目の前を機嫌よく歩く幼い少女、魔女という禍々しい名を頂くにはあまりにもあどけない様子の生き物の頭を見つめながらボガードは顔を顰めた。立場上、ボガードはこの生き物のある程度の情報は教えられている。世に悪意を撒き散らす魔女。嘆きの声は夜を深くし、人を、人を破滅へと導きながらも当人はまるで無関心。オハラ消滅後当事中将であった赤犬に捕らえられ以来その身を海軍本部に置く。世界の敵。この世の悪そのもの。この魔女が「悪」である限り、世界政府は掲げる思念を「正義」であると貫ける、とそのような表裏一体性。そういう話は、聞いている。

海軍本部内ではこの魔女について様々な憶測もあった。基本的に魔女は“奥”から出てはこない。つねに大将赤犬の傍らにおり、その身を守られている。世話役となるのは准将以上の身分、少将・中将、簡単に言えば海賊らから恐れられるほどの身分の、屈強な男らがよく足蹴にされている光景をボガードも見ていた。

「ふ、ふふ、ふふふ、嫌そうな、顔。してるね?」
「……いえ」
「ぼくが嫌だからってわけじゃァ、ないね。ふふ、思い出してしまって、今にも泣いてしまうのかな?」

低く人を小ばかにすることに人生をかけているような、軽快でまた嫌味ったらしい卑屈な笑みを魔女が浮かべる。そうして堂々とのたまってきた戯言にボガードは反応するつもりはなかった。帽子の影で一度目を伏せ、己よりも背の低い魔女を見下ろす。が、その体勢は無礼であるといわんばかりの青い目に、呆れ半分、しかし結局は膝をついた。ガーブ中将を前にしてさえ跪いたことはない。(そういうものを求めぬ御仁であるということもあるが)多くの海兵があっさりとこの傲慢な魔女に屈した姿を見てきたが、なるほどとも思う。抵抗する気力がわかず、と言って屈辱感もないのだ。そうすることが当然のように、まるで息を吸うかのようにあっさりと出来る。素直に膝をつけば魔女が不服そうに鼻を鳴らした。あまりにも手前勝手な態度であるがボガードは特に何も言うつもりはない。

魔女は己の足で歩くことを殆どしない。手を差し出せば、当然のように魔女がボガードの首に腕を回してきたので、ボガードは腕に抱き上げた。

少し前までは、その役割は誰のものだったのか。

ちらり、と脳裏に浮かぶ光景にボガードは首を振った。

その仕草に気付いたろうに目の前の魔女はそ知らぬそぶりで小首をかしげ何もかもが不思議だというような顔をする。

「ねーぇ。ガープくんって、どうしていっつも面倒ごとを背負い込むのかな?当人、面倒なこととか全然似合わないしがさつなのにね。結局いっつも、さ、ガープくんって、自分でいろんなことを背負い込むよね」

子供をその腕に抱き上げたことなど、ボガード、これまで一度もない。どこまでもあどけない少女の顔。その瞳の輝きは朝日を反射する海のように鮮やかだというに、どこか暗い。子供を抱き上げたとて満足に心地のよい持ち方などできるはずもないことはわかっているのに、魔女は文句を言うわけでもなくじっとボガードの腕の中に納まっている。

「ねぇ、何か喋りなよ。ぼくだけ喋ってバカみたいじゃァない?」
「相槌を求められているとは思いませんでしたので」
「上官をバカにされたって怒らないんだ」
「貴方の言葉は、ガープ中将を謗る言葉ではないでしょう」

言えば魔女が肩眉を跳ねさせた。ふぅん、と鼻を鳴らして妙な頷きをしてから、ボガードの帽子のつばを弾く。

「きみも、きっと教師とかに向いてるんだろうね」

感心するというよりはただ思ったことを反射的に口に出すという声音で魔女が言う。それは魔女の予言か何かか、といおうとしてボガードはやめた。ただ黙って、コビーたちの消えたほうへ進む、と、再度魔女がボガードの帽子のつばをコツン、とやった。



 

 

 

 



コビメッポ奮闘記 中編


 

 

 

 

 



