マフェットお嬢さん
「CP9っちゅうんを、知っちょるか」
「サイファーポールナイン……?って、なぁに?」
初めて聞く名前にきょとん、と小首を傾げはごろごろソファに寝転がった。
海軍本部、奥に位置する赤犬の執務室は本人の合理主義にあった無駄のない家具配置・設計をしているのだが唯一この、真っ白いソファだけ赤犬の意によるものではない。
まぁ、いうなればが「やる事もないのに長時間ここにいろっていうなら座り心地のいいソファをおきなよ?」とおつるとセンゴクに駄々を捏ねた結果である。駄々をこねたというかわいらしい表現なら次の日センゴクは胃を壊さなかっただろうし、おつるのため息も続かなかっただろう。簡単に言えば、軽い脅しもあったのだが、それはまぁ、しようのないこととは堂々とのたまえる。
そうしておかれた真っ白いソファ。サカズキは意地でも存在を認めないのか、自分の部屋でありながら、の記憶する限り一度もこのソファに座った事がなかった。
そういう、変に意地を張るところがこの男にはあって、それは合理主義には会わないんじゃないかなぁ、とは始終不思議に思う。そういうところ、損はしないのかと一度聞いたが、意地も張れないつまらない男にはならんと、硬派なんだか、不器用なんだか判らない言葉とインク便が返ってきた。
「CP9。政府直属の諜報機関じゃけ、よう覚えちょれ」
執務机に向かって、あれこれ書類を書きながらサカズキは簡潔に答えた。
おや、とは眉を跳ねる。どうも、サカズキの機嫌が悪いようではないか。敏感に感じ取って、ソファから体を起こす。柔らかなクッションの上で膝を立ててじっと、サカズキを見つめた。一旦火がつけば誰にも止められないくらい、猪突猛進、絶対正義を貫いて一切の酌量も認めない、恐怖の大魔王であるこの男は、だけど、普段は割りと親切なところも、ないわけではない。
遣り過ぎでおっかないところは確かにあるが、この男、基本的に「正義の味方」という自負があり、それゆえに、傲慢さを持っていない。が普通の人が知っていて当たり前のことを知らない事情も理解しているし、だから、足りない情報を補うため丁寧な説明を、まぁ、面倒くさそうだがしてくれる、サカズキがこんな言い方をするのはまぁ、確実に機嫌が悪いからだ。
(えぇっと、何かあったっけ)
サカズキが不機嫌になる要素は犯罪者が脱走しただとか(でも、それでも確実に捕らえる算段をつけて解決するし)青キジのだらけきった正義を目の当たりにしたときとか(でも、最近クザンくんは大人しくしてるしねぇ)または、自分が、七武海の誰かのところに行かなければならない時だが、はこのところはミホークからもドフラミンゴからも呼び出しは掛かっていない。
(でも、それは執着心とか、嫉妬とかそういったものではなくて、危険因子であるボクが海賊風情と接触することが気に入らない、ってだけだ)
はぎゅっと掌を握り締めて、食い込む爪の痛みでいろんなものを誤魔化した。さて、じゃあ、なんだろうかと改めて考えていると、ばさり、と、頭から書類が落ちてきた。
「っ、」
「読め」
いつのまにか近付いてきたらしいサカズキが、自分が読み終わった書類をの頭に投げつけたようだ。バサバサと落ちて行く数枚の紙を拾い上げ、は溜息を吐いた。
「普通に渡してくれればいいのに」
「さっさと読まんか、バカタレ」
ハイハイ、とは頷いて、左下に印刷されている番号を揃えると一枚目から眼を通し、「うわぁお」と微妙な声を上げた。
「あのぢぢぃ…ごめん嘘、素敵な五人のオジイサマたちってば、何考えてるんだろうねぇ」
一覧して、は素直にこの世界のお偉い五人の老人を謗ろうとしたけれど、ギロリ、とそれはもうおっかない眼で睨まれてすぐさま訂正した。そして、おや、まぁ、と声は掠れているがなんとか笑って、はスタっと、立ち上がった。
「何所へ行く」
「逃げるんだよ」
「命令だ」
「ぼく、イヤだよ!何が悲しくてこのぼくが“詩人”しないとならないのさ!」
壁にかけてあったデッキブラシを手にとって、さっさと飛んで逃げようとするのだが、その前にサガズキにあっさりと拘束される。ぐいっと乱暴に腕を捕まれ、はそのまま床に押し倒された。別に、悪魔の実の力も薔薇の戒めも使われていない。ただの力技にはぐっと奥歯を噛んで、悔しそうに唸った。
「放してよ!」
噛み付くように言ってもこの男は怯みもしない。は先ほど読んだ書類を思い出し、呆れ半分、怒り半分でその感情をサカズキにぶつけた。
「頭悪いのか!!?あのぢぢぃどもボケた!!?何でこのぼくが詩篇の回収しないとならないのさ!!!」
「詩人がおらんのじゃけ、仕方なかろう」
この世には詩篇というものがあり、それが世に災いを齎している、とかなんとか。そういうものがある。リリスの日記の本文を写したもの、であるから、にも責任はかなりあるといえばあるけれども、それを悪用しているのは人の意思である。にはどうこうする気もなければ、興味もない。危ないと焦っているのなら政府が回収すればよかろうと、それで、詩人という厄介なポジションも出来たのではないか。
いや、確かにこの半世紀近く詩人がおらず政府が困窮していることはも知っている。、自分の知人が詩篇の被害にあったら、それはもう容赦なく回収はしてきた。というよりも、詩篇を世にばら撒いた張本人でもあるであるから扱えないわけもない。
政府のあのぢぢぃども、詩人を作ることを諦めて、直接自分に回収させるとは、そろそろ色々考えるのが面倒くさくなったのだろうか?
