サカズキの執務室にある、緊急連絡用の電伝虫が鳴ったのは夕暮れまではいま少し、しかしお茶の時間は過ぎた頃、という、つまりは終業までにはまだ少々時間が残る、業務時間内のことだった。戦争でも起きぬ限りならぬはずのその、真っ赤な電伝虫のけたたましい音に執務机に向かい黙々と仕事をしていたサカズキは眉を跳ねさせ、そしてサボリがてらサカズキのサインの必要な書類を持って来たクザンも大将らしい真面目な顔つきになる。
赤犬は素早く長い腕を伸ばし壁に駈けられた受話器を持ち上げる。リン、となっていた音が止み、サカズキが短く己の名と有事の際の確認コードを告げ相手の連絡に耳を傾ける。別段聞き耳と言うわけではないが、同じく大将としてクザンも聞かねばならぬことと心得てデスクに近づき、その耳が会話を拾おうという、その直後。がっしゃん、と、受話器が落下した。
「え、ちょ…!?サカズキ……!?」
電話口で何か短い単語が告げられたのだろうか、サカズキは受話器を戻す時間も惜しいとばかりに投げ捨てそのまま執務室を飛び出す。扉を文字通り蹴り破ってのその勢い、廊下を走るなんてまどろっこしいこともせず、タン、タン、と垣根を飛び越えていく、その去っていく姿をそのままにクザンは一体何が起きたのだと、とりあえずは己も情報をと思い「もしもし!!?大将赤犬!!?」と相手が困惑し声を張り上げる、その受話器を取った。
「もしもし?あー、おれだけど」
あ、認証コード言うんだっけ、と後で気付いたが相手は声で誰か判断できたらしい。
『青キジ…!そちらにいらっしゃったのですか!?』
「偶然ね。なんかあいつ飛び出してっちゃったけど、何?本部に赤髪でも攻めて来た?」
『物騒なことを言わないでください…!!』
電話の声はモモンガ中将だ。妙に焦った声である。まぁ緊急連絡中に突然相手がいなくなったら焦るだろうと思いつつ、認証コードの要請をされなかったので、はて、とも思う。この電話が使われたということはバスターコールが発動、あついは天竜人が危害を受けた、海軍本部に海賊の強襲、などとかなりのレベルの「非常事態」ということだろう。それであるのにモモンガは、焦っていることは焦っているのだが、それほどまでの緊急性を感じさせぬ声を出しているではないか。
とりあえず冗談めかし、しかし内心中々本気で「赤髪」の名を出してみたが、違うのか。いや、自分から世界をどうこうしようという気はない赤髪のシャンクスが海軍本部に乗り込むなどまずないと思ってはいるものの、サカズキとが新婚生活を送っていて、いつ「やっぱりおれのほうが幸せにできる!」と開き直って登場するか、内心クザンは楽しみにもしていた。(いや、それならそれで便乗するし)
しかし、モモンガ中将、といえば暫定世界の敵ことパンドラ妃が本部にいらっしゃった際のお守り役というイメージが最近クザンの頭の中にあり、そういうわけで自然「またパンドラさんが何かやらかしたのか?」とそういう予想を立てる。
「で、どーしたのよ?パンドラさんがちゃんに怪我でもさせたとか?」
それならサカズキが飛び出したのもわかる。
いつ「うっかり心中」をするかもしれぬあのお方、もでそれなりに警戒はしているらしいが、なんだかんんだと姉には弱い。「姉さんだから」とその一言である程度のことを許容してしまうのだから、うっかり手首くらい落とされることもあろう。
そんなことを問うてみれば、受話器越しにごくり、とモモンガが喉を鳴らしたのがわかった。
「……何?結構深刻?」
まぁ、この電話を使うくらいなのだから、とパンドラさんが姉妹喧嘩というわけでもないのか。クザンはいくばかりか真面目さを取り戻し声を強張らせる。
何か嫌な予感がした。
サカズキがなりふり構わず飛び出したのだ。関係だろう。そしてモモンガ中将のこの、告げることを躊躇う様子。眉間に皺を寄せると、沈黙の後、モモンガ中将の声が再度耳に届いた。
『が倒れました。現在中央病院に搬送され、原因を診断中です』
とりあえず、クザンも受話器を捨てて飛び出した。
この子誰の子?お前の子!!?