海軍本部“奥”から少し距離のあるその場所は将校らが会議などに使う部屋の多い場所。全てが木造、石庭や池があり、松の木が多く植えられている。海軍本部はワの国の建築技術を多く取り込んでいる。廊下の板に専用のブラシをかけながらコビーはきょろきょろとあたりを見渡した。

「すごいですよ、ここ。普通の雑用だったら絶対に入れません」
「だったらなんだよ。どこだろうと面倒臭ぇ掃除に変わりはねぇだろうが」

一緒に雑用に戻ったヘルメッポは相変わらず面倒臭そうだったが、ガープ中将に怒鳴られた効果もありその手はきちんとブラシかけをしている。ワックスの缶の蓋をあけながらコビーは苦笑して首を傾ける。

「そりゃそうですけどね。だって、感動するじゃありませんか。海軍本部の“奥”に繋がるこの場所は、本来なら准将以上の海兵でないと入れないんです。こういう掃除だってするのは佐官クラスだっていうじゃないですか。そんな場所にぼくら、まだ階級もないぼくらが入れるなんて」

今は昼時のためか人通りはない。だが通りかかる海兵が皆このグランドラインでは名を馳せる海の強者なのだろうということは想像に難くなく、コビーは胸を躍らせた。

「海軍大将も通るかもしれませんよ!ヘルメッポさん!そうしたらどうしましょう!!」
「大将たって海兵、ふつうのオッサンだろ?そんなんに会ってどうすんだよ」
「オッサ…!?なんてこと言うんですかヘルメッポさん!!だ、誰かに聞かれたらどうするんです!!!」

ごしごしとブラシをかけながらヘルメッポが興味なさそうに呟く。その内容にコビーはぎょっとし、慌ててヘルメッポの口を押さえた。

海軍本部最高戦力の大将を普通のオッサン呼ばわりとは!

顔を引き攣らせ、コビーはうろたえた。ヘルメッポとて、父親であるモーガンが海兵だったのだから海軍の階級については知識があるはず。そしてある意味コビーより海軍のことは知っている所があるはずだ。

「海軍本部が誇る最高戦力、たった三人しかいない大将…!この世界の戦力バランスの一角なんですよ!?」
「そんなこと言われなくてもわかってるよ。世界政府が七武海、んでもって海賊が四皇。海軍本部の三人の大将がにらみ合って今んトコの世界のバランスてやつが保たれてんだろ?」
「そうですよ!そのうちの大将が、ただのオッサンなわけないでしょう!!」

コビーからすれば七人・四人・三人というところが海軍のすごいところだと思っている。それは三つの勢力でうまくバランスが取れているという理屈はわかるが、七武海が七人で一つ、四皇が四人で一つに対し、海軍本部は三人でその二つに対抗できていると、単純な発想だとわかってはいるのだが、そう思えてコビーは誇らしかった。絶対的正義を掲げるこの海軍本部。

その「最高戦力」となっている大将。コビーは未だそのうちの三人の誰とも面識はなかったが、名前だけは知っている。

「すごいなぁ…憧れますよ…!ぼくらなんかとは全然違う、きっと強くて真っ直ぐで、そして優しく立派な方なんでしょうね!!」

この海軍本部にいれば、いずれ遠くからでも目にすることができる機会があるかもしれない。もちろんコビーは、己らを引き入れてくれたガープ中将が伝説の海兵であることは知っている。海賊王と何度も戦った強者であることを知っている。本来自分らが話を出来る人ではないことをもちろんわかっているのだが、それでもやはり、海軍本部の三人の大将には憧れるのだ。

「立派だし強い海兵だってのはわかるけどよ、そんなことより今俺が気になってんのはいつになったらこの雑用が終わるかってことだよ。っつーかどんだけ広いんだよ、ここ」

夢を語るコビーに反論する気はないらしいヘルメッポ。とりあえずこの廊下のワックスかけを命じられたという現実に引き戻しながら疲れたように息を吐く。午後のうちにこのあたりの廊下を終わらせなければならないのだが、もう一時間以上かけてまだ十分の一も終わっていない。

現実に戻りコビーも溜息を吐いた。

「頑張りましょう。やらなきゃならないんですから、手を動かしていればそのうち終わりますよ」
「でも飽きるよねぇ。つまんないよねぇ。ぼくも見てるの飽きてきたよ?」
「何女の子みたいな声出してるんですか、ヘルメッポさん。飽きたって終わりませんよ」
「いや、俺じゃねぇし」