「なんでこのぼくが政府の暗殺機関に訓練☆なんて行かないとならないのさ!!そういう夢要素は他所様で十分だよ!!!!」
「花嫁修業だとでも思って気張れ」
「花嫁修業!!?何言ってんの君!!?頭打った!!!?」
ぎゃあぁああ、と喚いては半分涙目になった。怖すぎる、人を応援なんて絶対にしない男が何を考えてそんなおっそろしい一言を!!
書類にはのための簡単なCP9の説明がつらつら書かれていて、ようするに、一般には知られてはいけない秘密機関。政府の「正義」のために一般市民の殺しをも許可されている、おっかない場所だ。そんなところになぜ自分が行かなければならないのか。
面倒くさい。はっきり言って、面倒くさい。
「サカズキが入ればいいじゃん!!似合ってるよ!ものすごく、似合ってるって!」
一人の犯罪者を殺すためなら一国を滅ぼせる男だ。CP9の存在を知った今はなんで普通の海兵になったのかが不思議に思えてくる。
ギャアギャアと必死に叫ぶに段々いらだったのか、サカズキの手がの首を絞めた。
「ぐっ……」
「いい加減黙れ」
黙ってます。というか、黙らせられてます。突っ込みを入れたかったが、酸素が急に止められて、頭に血が溜まってきた。
「貴様の主はこのわしじゃ。わしは海兵。政府の命令には従え」
(そう言って、ぼくがバカ鳥のところに行かせられるたびに、殴るくせに)
それでもコクン、と反射的に頷いて、は帽子に隠れがちになったサカズキの目を覗き込んだ。
最初に会ったときはこんなに、狂気じみた光を宿していなかったサカズキが、大将になってから、どんどん、危うくなっているような気がする。
頷けば、そのままサカズキの手がの頬を撫でる。ゆっくりとした手つきに、は反射的にぞわり、と、悪寒ではない感覚に襲われて息を詰めた。サカズキの眼が満足そうに細くなる。
「良い子じゃのう」
それ絶対、違う意味で言っているだろうと、そう突っ込む心はにはない。
+++
「ありゃ、こりゃ随分こっぴどくやられたんじゃないの」
目を覚ますと大きな柱みたいなのが、自分を覗き込んでいた。床の感触が冷たい。は軽く頭を振って半身を起こした。
「失神するまでした挙句、放置って、酷いと思わない?クザンくん」
サカズキはどこかへ行ってしまったらしい。
まぁ、仕事をしに行ったのだろう。は床に転がされたまま放置されていたのか。風邪を引いたって心配してくれないくせに、丁寧に上着がかけられていた。
それに絆される訳でもない。肌寒かろう、という気遣いではなくて、ばっちり、正義と書かれた将校の上着、は「赤犬のもの」と誰の眼にもわかる。それが被せられている自分は、赤犬のものなのだから、と、もし誰か見知らぬ海兵が赤犬を尋ねてこの部屋に来たときの、ただの、首輪である。しかし、まぁ、この部屋に来るものでのことを知らぬものはほとんどおらぬだろう。ここは、そういう場所だ。
は上着を跳ね除けて、それでも邪険にはできなくて、丁寧にたたむとサカズキの椅子にそっと置いた。
「愛、あるんじゃないの?」
それを見ていた青キジがなんともいえない顔で呟く。苦笑、にも見えるが、揶揄られているようにも思えて、は笑った。
「どっちにも、そんなものはあっちゃいけないんだよ」
ふふ、と声を出して笑おうとしたら、あまり掠れた奇妙な音になった。
「くっきり手のあとが残ってるよ、ちゃん」
クザンが眉を顰める。あまり強い力だった所為だ。喉が、潰れかけている。ウンケの屋敷蛇とて万能ではない。簡単に修復できるものからそうでないもの。サカズキは、そうではない傷をつけるのが病的に上手かった。
「容赦ないよ、女性の扱いってもの、どうしてわかんないかなぁ。やっぱりぼくさ、クザンくんのところにお嫁に行くのが一番幸せな気がするんだけど」
今のところこの海軍本部で一番紳士的な扱いをしていくれる人の名前を戯れに出せば、当人は「おれのことからかって楽しい?」と心底嫌そうに眉を寄せる。それがなんだかおかしくて、コロコロと喉を震わせた。そのまま肩を竦めて床に落ちていたデッキブラシを拾う。ひょいっと、肩に担いで、とても大きなクザンを見上げた。
「それで、クザンくんがぼくをエニエス・ロビーまで連れて行くの?」
「話が早いねぇ」
「他にキミがサカズキのところに来る理由は見当たらないからね」
いい子だ、とクザンがの頭を撫でた。サカズキと同じ単語を出しても、こちらにはいやらしさがない。は嬉しそうに笑って、クザンにされるままにする。青キジは、赤犬と同期だけれど、サカズキとは違って融通の利く正義を持っているし、優しいところもある。だから、はクザンがわりと好きだった。わりと好き、と言うたびにクザンが顔を顰めるのが、また面白い。
「じゃあさ、いい子って褒めてくれるなら、肩乗せてよ」
了解を取る前にはひょいっと、ジャンプをしてクザンの右の肩に腰掛けた。体格差がありすぎるというのは、こういうところが面白い。
「こらこら、仮にもレディがはしたない」
言いながらもクザンは引き剥がそうとはせず、デッキブラシを受け取って、大またで机に向かった。
「クザンくん?」
