今日もやっぱり、ドレークは胃が痛くなった。
いや、朝までは調子がよかった。本日は晴天、カラッとした空に真っ白い雲。港町にはカモメが飛び交い、汗を流しながらも人々は笑顔で今日という日を迎えるのだろうと、そう思えばドレークの顔も自然と穏やかになっていた。北出身のドレークは暑さがあまり得意ではないが、暑い中に体を動かすということが嫌いではなかった。こういう日は仕事の後のビールが美味いのだ、と給料日後ということもありドレークは終業後久しぶりに同僚でも誘って町に出かけようかと、そんなことを考えていた。
正午を過ぎ、小脇に浮き輪を抱えたがひょっこり顔を出すまでは。
ハイ!真夏!真っ赤に燃える太陽に吼えろ!
「ねぇ、ディエス。ぼくも水遊びしたい」
「…それは、遠まわしに俺への嫌がらせか…?」
幼いがしっかりと整った顔をそれはもう愛らしくさせて、堂々とがのたまう。本当、相変わらず顔だけはかわいらしいのに、なぜこう平然と無理難題を吐いてくるのだろうか。
悪意の魔女といえば海に嫌われた存在であると、それはドレークも重々承知していた。
悪魔の実の能力者たちとは少々異なるが、しかし、の体は海に入れば苛まれるのだと、そういう話を赤犬から直接聞いている。けしてが海に、海水に触れることがあってはならぬ、と。飛沫すらも身を溶かす恐れがあるので絶対に、と、そう念を押されている。自身もわかっているはずだ。それであるのに、現在ドレークの執務室を訪れたの格好は、只管ドレークの胃に負担をかけてくる。
どこで入手したのか知らないが、ところどころほつれてそれが妙な味を出す大き目の麦藁帽子に、歩くたびにピコピコと音のなるビーチサンダル、それに「俺の夏」などと達筆に書かれた真っ白いTシャツ、下は珍しく半ズボンだ。にぴったりだろうと思われる大きさの浮き輪を肩にかけ、その反対からは素潜りにでも使えそうな水中メガネを引っさげ、小脇になぜか小さなスイカを抱えている。いわゆる海に出かける子供の姿そのもので普段室内に篭りっぱなし、読書をすることがほとんどで日に当たることも稀だろうの健康的な姿にドレークは妙に微笑ましくなる。
だが海にが遊びにいくことなどできるわけがなかろう。
これはもう手の込んだ嫌がらせかと聞けば、が心外だと言わんばかりに眉を寄せる。
「だって、暑いんだもの。サカズキの執務室とか軽い地獄だよ!で、窓開けて外眺めてたら新米の海兵さんたちが海で遊んでるところ見たの」
マグマの能力を持つ大将の執務室は夏場は絶対に行きたくない場所のひとつだ。冬場はいいのだが、夏は自殺行為だ。いや、当人がいるだけで温度があがるということではなく、何かあった際に急激に熱量が膨れ上がるため、という方が正しい。特になど赤犬の機嫌を損ねる材料には事欠かぬので蒸し風呂状態を嘆いても、それはしようのないことだろう。
「遊んでない、それは訓練をしているんだ」
ため息一つでドレークはとりあえず、最後の部分にだけ突っ込みを入れることにした。こう暑い日は水上訓練が多くなる。要塞の裏手には浜もあるので砂浜をランニング、あるいは沖まで重しをつけて泳ぐ、などと言ったメニューが訓練内容に入るのはドレークも経験上知っている。それをが「遊んでいる」と称するのは、まぁ、魔女のから見れば人の努力する姿など遊びにしか思えないのだろうか、とそんなことを考えてしまう。
「ぼくも水遊びしたい」
まだ言うか。つんつん、とドレークのスーツを引っ張りが見上げてくる。そのあどけない顔に騙されここでうっかり「なんとかしよう」などと言った日には地獄を見ることになる。ドレークは忍耐強さを求められる父親の心境をじっくりと味わいつつ、の頭をぽん、と叩いた。