真横から聴こえた、ヘルメッポのものにしては妙に甲高い声にコビーは顔をしかめたしなめる。しかしコビーの言葉に続いてヘルメッポが否定し、隣を振り向けばパタパタと手を振っているではないか。

「え?」
「どっちかっていうと、横向いてもうちょっと上に注目?そんなマツゲの女声と間違えられるなんて。どんなミラクル?」

ヘルメッポではないらしい。それでヘルメッポとコビーがあたりを見渡すが声の人物は見当たらぬ。首を傾げていると、再度その少女のものと思われる明るい声がかかった。

「え?こっち、ですか?」

声の言うとおりやや上の方に視線を向けると、海軍本部の塀の上にちょこんと腰かけた、明るい髪の少女の姿が目に入った。

暑い太陽の光にきらきらと輝く、暖色の髪。海のように真っ青な瞳は深く深く、けれども夢のように美しい。日の下にあるのが危険なほど白い陶器のような肌に、目の覚めるほど美しく、愛らしい顔。その顔がこちらに向き、コビーの視線に気付いてニコリと笑った途端、コビーの心臓は跳ねた。

「え、あ、あ、ああ、あ、あの…」

装いはこの海軍本部にふさわしからぬ黒いワンピースに、靴は紅蓮のような赤。真っ白い靴下は膝上まで来ており、塀の上に腰掛けたままぶらぶらと揺れている。腰に結ばれたリボンもまた赤く、ゆらゆら揺れる様子が蝶々のようだった。

コビーは顔を赤くし、何やら不審人物にも見えるこの少女に何か問おうとするのだが、舌が上手く動かない。急に体中の温度が上がり、心臓がバクバクと激しくなっているのが少女に聞こえやせぬかと気になった。

そういう初々しい様子のコビーを少女はますます笑みを深くして眺めるのだが、一人きょとんとしているのはヘルメッポ。首を傾げた後、とりあえず手に持ったタワシを少女に向かって投げつけた。

「ぎゃんっ!!ちょ、突然何するのさ!!」
「何もなにも、おめーこそ何だよ。人のことマツゲ呼ばわりして、それ以前に、そんなとこで何してんだ」

ものの見事にタワシが少女の頭にヒットした。ごつん、とそれはいい音をして少女の頭が一瞬揺れ、そのままタワシは落下したのだが、少女は頭をさすり恨めしそうにこちらをにらんでくる。

「全く。皆ひとの頭を何だと思ってるわけ?インク瓶はぶつけられるし、こんなマツゲに汚いタワシぶつけられるし、っていうかタワシ!!!ぼくの綺麗な髪になんてことを!!!」

少女はひょいっと塀を降りて、ぶつくさ言いながらこちらに近づくと、ヘルメッポに向かってタワシを投げつけた。いくら元道楽息子と言えど、多少は鍛えられているからか、ヘルメッポは少女のその反撃をひょいっと避け、そのまま殴りかかろうとする腕を押さえた。

「おいおい、なんだよ突然!おいコビー!いつまでも赤くなってねぇでなんとかしろ!」

唐突に表れた妙な少女。身なりは、ヘルメッポの目から見てかなり良い。一応昔はモーガン大佐の威光をかさにきて贅沢三昧していたのだ。目利きは出来る。一目で金がかかっているとわかる布地に拵えの服、リボンにまでしっかりとプレスが行きとどき、その掴んだ腕、手はこれまで一度も力仕事や水仕事をしたことがないとわかるもの。よく父親が権力の強さを確認するために開いた夜会で集まった地方名士の令嬢らと同じ手だ。

「あ、ああ、あ、赤くなってなんていません!!!」
「じゃあ鼻の下伸ばしてんじゃねぇよ!」
「の、伸ばしてません!!!え、えっと、きみは、どこの子ですか?」

って、そういうことじゃねぇだろ、とヘルメッポは突っ込んだ。

コビーと言えば未だやや顔の赤いまま、でれっと少女を見つめている。背の低いコビーとそう変わらぬ背丈のため、珍しくコビーは顔を上げずに済んでいる。

少女は聊か乱暴に腕を振ってヘルメッポから離れ、こちらに好意的だとわかるコビーに近づいた。

「あのマツゲ嫌い!顔がいやらしいし、なんか臭い」
「てめぇいい度胸だ!!子供だからって手加減しねぇぞ!!!!」
「ちょ、ちょっとちょっと!ヘルメッポさん落ち着いてください!何もこんな子供相手に…大人げないですよ!」