“悪意の魔女”が搬送されるとすれば中央病院特別病棟の最奥の部屋だとサカズキは街を駈けながら頭の中で確認していた。そうと決められている。あの部屋は防弾設備も完璧で、たとえ戦争が起きてもびくりともせぬようにと、魔女の有事にと予め作られた部屋だ。使用させるようなことなどないようにと願ってきたというのに。サカズキは顔を顰め、先ほど受話器越しに受けた情報を思い返す。
が倒れたと、モモンガ中将の言葉はまずそれだけだった。最後まで報告を聞くべきだった。大将として「魔女」の異変は情報を正確に把握せねばならぬ。だが、それよりも身体が先に動いた。気付けば部屋を飛び出し、あれの身を案じている。
ぐるぐると頭の中を様々な可能性が駆け巡った。
今年は特別暑い日で、それでも日中構わずあれは外に出て庭弄りをして、こまめに水分を取っておらずの熱中症か。(いや、それならまだいい)
モモンガ中将が連絡をしてきたということはまた突然パンドラが訪問したのだろう。己に連絡が行くより前に、パンドラがを害したのか。(そんなことは、あってはならない)
それとも、唐突な病か。それを、サカズキは一番に恐れた。外敵によるものであるのなら、サカズキはを傷つけたものを許しはしない。そして、その対象を滅ぼすことで、内心安堵はするだろう。を守れず病院へ運び込ませたという己に対して、何らかの言い訳をすることはできる。己に出来ることはいつも、暴力を振るうことで、この手に守れるものは殆どない、ただ打ち滅ぼし、焼き尽くすのみ。しかし「敵」が「犯人」がいるのなら、己は何かすることはできる。
しかし、病なら。
己にはどうすることもできぬ、そんな事態があれを襲い、苦しめているのなら。
小さく舌打ちをし、サカズキは見えてきた病院に急降下した。受付で名を告げるようなまどろっこしいことはせず、建物を飛び越えて、そのまま目的の病室を目指す。途中白衣の医者に姿が見られたが、奥の病棟にいる者たちは「何が」起きたのか承知なのだろう、誰もサカズキを呼び止めることなく、そのまま真っ直ぐに魔女のための病室へたどり着いた。
急いで扉を開けようとするその前に、部屋の中から女のつんざく悲鳴が聞こえた。
「あなた何を考えているの…!!!!そんなことをしたら死んでしまうわ!!!!」
声だけ聞けば冬の泉を思わせるような透明感の高く、聞いているだけで美しいと思える声の完成形のような音。しかし、その主が誰なのか脳が声を「美しい」と判断するより先にサカズキは察知して、あからさまに顔を顰めた。
聊か乱暴に病室の扉をスライドさせ、中に踏み込む。
「おどれ、人の妻の病室で大声を出すたァ、どういう了見じゃァ」
真っ白い病室、カーテンからベット、枠の何もかもが真っ白いその部屋。まず最初に目に入ったのは海のような青、マリンブルーというよりはマドンナブルーというのだと以前が語っていたが、この女の髪の色なんぞ何色でもいい。
目の前には泣きはらして目をいっそう赤くした、暫定世界の敵ことパンドラ・がカーテンに覆われたベッドに向かい、訴えるような姿勢をしていた。
サカズキの声にびくん、と身体を神経質そうに震わせる。
「まぁ…まぁ!随分と遅かったのね、何をしていたのかしら。これだから仕事しかない殿方は嫌よ。普段大事にしていると平然と嘯くくせに、いざとなったら家族の危機に無頓着なのだから…!」
長い豊かな髪を揺らし、すくっと立ち上がったパンドラはその長身で挑むようにこちらを睨みつけてきた。普段であればサカズキは反論の言葉の2,3は吐いてその傲慢な顔を屈辱に染めるくらいはするのだが、生憎今はこの女に構っている時間などない。「黙れ」の一言でパンドラを押し退けると、聊か乱暴にカーテンを払った。
「、無事か」
まず確認するのはそこである。幸い血の臭いはせぬのだから怪我ではないのだろう。だがこうしてベッドに収められている。病か、と嫌な予感が掠めたが、の声を聞くことが優先だった。
真っ白いベッド、カーテンの陰になった薄暗い場所に真っ赤な髪が見える。普段よりさらに白い顔をしたが、上半身を起こしている姿と目が合った。
「仕事、ほっぽり出して着ちゃったんでしょ。サカズキ」
ふわりと、吐息のように柔らかくか細い声だが、しかしのはっきりとした声にサカズキは詰めていた息を吐いた。顔色はよくないが、声は平素のものだ。気付かぬうちに安堵して、サカズキは強張っていた身体の力を抜く。今すぐにを抱きしめてその心臓の音を確認し、骨の軋む音に苦しいと笑って訴える声を聞きたかったが、未だ状況ははっきりせぬのだ。ベッドに腰掛けてその頬に触れるのみに留め、眼細める。
「妻が倒れたと聞いて飛び出さんわきゃァねェじゃろ」
