「誰にも視認されぬ事象が現実であるという証明はどのようにすればよいのでしょう」 静かな声でそう問うてきた女の目の暗さ。危ういな、と心中思わなくもないけれどだからといって己がどうこう言うこともない。トカゲはぎしり、と木椅子を軋ませて長い足を組み替える。背を凭れさせれば前髪が額に掛かった。それをうっとうしく思い払って、じっと、目の前の女を見つめる。 いやはや、全く。目覚めてしまったらしい、世界の敵。罪悪の証明と、こちらの世界で定められている女。神々に愛されし贈り物の女。トカゲとてその要素を持って生まれた生き物ではあるのだけれど、因果律の違う世界においてはその存在は霞むもの。それをそうとわきまえていなければ地平線越えなどという無茶はせぬ。 普段空色に見える瑞々しい色の髪は暗い室内、傍らにある暖炉の炎によって今はインディゴブルーに見えた。パンドラは長い髪を手で払ってその赤い眼を細める。その間も薔薇の唇には艶のある笑みが浮かんでいるのだから、トカゲにはたまらない。傲慢・尊大は己の専売特許だと思っていたのだが、いやはや、彼女には些か負けると帽子を脱いで表現しようと思うが、室内で帽子をかぶる趣味はなくとっくに頭の上はすっきりしていた。 「卿のたくらみごとなぞこのおれが根から絶やしてやるから、余計な心配はせずにおけばいい」 まぁ恐ろしい、と女の嬌声にもにた笑い声が上がる。 「わたしが何を考え何を望んでいるのかを委細承知していると驕っていらっしゃる。その高飛車な鼻を明かすのは、楽しいでしょうね」 「傲慢なことだな」 「それは貴女でしょう。わたしはそれほどではありません」 何を白々しく、よくもまあ、とトカゲは呆れ。壁際に控えている海軍海兵たちをちらり、と横目で見た。可哀想に連中、パンドラ殿の警護というか見張り役を任されたばかりに、この見るも寒々しい会話の傍聴席を強制獲得してしまっている。暖炉の炎はこうこうとしているが、寒い。眼に見えぬブリザードが肌でぴりぴりと感じられるようである。 おそらくこの場にいるのは准将以上からだろうから、中佐であるトカゲからすれば上官に当たるのだけれど、縦社会に所属していて全くそういう序列を省みない彼女であるから、憐憫は沸いても敬い気遣う心などない。 「まぁ、それはどうでもいいんだがな」 どのことに大しての言葉か知れぬようなことを呟いて、トカゲ、この女が目覚めてどれくらい経つのかとぼんやり考えた。あの、真っ青だった大きな目を真っ赤にして泣いてしまったあの子がいなくなった。死んでしまった、のではない。消えてしまった、という言葉がふさわしかろう。元々生きていなかったのだから、死ぬこともない。あの、こちらの世界の己を思い、患えそうにすらなる。トカゲは、元々いた己本来の世界で世界の敵認定されている生き物だ。で、あるからして、平行線でたどればこちらの世界の「己」と定められる生き物は目の前のこの女。毒々しい唇の、真っ赤な眼に正気が見当たらぬ女がそうであるはずだ。だがしかし、トカゲにはそうは思えなかった。最初から、そう、当たり前のようにトカゲはあの子供を、、と皆に呼ばれて太陽のように笑っていた、可愛らしい幼子がそうだと、認めていたのだ。だがあの子供は消えた。いなくなってしまった。もう元通りにはならない。そういうものだ。消えたとき、トカゲは半身を持っていかれたような痛みが走った。心臓、はある身。だがそんな器官よりももっと心に近しい場所が容赦なく抉られた、痛み。丁度その時からかい甲斐のある中将殿が傍らにいなければ泣き出したかもしれない。それほどの、喪失感。あれは誰に、どう言葉で表現してもわからぬだろう。 「蝶になった夢を見た男の話を知っているか」 「えぇ、当然。あなたが承知しているでしょう事柄はわたしも、一切」 階位こそ違うが魔術師としての原点は同一であるのだから、その芯にしているモノとて同じなのだろう。話が早くて助かることは助かるが、この笑みを含んだような甘ったるい声はいささか神経に障る。ため息を一つ吐き(このおれが!)トカゲはこちらも負けずに傲慢に言い放つ。 「蝶だろうがヒトだろうが、そんなものはどちらでも構わないだろう?これが夢だろうが現実だろうが、ただの物語の文章、文字の羅列の上のことだろうが、そんなことに意味を求めるほうがどうかしている」 あの子供も、本が好きだった。物語がすきだった。トカゲ程ではないにしても、並み以上の長い時間をひっそり生きてきたのだ。達観していたところすらあった。全ての出来事は己を通り過ぎていく。であれば、それが本の中の物語であっても、眼球を通して知る出来事だとしても、過去になれば意味などないと、真実かどうかへの興味を、失っていた。あの子供はそうだった。トカゲは、しかし少し違う。もうちょっとだけは、前向きなつもりだ。 「どちらにしても、おれも卿も、進まなければならんだろう。現実であれば足で地を踏みしめて、物語の類であれば文字の上を躍るように」 この世界、この、夜のやってきた悲しいだけの世界はまだ何もかもが終わっていない。まだまだ知らされなければならぬことがある。