ドレークがの部屋に足を向けたのは、本部出入りの行商人から蜂蜜を購入したからだ。季節はそろそろ暖かい春を前にしてはいるものの、気温は突如として急激に下がり、その温度の差でが眉を寄せながら咳をすることになるだろうと、長年の付き合いで承知あったゆえである。奇妙というか、そもそもに「奇妙だ、矛盾だ、おかしいだろ」と突っ込むだけ無駄なのだが、味覚はないのにそれでも嗅覚はある。蜂蜜の味はわからずともその甘ったるいにおいや喉越しは楽しめるようで、随分前の風邪気味の折、蜂蜜を差し入れた時は、珍しく素直に喜ばれた。

行商人があれやこれやと品を並べるのを見て、常であれば付き合いで適当な日用品を二三求める程度のドレークであるのだけれど、それを思い出し、思わず買い求めた。けれど買ったものの、がまた喜ぶかどうかと、どうも気になり、差し迫った仕事もないもので、一旦切りあげ執務室を後にする。進む足が妙に早くなるのはどうしようもないことだ。

と、そこでドレーク、雨が降っていることに気付いた。ザァザァとあまり強くはないのだけれど、次第に強くなってくるだろう予感をさせるものだ。ガラリと空気も冷え気温も下がろう。ドレークは一度部屋に戻ってにかける毛布でも持ってこようかと思ったが、の部屋に準備がないわけがないと思い出し、どこまでも過保護になっていると苦笑する。

そうしての部屋に行くと、そこはも抜けの殻であった。隣は大将赤犬の執務室になっているのだが、赤犬はこの時間元帥の所で会議だろう。窓が開けっぱなしになった部屋に入り、ドレークは雨が入ってこぬようにと窓を閉める。部屋の扉も開いていた。窓の下には双眼鏡らしいものが転がっている。つい先ほどまでがいた、という証拠だろう。

戸締りをせぬのを、不用心、とは思うが海軍本部内ですら警戒心を解けぬ状況というのもどうなのだろうか。が勝手に抜け出したのなら、あまり騒ぐわけにはいかない。抜け出したことを赤犬の耳にでも入れようものなら、確実にが蹴り飛ばされる。今の世話役は何をしているのだろうかとドレークは気付く。ディエス・ドレーク少将は半年前にの世話役の任を解かれた。それであるから、誰か別の人間がのお守りをしているはず。一緒にいるのならいいのだが、とそんなことを考えていると、窓の外からコツコツ、と音がした。

「っ、…!?」
「あれ?ディエスじゃないか。なぁに?」

窓の外にはデッキブラシに乗った。雨で塗れている。いつも通りの格好だが、今日はどこか様子が違う。うん?とドレークが首を傾げていると、、窓を開けろと催促してきた。雨の下にいつまでもいさせるわけにもいかぬ、ドレークは慌てて窓を開けると、の両脇を手で持ってひょいっと部屋の中に入れた。デッキブラシはが腕を振るとあっさり消える。

「傘か、それか雨具を着ろ」

ずぶぬれ、とまではいかないがしっとりと濡れている。ドレークは拭くものはないかと戸棚を開けタオルを探す。確か自分が世話役だったころは三番目の棚にいつも仕舞われていたのだが、と思い出していると、やはり三番目の棚に入っていた。自分の痕跡がまだ残っている事に妙な安堵をしつつ、ドレークはの頭からタオルをかぶせ、わしゃあわしゃと拭く。

「ちょっと、ディエス。ぼく荷物持ってるんだけど」
「?荷物?」

ドレークはを拭くのは当然とばかりに行動していたのだが、珍しくが嫌がった。ぐいっと乱暴に腕を突っぱねてくるのでドレークは身を引いて首を傾げる。どうした、と聞こうとして、のその腕に木箱が抱えられていること、そこで初めて気付いた。雨の下にいるをどうにかしようと思っていたばかりで気付かなかった。

が両腕で抱えているのは何の変哲もない木箱である。蓋がしっかりと閉められている。砲弾を入れる木箱より一回り以上も小さいが、しかし、が普段から持っていて当然という「魔女の不思議アイテム☆」には相応しくない。