「走ってきてくれたんだね、サカズキ、普段より手が熱いよ」
「痛いか?」
「へいき。火傷するほどじゃないの、普通の人より高いけど、走ってきた後だっていう、くらいだよ」
ついうっかり温度を上げて火傷させてはたまらぬと手を引っ込めようとすれば、が己の手を添えてゆるく首を降った。
「ごめんね、サカズキ。姉さん、ちょっと気が立ってて、八つ当たりしているんだよ」
先ほど入室してすぐの会話のことだろう。はすまなそうに眉を八の字にして言うが、サカズキはあの女の言葉など海賊の命乞いより聞く気はないと切り捨てている。さすがに今言うつもりはないが。
の謝罪に、壁に背をつけていたパンドラが「あら」と心外そうな声を上げる。
「まぁ、リリス。わたくし、本当のことを言ったまだわ。あなたが倒れたことを本能的に察知してくれなければ、わたくしはあなたの夫とは認めなくてよ?」
真顔で言われ、サカズキは眉を跳ねさせた。この女の夫認定なんぞされずとも己はの夫と宣言するが、そんな能力が取得可能ならとうに会得している、とは言い返したい。の姿がこの視界に入らぬだけでどれほど不安になるか知れぬ。
以前のように冬薔薇で繋がっていれば感覚の共有もできたが、生憎今はそんな能力はない。お互い何もわからぬ。はだからこそいい、と言うが、サカズキは、どんなときでもの危機にいち早く気付きたかった。そうでなけば、いつか取り返しのつかぬ事になるのではないか。
黙るサカズキをどう捉えたのか、が軽く姉を睨む。
「姉さん、ぼくはサカズキとそういう妙な能力で繋がりたいわけじゃない」
妹の反論には軽く眉を動かすだけに留め、パンドラは唇を尖らせそっぽを向いた。しかしそれ以上サカズキを貶す言葉を吐きはせぬことから、当人にも八つ当たりの自覚はあったのだろう。
「なぜ倒れた?」
とりあえずサカズキは原因を聞こうと再びに向き直る。こうして無事は確認したが、まだ「何故」とそれを問うてはいない。見たところ点滴などもなくベッドに寝かされているというだけだ。仰々しい医療機器がないことにサカズキは安心しつつ、まだ油断はできぬと心を構え、眉間に皺を寄せた。
「たいしたことじゃないんだよ。ぼくも油断しちゃってたのかな」
「わしは理由を聞いちょる」
問うたのに、ははっきりとは言葉に出さない。隠すようなことなのか、とそれが聊か気に障る。ぐいっと首を掴めば、がその青い目を細めた。だが口を開かない。
なぜ強情を張るのか。
「熱中症の類じゃァねェな」
言うつもりがない、というその姿勢を理解した。サカズキは首から手を離し、眼を細める。この己に隠し立てするなど、許すつもりはない。とくに、その身に関わることなら尚更だ。サカズキは一度パンドラに視線を向けた。病室に入る前の叫びから察するに、姉であるこの女は事情を承知のよう。が黙る理由がパンドラの意思にも添うのであれば見込みはないが、の決意に反するつもりなら、パンドラはサカズキに情報を提供することも厭わぬところがある。
「わたくしは反対していてよ」
「姉さん」
サカズキの視線を受け、パンドラは気に入らなさそうに一度唇を噛んだものの、己の意思とを天秤にかけそう口を開く。そして言葉を続ける前に、が氷のように冷たい声でそれを遮った。
いい度胸である。
「おどれ、」
「ちゃん!!!妊娠したってマジか!!!!!?」
額に青筋を浮かべたサカズキがついっと、再びの首を掴む前に、バタバタと駈け病室に飛び込んできたクザンが、開口一番、そう叫んできた。
+++
しぃん、と静まりかえった病室、飛び込んできたクザンは「え」と一瞬思考が停止する。
何この重苦しい空気、と氷の筈の身が寒さを感じる。が倒れたと聞いて、とりあえず執務室を飛び出したはいいものの、クザンはが一体中央病院のどの病室に運び込まれているのか聞くのを忘れていた。それで通りかかった悩殺ナースのねーちゃんに「今晩ヒマ?」と挨拶をしてから、赤毛の少女がどの部屋にいるのかを聞き、そして運よく特別病棟勤務のナースさんだったらしく、奥まで案内してくれた。その道すがら「おめでたなんですってね」と祝福を受け、いても立ってもいられる走ってきたというのに。
何、このシリアスな空気。
他の病室から随分離れているため何の音もせぬ病室、真っ白い壁には世界で最も美しい人と称されるパンドラさんと、そして真っ赤な髪のがいる。白部屋ほど二人の色が映える場所はないとそんなことを思う余裕もないほど、重苦しい空気は、何なのだろうか。
サカズキはに触れようとでもしていたのか、手を伸ばした体勢のまま、ぴたり、と止まっている。明らかに自分の言葉が原因だということをクザンはわかったが、ひょっとして、まだはサカズキに告げていなかったのだろうか?