「一応、これは持って行った方が無難かもしれねぇな」
クザンが掴んだのは先ほどがたたんだサカズキの上着だ。
「クザンくん持ってるのに人のいるの?」
「お前さん用にだよ」
ふぅん、とは流しかけて「え」とあからさまに顔を引き攣らせた。
例のあの正義のコート。趣味がいいのか悪いのか、その判断はは未来永劫保留にしようと心に誓っているけれども、そのコート、自分が使うのは、ちょっと嫌である。というよりも、サカズキのコートなら余裕で大きすぎる。布団カバーにしたって十分なくらいの大きさがあるものをどうしろというのか。
それを顔に出していると、クザンがぽん、との頭を撫でた。
「身を守るにゃ、もってこいだろ」
つまり、これからはCPの訓練場だかに連れて行かれるわけで、そこで、暗殺部員としての訓練を受けるのだ。が、おそらく起こる何か(には見当がつかないが、青キジには何となく予想がつくことがあるのだろう)に対して、赤犬の上着が役に立つ、というのか。
上着なんかで何か守れるのかには甚だ疑問だが、まぁ確かに、明らかに大将赤犬のものであるとわかるコートだ。CPでも赤犬の名前で無駄な争いを回避しろ、ということだろう。
そんなものなくともは十分自分の身を守れる自信はあるのだが、確かに、面倒なことにならない一番の手かもしれない。
「ねぇ、クザンくん」
「うん?」
「ぼくがCP9のところでマジメに訓練☆なんてできると思い込める?」
「まぁ、辛くなったら俺の名前を出せ。いつでも助けてやるよ」
つまり、大将権限でどうにでもなる程度の人事、だということか。は礼を言いながらも、ならどうして赤犬は、そうしてくれなかったのだろうと、そういうことを考えた。
確かに、もなぜ?という思いの方が強い。
サカズキによって封じられている身ではあるけれど、それでも、身を守る最低限の知識はあると自負していた。
赤犬が自分をいつも手元に置いておきたいことは、わかっている。それが愛ではなくても、不安、なのだということは、にとっても救いで、ならどうして、クザンのようにそうしてくれないのだろうか。はぎゅっと、クザンの服を握り締めた。
+++
バン、と眼の前に現れた紫の髪のひとは、なんか、変だった。
「俺がCP9長官のスパンダムだ」
でーん、と態度は偉そうなのだけれど、さっきコーヒーをこぼしてコーヒーに逆切れしていたし、傍らに控えていた秘書らしい女性に「セクハラです」と一分おきくらいに言われている。
はキョトン、と眼を丸くしてクザンを見上げた。
「ん?どうした」
「ばかみたい」
「んだとこのガキ……!!―――いえ、可愛らしいお嬢さんですよね、本当!」
素直な感想を言ったの言葉に、まぁ、当然のように反応して怒鳴ってきたスパンダだが、には見えないように微妙に角度を変えて青キジに睨まれた。いくらCP9の長官、偉いといっていても海軍本部対象の青キジには適わない。とたん態度を改めるとが「威嚇したらダメだよ」とクザンを嗜めた。
「まぁ、そういうわけでウチの子を預かってもらうことになったんだが……知っての通りは赤犬の秘蔵っ子でね。――ケガなんてさせんじゃねぇぞ」
「それは無理だよ、クザンくん」
誰もツッコミが入れられない状況では深い溜息を吐いた。なんとなく、わかっていることだったが、クザンは自分に対して過保護にすぎるのだ。赤犬と足して割ったら丁度いいのかもしれないと思い、は首を傾ける。
「このぼくが誰かの名前で守られてるなんて格好悪い。口出ししないでね?」
本当にどういうつもりで五老星が自分をここにいれたのかはわからないし、正直CP9という組織がどういったものなのか、詳細もわからない。けれど、五老星も性格は悪いが悪人、ではないはずだ。何か、世界のための意味があるのだろう。その世界のため、になぜ自分が関わらなければならないのかという面倒なことは考えないようにして、は目を伏せる。
「飽きたら逃げるから、それまでよろしくね」
はっきりと言い放つと、スパンダムがニヤリ、と笑ったのが眼の端に見えた。どう受け取ったのだろうかとか、そういうことはどうでもいい。
++
これでまた、自分は巨大な力を手に入れたのだとスパンダムはほくそ笑んだ。知る者ぞ知る、悪意の魔女が自分の部下になった。はその純粋な力だけではなくて、政府の重要人との係わり合いも重い。七武海のドンキホーテ・ドフラミンゴや鷹の目のミホークなどと懇意にしていると聞く、その上、赤犬の保護下にあり、先ほどの会話を聞いていれば青キジもご執着のようだ。
ソファにふんぞりかえってニヤニヤ、しているスパンダム長官は優越感バリバリに、青雉より預かった小型の電伝虫を眺めた。の身に何かあったら直ぐに連絡をしろと、直通らしい。その待遇、から見ても、を上手く使えば自分は更なる権力を手に入れられる、ということだ。
「パンダ」
そのお楽しみ妄想、を見事に打ち破るように、能天気で明るい声がスパーン、と扉を軽快にぶち破る音とともにやってきた。
「長官と呼べ!長官と!!ナメてんのかコラ!!」