コビーの後ろにこそっと隠れてから、堂々とのたまった少女の発言にヘルメッポの額に青筋が浮かぶ。そのまま腕を振り上げ少女に掴みかかろうとするものだからコビーは慌てた。止めようと少女を庇い腕を上げ、そのまま三人でもみ合う。

「あ」

と、それは誰の声だったのか。

がこんっ、とコビーの足が何かに当たった時にはもう遅い。

次に聴こえたバッシャン、という音のあと、コビーの後ろで少女が尻もちをついた。

「………この服、お気に入りだったのにねぇ?」

何か起きた、とコビーとヘルメッポが双方動きを止めて、もみ合う体制のまま声のする方へ振り返れば、そこにいたのは頭からバケツ(使用済み)の水を被り、それはもう不機嫌そうな顔になった例の少女がこちらを見つめ目を細めていた。




+++




ぶっ、と、思わずボガードは口元を押さえた。

いや、不謹慎であるのはわかっている。しかしこれが噴き出さずにいられようかというもの。

あの傲慢・尊大基本的に他人なんぞその辺の雑巾以下としか思っていないだろう悪意の魔女どのが、廊下を拭いた雑巾を絞った水を頭から浴びているという、なんだこの奇跡のような状況は。

ふるふると体を震わせ、ボガードは必至で笑いを耐えていた。いや、普段からボガードは笑うような男ではない。どちらかといえば表情なく、ガープ中将以外には「何を考えているかわからない」と言われることが多い。だがしかし、そのボガードとて今この状況は爆笑せずにはいられなかった。

冷静に考えて、こんな魔女の状況を赤犬が知れば、ボガードはただでは済まないのだが、そもそもあの魔女自身が「ぼくの邪魔したらこの場で泣く(すなわち赤犬召喚フラグ)」と脅しをかけてきたのだ。だからボガードはにタワシが直撃するのも傍観した。

「あの海兵二人、絶対泣かす。あーもう!ちゃん可愛い!ずぶぬれだけど可愛い!!もっと近くで肌に服が張り付いてる所とか見たい!!!」
「………大将青雉」

とりあえずこの笑いの波に耐えようとしているボガードの耳に、パシャパシャとシャッターを切る音が聞こえた。

真横に顔を向ければいつの間にいたのか、完全に気配を消し去ってボガードの隣のポジションをゲットしていた海軍本部最高戦力の一人が、しまりのない顔をして必死にカメラを魔女に向けているではないか。

ちょっとばかり鼻血を出しているというのは、気遣いでおきたかった。

「あ。悪いねぇ、仕事の邪魔しちゃって。ガープさんとこの子たちってあの二人?へぇー、可愛いちゃんにあんなことして……へぇー…ガープさんのお気に入りっていうのがあの二人?へぇー」
「……」

青雉はそこでやっとボガードの姿に気付いたとでもいうように白々しく手を上げ気さくに話しかけてくる。上司であるのでボガードはぺこりと頭を下げた。

何してるんだアンタ、と聞きたい気持ちはあるが、ある意味見た通りであるので言うのも徒労。何より関わりたくないと冷静なボガードの防衛本能が働いた。青雉はボガードが何も言わずにいると「ま、ガープ中将のところなら命は取らねぇよ」とまるで何の慰みにもならないことを言う。

一応コビーとヘルメッポの二人の世話役は己であるのだから、二人の失態はそのままボガートが責任を取ることになるのだが、なんだか申し出たくない。

黙っていると魔女盗撮の気が済んだのか青雉がカメラレンズから顔を放し、ぽりぽりと頭をかいてボガードを見下ろしてきた。

「……何か」

問うが、妙な所でこの大将殿は黙る。今もそうで何か明確にボガードに対して「忠告」しておきたい事柄があろうにただ黙って、じぃっと見下ろしてくるばかりなのだ。

「あら、珍しい。ボガードくん?それに、青雉も」

そうして暫く、廊下ではコビーとヘルメッポが怒った魔女にデッキブラシで殴打されていたが、その沈黙をどうにかする方が優先的のようにボガードには思われて、さてどうしようかというところに、しっとりと艶のあり、しかしそれでいて芯の強そうな声がかかった。