てっきりクザンは、自分は到着が遅れたので、もう既にの口からそのめでたい事実を聞き、普段以上のバカッポーがこの病室で繰り広げられているとばかり、いろいろ覚悟もしていたというのに。
え、何、おれ出てくる話間違えた?とクザンは何だかわけのわからぬことを思いつつ、え、と、とりあえず渦中のサカズキとには触れず壁のパンドラさんに顔を向ける。普段いっちゃっている言動も目立つパンドラ・だが、わりと良識のある面もあり、クザンが困惑していることを察すると、気の毒そうに首を降った。
いや、それだけじゃわかんないって。
声を出せるような状況ではない。だからなんだこの沈黙、え、ちゃんのおめでた、ここ、普通バカッポーなサカズキなら今すぐでも有休申請するんじゃないの、とあれこれ突っ込みたいことがあるのに、なんだ、この沈黙。
戸惑うクザンが次の言葉を捜していると、その重苦しい空気をサカズキが破った。
「誰の子じゃァ」
一拍後、がサカズキの頬を引っ叩いた。
「最低」
うわ、とクザンは顔を引き攣らせる。
あのが、基本結婚後はサカズキに従順でにこにこと常に穏やかな顔「サカズキがいいならいいよ」とはにかんで言うばかりだったあのが、無言無表情で素早く(大将に避けられぬ速度で)ただその横っ面をひっぱたいたという、その振る舞い。
怖ぇ、と無意識に呟けば、少し首の向きが動いただけで痛みはまるで感じていないらしいサカズキ(病室で能力発動はせぬらしい)暫くしてから、眉間に皺を寄せ首を傾げる。
「……わしか?」
他に誰がいんの。
クザンは声に出さず突っ込んだ。いや、しかし、サカズキ曰く「魔女に貞操概念はない」とのこと、の真意はさておいて、サカズキは結婚後も本気でそう思っているらしかった。確かに結婚前のは、まぁ、相手を選ぶがそれなりに情事の経験もあった。赤犬以外とも平然と閨を共にする、という所がなかったわけでもない。生憎クザンは「サカズキの同僚だから」という理由での肌を暴いたことはないけれど、複数の男と関係することを「悪いこと」と思う意識はなさそうだった。確かに一夫多妻うんぬんというのは世界政府が樹立してから一般大衆に広められた意識であり、それ以前から生きてきたはない、というのもわかる。それに最もな話をしてしまえば、に好意を抱いている連中は、自分を含めその気になれば力技でを思いのままにしてしまえる者ばかり。いかにが拒もうと、サカズキに貞操を誓いたいと思っていても、誰かがあっさり開き直ってしまえば、そんなもの何の意味もなくなるのだ。
一応、クザンも結婚後のにそういう気を起こしたことがないわけでもない。ぽりぽり、と頬をかきつつ、状況を見守ることにした。
「言うに事欠いて第一声がそれって何なんだろうね」
平手打ちをかました姿勢のまま、が眼を細め声だけは明るく弾ませるように呟く。その手は自分の肌より硬いものを打ったためじぃん、と赤くなっているのがわかったが、それ以上に、の目が充血していった。
「…お、どれが悪いんじゃろうがい。わしに隠そうとするけぇ、なんぞあるんかと勘繰っちまったじゃねェか」
リリス化するための目の赤さ、ではなくて、充血していって、目の端に涙が溜まっていく、というその様子。間近で見ているサカズキが一瞬うろたえた。言葉をつまらせるサカズキなんぞ滅多に見れない。あ、珍しいもの見ちゃったー、とクザンはカメラでも持ってくればよかったか、と後悔する。
というか、はサカズキに懐妊を隠そうとしていたのか?言葉の端から察し、訝る。幸せオーラ全快、ほえほえとしていて常に周囲にお花でも散ってそうなのが新婚モードのだ。「サカズキの子」とそれはもう笑顔で嬉しそうにしているに違いないと思っていたのに、これはどういうことだろう。
「サカズキのバカ…!ぼくの気持ちなんていっつも考えないんだから…!っていうかサカズキの子供以外のはずないのに!!なにそれ……!!」
先ほどは気丈に振舞っていたものの、相当にサカズキの言葉に傷ついたのか耐え切れずにぽろぽろ、とが涙を流す。
うん、そこは泣いて怒っていいと思う、とクザンは頷いた。
というか、あれだけ「サカズキが好き」というを前にして「誰の子だ」と言うなんて、お前どんだけ酷い男だと、自分も一緒になって罵りたい。
疑ってしまう要素があるのは仕方ないにしても、しかし、お前、それはないだろう。
「な、泣くな…!!さっき殴った手を使うな!おどれの手がわしを殴りゃァ、痛めちまうに決まっちょろうに……!!」
