もう、何もいりません
おずおずと、こちらに伸ばされた手が髪に、頬に触れる前にぎゅっと手のひらを握りしめて、そして触れることなく離れて行った。軽く空気の振動でそれを悟った、読んでいた本から顔を上げて、きょとん、と幼い顔を向ける。
「どうしたの?署長」
インペルダウン、署長室。例の「戦い」は本日は早めに切り上げて終了。時間短縮ができるなら普段からやれよ!?という周囲の突っ込みはするだけ無駄である。
はパラパラと捲っていた本を閉じ、ソファの上で器用に体の位置を変えると、自分の背後にいつのまにか立っていた、この部屋の主殿を真正面から見詰めた。青い目、どこまでも不思議そうに、毒殿と名高いマゼランを見る。
普段厳めしく何が面白いのかわからぬような顔、美女でも見ればその顔も多少は変化があるのかもしれぬが、この牢獄に置いてその長たるものが表情を緩めることなどできる道理はないと、そういう自覚ゆえ、けわしい表情ばかりが似合うようになったらしい男。何か思うような、患うような顔をしてじぃっと、を見下ろしてくる。その目が何か、悔いた様子だったので、はこれはもう、本など読んでいる場合ではないのだと悟る。
少々サカズキに用があって、かなりの異例でこのインペルダウンにしばらく滞在することとなった。シリュウ看守長のところで真面目に仕事をこなすこともあるのだけれど、最近その看守長殿の機嫌がよろしくないとかで、に、“世界の敵”たる少女に傷など付かぬようにと計らわれ、、本日からマゼランの傍にいることとなった。と言って、仕事をさせるマゼランではない。良く言えばをきちんと客人と扱う構え。悪く言えば(シリュウ曰く)甘やかしているだけだということでもある。からすれば、まぁどちらでも構わないので、影口を叩く者をサディちゃんがいびり倒しているその音を聞きながら、ゆっくりと世界の拷問100選、なんて読んで過ごしていた。
それで、マゼランはマゼランで普通に(トイレに行っている間に溜まっていた)書類をカリカリカリカリと処理していたはずなのに、ふと気づけばの背後に立っていて、手を伸ばし、そして引っ込めた、とそういうわけだ。
はじぃっとマゼランを見上げ。自分の(最近の)知り合いの中では規格外に大きな体の男、その悔いたような気配にはそっと目をそらしつつ、手を伸ばした。
「……、」
一歩、マゼランが後ろに下がる。は眉を上げて、それでソファの上に足をかけると、やや強引に手を伸ばして、マゼランに指先でも触れようとした。が、そんな程度で届くわけもなく、バランスを崩してあっさりと落下する。
「っ…!!」
落ちるそのの体を、抱きとめようと手を伸ばしたが、やはりためらい、触れることはしなかったマゼラン。したたかに体を打って、は顔をしかめながら、ぺたりと床に座り込む。それで、ひたすら困惑している男を見上げ、手を伸ばす。
「手、取ってよ」
「……無茶を言うな。おれは、」
「このままぼくが冷たい床に座り続けて痔になってもいいの?」
「……どういう脅しだ」
女子が痔とか言うんじゃないと、窘められる。どうも自分のまわりは、過保護というか騎士道精神というか、紳士的というか、女性に夢を見ている男が多い気がする。ぼんやり浮かんだ筆頭は鷹の目だったのだけれど、まぁそれはそれ。は手を伸ばしたまま、マゼランに向けた顔、首を傾げる。
「怖いの?」
「……」
ぴくり、と、この世界の地獄の長が体を揺らした。はこういう時に、自分は本当にドSというか、外道だなぁ、と思うのだ。だからと言って、そういう言動を控えようとは思わない。それが悪意というものらしい。