「海水はお前には毒だと聞いている。お前が怪我をするような場所に俺が連れて行けるはずがないだろう」
「そこをなんとか」
「ならないものはならない」
赤犬が怖い、というのも理由にはあるが、一番は海水でが傷付くことだ。確かにの体は海に能力者のように沈む、というわけでもないのだろう。だが、浮き輪があれば能力者は海にでも浮かぶことはできる。しかしの体は、そうはいかない。海水は酸のようなものと、そう聞いている。たとえ当人が「痛くても可!」と言ったところで、海水が真っ赤に染まるのをわかっていて、ドレークはを楽しませることはできない。
「別に海じゃなくてもいいの。ぼく普通の水は平気だし、プールとかで!」
「……その手があったか」
しかしドレークが頑なな姿勢を見せていると、珍しくが自分から解決策を提案してきた。ドレークが気付かなかったのも珍しいが、はよほど「水遊び」をしたいらしい。海水は毒だが、普通の水は大丈夫、と、そう言う。確かに以前広い風呂で泳いでいた、とそのことをドレークは思い出す。能力者は海水ではなく、一定以上たまった水がアウトだが、そのあたりも魔女と能力者の違いということか。
ふむ、とドレークは考え込む。
「プールか」
「うん、そう」
ただの水の入ったプール、と、そういうものは海軍本部にはない。泳ぎの訓練なら海に行った方が早いし、プールの設備はあるが、中身は海水だ。大将の使うバスタブならかなりの広さがあり、水を張ればは遊べるだろうが、生憎室内である。は「海!!夏!!炎天下!」を楽しみたいからドレークのところに来たのだろう。
「わかった。なんとかしよう」
「本当?」
「あぁ。今日中には無理だが、明日には何とかできるだろう。呼びに行くからそれまで大人しく待っていてくれ」
とりあえずめぼしを頭の中でつけて、ドレークは再びぽん、との頭を叩いた。そうすればの嬉しそうなこと。滅多になく、無邪気極まりない笑顔を浮かべ、顔をほころばせる。結局こうして自分はの我侭を聞いてしまうわけなのだが、どうもドレーク、普段赤犬の前では世に飽いた魔女のような顔しかせぬが、こういう顔をするのが嬉しい。
++
「ドレーク少将って、つくづく多才な男だよなァ」
暑さ対策の一環として呼ばれたクザンは目の前に広がる光景を眺め、感心というか、呆れたような感想を口にした。
海軍本部“奥”の一角、普段が真っ白いブランコを漕いで遊ぶその場所は、それはもう日当たりもバッチリ、その上木々が良い陰を作り暑ければそこに避難し夏を楽しめる、というベストポジション。その木陰から少し離れた位置に、現在見慣れぬ長方形のやや大きな箱が設置されていた。
寄せ集めの木材ではなく、恐らくしっかり大金はたいて購入したのだろう。鑢もかけられ、釘を打った場所は引っ掛けぬようにと上からテープが張られている。その長方形の箱の中にはビニールが敷かれ、水が張られている。要するに、簡易プールだ。
「何、お前さんこれ一晩で作ったの?」
じっくりと気の済むまで眺めてクザンはドレークを振り返った。この場所にこれを用意したのはドレークだという。今日は非番のはずだが、ドレーク少将、今日このプールでを遊ばせるために休日出勤しているらしい。
本当、保父の鏡だよ、とクザンは真面目に褒めたい。申請をかければの使う品の費用は経費で落ちる。だがドレークは滅多なことではその『申請』をかけなかった。当人曰く子供の我侭をある程度大人がかなえるのが度量というもの、と、そういうところが苦労人の要素なのだと誰か指摘できる人間はいるのだろうか。
「潜れるほどではありませんが、水遊びをするくらいなら十分でしょう」