「ありゃ、ヒナ嬢。相変わらず美人さんだねぇ。また昇進したんだっけ?おめでとさん」
「お褒めに預かりヒナ光栄。このような所で、珍しいですね。青雉」

桃色の髪に濃い赤系のスーツをその豊満な身に纏わせた優秀な女将校のご登場。黒檻と名高い海兵は青雉のセクハラ混じりの言動にもキリッとした表情を崩さずそつなく答えた。ちらり、と青雉がボガードに視線を向ける。

「ヒナ大佐、何か」

今現在、「魔女」がいるこの場所に佐官クラスのヒナがいるのは良くない。青雉に言われるまでもなくボガードはヒナをこの場から引き離そうと思っていた。呼べば黒檻は一瞬顔を顰め、青雉とボガードを交互に見詰める。敏い彼女のこと、二人が塀の向こうに何かを隠しているのだということは早々に理解した。そうして何か問おうと一度口を開くが、しかし「大将」青雉がそうと決めている事柄に優秀な彼女は口を挟むことはない。このあたりが彼女のなじみ深いスモーカーとは違うところであるとボガードは素直に思い、ヒナが溜息を吐き諦めてくれるのを待った。

「用はないわ。ボガードくんがひとりでいるのが珍しかったから声をかけただけ。お茶でもどう?」
「すまないが任務中で、」
「へぇー、何何、お前さんこんなべっぴんさんの誘い断んの?」
「ヒナ不満」

俺にどうしろというのだ。

青雉は今現在ボガードがコビーとヘルメッポ、それに魔女を監視中であるとわかっているはずだ。それなのになぜ無茶ぶりをしてくるのか。問うように見上げれば青雉、ぼんやりとした表情のままボソっと「……なんかちゃんが着替えるみたいだけど、何お前さん、覗き見すんの?」とまるで冤罪極まりないことをのたまう。ある意味ガープ中将以上面倒な人だとボガードは胸中で呟き、不服そうに頬を膨らませているヒナに顔を向けた。

「……わかった」

一杯分だけなら、と言えばヒナが笑った。久しぶりに、彼女の笑った顔を見たと、ボガードは改めて気付いた。




+++




「わー、ぼくこういうの着るの初めて!雑用だって!ふふふ、このぼくが雑用?ふ、ふふふ」

とりあえずコビーとヘルメッポは不可抗力により台無しになってしまったの服を雑用仕事の洗濯の時に一緒に洗うことにして、その間までのつなぎにとコビーの雑用服を貸すことにした。

少女のには背丈は変わらずともサイズは少々異なる。コビーのシャツでは聊かサイズが合わないが、ないよりマシと二人はを説得した。

「本当にすいません、さん。僕らの所為で」
「なんで謝るんだよー、コビー。こいつだって責任あんだろ」
「そういうことを言うからですよ。ヘルメッポさん。相手は小さな女の子なんです。もっと優しくしなきゃ」

雑用の二人がこの場所で部屋なんぞ借りれるわけもなく、の着替えは二人が周囲を見張り後ろを向くことで素早く済ませて貰った。は井戸で適当に体の汚れを落としてさくさくと雑用衣装に着替えたが、やはり汚れたことが気になるのかくんくん、と自分の体に鼻を当てている。

「ぼく、におわない?平気?」
「大丈夫ですよ。ところでさんは…僕らと同じ雑用ってわけじゃないですよね?」

名前は一応聞いたが、まだなぜこの場所にいるのかは聞いていない。

「ここにいるってことは軍の関係者じゃねぇのか?」
「それにしたって一人でいるなんてよくないですよ。迷子ですか?良かったら僕らがご家族のところまで連れて行きますけど」

見たところ海兵ではないだろう。コビーの雑用服からすらりと伸びる手足には筋肉など必要最低限にしかついて居ない。それなら親がここの海兵で見学か、それとも忘れものでも届けに来たというほうが可能性がある。コビーが膝をかがめて問えば、がきょとん、と顔を幼くした。