飛び出してきたのは、さん。呼び捨てにされるのも名前を妙に短くされるのも大嫌いなスパンダムは、ごつん、とゲンコツを落としてしまって、我に返った。
すっかりいつものテンスションで殴ってしまったが、相手は赤犬の秘蔵っ子だったのだ。やばい、これ、やばいんじゃないの?と焦っていると、は殴られた場所を押さえて、「うわぁああん、長官がぶったぁああ!!」と泣き出す。
それでもちゃんと呼び方は変わっているし、小型電電虫で連絡するわけでもない。ほっと息を吐くと、もう気を取り直したのかが今度はファンクフリードに興味を示し、キョトン、と首をかしげている。
「おや、珍しいことをする。剣だね」
「ふぅん、解るもんだな」
ファンクフリードはの伸ばした手に鼻を押し付けたりして、さっそく仲が良くなっている。悪魔の実と、魔女は惹かれあうのだという話を聞いたことがあったが、こうして目のあたりにしていると、ただの子供、に見えなくもないとスパンダムはぼんやり思った。
こんな小さな子供が、世界の敵であり、正義が存在する証なのだ。と言って、この子供が犯罪者、ではないために政府は裁くこともせず、犯罪者、の定義をつくるための、存在でしかない。
「で、訓練の方はどうだ」
スパンダはソファにだらけきって座り、の背中に声をかける。この子供がCPの訓練場にやってきて一週間が経った。今はまだどのナンバー入りもできない訓練生たちと一緒に訓練をしている日々だ。いずれは9ナンバー入りが決定していることとはいえ、もしも見込みがなければただのお飾りとしてスパンダムの傍らに置くことになっている。
別に、スパンダムはそれでも構わないのだが、いかせん9ナンバーの面子は六式を極めていないメンバーを認めない。特に黒い髪のハト野郎とか、顎が変な猫とか。(同一人物)自分が言えばまぁ、文句は言ってこないだろうが、万一以前入った五式しか極めていない構成員のようにルッチに知らない間に消される可能性も、うん、まぁm無きにしも非ず。替えの利く人間なら構わないが、はまずい。傷物にでもなったら、大変マズイ。とっても、まずい。
「つまんないねぇ。そろそろトンズラしようと思ってるんだけどダメかな」
そんなスパンダムの心境など知らず、はいたって素直に報告する。つまりその、やる気のなさを。
「まず物理的に無理だよ。筋力とか、経験値?そういうのぼく一切ないし成長しないし、皆無だから、意味は一緒だね。二度言っちゃったよ」
ソファに座ってカリファが入れた紅茶を飲みながら、は指を折って神妙な顔をする。マジメに言っているが、まるで興味がないことは明らかだった。スパンダムは顔を顰める。
「おい、こら、ちったぁやる気出してもらわねぇと俺の立場がねぇだろ」
「きみの立場なんてどうでもいい」
すがすがしく言い切る、なんだこの我侭し放題なガキは、と、呆れ、もあるが、どうなのだろうこの少女のこの、スタンス。スパンダムはがしがしとの頭を撫でて抗議。
「おや、まぁ、やめてよね、もう、髪の毛ぼさぼさになっちゃうよ」
「ガキが色気づくなんて十年早いんだよ。ったく、大将赤犬からお前を預かった俺の立場も考えろ」
多少の打ち合わせ、というか、相談、いや、あれは一方的だったが、まぁ、スパンダム、を預かるに当たって多少なりともサカズキと言葉を交わしている。サカズキ本人もが六式を極められる、もとい、覚えられるとは毛頭期待していなかった。あの容赦のない男がに「覚える」ようにスパンダムにいってきたのは単純極まりない、最低限の防衛術のみ。全く、それじゃあ自分の評価は上がることもないし、恩も売れない。ここで一つが大将赤犬の想像以上の能力をここで得れば自分の株も上昇するものと、そういう算段。この子供は分かってるのかと、スパンダムが眉を顰めると、はお茶請けのクッキーを一枚口に運んだ。
「パンダの長官の安否なんてどうでもいいよ?それに、ぼく、戦うの好きじゃないんだよねぇ」
「おいおい、悪意の魔女ともあろうお前が今更何言ってんだ」
「おや、ぼくはここ最近は殺意を持った殺害なんてしたことないよ」
じぃっと、の青い眼がスパンダムを見つめる。本気で言っているのだろう。殺し方にどうこう、なんてあるわけがない。しかし、この魔女にはそういう、こだわりがあるのか、それとも、逃避か。そんなことスパンダムの知ったところではない。
(こりゃ、とんだ甘ちゃんだな、オイ)
スパンダムは溜息を吐いて、思案した。この甘さは、海軍には必要ない。殺し方、など拘っていたら、正義は貫けない。
だいたい、自分が赤犬に殺されるよりにはちょっと辛い思いをしてもらったほうがいい、とそういう計算でスパンダは勝手に決定すると、不思議そうな顔をしているの顔を覗きこんだ。
「おい、。お前はただいるだけで十分俺の役には立つ」
ずぱっと言い放つと、はころころと笑った。「正直だねぇ、好きだよ、そういうの」と、どこか上目線である。けれど、構うスパンダムではない。
「だがな、ここにいるとなると、中途半端なヤツは殺される。俺はお前を大将赤犬から預かってんだ。さすがに、最低ラインまではテメェを引っ張ってやらなきゃなんねぇ義務ってもんがある」