それは何だ?という目を向けるとはぼんやりとした青い目で見つめ返してきて、しかし何も言わずにフイっと視線を外し、その箱を部屋の隅まで持っていった。しゃがみ込んで、木箱を見下ろしたままドレークに背を向ける。

「三日くらい前からさ」
「うん?」
「三日くらい前から、この部屋から街の方を眺めてたんだけどね」
「あぁ、それで双眼鏡か」
「そうなの。ぼくのだからね、すっごい遠くまで見えるんだけど」

詩篇の刻まれた器物の一つだろうか、そういう効果があると言われても今更驚きはしない。ドレークは窓の下の双眼鏡をひょいっと手に取り、部屋の戸棚の中に戻した。そういうものなら、この辺りに転がしておくわけにもいかぬという心構えゆえである。ドレークのその仕草をは目で追うわけでもない、相変わらず木箱を見下ろしている。

「何を眺めていたんだ?」
「この箱だよ」
「今更だが、持ち主に許可は貰っているんだろうな」

変なところで常識的なのことなので、黙って持ってきた、ということはないだろう。街の話をしてこの箱である。街にあったものを持ってきた、というのはわかる。問えばが首を振った。

「これ、捨て猫の箱なの。持ち主は知らない。ぼくが見つけた時にはもう、街にあったから」

猫入り!!?と、ドレークは慌てての元に駆け寄り、その箱を開けた。がこれまで動物を拾って来たことはないが、あれか?教育本に書いてあった「お父さんたちの難題〜子供が犬や猫を拾ってきたら?」ということか?と、本当、父性に目覚めてんじゃねぇよと常々クザンに突っ込まれるがもう諦めているドレーク、ついに来る時が来たのか、と覚悟しつつ、箱の中を覗き込んだ。

そこには五匹の、小さな小さな猫がいた。色は白や黒、ブチとさまざま。小さい、本当に小さい猫である。へその緒が外れぬ前に捨てられたのか、全ての猫に干したかんぴょうのようなものがついている。

猫は一匹も、動かない。

箱を見下ろし、ドレークは目を見開く。小さな猫だ。五匹。兄弟だろう。重なり合って、いる。ただの木箱に詰められていた。せめて毛布か何かが敷き詰められているのが最低限の常識だろうに、それもない。無造作に猫が五匹、詰め込まれている。

皆、死んでいた。

「……………なぜ、生きているうちに拾わなかった?」

一瞬で、ドレークは様々な感情が湧きあがった。けれども、じっくり十秒後、やっと口に出したのはその一言だった。責める、という意味ではない。問いかけである。は先ほどと同じ態勢のまま、猫の木箱をぼんやりと見下ろしている。

捨て猫だ。街の片隅に捨てられたのだろう。よくある、というわけではないが、別段珍しいことでもない。生まれて、けれど育てられない事情、さまざまな人間の事情があって、見捨てられることがある。このマリンフォードの街でも、それはあるのだということが、ドレークんは聊かショックではあるけれど、しかし、事実ではある。

元々死んでいた、というわけではないことは明らかだった。木箱には猫が引っ掻いた後や、排泄した後が残っている。は三日前から双眼鏡でそれを見ていた、と言っていた。生きているところを、当然見ていたはずだ。

「誰か拾うかと思ったの」
「“誰かがやる”から自分はしない、というのは、お前が一番嫌うことじゃないのか」
「ディエス、このぼくに説教かい」
「なぜ、死んでから拾って来たのかと聞いているんだ」

煩わしそうに眉を寄せ、がドレークを睨みつけた。魔女の癇癪が起こる、と経験からわかったがドレークはを睨み返す。いつもは唐突に無理難題を人に押し付けてくる。猫だって、勝手に拾ってきて、勝手に誰かに押し付ければ「魔女の希望であるから」と無碍にはされずに、何とかされたのではないか。

「ぼくが見殺しにしたって言いたいの?」
「この猫たちがお前に何をした?鳴いていたのをお前は見てきたんだろう。動かなくなるその寸前までも、お前は見ていたのだろう。なぜ、助けてやらなかった」
「自分の正義をこのぼくに押し付けるんじゃァない」

