朝と夜の隔たりは明白か漆黒かということでよく理解るもの。時というものは流れるだけで本来、何がどう、などと区別されるものではない。ただ、三種、過ぎ去ったものは過去、今は現在、先は未来と、それだけである。人の名づけによってそれが幾つもの名称に分けられているだけ、いや、人、に限定されるものでもなく、命のあるもの、が存在していることにより、時は朝と夜、六十に分けられる文字盤にうまく縛り付けられるのであろう。それが、道理だ。では、その道理、朝と夜が存在するという人の世の原点でありながら、夜の存在せぬこの地にあるものは、陰陽の理、夜が存在するからこその朝と呼ぶものが明白になる、というに、ではここにある、明々しい白光に満ちた延々の時は、何者であろうか。そして、その歪な時を抱えるこの地では、どのような道理を、道理と持てばよい。
(道理などない、正義を掲げておきながら、この地にあるのは不条理ばかりだ)
長い大理石の階段を、息を潜めて下りながら黒髪の少年、傷を負った左肩を庇い、声に現すこともなく、己のうちのみで毒づいた。夜の帳をかき抱くような黒の礼服を纏い、濡れる鴉の羽の如き髪、病的に青白くさえある貌は美しい子供である。歳のころながら、未だ父母の腕に抱かれて今日を喜び、明日を夢見るであろう頃の子供が、麗しい柳眉に世の非情さをよくよく承知する終末を迎えた浮浪者のような眼でぎゅっと、回廊を進んでいる。
どのような凄惨が少年を襲ったものか、質の良い仕立ての礼装は無残に肩口から裂かれ、赤が酸素を得、黒に変色していったものが、噴出し乾いて張り付いている。覗く白肌は紫肌へと変わりグロテスクな肉が生々しく臭う。訓練、と言うもの。生まれて落ちたその日から、その瞬間から、少年が背負わねばならぬ運命、と、そう、片付けることは容易く、そして、その運命に従い生き延びることができるだけの才が、少年には、どうやらあるようだった。
気安く話せば、この世界を「守る」道理を持つ「世界政府」がその正義を貫くためにどうしても必要とされる力を、持つ人間に仕立て上げられることが、少年の運命だ。抗う術などない。乳飲み子のうちより、そうと定められて何の抵抗ができたであろう。幼子を守るはずの両親が、すでにその一角にあり、己の子であれば、と、そのような心持を持つ以上、子に、選択肢などはない。
少年は、よくよく期待に、当然のように答えてきた。できぬことなど彼にはない。望まれ、教えを受ければ全てのことが出来た。神童、とさえ人は呼ぶ。誉であると、正義のために、世のために、この子はとても良い「正義の味方」になるのだと、そう。そう、請われてきた。
(刷り込まれてきたからこそに、正義の名の妄信さに気付く。俺は檻に囚われ、いずれ来る日のために只管に牙を、爪を研がされるだけの人形だ)
だれも、誰も、少年を顧みない。いや、少年だけがこのような身のうえにいるわけではない。少年のほかにも、少女や、少し年のいく子供、いかぬ子供が、少年と同じようにして育てられ、盲目の実を啄ばみ甘味が解ると感じるまで囚われる。
その、迷いがいけなかった。どれほどに「才」のあると言われる少年であろうと、それでもまだ、まだ、幼い。実戦経験はまだ手で足りるほどで、足の指までは必要とせぬほど。油断など、中将相手にするものではなかった。
「子供か」
帽子とフードという、奇妙な井出達の将校は階級章から中将の位であることが知れる。それに、少年にはその将校の顔に覚えがあった。会ったことはないが、将来、確実に大将の位へと上がるといわれている、サカズキ中将。
覚えろと言われた情報の中の、重要とされる項目に組み込まれていた。