いう言葉は正論で、それが事実のようにも聞こえる。そういう、言葉を使うのがスパンダムは上手かった。は少しだけ感動したように瞳を揺らしてじっと、スパンダムの顔を見る。
「ん、なんだ?」
「長官が、長官しているよ」
ゴヅン、と、本日二度目の拳骨を食らわせると、は「わぁああん!!長官がぶったぁああ!!」といいながらも、やっぱり誰に告げ口するわけでもなかった。
軽やかな歌声がエニエス・ロビーの司法の塔、最上階の一室から軽快に響いてくる。魔女が子守唄のような歌を歌っているのだと、そういう話をカクは思い出す。
それは誰か、と言えばそれは一ヶ月ほど前よりCPナンバー入りするために六式を極める訓練を受けている、という噂の「赤犬の秘蔵っ子」けれど一切やる気がなく、ひがなスパンダムとお茶をしているか訓練をサボって逃げ回っているかに尽きるという、ふざけた少女。
四角い窓から外を眺めながら、カクは耳を澄ませた。響き渡る歌声は、魔女のもの。魔女の歌は荒らしを呼ぶのだという迷信を思い出す。けれどこのエニエスは、いつもどおりの有様だ。所詮噂話などそのようなもの、とCP9としての矜持をはっきりと持つ。
その歌声、その歌、この一ヶ月で耳に妙に馴染んだ。必ず毎日、この時間。外の太陽と月が平常な場所なら夜中の九時に必ず、魔女の歌声が塔の上から聞こえてきた。
「あの女、まだいるのか」
ソファに腰掛けて、グラスを傾けながら、それでも満更でもなさそうに目を伏せていたルッチが、カクの呟きに意地でも張るようにつまらなさそうな声音で言う。いつも肩に乗っている白い鳩は、ルッチのシルクハットの中に蹲ってすやすやと眠りの淵についていた。
「この歌声とも暫く聞き納めだと思うと寂しくなるのう」
「心にもないことを言うな、カク」
バレたか、と悪びれもせずにカクは肩を上げて、ソファに座り直した。
「やれやれ、この一ヶ月。あの子供と鉢合わせせんようにと、いらん気を使わされるのは面倒じゃったわい」
まだ十代のくせにいやに老けたような喋り方をするカクは、ルッチが苛立たずに会話のできる数少ない相手だ。長い足を組み替えて、ルッチは眉を跳ねさせる。
「それも明日の朝までだ」
CP9は誰一人、悪意の魔女と接触しないようにと、そう、言付けられていた。命じたのはスパンダムだが、本当は青雉辺りからのお達しなのだろうとルッチは見当をつけている。噂に聞く青雉は魔女を守ろうとしているのだ。
結局、カリファだけが、今のところ件の少女、の顔を見ている。カリファは極端に印象の残らぬよう務めて、秘書のまねごと、スパンダムたちの茶を出しに行った。本来であれば彼女の役割ではいことをしたのは、ひとえに「世界の敵」と言われるパンドラの影法師、の姿を見るためだ。
政府が八百年間、幽閉し続けている「パンドラ」が一体どういう、生き物なのか、CP9といえど詳細は知らない。知ってはならないこと、と決まっているのだ。しかし、ルッチ・カク・カリファ・ブルーノの四人は「」がどういう顔、どういう生き物であるのかを多少なりとも知る必要があった。
「明日からいよいよウォーターセブンでの潜入捜査開始だ。アイスバーグ氏と懇意であるあの女に我々の正体を知られては任務どころではなくなる」
「厄介じゃな。なんでまた潜入捜査の一ヶ月前に突然やってきたのか……」
調査によれば、は三十年以上前からアイスバーグとは交友があり、彼が造船会社を立ち上げた折にも、政府とのパイプ役に自ら身を粉にして助力を惜しまなかったらしい。
そういう、であるから、政府が本腰をいれて古代兵器の設定図と手に入れようとしていることを知れば、秤に掛けるまでもなく政府よりもアイスバーグに味方をするに違いない。
一番厄介なことは、アイスバーグの手にあるであろうプルトンが、の手に渡ることだ。歴史の本文はもとより、古代の遺物には魔女であるの、正確には彼女の本来の姿であるパンドラの所有した“箱”についての手がかりとなるものが必ず残されている。政府が八百年を掛けて捕らえ続けてきたパンドラの復活は、プラトン以上に恐れるべきものだ。
+++
長い長い廊下を眺めて、は叫びだしたくなった。
「サカズキのバカァアアァアアァアアああああああああああああああああああああああ!!!!!はげぇええぇぇええ!!!ぼけぇえぇええええええええええ!!!!」
本人に聞かれたら、それこそ酷いことになるのだろうが、なんとなく。さすがにエニエスロビーに連れてこられて一ヶ月、いい加減はこの生活に飽きてきた。
詩篇の回収は確かに政府では重要だが、しかし、あのぢぢぃども本気で自分が協力するとでも思い込めているのか。そうだとしたらは堂々と「痴呆症!」と言ってやっただろう。サカズキに命令されればある程度のことはするだけれど、何が悲しくて自分でバラ巻いたものをきちんと回収しなければならないのだ。
しかし、ならば、あのぢぢぃ共に目的などないのかと、そう、思えてすらくる。もういっそ、それでいいんじゃない?もう逃げ出そうかなぁ、っていうかクザンくんちょっとくらい様子見に来てくれてもいいんぢゃないの。誰にグチればいいのこの状況、と、ぐだぐだ独り言を言いながら、、スタスタスタスタ廊下を歩いた。