そして夜は、明けなければならぬのだ。この世界が本物だろうがどこぞの妙な生き物の脳内の産物だろうが、今、ここに己らは存在を持って在るのだから、首でも吊って死んで、その灰を海にでもばらまいて仕舞いにしない限りは、何も変わりなどはない。 「人の人生も、物語も、結末を迎えなければ意味がない」 「あらいやだ。貴女の人生に意味などあるわけがないでしょう。あなた、存在なんかしていないのに」 「おれが誰かの夢だとしても、だ。卿に判じられる覚えはない。無礼な女だ」 ぴしり、と、壁に亀裂が走る。海兵たちに緊張の色が生まれた。トカゲ、地平線を越えたときは魔力の一切と、それと大事な右目をごっそりセフィラに持っていかれてしまったのだけれど、あの少女が消えて、それが「なかったこと」にされた。不条理を条理正そうと奪われたものを、強制的に道理にする。それがあの子供の最後の吐息。こうして己の魔力を感じるたびに、トカゲ、物悲しい心がある。だが、それがなければ今、この、この世界にとっての「非常事態」はそれこそ「大事」になっただろうとも思う。だから、あの子はそうしたのだと解っている。どこまでも、この世界を「きれい」と言っていた、まぶしい、きらきらとした眼を忘れられない。あの子は世に憎まれても、それでも世を愛していた。 「顔をお貸しなさい。もう片方の目も抉ってさしあげてよ?」 「猫の額ほどもないな。卿の自制心は」 「そんなものわたしに必要ないでしょう」 暖炉の炎が消えた。辺りが一層暗くなる。壁際のわずかな明かりのみ。その闇の忍び寄る空間でひときわ真っ赤に光る、女の眼をトカゲは眺め、腰を上げた。そのまま前に進み、パンドラに近づく。こうして近づいてみれば幼い顔をしていなくもないのだ、この女。そして、己の顔と本当によく似ている。も似ていたが、自分とはまず「大人」と「子供」という壁があった。こちらのこの女とは、おそらくこの世でただ一人の「同年代」だろうから、比べる前提がまず違う。両手でパンドラの顔を抑え覗き込めば、ぱしん、と、手を叩き落とされた。目の前の女は笑んでいる。 「なぜ、帰らないのです。こちらの世界には貴女の選んだ方はいらっしゃらないのでしょう」 「ふ、ふふふ、おれがいない間に赤旗も男を上げているだろうからな。こちらも女を磨いておけば戻った時にいぢめ・・・じゃなかった、からかい甲斐があるだろう」 「まぁ、ふふ、かわいそうな方ね。“赤旗”X=ドレーク」 ドS二人では突っ込み皆無である。トカゲは「だろう?」と得意げに言って言葉を続けた。 「帰らないよ。いつかは帰るが、それはこの暫くじゃあない」 「結末を迎えると?」 「そのつもりだが?」 「まぁ、浅ましい」 またコロコロと、鈴を転がすような音を立てて笑う。よく笑う女だとさめざめ、トカゲは感じた。女の笑みがこれほどカンに触るのは中々ない経験である。パンドラはその白い手を伸ばし、トカゲの襟首を掴む。ぐいっと、柔な女ではない強い力で引かれ、見詰め合う双つの眼。真っ赤に燃え滾る炎のような、ルビーの瞳に、真っ青にどこまでも深い海のようなサファイヤの眼。 魔女の吐息。悪意の原点。この世に災いをばら撒き、人に希望などという厄介なものを与えた女。どちらも、この世の破滅を願ってなどはいないのに、そうだろうと突きつけられた生き物。だというに、互いに芽生えるのは同罪ゆえの共通概念ではなくて、どこまでも、どこまでも、おあつらえ向きに広がっていく、深い、憎悪。 トカゲは手を伸ばし、女の喉に手をかける。海兵らが何か叫んだ。彼女に害をなすことは誰にも許されていない。それはトカゲとて同じこと。トカゲはただ、彼女を押さえつけることができるからと、それだけで、そのためだけに、こうした会話を許されている。傲慢な、と笑い一蹴しながらもまだ、トカゲは拒まない。諦めない。何があったとしても、必ず、己は。 「取り戻してやる。貴様の魂からあの子を引きずり出して、奪う。絶対にだ。このおれを、そこらの諦めのよい生き物と一緒にするんじゃあないよ」 「如何して、どうやって?死した者が生き返らぬ道理を承知の魔術師が、存在すらしない生き物をどう扱えると嘯くのです。ノアの体も塵に消え、もうあれがいたと証明できるものは何一つないのに」 深い決意は、深い道理によって、どこまでも足蹴にされる。噛み付くようににらみつけ、互いに違い、一歩も譲らぬ構え。トカゲの脳裏には今も焼きついて消えぬ、最期に微笑んだ。本当に、心の底から微笑んだあの少女の顔。何もかもを、知ってしまって、それでも世界を「きれい」だと、そう、言ったあの子を、なかったことになど、させぬ。時が、時間が流れれば流れるほどに軽薄になっていく可能性。流れ落ちる砂時計を止めることが出来るほど、トカゲは化け物に近づいてなどいない。 それでも。 「お前の望んだ結末など、来ない」 よく見て逝けよ 魔女の悪意 Fin ・ノリノリなパン子さんも時々には煌きますネ。 NEO HIMEISM |
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