「へぇー、よく作ったねぇ、こんなの」
コツン、と箱を叩いて強度を確かめる。深さはの半身ほどになる。これなら溺れる心配もない。その上この水位であれば能力者もさほど問題にはならぬだろうから、が足を攣らせても助けることが出来る、とそういう配慮がしっかりされているようだ。中は段差があり、階段になっていた。遊べる幅は全体の三分の二ほどで、あとは腰掛けて水遊びに興じれる、というものだろう。
「水の中で遊びたい、という気持ちは私にもわかりますので」
「まァ、確かにな」
能力者になってからは妙に海に焦がれる心が出来る。けして行けぬから、というのもあるかもしれない。禁じられ拒絶されるほど思いが燃え上がる、とはよく言ったものだ。思い出しつつクザンはピコピコとサンダルの音をさせてがやってきたことに気付いた。
「あれ?クザンくんも水遊びしたいの?」
「んー、ちゃんと遊べるってなら水遊びもいいけどなァ。……ところでその格好何?」
「何ってなァに?」
やってきたを視界に入れて、とりあえずクザンは顔を顰めた。
のかわいい水着姿でも拝めるかという淡い期待はあった。だが、お堅いディエス・ドレークのこと、濡れても構わぬTシャツと半ズボンで遊ばせるのだろうとは思っていた。
しかし、やってきたの格好は、素直に驚く。いや、かわいらしい水着、というわけではない。真っ白い「雑用」と書かれた大きめのTシャツにすっぽりと体が隠れているが、大きすぎるためずるっ、と肩がでてしまい、そこから下に着ているものがわかる。紺色に白い線が一本入った、いわゆる。
スクール水着というやつだ。
「ドレーク少将…」
「なんです、大将青キジ」
「…グッジョブ…!」
「いかがわしい目でを見ないでください」
がっしりとドレークの肩を掴んで褒め称えれば、氷河時代も真夏に感じるほど冷たい目で一蹴にされた。普段ヘタレだのなんだの言われているドレーク少将、しかしことのことに関しては大将だろうが遠慮なくストップをかけてくる。
「ちょ…!いかがわしくないねェって!!男のロマンだろ!可愛い女の子にスク水…!!ちょっときつめで太股とか圧迫してるのが丁度いいその光景……!!!これに燃えられねェヤツは男じゃねぇ!!」
「、絶対に上のシャツは脱ぐんじゃないぞ」
「わかってるよー」
ドレークは何か妙なことを口走って自分の世界に入っているクザンをスルーしつつ、プールに足をつけようとしているに近づいて注意をしておいた。普段はドレークの言葉を「いやだしー」という気軽な言葉で切り捨てるだったが、今回は深刻に受け止める気があるのか素直に頷く。
「いきなり入ると心臓が驚く。足からゆっくり入って水をかけて慣らしていけ」
「ディエスって本当、保父さんに向いてるよねぇ」
「……褒め言葉か?それは」
「褒めてるよー」
は軽くいい、言われたとおりに足からゆっくりと水に入っていく。てっきりバッシャン、と忠告なんぞものともせずに好き勝手に遊ぶかとも思ったが、こういうところは素直だ。ドレークは箱の淵に手をかけて、の様子を見守る。腰までの水位の箱の中でリノオは機嫌よさそうに泳ぐ。持って来た浮き輪に体重を預けてしぶきが立たぬ程度に水の中で足を動かす姿はのびのびとしていて心地よさそうだった。
「どうだ?水は冷たすぎないか?」
「うん、へいき。丁度いい。できれば潜ったりできる深さがよかったなぁ」
「万一お前が溺れでもしたときに、水位があっては俺が助けに入れないだろ」
「ディエスが能力者じゃなかったらよかったのにね」