六式を極めるまで魔法の類は一切使うなとのお達し、それは無茶だといいたくなるが、言ったところで聞いてくれる良心的な耳は持っていないだろう。お陰でテクテクとどんな遠い場所だろうが歩かなければならない。歩くなど滅多にせぬ、初日はそれだけで筋肉痛になった。
考え事をしながら歩いていると、突然後ろから首を掴まれた。何、この理不尽な扱い、と気配を探れば、振り返る暇もなく、低い、機嫌の悪い声が耳元で聞こえてきた。
「司法の塔で人を罵るとは、いい度胸じゃのう。貴様、躾け直されたいんか」
ギィイィ、と寂れたゼンマイのような音を立てながら、はゆっくりと振り返った。
++++
「貴様の体が浚われた」
ソファに座るなり、重々しい口調でサカズキが呟いた。一瞬は何を言われたのか理解できずにキョトン、と目を丸くし、そして、顔を顰めた。ちなみに散々殴られ、しこたま蹴られた後である。
パンドラは、の本体だ。が生まれた肉体。けれども、まぁいろいろあって、は自分の体を捨てた。四百年前、ノアが全てを犠牲にしてパンドラから心を逃がして、そうして、気安い名前のとなった。は四百年間彷徨い続け、十五年前にサカズキに捕らえられて、今に至る。
それでも、本体と魂をめぐり合わせては厄介なことになるかもしれないと、そう、政府の方針。は四百年、自分の体を見ていなかった。
「ぼくの体が誘拐。ソッチの趣味のひと?」
「まだ殴られ足りないんか」
「冗談だよ。世界の敵の体を誘拐するなんて、バカなひともいるんだねぇ」
心はここにある。けれど、体の腐敗や時間の経過を防ぐために魔力の半分以上はパンドラの体の中に残してある。どういう経緯で誘拐事件になったのかは知らないが、パンドラが一人歩き、だなんてことは絶対にない。誰か、人為的なものだろう。だとすれば、それは世界規模の犯罪ではないか。
「まぁ、関係ないね。ならこれでボクが、政府に飼われる必要はなくなった、それだけが今は重要だ。あぁ、よかった。せいせいするよ。これで、」
言いかけて、は殺気を感じ口を噤んだ。顔を上げれば赤犬が、表面上はさきほどと変わらない顔をして、じっと、こちらを見ている。
「……なにか、言いたいの?」
「探し出せ」
やれ、と、いつも、そう、気安く、けれど重い声で言われてきた。どんなことでも、最低限、との「約束」に触れない限りのことを、させられてきた。はサカズキのその声、その言葉には必ず従ってしまう、条件反射のようなものが出来ていて、けれど今回はそれに従わなくても良いのだと思っているから、反応が、ぎこちなく、遅れた。
「なんで?」
短く、それだけを問い返してみれば、赤犬は帽子を被ったまま、相変わらず覗き込めない目の中で何を考えているのか、考える時間もないくらい素早く答えた。
「正義のためじゃ」
絶対正義の名のもとに、その言葉の重み、痛み、非道さを彼ほどに体言してきたものはないと、は長い時間の中でも、思う。その彼が、言うパンドラをが捕らえることが、正義。
「万が一にでも、貴様の体に眠る力を引き出せる者があれば、それを阻止できるんは、貴様しかおらんじゃろう」
従うのが当たり前、がその「命令」を納得することは当然のように、サカズキは淡々と語る。それで、全て理解した。なぜ今になって自分がこんな場所で訓練しなければならないのか。
あのぢぢぃども、本気で死ねばいいのに、とは心の底から思う。ハナっから、己に詩人の代役をさせる気はなかったということか。
とパンドラの、体の中にある魔力はほぼ同じ。しかし、本体と、しょせんは仮の体。その差は大きく、たとえに本人の意識があるとはいえ、オリジナルの体はそれだけで、尊く、強力だ。それに、対抗するために、魔力意外の戦力を自分につけようと、そういう腹積もりだったのだ。政府は。
「ボクが自分で自分を捕まえて幽閉しろってか。バカかい、君は」
ぎりっと、は奥歯を噛んで、サカズキを睨みつけた。何も、なにもわかってくれていない、この男は。いや、政府そのものが、何百年たっても、パンドラを理解しようとはしない。
自分はもはや世界に関わろう、なんて大それた志を抱いてはいないのだ。できることならひっそりと、ひそやかに、時代に、時間に、人々の生活に埋もれて、生きていければそれでいい。空白の真実も、なにもかも、どうだって、いいのだ。世界政府が正義だろうが悪だろうが、そこに生きる一市民には何の関係もない。そういうことを、知っていたから、の、魔術師パンドラの牙は長い時間を掛けて抜かれてしまっていたのだ。
「ぼくはもう、戦いたくないのに」
「知った事ではない」
言い切ったサカズキを、は容赦なく横っ面をたたいた。避けられただろうに、どうしてか、サカズキはいつも、こういう、の癇癪のような攻撃だけは、受ける。手加減もなく、むしろ逃げ回ってはいたが、最近CPとしての訓練をこなしていた身、以前よりも威力があったのだが、しかし、それでもの手がじぃんと逆に痛んだ。質の良い絨毯の柄を見下ろして、は痛みを紛らわすために手が白くなるほどに力を込める。