訓練が終わり、少年は「お偉方」に己だけが別室に連れて行かれ、中将に引き合わされた。その意味はまだ知れぬが、人の目には「特別」とされる自分がこのような状況に置かれることは何度かあった。会う人、会うひとの皆は少年を褒め、期待していると良い、それに上官が何か受け答えをする。それだけだ。しかし、中将はルッチを見下ろすと、眉をしかめた。
「この子供が、将来、正義の闇を背負うというのか……」
不愉快、ではないだろうが、何か、好意的ではない音が含まれている声であった。慌てて上官が少年のことを、よく喋る。少年ではない人のことを語るような、大層な言葉で喋る。一応の礼儀のように、中将は少しの間黙って聞いたが、その剃刀のような瞳は真っ直ぐに少年を見下ろしている。
世界の戦力にも等しいとされる中将にい抜かれても、少年に恐怖もおびえもなかった。それよりも、己になぜ「不安」に近い評価を下したのか、そのことが気にかかる。
少年は、己の強さを知っていた。己の優秀さを、過大評価も過小評価もせず、正当に理解していたから、今の己が、いずれはどの程度のものになるのかも、わかっている。だからこそ、中将の言葉が、否定的な言葉が、わかりやすく言えば、勘に触った。
「私の何がご不満です」
臭いでわかる。この中将は、己と同じ「力」をよりどころにする種の生き物だ。その根底が、中将は「正義」というものがあるかもしれぬが、少なくともその目的のために頼るものが「力」であるという、単純な点は、同一といえる。
で、あるから、少年は恐れもなく口を開いた。上官が慌てる声がするが、それを中将が手で軽く制して止めた。 「私は子供相手に全力は出さないが……」
その瞬間、少年の肩から血が噴出した。何で斬られたのかも、いや、何をされたのかもわからぬ。途端膝を突きかけ、それを留まれば、髪を捕まれ上を向かされた。
「絶望も、知らぬ愚鈍な眼が闇を背負えるなどと奢るなよ、少年」
言われた言葉の意味も、込められた感情も少年には解らぬ。ただ、髪を捕まれたまま、斬られた方の腕をつかまれ、そのまま、投げ飛ばされた。
どれほどの距離を飛んだのか、己の体で砕ける硝子や壁を感じて、やっと止まった。
その、投げ飛ばされた先、未だ少年が立ち寄ったことのない塔の中。壁を伝い歩きながらも、階段を下り、回廊を進み、辿り着いたのは、実覚えのない、茨に覆われた重農な鉄の扉。このエニエス内のことであれば、己を囲む世界であれば、どのようなことも承知しているはずだった少年の、知らぬ場所。知らぬ扉。知らぬ花の香。
あの中将の言葉の意味を反芻してみる。己にまだ知らぬものがあることを、突きつけたいのだろう。その、ものを見極めてやろうかと、強者へ、いかに巨大な力であろうと屈せぬという、意地のようなものが始めて少年の心に沸いた。闘争心、と呼ぶものであろう。幼い頃より全てが己の身を通り過ぎ、何一つ、躓くことのなかった少年には、初めての感情である。いや、その根底は、全てが己の生まれる前より、権力という名により定められた運命に従わざる己の、抵抗と呼ぶのやもしれぬ。とにかく、少年はその茨の扉に手をかけた。
重々しくも、扉はあっさりと開く。扉の前にはとりつくほど濃い薔薇の香がしていたというのに、開いた向こうの空気は水のように澄んでいた。
ゆっくりと足を進める。生きているものの気配はしない。僅かな空気の振動も、ない。それでも、進んだ、窓辺に人の影がある。そこで薔薇以外の香が少年の鼻腔を突いた。話に聞いた、学んだ、夜とはこのようなものなのではないかと、そう、ぼんやりと思うような、香だ。
「失礼、」