「迷子じゃないしー。ぼく、今はここに住んでるんだよ」
「は?ここ住んでるって、海兵でもないのにか?」
「そうだよ。前は違うところだったんだけど、多分今頃焼け野原だからもう帰るとこないしー?」

海軍海兵の家族なら済むのは本部ではなくマリンフォードの港町のはず。ヘルメッポが首を傾げているとが明るく間延びした声で続けた。

「か、帰るところがない…?」

その言葉にコビーははっと顔を青くする。

「ヘ、ヘルメッポさん!ちょっと!!」
「な、なんだよコビー」

コビーはあれこれと問答を続けるヘルメッポの腕を掴み、から少し離れるとこそこそっと耳打ちするように声を低くした。

「もしかして…もしかして…さんはどこか海賊に滅ぼされた島の生き残りなんじゃないですか…!?」
「は!?お前何言って…!!?」
「そうです、きっとそうですよ!それで孤児としてここに引き取られて、里親が見つかるまでいるんじゃないでしょうか?!なんて…可哀そうに…!!」

ぐっと、コビーは胸の前で拳を握った。きっとそうだ。そうに違いない。グランドラインは海賊が多くいる場所。そのうちの一つの島には平穏に暮らしていたのだろう。そこを海賊が襲い、島を焼いたのだ。は家族に庇われて一人生き残り、そこを海軍に救われたのだ。そして行くあてもない彼女を海軍本部が一時的に預かっているに違いない。

さん…!!!大丈夫です!ぼくらもまだここに来たばかりですが、つらいことばかりじゃないです!一緒に頑張りましょう!ぼく、力になりますから!」
「お、おい、コビー、お前何妙な電波受信したんだよ…なんか勝手にこいつを悲劇の主人公にしてねぇか…?」

何をどう脳内変化したのかとヘルメッポは呆れる。コビーはのその小さな手を取りぐっと握り寄せて誓うのだが、肝心のは驚いて目を丸くするばかりだ。

「この海は辛いことばかりですけど、でも、ここには正義の光があります!!頑張りましょう!さん!!」

いや、それは良いセリフだが、は困惑してるだろうと、ヘルメッポは突っ込みを入れたい。先ほど自分も「一緒に頑張りましょう!」と言われたばかりで、ほんのちょっぴり感動したのだが、が同じとは限らない。

(そもそもこいつが何者なのか、結局ちっともわかってねぇじゃねぇか)

ぽりぽりと頭をかきながらコビーは溜息を吐き、とりあえず困惑しているの頭をぽん、と叩いた。

「ま、こいつがそう決めたら簡単にゃ逃がしてくれねぇよ。腹くくれるか?お前」
「……色々突っ込みどころが満載なんだけど」
「そりゃそうだな」

一応ヘルメッポもが孤児で引き取られた路線を考えなかったわけではないが、それはないと即座に切り捨てている。

まだ知り合って一時間程度しか経っていないものの、ヘルメッポ、だてに支配者の息子をやってはいなかった。他者に害されて脅える者の目をいうのをヘルメッポはよく知っている。卑屈になる者、勇気はあるが踏み出せぬジレンマを抱える者、恐怖に身動きできなくなる者、奪われて悲しみに暮れる者、そういうものをヘルメッポは見てきた。けれどもこのにはそういうものは一切浮かんでいないのだ。むしろ、己の父モーガンに似ている。他人を跪かせることを当然と思っているような傲慢さと、圧倒的さが、見える。だがそれはモーガンのようにあからさまではないし、単調でもないのだ。貴族的な傲慢さというのが、一番合うかもしれない。生まれ持っての支配者、という、権力や武力ではない何かを圧倒的なものとして他者に崇拝させるような、子供のわがままというには質の違いすぎるもの。そういうものを、ヘルメッポはから感じ取った。