「酷いことばっかり言う。それでもぼくは、君には逆らわないよ」
ギリギリと血が出るほどに奥歯を噛んで、ひび割れるように呟いたはそのまま大またでクローゼットに歩み寄り、この一ヶ月、後生大事に保管していた赤犬の、あのコートを取り出して、投げつけた。
++
「ということでね、お暇するよ。自分探し、って言えば聞こえはいいんだけどねぇ。何これ、迷子捜索?」
「んァー、まぁ、気ぃつけて行け」
パンドラを探しに行くのでCP9とはお別れです、なんて挨拶。
世話になったのはわずかだが、それなりに親しみを持てる間がらになったスパンダムとの二人。言葉は心底気だるそうなものなのに、スパンダムは椅子を反転させてには背を向けたまま、も、ファンクフリードに林檎を上げてあやしながら、スパンダムに視線を向けようともしない。
別れの挨拶をして、こんなものだろうと出て行こうとすると、背中に、なにか投げつけられた。
は一応「痛いよ」と非難の声を上げてから、自分の背中にぶつかって落下したものを拾い上げる。
「長官、なぁに、これ」
「ン、まぁ、なんだ。結局、指銃も覚えられなかっただろ、おめぇは。だから、だ」
「こんなもの使わなくたって、ぼくは卑怯なくらいに無敵だよ」
必要ないんだよ、とは笑って、スパンダムが寄越した銃を手で持ち直した。ずしりとそれなりの重さがあって、よくこれを気安く投げつけられたな、と感心する。よくよく考えてみれば、たぶんは本来スパンダムを恨んだり、嫌ったり、そういうことをする筋があったのではないかと、別れ際になって気付いた。
彼の父親がオハラにしたことによって、は動き出し、政府にその存在を知られたのだ。それで、サカズキが派遣され、例の「一夜」の戦いに負けたは世界政府に自由を奪われた。
「ぼく、長官のことわりと好きだよ」
「ンだよ、縁起悪ぃ。最後の会話か?」
違うけど、とは笑って見せて、やっと、お互い顔を見合った。
「さようなら、長官」
「おう、またな。」
軽く言い、は恐らく、ここで彼に親しみを覚えはしたけれど、それでも、いつかこの男は自分に酷いことをするんだろう、と長年の経験からわかっていた。それならこの頂いた銃で彼の頭をぶちぬいてやるべきかとも思いつつ、は丁寧に頭を下げる。
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歩いていたら、腕を掴まれた。反射的に眉を寄せてしまうほどの痛みに、乱暴さ、慣れた温度には文句を言う前に、次に来る理不尽な力を覚悟して目を伏せた。
(一般的に言えば、抱きしめられている、のに、なんだろ、この、互いのぎこちなさ)
骨が軋むほど、手加減もなく無遠慮に強く抱きしめられて、酸欠。はくらくらと脳みそが揺さぶられるような感覚に陥りながら、サカズキの背中に腕を回した。(愛情、ではない。縋り付くものが今現在他に見当たらぬ状況。どうせ支えあう気などないこの男。纏わり付いて、想えるのは自信の正義に添う思いだけだと知る。
エニエスの、の私室。最上階に近く、隣にはスパンダムの部屋、一つ下にはロブ・ルッチの部屋があるのだと、本人に会ったことはなかったが、、そう聞いていた。何事か、あった場合に直ぐに身を守られるように配慮されているのだそうだ。その私室で、その部屋のソファで、白いコートだけ身体に羽織って、はぼんやり天井を見上げた。
「これが、今生の別れじゃあるまいし」
何を、焦っているんだか。呟いた言葉は自身か、それとも返品したはずの白いコートを再び自分に被せて、今は向かいのソファで書類に目を落としているサカズキにか、吐いた己でわからなくなって、はごろん、と、寝転がった。
横たわったままサカズキの顔を伺い見る。視線が下がったのでその険しい顔がよく見えた。
この男の思考回路など、きっと一生、長い時間をかけたって自分にはわかることはないのだと、そういうことはわかる。それを決めた瞬間から、はサカズキに壁を感じ、またそうとは知らないだろうが、サカズキ自身、そういう壁を覚えたのだろう。そういう自分達であるから、ある程度の距離が常にあって、それを超えようとしても、近付いた分、相手が下がったり、下がった分、相手が近付いたりと、そういう堂々巡りをしている気がする。
「サカズキは、ぼくが好きなの?」
「くだらんことを聞くな」
一蹴、にべもない。はゆっくりと身体を起こして、軽く指を振り、部屋の入り口に脱ぎ捨ててあった自分の衣服を取った。腕を通しながら、白いコートをどうしようかと、そういうことを考えていたら、伸ばしていた腕が前に引っ張られた。
「消えるのは、許さんぞ」
「っは」
は目の前のこの男の首を、本気で絞めたくなった。酷いことしか、言わない口だ。喉だ。潰して、この眼だけが自分を見ていれば、傷つかずにすむのに。ぎりっと、唇を噛んで、はその手を振り払った。
「わかって、いるよ。パンドラを見つけたら、ぼくはちゃぁんと政府に、海軍に知らせる。そうしてぼくは自分の体を封印しなおしてまた、おしまい。それで満足する?」