何気なくが言えば、ドレークはどきり、とした。別段何か意図のある言葉ではない。ただ、遊ぶ要素が減ったのを惜しむいつもの悪魔っ子思考ゆえのことだろうが、しかし、ドレークは妙にどきり、とした。答えずにいると、が青い目を向けてこちらを見上げている。水で、の真っ赤な髪が白い額に張り付いた。水泳帽も用意しておけばよかったか、とそんなことを思いつつ、ドレークは濡れた前髪を指で払ってやる。
「水の中でも体力と水分は消耗してるんだ。30分遊んだら10分休憩してちゃんと水分を取るようにしろ」
「そんなのつまんないよ!1時間遊んで5分休憩がいいよ!」
「熱中症になったらどうする。ちゃんと休め」
言うと思った反論はぽんぽんと頭を叩いて子ども扱いすることで受け流す。は放っておけば好き勝手する。自己管理能力がないのか!とドレークはよく焦るのだ。懐中時計を取り出して「今から30分だ」と計るとが「ディエスの石頭!」と八つ当たり気味に水をかけてきた。それを除けられぬようなら将官失格である。ひょいっと除けて、ドレークは仕返しにとばかりに箱の中の水をすくってにかける。一瞬驚いたようにが停止したが、すぐに「ディエスのくせに!」と悪魔っ子そのものの顔をして反撃してきた。
「っ!おい!!加減くらいしろ!」
ばっしゃん、と水をかけられドレークは非難の声を上げる。しかしキャッキャ、と妙には楽しそうだ。上機嫌に水の中で器用にくるくると周り、浮き輪で浮かぶ。
「そんなのしないしー、ディエスに気を使うくらいならスパンダムくんにお中元届けるしー」
周るたびにキラキラと水で濡れて濃くなった赤い髪が光る。あどけないその様子、しかしやっぱり言っていることは悪魔っ子だ、とドレークは苦笑して、ポケットの中に入れていたものを取り出す。
「それなァに」
「ゴム製のボールだ」
「随分小さいねぇ」
「水の中では浮力で浮かぶ。水で遊ぶのも構わないが、飽きたらこれを使え」
ようするによく夏祭りの屋台などで売っているスーパーボールだがは見るのは初めてらしかった。興味津々という顔で水の中にぷかぷかと浮かべられた複数のボールを眺め、首を捻る。
「俺は大将青キジと話をしてくる。30分経ったら声をかけるから、ちゃんと言うことを聞け」
「はァい」
返事ばかりは素直である。ドレークはもう一度くしゃりとの頭を撫で、そのまま木陰に寝椅子を持参して寝そべっているクザンの元へ向かった。
その間もキャッキャと水を跳ねさせて遊ぶの声が聞こえる。
楽しめているのなら何よりだ、とドレークは満足した。我侭は言うが、実際のところあまり他人に「何をして欲しい」ということは言わぬだ。暑いという単純な理由にしても、何か望みを持つのは良いことだ。自分のしてやれる範囲であるのならなおのこと、ドレークは手をかけるつもりだった。
このプールが気に入ったのなら次はもう少し大きめのを作って海岸に設置できないかと同期に相談してみるか。のこと、次は「砂浜で遊びたい!」とでも言うに違いない。の肌の白さを考えればしっかりと日焼け対策と水分補給の準備が必要だ。馴染みの行商人に子供用のそういう道具がないか聞いてみるか、と、ドレークはあれこれ思考を巡らせた。
「あのさ、お前さんって、実際のところのことどう思ってんの?」
そうして、たどり着いて青雉に「の写真を撮るのは禁止です」と念を押す前に、そう言われ、ドレークは思わず目を見開いて立ち尽くした。
+++
「……は?」
普段のこと以外は表情を崩さぬ生真面目な軍人、というドレーク少将がこうもあからさまにほうけているのを見るのはクザンには楽しい。クザンは持参した寝椅子から上半身だけ起こして立てた膝の上で肘をつくと、そのままこちらの言葉の意味を理解しきれぬドレークの顔をじぃっと眺めた。