ぼろぼろとが青い目を真っ赤に腫らして涙を流せば、サカズキが本格的にうろたえる。時々が脅しで嘘泣きを使うことがあるが、今回のこれは本気で怒り、悲しんで流している涙だ。サカズキは際限なく水晶のような涙を流すの目や頬をコートの裾で拭い、空いた方の手で先ほど自分の頬を引っ叩いたの手を押さえる。
次第にがしゃくりあげてひっく、と肩を振るわせ始めると、もうどうしようもない。いや、まだ「触らないで!」と拒絶されていないだけマシなのだろうか。
「か、隠して、隠して、のは…!ぼくが、悪いけど、でも…っ、でも…疑う、なんて…!!サカズキ以外のひととなんて…ぼく、しないのに…疑うなんて…!」
「わかった、わかった。わしが悪かったとは死んでも言わねェが、おどれを泣かす気で言うたわけじゃねェ。泣くな」
お前それ弁明になってねぇよ。
こんなときでも「俺は悪くない!」というその姿勢を崩す気のないサカズキにクザンは呆れ、ぽんぽん、との背を叩いてあやすサカズキの背を眺める。
いや、お前、男女の喧嘩は男が悪くなくても謝るもんだろうが、と、そう以前進言したことがあるのだが、猪突猛信(誤字にあらず)というか、自分が正義、のこの男、はさらに泣くだろうと思いきや、しかし、サカズキの言葉を受けて、一度ぐすっと鼻を啜り、その胸にこつん、と額を押し付ける。
「わかってるよ、でも悲しくなっちゃったんだからしょうがないよ」
「そうか」
「傷ついたんだよ」
(ってか、ちゃん心広くね!!!!?)
恨み言のように2、3言うだけであとは「もういいよ」と言うように息を吐くにクザンは突っ込んだ。
さっきのサカズキのセリフのどの辺に謝罪の誠意が感じられたのだ!?魔女時代は「這い蹲って靴を舐めるまで許さない」と言うほど外道の極みを尽くして世界貴族を慄かせたあのが、不器用極まりないサカズキのぶっきらぼうな言葉にあっさり絆されている。
いや、だからどんだけ優遇されてんだ、サカズキ。
はごしごしと腕で涙を拭い、また「擦るな」と顔を顰めたサカズキを見上げる。濡れた頬に張り付いた髪を払おうとしたそのサカズキの手を取って、自分の胎に押し当てた。
「とにかく、このお腹にいるのは正真正銘、サカズキの子だからね」
「………そうか」
とりあえず妙な疑惑も晴れた。これが本来クザンが予想した姿である。は穏やかな顔をして、自分の小さな胎にサカズキの大きな手を当てる。胎児が宿っているともなれば、セクハラ動作をするということもできぬのか、慣れぬ、ぎこちなく身体を強張らせてじぃっとその、まだ膨らんでいない腹を眺めるサカズキの顔は、どんな顔をすればいいのかわからぬ、というようでおかしい。
「……そうか、おどれが、わしの子を」
壊れ物を扱うかのように、慎重にの胎をサカズキが撫でる。クザンが聞いたナースの話では既に五ヶ月目らしいが、体質的にあまり膨れぬ女性もいるらしい。はまさにそのタイプで、今日まで自分自身気付かなかったというのだからクザンは苦笑してしまった。
「嬉しい?」
「……言わにゃ、わからんか?」
「言ってくれるとぼくが嬉しい」
なぜかクザンは自分が赤面した。
いや、うん、わかってた。うん、すっごいわかってた。とうんうん自分を納得させる。多分こういう風景だろうと思っていたし、こう、自分そっちのけで幸せオーラが十万するもの、まぁ、いつものこと、今回はそれに輪をかけているのは確実だが、まぁ、よし!と無理やり自分に言い聞かせる。
言って、と強請られサカズキは気難しそうな顔をする。たとえ無自覚にバカッポー発言しようと、この男(信じられぬことに)照れ屋なところがある。未だにはっきりと「愛している」だの「好き」だの言わぬのも、出し惜しみしているというのではなく、ただ単に照れなのだ。
しかしが「ねぇ」と再度頼む。それに、こういうときはきちんと言うべきという意識もあるのだろう。何度か無駄に咳払いをし、そしてクザンやパンドラには聞こえぬよう、ぐいっと、の後頭部に手をまわし引き寄せ、その耳元で(クザンにも拾えぬほど小声で)何か呟いた。
「……ふふ」
ぽっと、途端が顔を赤らめる。一気に春が来たような、そんな暖かい空気が病室を満たした。小さな笑い声が本当に幸せそうで、自分で自分の両頬を押さえはにかむ姿は愛らしい。サカズキはといえば、言って照れたのか、顔を背ける。しかしその耳は赤い。
