
「ぼくのためなら何でもしてくれる?」
「望む全てを叶えさせていただけるのなら」
はきり答えられる。しかし、は「そう」と頷いただけだ。それを、全て信じることが出来る日はこない。ルッチは本心で言うのだろう。だが、だが、それでもルッチは、今水の都にいるのだ。
(その言葉を、信じられたら)
ルッチは、ロブ・ルッチは、現在アイスバーグの命を握っている。全ての決定権を持つのはスパンダムだが、しかし、ルッチには「特権」がある。気が逸れば、少しでもアイスバーグが「悪」を示せば、スパンダムの指示など関係ない。正義を貫く男。あっさり、本当にあっさりとアイスバーグを殺す。それをは信じられた。殺さぬと、何度も何度もルッチに約束させても信じられぬのに、ルッチがアイスバーグを殺すだろうという、その可能性だけは、信じられるのだ。
だからは、ルッチに会う。ルッチと言葉を交わす。少しでも、ほんの僅かでも、ルッチがアイスバーグに手をかける可能性を減らせるように。己がルッチに好かれているわけではない。悪魔の実を口にしたルッチが求めているのはパンドラだ。エニエスに眠るあの魔術師に、悪魔たちは恋焦がれて止まない。だから、パンドラの魂を持つ己に跪く。
が悲しむから、アイスバーグを殺さないようにしようと、ほんの少しでもルッチが躊躇えればいい。それだけの為に、はルッチの面会を受け入れるのだ。
どれほどルッチが己に愛を囁いたところで、どれほど畏まって手を取られたところで、はルッチを信じられない。きっと望めば、が望めばルッチはCP9をやめるだろう。がルッチだけのものになれば、ルッチだけを、あいしている、とそう囁けば。けれど、そんなことはできない。意味がない。ルッチがいなくなっても、死んでくれても、新たなCP9が派遣されるだけだ。スパンダムは諦めない。だから、ルッチがいることで、まだ、ルッチなら、どうにかできるかもしれないと淡い期待をは持てる。
湯の上に浮かべたアヒルを掌に乗せて、は目を伏せた。
(だから、愛なんて鎖にしかならない、無意味なものなんだ)
Fin
はい、とことん文章が書けない病ですネ。パン子さんでやろうとしたら、あの人に悲劇性なんてない原点でおじゃんになりました。