自分やサカズキに比べれば若い海兵。前途洋々としている。将来性もあるし、能力者であるゆえにこの海軍では貴重なポジションにも着いている。の世話役をこうも長く続けられた稀有な人物として、公言はされぬが他の中将らからの信頼も厚い。(何しろ今の中将のほとんどはの世話を三時間で断念した黒歴史ホルダー)同期の海兵たちからは多少の嫉妬も受けているようだが、そういうものをものともせぬ真っ直ぐな姿勢は軍人という目から見れば楽しいだろう。
「いや、だからさァ。結局、のことどう思ってんのかなァって。好奇心よ」
「…海兵として守るべき対象である、とは思っております」
聊か困惑した様子をしつつ、ドレークは建前上とも取れる回答を口にする。海兵として守るべき、とそれはどちらの意味なのかとクザンは判じかねた。当然、世界の敵として守らねばならぬから、というのか、いや、しかしこの男はを「小さな子供」だとそういう目をする。で、あるから、海兵として小さな子供を守るのが義務、とそういうスタンスなのかもしれない。
模範的な回答だ。建前上の中に自身の正義を織り交ぜる。これが軍法会議の場ならクザンは拍手を送ってやった。だがしかし、現在天気のいい海軍本部の中庭。が水遊びをする音がして、時折通りかかる海兵たちが(当然准将以上の身分)「また魔女が何かしている」と呆れ半分で眺めているが、クザンの姿を見つけてそそくさと去っていく。そういう場所でクザンは容赦するつもりはなかった。
「へぇ、でもさ、能力者なら、を自分のものにしたいとか、まぁ、押し倒して欲を埋め込みたいとか、そういう衝動に駆られるんだよね、普通はさ」
「…私はそのようなことは…!!!」
ぼんやりとした目を向けて言えば、ドレークの目がカッと開いた。一瞬で怒りが沸騰し、顔が真っ赤になる。そういう様子をじっくり眺めても別段クザンは「地雷踏んだ?」としか思わなかった。ぐっと、ドレークが奥歯をかみ締め拳を握る様子がよくわかる。しかし、相手は上官で、しかも自分との力量さをきちんと弁えている、冷静なドレーク少将。ぐっと、かみ締めすぎた唇から血が流れる。それほど耐え切れぬことを言ったか、とクザンは畳み掛けて聞いてやろうかと思ったがそれは意地が悪すぎる。
「ふぅん、ない?一度も、本当に?」
「……ありません。は小さな少女です。守られるべき幼い子供、善悪の区別がおぼつかない、小さな小さな少女だ。わからぬからこそ、彼女を、我々のような大人がしっかり導いてやらねばならない…!!それであるのに、その幼い子供に対して劣情を抱くなど…!!!」
「まァそうムキになりなさんなって、生理現象だって割り切っちまうのも手じゃないの?ちゃんなんてその辺結構理解あるし、お前さんのこと嫌いじゃねェだろうから案外あっさり、」
「青キジ!」
咆哮と同時に、ピシッ、と、ドレークの足元が凍りついた。こちらに向かって突き出された腕を凍らせればが本気で怒るだろうから、ブーツの表面のみに留めた。凍傷になる恐れもない生易しい、大将の仕業。クザンはつくづく自分はの「お気に入り」に甘いと思った。ドレークの顔は怒りに満ちている。そういう顔をじっくりと見上げて、クザンは眼を細める。
「お前さんはご立派だよ。でもさ、本心?それって」
「何を…仰りたいのです」
「いや、だってさ。どんなに保父の鏡でもお前はの父親か!!?とか突っ込みたいほど尽くしててもさ、お前さんは海兵で、能力者で、男じゃねェか」