「いやぁ、よかった、よかった。っつーか、予想通りのバカッポーかよ。まぁいいけど、おめでとう、ちゃん」
このままバカッポー幸せオーラで砂糖でも吐けるようになるのもいいが、生憎自分の存在をいつまでも忘れられているのは悲しい。とりあえずクザンはパンパン、と、恥ずかしがっている二人を切り替えるために手を叩き注意を引いた。
そしてひょいっと、のベッドに近づき、その頭をぽん、と叩く。サカズキの子、とか、まぁ、何も思うことがないわけではないが、しかし、今はいろんなことに蓋をして、イワイの言葉を告げる。
「ありがとう、クザンくん」
はにこり、と笑顔を向けてきた。うん、普通に可愛い。これが人妻で妊婦だもんなぁ、と本当、クザンはサカズキがインペルダウンにしょっ引かれればいいと思う。
「五ヶ月だって?じゃああと半分かー。楽しみだねぇ、男の子?女の子?」
「クザンくん、どっちかわかるのはあと一ヵ月後だよ」
「ありゃ、そうなの?」
ひょいっと身を屈めてと目線を合わせれば、サカズキがベッドにのし上がり、をその膝に乗せた。
ハイ、目の前でいちゃつくな、このバカッポー、といつもどおりの突っ込みをしつつ、クザンは未だ沈黙している壁際の花、ではなかった、パンドラに視線を向ける。
てっきり状況が解決して何か言ってくるかと思いきや、そういえばが泣いているときでさえ彼女は何も言ってこなかった。
「パンドラさん?」
「……あなた、やっぱり生む気なの?」
クザンが声をかければ、壁際のパンドラはすっと足音を立てずにベッドに近づいて、サカズキの膝の上に大人しく収まっているを見下ろす。
「さっきもそう言ったよね」
「認めないわ」
物騒なことを問うパンドラにクザンがぎょっとしていると、どういう意図なのか把握しているただ一人の人物が静かに口を開いた。短く答えた言葉を、それ以上に短いパンドラの声が、咎めるように押しのける。
「…まだ、隠そうとした理由を聞いちょらんのう」
その不穏な雰囲気に口を開いたのはサカズキだ。の顎を掴み、自分のほうを向かせてから眼を細める。言わねばひどい、という脅しをこめた動作であるが、しかし、が怯むわけもない。先ほどと同じように静かな仕草で首を降った。
「隠そうとした理由は一つだけ。ぼくが妊娠したらどうなるか、サカズキに知られたくないの」
「この子の今の身体では出産に耐えられないのよ!」
まだ隠し続ける意思を感じたのか、パンドラが泣き声のような悲鳴を上げる。
ぴしり、と、再度空気が凍りついた。
+++
姉の悲鳴を頭の隅で聞きながら、は心が沈んだ。触れたサカズキの体温が、一瞬でカッと燃えるように熱くなる。それでも火傷するほどではないが、しかし、己に触れた手の力が強くなり、そして、見詰め合った瞳が驚きで見開かれた。
先ほどまでの幸せな気分が一気に崩れるのを冷静に感じる。
胎に子が宿ったことには、本当は早い段階で気付いていた。「気付かなかった」と言ったが、普通、体調の変化に気付かぬわけがないだろう。だが、出来る限りは周囲に懐妊を気付かれたくはなかった。
この身体は×××と、朽ちた部分をシュレディンガーの猫で補った身体。生き物を、命を生むには本来不適切だ。それでも己が子を宿せたのは奇跡としか言いようがなく、果たして無事まともな子供が生まれるのかという心配もなくはないが、しかし、は自分の妊娠に気付いたとき、思わず泣き崩れてしまった。
(サカズキの、子供を産みたいの)
出産は、通常どれほど鍛えたところで男の肉体では耐えられず死んでしまうとさえ言われているもの。女性の身体の造りであるから耐えられる。しかし、不完全なこの身体では、その痛みに耐えられる保証はない。
どうなるかわからない。
と、それにが妊娠中の体調不良のため倒れ診察した医師の見解は「五分五分」というところだった。死ぬかもしれない、だが、死なぬかもしれないのだ。
「……堕ろせ」
しん、とした病室に、サカズキの静かな、だがはっきりとした声が響く。
ずきりとは先ほど「誰の子だ」と言われたとき以上の痛みを感じた。だから、言いたくなかった。サカズキは、自分の命の危険があるというのなら、そう言うだろうとわかっていた。
(さっきは、嬉しいって、そう言ったのにね)
まだ五分も経っていない。まだ五分も、自分はサカズキが父親になるんだ、という幸せを感じさせてあげることができていない。