いつまでも冷たい床にいるのは嫌なので、、やれやれ、とでも言うように溜息を吐いてからパンパン、スカートを叩いて立ち上がる。マゼランの気配が和らいだ。何を安心しているのか、とはさめざめ思い、その一瞬、微かに、ほんのわずかに油断をした、インペルダウンの署長殿の腰に抱きついた。
「ッ!!!!!」
今度こそ、これはもう隠しようなく感情表の大セール。大いに驚いたマゼラン、体を硬直させ、そして、次の瞬間にを振り払おうと肩を掴み、そして、はっと、慌てて手を放した。その感情の動きを傍で確かに感じ取りながら、はマゼランを見上げる。
「へいきだよ」
「……油断をするな。おれの体は毒そのものだ。いくら死なないとはいえ、それでもお前にも、毒は効くはずだ」
「そこはほら、痛いだけなら問題ないよ」
「痛みがあることが問題だ」
硬物だねぇ、と茶化すようにが言えばマゼランは「当然のことを言っているだけだ」とにべもない。普段ならここでため息の一つでも吐くのが普通なのだろうが、マゼランの吐息は毒ガスである。そういう感情を表現する手段もできない。
はぼんやりと、この男が始終トイレに籠っていなければ、このインペルダウンはとっくに毒が充満して壊滅しているんだろうなぁと、そんなことを頭の隅で考えた。悪魔の実の能力の中でも、毒の悪魔はまた格別。特にまだそれを口にして数年のマゼランは、まだ本当にうまくは使いこなせていないらしい。毒で腹を下しただなんだと言いながらトイレに籠るけれど、それはおかしな話、と初めて聞いた時には首を傾げたもの。が、といって今、それを暴く気はないのだ。
時々、マゼランのことを考える時間がの中にできた。毒の身は、触れるものを侵食する。マゼランはいつも手袋をしているし、自分の着た衣服は洗濯せずに焼却させているという。それでも万全に万全を重ねても、それでも毒は、マゼランの体の至るところから、他者を侵すのだ。
(すきなひとに触れないのは、つらいだろうなぁ)
そんなことを、思う。己のこと、ではない。だがもし、自分がサカズキの手に二度と触れられないということになってしまえば、とても悲しい。殴る・蹴る・縛るしかしない男。外道の頂点のドSなお人だけれど、それでもは、自分がサカズキに触れられなくなったら、サカズキが自分に触れてくれなくなったら、それはとても悲しいことだと思うのだ。
だから、こうして毒の身となったマゼランが、時折己に手を伸ばし、それでもやはりためらい、引っ込める仕草に気づいて、ただただ、憐憫を覚える。悪魔の能力は一生のもの。ベガパンクが悪魔の実により書き換えられた遺伝子情報の解明に着手しているけれど、それが解明されるのはいつのころか。それまでバガパンクが寿命付きぬ保障はないし、マゼランが生き続ける保証もない。
一度口にしてしまえば、二度と元には戻れない。呪われてしまう。そも、当然だ。もともと、今は“悪魔の実”と呼ばれる果実は、海の神にささげられた供物。神の供物を人の身で横取りし、食べてしまって呪われた。海にも嫌われた。許されるはずがない。だから一生悪魔の身。なかなかうまくできているじゃあないかと、最近は関心する。まぁ、それはどうでもいいとして。
ぎゅっと、マゼランの体に抱きついて、顔をうずめる。毒、のにおいがする。気力を振り絞って、なんtのか毒性を押えているマゼランの様子がわかったが、放すつもりはにはない。
「触れあえるよ。へいき。毒でも、もういっそ溶岩の塊でも、さ。ぼくはヘイキだし、どっちかっていうと、きみに触られるのは嫌いじゃないよ」
「……肌が爛れるぞ」
「治るからいいと思う」
「お前のそんな姿を見たくはない」
「がんばって瞬間的に治すよ」
そういう問題でもないだろう、と、マゼランのあきれた声。は声を上げて笑い、すとん、と、座り込んだマゼランの膝の上に乗る。大きな男、座り込んでもまだが立った状態で触れられるのは胸までだ。