クザンからすれば、ドレークのへの対応は不自然だ。悪魔の能力者、自然系や動物系の肉食には魔女への飢餓がある。パンドラの本体、あるいはが悪意を持って触れた途端に、途方も無い欲を抱える。恋わずらいという生易しいものではなく、求め得られねば気が狂う、というほどのもの。乾く、乾く、砂漠で喉が渇く以上の苦しみがあり、それから逃れるために魔女に恋をするだのなんだの、そういう話。ドレークとて飢餓を経験しているはずだ。それであるのに、あっさりと、ドレークは争奪戦の傍観者、そして、の保護者というポジションになった。
その根底をクザンは暴いてやりたかった。本気で、本当にを「子供のよう」と思っているのかと、その優しげな、父性に満ちた顔の奥には酷く生臭い男の顔があるのではないかと、そう突きつけてやりたいのだ。
「優しい顔して好かれて、サカズキより大事に思われるようになりてェのか?」
言葉に出して告げた途端、ばっしゃん、と、頭上から水が降ってきた。まるで気配も何もせぬもの、クザンは自分の頭からぽたぽたと真水が滴るのを感じながら、眉を寄せて、顔を拭う。
「ちゃん、なんで怒ってんの?」
少し離れたプールに顔を向けて言葉を投げれば、上半身を箱から出していい具合に濡れたが、デッキブラシを手にしてこちらに向けていた。
「ディエスをいぢめていいのはぼくだけだって、そんな当然のことを言わせないでよ」
ひょいっと、児戯のようにデッキブラシを降ればクザンの頭上に出現していたバケツが消えた。の真っ青な目を眺め、クザンは肩を竦める。
「ちゃんの玩具で遊ぶなんてしてないって。ただおれも大将だしねぇ、魔女に近づく不埒な男はどうこうしちゃおうかなって思うのよ、時々は」
「へぇ、白々しく言う?」
が面白そうに喉を鳴らした。クザンはこれ以上続けたらあんまりよろしくないことになる、とは判っていた。そして同時に、結局のところ、ドレークが羨ましかったのではないかと、冷静に判じる自分もある。
自分は、結局のところいつだっての「何か」にはなれやしないのだ。
ドレークが本気でを「娘か何か」のように思えているのが、羨ましかったのではないか。魔女と能力者としてではない別の絆が二人の間にはある。サカズキとて、大将と魔女というだけではない何かがある。それぞれ悪魔の飢餓というどうしようもないものを越えて、の中での位置を確立させた。クザンは、それがサカズキだけであればこうも意地の悪いことは言わなかったろうに思う。の中でトクベツなのはサカズキだけ。例外、唯一、他は絶対にありえない、というのがサカズキだけであれば、クザンは自分がその他大勢、でも構わなかった。だが、違う。だが、ドレークは違うのだ。を本気で「子供のように」思って、そして守ろうとしている。そのスタンスは、クザンには絶対にもてない。自分はどこまでも、いつまでも、に焦がれるどうしようもない男であり続けるのだ。
だから、それがはっきりとわかっているから、クザンは無意識のうちにドレークを自分のところにまで引きずり落としたかったのではないか。
「あんまりドレーク少将がちゃんの父親ポジション気張ってるから、ちょっとからかいたくなっちまっただけだよ」
ドレークはそれだけ答えて、額にあったためぬれたアイマスクを日差しの上に置く。今日は天気がいいのだから、すぐに乾くだろうとそう思って、そのままごろん、と横になった。ドレークが何か言いたそうな気配はあったが、が「ディエスー、時間まだ平気?」とらしからぬことを言い、その注意を逸らした。
目を閉じ、木陰の葉の揺らめきを瞼の内側から感じつつ、クザンはこの場にサカズキがいたら、今とはまた別の展開で、自分はこんな意地の悪いことを言わずに済んだだろうに、とそんなことを考えた。
(一つ言わせてください)
(何よ)
(私がの父親なら、絶対に赤犬と会わせはしません)
(・・・・まぁ、その気持ちはわかるわ)
Fin
(2010/06/22 18:13)