もちろん、簡単に言ったわけではないことはわかっている。サカズキがこの一瞬に様々なことを考えたのは、わかる。だが、どんな葛藤をしようと、サカズキは絶対にそういうというのが、わかっていたのだ。
だから、気付かれずに生んでしまおうとすら思ったのに。
は唇を噛み締めるサカズキの手をそっと握って、首を降る。
「絶対に嫌」
「わしの言葉が聞けんのか」
「サカズキはぼくに暴力は振るわない。だから、ぼくが自分の意思で堕そうとしないかぎり、どうしようもないんだよ」
ぐっと、サカズキが手を強く掴んだ。
これが以前の、ずっと前のサカズキなら魔女の胎に宿った命など災いの元にしかならぬと胎を蹴り、殴り、焼いてきただろうが、今のサカズキは、そうはせぬ。そんなことはできない。わかりきっていることだが、はあえてはっきりと告げた。
そうすることで、この問題に関してのサカズキの「無力さ」を突きつけるのだ。酷いことをしている、とらしくもなく、は罪悪感を覚えるが、己の決めたことではないか。そんな心を覚えるのは恥知らずだと自身を嗜める。
痛いほどに掴まれた手をそのままに、は目を伏せた。
「サカズキがなんていおうと、ぼくはこの子を、サカズキの子を産みたい。だって、ぼくはサカズキに幸せにしてもらえてて、いっぱい、いっぱい愛情を貰ってる。ぼくがいればサカズキが同じくらい幸せだって知ってるけど、でもね、ぼくはもっともっと、サカズキを幸せにしたい。サカズキの、赤ちゃんを産んで、家族を作りたいの」
「おどれがおりゃァわしはそれでいい。他にゃァいらん。死ぬかもしれねェ可能性のあるもんなんぞ、」
「このぼくが死ぬわけないよね」
必死に言うこちらの言葉を否定しようとする、そのサカズキの口を手でそっと押さえ、はにこり、と微笑んだ。
「ぼくらは一緒にいるとお互い傷つけることもあるし、苦しませるし、間違えるしだけど、でも、それでも一緒にいれば悲しくないって、わかったんだよ?そのぼくが、サカズキを置いて死ぬとか、ないに決まってるんだよ」
いつも、いつも頭の隅に、お互いある「大将」と「魔女」というその事実。それらはお互いを確実に傷つけ疲弊させるだけだ。結局大将はいつか魔女を手にかけるし、魔女は大将の手を取ることなどないと、そう判り、苦悩し、泣き叫ぶ。それでも、はサカズキと自分は一緒にいなければ、どうしようもないほど、お互い、どうしようもなくなるのだとわかった。それであるから、離れぬとそう決意する。その決意がどれほど、どれほど、覚悟がいるものか、忘れたことはない。
それを思えば、出産で死ぬ気などない。
「ぼくは絶対に五ヵ月後、元気な赤ちゃんを生んでサカズキに「よくやった」って褒められるに決まっているんだからね」
自信たっぷりに言い切れば、ぎゅっと、サカズキに抱すくめられた。胎を気遣ってか力は普段のように骨を軋ませるわけではないのだけれど、それでも、幸福を感じるのは十分な力強さ、は、僅かに震えるサカズキの大きすぎる身体を小さな両腕を一杯に広げて抱きしめ返し、埋めた胸の中で安心させるように「だから、怖がらないで」と小さく呟いた。
+++
あの泣き虫で自分の後ろを付いてくるだけだったリリスが、今はしっかりとした女の顔になっている。そのことをパンドラは誇らしいと思うべきか、それとも寂しいと思うべきか決めかねた。恐らくは両方なのだろうけれど、それを素直に認めるのは、何だか嫌だ。
意思を決めるその姿、あの夏の庭の番人たるリリスらしい堂々とした姿ではあるのだが、しかし、パンドラはそれでも顔を顰めずにはいられない。
(五分五分なら、まだマシだわ)
人間の医者や、それに生命を司る夏の庭の番人ならその判断をする。だが、死を司る冬の庭の番人の己には、そう楽観視はできない。
生き物を産む、ということがどういうことなのか。パンドラは、パンドラ・は誰よりも理解している。どれほど科学が進もうと、けして出来ぬ最後の「奇跡」そのことを、リリスは忘れてしまったのか。
科学が進むに連れて、古い時代の「魔法」や「奇跡」は違う形でこそあれ「現実」となった。一昔前では人が海を樹の寄せ集めで移動できるなど夢物語、夏の地で氷を一ヶ月以上保存するなど不可能と、世にはさまざまな「不可能」があった。科学はそれを可能にするが、しかし、生命を生み出す、そのことだけはどうしたってできるはずがない。
身体のことだけではないのだ。その道理を捻じ曲げようとすれば、かならずしっぺ返しを受ける。道理、状況の力というものはリリスの得意分野のはず。あるいは、その可能性を承知であの子は「それでも平気」とそう、微笑むのか。