「抱っこしてくれるとうれしいんだけどねぇ」
「さっきから、お前はいったい何がしたいんだ」
「うん。マゼランくんにちゅーでもしようかと」
「インペルダウンにバスターコールかけられるだろう」
「ほっぺたなら平気じゃない?」
「同じことだ」
毒云々のこだわりもあるが、しかし、まずそういう原点があるらしい。は脳裏に浮かんだ赤犬、あれが本当にインペルダウンにバスターコールかけるようなら、それはそれでも面白いんじゃないかと、そういう外道なことを思う。どうせその時職員やら何やらは避難しているだろうし、連れてこられた罪人たちが一気に海のも屑になるのなら、それはとてもエコである。(使い方が間違っている)
「ずっと海底にいてあきない?」
は窓のないこの監獄を思い出しながら首を傾げた。海底にあるから、この場所は外の景色など眺められるようにはなっていない。
「飽きたのか」
「ぼくはサルデスくんを抱き枕にして寝るまで飽きないと思う」
「止めてやれ」
あの小柄な牢番長、は妙に気に入った。自己紹介の仕方、あの「サルデス!」にクリーンヒットしてしまったのか持ってるアイテムに魅かれたのか、それともあの容姿が吐血ものだったのか、それはにもよくわからない。総合的に全部なような気もする。
いろいろあれこれ、とが頭の中で考えていると、不意にクラッ、と視界が揺れた。小さく息をつめて、座り込む、すると、マゼランが眉を寄せて、の頬をぺしり、と叩いた。
「全く、言わんことではない。毒が、回ったのか」
「ここは寝不足の方向性で行きたいんだけど」
「軽口を叩くな。ドミノを呼ぶ。待って、」
これ以上に触れられぬと判じたマゼランがさっと身を放そうとする、その腕をがとって首を振った。
「へいき」
「強がるな。おれの毒は、」
「ちょっと寝てればぼくなら平気だって知ってるでしょう。署長の仕事が終わるまで一緒にいる」
強く言えば、マゼランはしぶしぶ、了承した。こういうときのを説得できるのは赤犬か、例の女海兵くらいなものだと有名である。マゼランは壁に掛けてあるコートを取って、布越しにを抱き上げると、壊れ物でも運ぶような慎重な手つきでそっと、ソファに下ろす。
「なら少し寝ていろ。終わったら声をかける」
そのまま頭でも撫でたいところを、ぐっとこらえたような顔、半分ぼけた目でそれを見ながら、はひたすら、心が痛くなった。
別に、マゼランに愛情云々を感じているわけではない。どちらかと言えば憐憫。悪魔の実を口にしたばかりに来る「飢餓」そしてこんな自分を「愛しい」と思ってしまう呪い。気の毒すぎて、は何をすればいいのかもわからなくなってくる。
己は、マゼランを憎んでもおかしくないのに、やはり感じているのは憐憫なのだとその事実が最近には面白い。トムを殺したのはマゼランではないけれど、しかし、その死の間際に立ち会いはしただろう。は、トムを死なせた全てが憎くてしかたのない時期があった。けれど今はそれもずいぶんと薄れている。が、マゼランに対しては最初から、そういう憎悪を持っていなかった自分がいるのだ。
悪魔と魔女の呼びかけは、少なからず己にも影響を与えるのだろうかと、それが疑問。だがそんなことを言えば序列の上位のボルサリーノと己の険悪さの説明がつかないかもしれない。まぁ、どうでもいい。
ふわり、とため息だかあくびだかわからぬ息を吐いて、、目を伏せる。かちかちと瞼の奥で閃光。マゼランは随分と毒性・毒素を堪えてくれたようだけれど、それでも、あふれ出すものはある。
はごろん、と寝返りを打って、机に向かって仕事をするマゼランの、眉間によった皺を眺めた。
マゼランは、どこかサカズキに似ている。
(サカズキよりは、やさしい。それがぼくには、)
Fin