影の人を驚かせぬようにと、血の溢れる肩を隠して声を掛けた。しかし、ふわりとも、空気の振動を感じられぬ。暫く黙ったが、どう気を尖らせてもても、人の形をした影から気配が感じられることがない。人ではないのやもしれぬ。その可能性を見て、カーテンを血の付いておらぬ手で払った。
「……」
ひゅぅっと、少年の喉が空気を失い、黒い瞳が見開かれた。声を失い、ただ、たたずむ。金と漆黒に輝く睫毛を伏せ、銀細工の椅子に腰掛けて眠る、美しいひと。
美しいひとならば、多く見てきている。年に幾らか会う己の母も、同じ訓練の身である歳の上の娘たちも、エニエスを通る女将校たちも、それぞれが花のように美しいひとである。
雪で出来た花のようだと、思った。薔薇色の頬、紅色の唇、蜂蜜色の柔らかな巻き毛、陶器のように白い肌。夢のようなひとだ。少年は息をすることも忘れて、彼女を見つめた。真紅の薔薇に囲まれて、時の囀りさえ感じられぬ、時知らぬ楽園の主のように、眠るうつくしいひと。閉じられた眼の色は知れぬ。知りたいと思い、近付けば目覚めてくれるかと、一歩、足を踏み入れようとして、背筋に得体の知れぬ恐怖が走った。
「……っ」
駆け巡ったものは、他者による恐怖、ではない。それは己の身のうちより出でるもの。あぁ、見てはならぬもの、知ってはならぬものだと、本能で悟った。先日口に入れられた悪魔の囁きが聞こえたような気がする。このうつくしいひとは、よくないものだと、そう、知った。少年は駆け出して、回廊を駆け、階段を統べるように下り、再び己の世界へと戻った。
朝と夜のない世であっても、あの、薔薇の扉の向こうよりは、世俗さが感じられる、世。
「ルッチ、ルッチ、どうしたんじゃ?急に消えてしまって、カクはしんぱいしたんじゃ。カリファもしんぱいしたんじゃあ」
ぱたん、と、訓練場の、子供らの集まる部屋に飛び込んだ少年にいち早く気付き近付いた四角い鼻の少年が、舌ったらずに言葉を喋り、少年を見上げる。この子供は、少年を恐れぬ。訓練場にいるいくばかりかの子供らの殆どが、少年をおそれ口を開いてこぬというに、この四角い子供は、少年を恐れぬ。
「……なんでも、ない」
己より弱い者にも、己より強いものにも、醜態はさらさぬと決めている少年。一度の瞬きで己の動揺も、恐怖も何もかもを根底に引き摺り落とし、隠し退ける。それで、表情も声も、とりつくろえたが、薫る血だけはどうしようもなかった。子供が眉をしかめ、そして、ほっとしたように笑った。
「けがをしたのか。殺されなくて、よかった」
言葉遣いは未だ幼いというに、ここにいる子供らは皆、殺される日々をよく承知している。何事かすれば、あれば、容易く己等が消えることを、常としている。からこそに、カクと己を呼んだ子供は訓練の後、お偉い方々に連れて行かれた少年の身を案じていた。
少年が優秀であることは誰も承知のことではあるが、優秀であるから生き残れる、わけではない。それも、道理のように染み込ませられている。
少年はぽん、とカクの頭を叩いて、黙って広間から向かえる己の部屋へと急ぐ。手当てをするのだろうとカクも不審がることはなく、ルッチがぶじでよかった、と、再び笑い、興じていた遊びに似た何かを再会するために、どこぞへ行く。
段々と、少年の歩みが早くなり、それは次第に駆け足へと変わる。
部屋に飛び込み、怪我も忘れてベッドに身を投げ込むと、少年は寝具に顔を押し付けて、低い声を上げた。それは嘆きか、叫びか、歓喜か、少年にも解らぬこと。しかし、彼女に触れた指先の僅かな震えが、シーツを掴み震える反対の手とは違う種のものであることは、わかっていた。
and that's all?
(命短し、恋せよ少年)