「さぁ!とにかく仕事を続けましょう!まだまだたくさんあるんですから!さんも良かったら一緒にやりませんか?!体を動かしてると、嫌なことを忘れられますよ!!」

あぁ、もうコビーの頭の中では=悲劇の主人公で決定したらしい。

元気よく手を伸ばしてくるが、は「どうしよう、これ」と心底困り切ってこちらに顔を向けてくる。どうもこうも、自分だってこうなったコビーをどうこうするなんて不可能だ。それに実際のところ、こんなことをしている場合ではない。いつ再びあのじーさんが鉄拳を落としに来るかもしれぬのだ。いつまでもサボっているわけにもいかぬ。

ヘルメッポは溜息を一つつき、肩を竦めた。

「ま、いーんじゃねぇの?どうせお前ヒマだろ?手伝ってくれよ、おれらの雑用」




++



食堂で買い求めたコーヒーをヒナに差し出せば、白いベンチに腰掛けた女将校、加えていたタバコをもみ消して礼を述べてきた。

「ありがとう。誘ったのは私なのに悪いわね」
「いや」

こういうときは男が奢るものとそうボガードは思っているわけではないし、ヒナ当人がそういう男女の意識を感じるようなことをされるのを疎んでいることも知っている。けれどもヒナの言動には不服めいたところもなく、やはり己が奢ることにしてよかったとボガードは思った。

己もヒナの隣に腰掛けて、紙コップのコーヒーを啜る。ヒナを魔女から引き離すために当初の場所から少しはなれた、海軍本部奥へ続く白い中庭。魔女の気に入りというその場所はボガードにとって、よく見かけた場所だ。

「スモーカーくん、ローグタウンに配属されたそうね。昇進になるのかしら、それともていのいい左遷?」

ヒナはコーヒーに口付けてから唐突にぽつり、と切り出してきた。これが本題なのかとボガードは一瞬身構える。顔を動かさず「さぁな」と短く答えれば黒檻のヒナが低く笑った。彼女は笑うと撫子の花のようだとボガードはいつも思う。そういう度に「女性の笑顔は、いいものだな」とそう言っていた男が頭の中に浮かび、ボガードは首を降った。

「君も、追及されたのか」

話題を変える気はあったが、口を突いて出たのは話題の延長戦、それも少し深く入ったことだった。ヒナといると妙にペースを乱される。ボガードはコーヒーを啜り顔を顰めた。

中庭の白いベンチの上。座ったのは、初めてだが、よくこの景色を見ていた。この場所には、よくあの男がいた。

「同期というだけだったら、軍法会議にかけられることはなかったかもしれないわね。でも、私もスモーカーくんも親しくしていたから。仕方ないわ」

普段のように「ヒナ不服」とそう切り捨てぬところにボガードはほっとした。それでいつのまにかカップを強めに握り締めていることに気付き慌てて力を弱める。半分ほど中身を飲んでいたためこぼれることはなかった。

「懐かしい。まだそう経ってないのに、もうずっと前みたいね。よくこの場所に、ドレークくんがいた。背筋の綺麗な副官と、それに赤い髪の子を連れて、いつも眉間に皺を寄せて難しい顔してるのに、その子たちがいると、なんだか幸せそうだった」

当たり前のように、ヒナがあの男の名を呼んだ。ボガードは一瞬実を強張らせ、目を伏せる。

ドレーク・スモーカー・ヒナの三人は殆ど同時期に海軍に入り、その為三人はそれとなく交流があった。それぞれ違う速度での出世であったのに、生真面目なドレーク、融通の聞かぬヒナ、問題児のスモーカーはまるでタイプが違うというに、よく、三人が揃って話している光景をボガードはよく見てきたのだ。

ボガードも、時期の話をすれば三人と同じ頃に海軍本部に来ている。しかし、「同期」ではない。正確なところを云えば、ボガードは現在のコビーたちのように「イレギュラー」な海兵だった。ガープ中将に拾われ、訓練生としての海兵時代を過ごすことなく、ガープ中将の下で学び、そして今の地位についた。同僚、とよべる者がいないのは仕方ない。だがしかし、時折ボガードは中庭でドレークとスモーカーが「同期の男同士」の話をしている時や、「同期の女性」を交えてのいざこざなど、そういう些細な出来事を見かけるたびに、妙な憧れを抱いていた。