わかっていると繰り返して、は服装を整え、部屋を出ようと立ち上がった。入り口に来て、サカズキが声をかけてくる。投げつけられる、白いコート。今日は良くものを投げられる日だとぼんやり思って、落下したコートを見た。
「持っちょれ」
返品したコートを、いい加減納めてくれればいいのにとは溜息を吐いて、振り返らずに嫌そうに答える。
「首輪は必要ない。むしろ、邪魔だよ」
「夜はよう、冷える」
ばっと、はサカズキを振り返った。相変わらず、書類に目を落とす事務的な姿の男の顔も目も何も先ほどと変わっていない。
手を伸ばしてドアノブを捻れば、たぶん暫く、望まない限りこの男の理不尽な暴力を受けずに済むし、傷つけられずにすむと、そうわかっているのに、はまだ立ったまま、サカズキを見つめた。
何か、一言、この男に正確で間違いのない言葉を投げて、聞かなければ一生、彼が死んでしまってから、が一人きりになった時間をかけても、後悔してしまいそうな何かがある気がした。は暫く沈黙して、必死に言葉を選びながら、ようやく一言、口に出す。
「ぼくさ、いつもきみに何を言えばいいのかわからない」
言って、俯いて、相手が何か言う前に素早く部屋を飛び出した。追いかけてくるような気配が一瞬して、焦ったは必死に逃げた。
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気付けば、ここドコ、と首を傾げたくなる場所についていた。
階段を下りた記憶はないし、上がった覚えもない、ということは自分の私室のあるフロアなのだが、さすがに短期間しかエニエス・ロビーにいたわけではないし、あまり興味もなかったから訓練場と自分の部屋、それにスパンダムの執務室くらいしか行ったこともなく、手っ取り早く言えば、まぁ、迷子になったんだろうとは気付いた。
これから迷子のパンドラ探しに行くのに自分まで迷子になってどうするんだか、と苦笑して、とりあえず自分が知っている場所に辿り着くか、それとも適当な部屋に入って誰かに道を聞くか、そうしようと再び歩き出した。
一番手っ取り早いのは窓から飛び出してデッキブラシで飛んで行くことなのだが、サカズキがいるこの空間で魔法を使えばすぐにばれる。
歩いていたら、行き止まりになった。てくてくと当てもなく歩いている最中、誰にも会わなかったのはこの階はやスパンダムと言った政府にとって地位のある人間の私室があるからだろうとぼんやり思ってはいたが、は自分が突き当たったやけに豪華な扉に目を奪われた。
白い作りに、緑の飾り、隙間もなくぴっちりと閉ざされた扉はそれなりに興味がわいてきて、まぁ、誰かいるだろうとそういう期待もあり、は蝶番に手を伸ばした。
「そのまま、動かずに」
ぴたり、と、低い声が自分の耳元で囁かれ。は扉に伸ばした左手をつかまれ、反対側の手も拘束された。
気配には気付かなかった。同じフロアにいるのだから赤犬と遭遇してしまうかもしれないと、そういう恐れがあったから、は油断などしなかったし、耳をそばだててもいた。
それでもこうして触れられて、殺意のない気を当てられるまで気付けずにいたらしい。は眉を顰めて、身動きの取れないまま相手をなんとか探ろうとした。
「気安く、このぼくに触るんじゃァないよ」
言えば海兵や政府役人はすぐに態度を改めるはずだ。しかし、正直はそれを期待していなかった。相手は、姿の見えない相手は、自分に対して丁寧な言葉を使っている。慇懃無礼、の匂いはするが、それでも敬っているのだ。のことを承知している、ということだろう。
「存じております。しかし、いくら貴方であってもここから先へ侵入することは認められていない」
「へぇ、ぼくは身に覚えのない権利が結構あって時々困るけど、禁止事項もあったんだねぇ。この先には一体何があるんだか」
誰、だろうか。自分の正体を知っていて、なおかつ、萎縮もせず淡々と対応のできる人物。探って、必死に思考を巡らせて、は単純な事に気付いた。
「ねぇ、悪魔の実の気配がするよ」
とん、と、相手が離れた。急いでは振り返ってみたが、すでに相手の姿はない。軽くしたうちをして、は扉から離れた。
(馬鹿か、ボクは)
言葉にするのをもう少し遅らせれば、何の実なのか正確に把握できただろうに。自然系であればそれほど数もなく、動物系と違って他のモデルがあるわけでもないから、それを手がかりに探れたはずだ。
探ってどう、というわけではないのだが、一泡吹かせてやろうとそういう、意地だ。なのではさして重要性もおかず、スタスタと歩いてそのうちに、先ほどのことも扉のこともさっさと忘れてしまった。
「まずは東の海から探そうかな。あの海はわりと平和だし、鈍った身体で始めるにはいい場所だ」
一人で勝手に頷いて、決めて、はまずは訓練場に行って立てかけて放置してあるデッキブラシを回収してしまおうと、そういうことを考えていた。
Fin
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