ぎりっと、パンドラは爪を噛んだ。今日は急だったため水の都の夫のもとに娘を預けている。だが、この己でさえ、あの子を出産することは命がけだった。己があの子を生めたのは、あの子がノアという名になるべくして生まれたからだ。パンドラは状況の力を逆に利用した。己は「ノア」を産まなければならないと、それは道理である。
だがリリスは、この子は今「サカズキの子」を産みたいというのだ。
あの子はただの子供を望んでいる。己のように、いずれは世界の歯車のひとつとなるべく生き物ではなくて、ただ純粋に、愛する人との子供を産み、家族の営みを作る幸福を感じたいという。
「……リリス」
パンドラはそっと、妹の肩を叩いた。
「あなたの気持ちは痛いほどわかるわ。でも、お願い、わたくしにはわかるの。あなたは生きて子供を産めない」
決意はわかる。愛する人の子を、と望む気持ちもわかる。
だが、あまりにもリスクが強すぎる。
姉として賛成するわけにはいかない。もう二度と、この子を失いたくないと、家族としての愛情を深く感じるからこその思いだ。リリスは赤犬と「家族」を作りたいという。己も水の都に家族がある。だが、それでも己とリリスとて「家族」なのだ。
「ぼくは死ぬつもりはないんだよ。姉さん、それに、ぼくも本気だ。自分ひとりでどうにかできるなんて思ってない。姉さん、お願い」
ぎゅっと、が今度はパンドラの手を握った。妹の肌の柔らかさにパンドラは怯む。その温度、確かに生きているという血管を流れる血の感覚が、パンドラの抵抗力を弱める。
「ぼくは生きたい。だから姉さん、ぼくが死なないように、手を貸して」
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の言葉の後、わっ、とパンドラさんが泣き崩れた。沈黙していたクザンは何度目かの「ぎょっとして」を体験し、慌ててハンカチを取り出すと、美しい顔を涙で濡らしているパンドラに差し出した。
「え、何?なんで泣くの?」
クザン、実はちょっと感動していた。
が死ぬかもしれない、という可能性は理解したが、クザンは正直、事情がよくわからない。の身体のことやら魔女のことについて、自分は大将として程度の情報しか知らぬわけで、出産云々の話を聞いても「おめでとう」死ぬかもしれないときいても「え、マヂ?」としか思えなかった。まだ危機感を覚えていなくて、それでサカズキが反対するのを「心狭い」とパンドラさんが心配するのを「大げさ」程度にしか感じなかった。
しかし、の決意は本物、そこに込められたサカズキへの深い愛情を知り何気に感動していたのだが、ここでパンドラさんの大泣きである。
に冷たくされて涙を流すことはあってもこのように泣き崩れる姿など、クザンは見たことがない。わぁああ、と大声を出すパンドラの肩をがなだめるように叩いてたが、「え?」と状況についていけぬクザンを見上げてきた。
「クザンくんも協力してね。ぼくは、子供を産んで皆に笑ってほしいんだから」
言われた途端、なぜかクザンもじわり、と目じりに涙がこみ上げてきた。
あ、あれ?と戸惑って、年甲斐もないね、と誤魔化すように笑い乱暴に目じりを拭うのだが、涙が後から後から止まりそうにない。戸惑い、え、え、と妙な声を上げながら、クザンはぼんやりと、頭の隅で、「あぁ」と、妙な理解をした。
いつも一人で立っていたあの子が、自分を頼ってくれることが、こんなにも嬉しいなんて。
(振り返って、「生きたい」と言ってくれる君を、守りたいと思う)
Fin
妊娠発覚編でした。何気に気まぐれシリーズ化する気なので、次回は「妊婦はよくイラつく。蹴り飛ばせ、鳥を!」とかやりたい。予定は未定。
ネタ投下目安箱ご利用頂きました、投稿者「匿名希望さん」より。貰ったネタは「夢主が妊娠してそれをサカズキが疑って泣かれる話」でしたが、あれこれ想像してたらこうなりました。ハイ、すいません。でも「あー、確かに絶対最初疑う」と思いテンションが上がりました←
こんな感じで大丈夫ですかね?!いつかバカッポーで妊娠ネタはやりたかったので言い具合にケツ叩かれました!本当、ありがとうございます!またネタ下さい←
(2010/07/29 21:43)
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