三人が訓練生だった頃から、その憧れは続いている。三人がまるでタイプが違うというのに、掲げる正義に食い違いがありすぎるというのに、それでも三人は親しげだった。

ガープ中将のもとで働くことに異論はない。寧ろ最高の栄誉だと思っているし、自分の天職だろう。しかし、思うのだ。

彼らにはそれぞれの確固たる「正義」があった。

「信念」があった。

しかしボガードは、己自信にはそういうものがあるのだろうかと、そう問い、そして何もないと答えに気づくのが恐ろしかった。

ガープ中将こそ己の正義、とそう思う心はある。だがそれは、ガーブ中将への依存、負担ではないのか。

ドレークが造反した。海軍を裏切り、海賊に身を落とした。

海軍本部の正義に馴染めなかったのか、合わなかったのか、それはボガードには判らない。けれどもボガードはドレークを知っている。スモーカーやヒナには「魔女」の話は出来ぬが、ボガードにはできる。それに魔女はガーブ中将の前では様子を変えるからと、、ボガードとドレークはそれなりの交流はあった。ボガードはドレークと「同僚」になれるのではないかと思った、だが、そうはならなかった。

どこまでも、どこまでも、己は「三人」とは違う。ドレークはいつも何か遠くを見ていた。

ボガードは思うのだ。三人には三人の正義がある。ガープ中将にもある。だが、己にはあるのだろうか。

ドレークが海軍本部を裏切り、海賊になった。親しくしていたからとスモーカーは手引きを疑われローグタウンに送られ、ヒナも軍法会議にかけられたらしい。あわただしく動く海軍本部のその騒動を、しかしボガードは傍観者・無関係者として眺めていた。

いつだって、自分は係わり合いにはなれぬのだと、そう知らされたような気がして、妙に不快だったのを覚えている。魔女の顔を見ればドレークが思い出されることもまた、不愉快だった。

「ドレークくんの賞金、また上がったそうよ」

思考に沈んでいるとヒナが現実に引き戻すように言葉をかける。顔をあげ、ヒナを見れば相変わらず美しいとしか言いようのない顔を僅かに顰めてヒナが言葉を続ける。

「上がったの。また。これでも二億ね。スモーカーくんもそうだけど、ドレークくんも昔から、何考えてるのか全然わからなかった。ヒナ不満」

生真面目で頭のいいドレーク少将なら、造反などしてどうなるかわかっていよう。それなのになぜこんなことをしているのかと、時折ヒナは頬を膨らませる。そういう仕草は幼く、そしてまた同時に哀れだとボガードは思うのだ。わかっている。彼女は、ドレークが「そう」と決めたのだと理解しているのだ。大人の女性。真面目な海兵。そして大人。けれどもやはり、ほんの少しだけ「なぜ」とそう思う心もあるのだろう。それを表には出せない。だからこそあえて「まるで子供のように」膨れてみせる。そうすれば、ただの我侭で済むからと、そうしなければならない、彼女の心境をボガードは思うのだ。

黙っているとヒナがこつんとボガードの腕を叩いた。

「あなたも、何考えてるのかわからないわ。二人とは全然違うのに、へんなところだけそっくりよ。ヒナ不服」

言い切って、コーヒーを飲み干し、ヒナが立ち上がった。「お仕事中にごめんなさい」とそう丁寧に言ってくるのは彼女の女らしさか、それとも優しさか。ボガードは判断しかね、帽子の影になった眼を細めながら、ヒナが背を向け歩き出すのを黙ってみていた。

コビーたちのところへ戻らなければならない。ガープ中将から見張りを頼む、とそういわれたのに自分はここに来てしまった。よくはない。早く戻らなければと、そう思ってカップを握りつぶし立ち上がって、ボガードはヒナとは違う場所へ足を向けかけ、しかし、振り返る。

「ヒナ」

己の持ち場へ帰っていく、その真っ直ぐとした背に声をかける。一瞬びくり、とヒナの細く華奢な体が震えて、肩越しに振り返る。彼女が何か言う前にボガードは言葉を続けた。

「おれは、ここから離れることはない」

だから、と、そう何か続けるべきだったのか。

ボガードは、しかしそれ以上何も言葉を続けることが出来ず、ただ黙ってヒナのコート、背負った彼女の正義の文字を見つめ、腰に差した剣の柄を握り締めた。



Fin




(2010/09/21 13:07)