ヒュン、と、の腕が動いた。ドレークは咄嗟に腕を交差させ、のデッキブラシの一撃を受ける。ビシビシと骨が軋む。

正義を押し付けている、という自覚はもちろんドレークにもあった。に、悪意の魔女とさえ呼ばれるこの生き物に、そもそも話が通じるわけがないとも分っている。はそういうものだ。人が、生き物が、過ちを繰り返すのをただ黙って見ている。それが魔女の悪意というもの。たとえ、人間ではない、小さな小さな生き物だったとしても、は「そう」であるのだろう。それは、わかっている。だがしかし、ドレークは怒っていた。目の前の箱の中には、小さな猫の死体が五つある。は助けられたのだ。助けられた命が、助けられなかったことに怒れなくなったら、ドレークは、それは自分ではないと思っている。ドレークは自分の正義によって、怒っていた。それはに押し付けている以前の問題である。

失われていく命を嘆くことができなくなる人間になど、なりたくはない。だからこそ、ドレークはのことを承知の上で、怒るのだ。

「だって、どのみち死ぬでしょ」

デッキブラシを振り下ろした体制のまま、が静かな声で言う。その目は燃えるように赤い。ドレークの振舞いを「無礼」であるとこちらも怒りをあらわにしていた。

「ぼくが拾ってきて育てても、でも結局、ぼくより先に死ぬじゃァないか。生きてるうちに拾ってしまって、抱いてしまって、少しでも情が移ったらどうするのさ?拾って十年くらい生きたって、結局は死ぬんだよ。ぼくはいやだね、置いていかれるって分ってるのに、なんで関わらないといけないのさ!」

ばしんっ、と、ドレークはの頬を叩いた。力は加減に加減をしている。利き腕ではないほうを使った。しかしそれでも、の小さな体には衝撃のよう、吹き飛ぶ、とはいかぬが、顔を殴られた方向とは逆に向け、目を見開いている。

どんな事情があろうと女子供に手を上げるべきではないと、そうドレークは思っている。しかし、に関しては、今日、この限りだけは、殴らねばならないと、ドレークは己の中で覚悟を決めた。

殴られたことにが唖然としている間に、ドレークは唇をぎゅっと噛み、拳を握った。

「お前のために、この猫たちは生まれたわけじゃない。お前に悲しい思いをさせないという理由で、見捨てられていいわけがないだろう……!!」
「ぼくに見捨てられただけじゃないでしょ。ディエス、この猫の箱は街の中にあったんだよ。ぼくだけが悪いの?拾わなかったのは、この街の人たちだって一緒じゃァないか」
「お前は知っていた。そこに捨てられて、今にも死ぬそうな猫がいたことを…!お前は知っていたではないか……!」
「だから何。ぼくは悪意の魔女なんだよ、今更なに?」

の言葉には悪意が含まれている。確かにその通り、ではある。猫を拾わなかったのは、通りかかって、その猫の存在に気付いた人間全てだ。誰も拾わなかったから、誰も手を差し伸べなかったから、死んだのだ。ドレークはそんな命がいたことすら、気付けなかった。がこうして連れてこなければ、知らぬまま一生を終えたのだ。

それはわかっている。だがしかし、の言い分を受け入れることはできない。

殴ったことで、あとで赤犬に殺されるかもしれないことは、わかっている。だがしかし、ドレークは、命をこのように扱うを、放っておくことはできないのだ。

は誰よりも長く生きている。その間に知り合った、情を持った人間たちすべての「死」を見てきている。の心がどれほど傷つけられてきたのか、精神が憔悴してきているのか、ドレークはもちろん知っている。気の毒に、と思う心も、当然ある。己とて、いつかはを残して死ぬ。

しかし、だからこそ、ここでに教えねばならぬのだ。

ドレークがを咎めるべく口を開こうとした次の瞬間、ごそっと、物音がした。小さな音ではあるが、緊迫したこの空気ではよく聞こえる。はっとしてドレークは木箱を見下ろした。折り重なって死んでいる猫の骸、それはかわらない。けれど、その中の、一匹が、小さく、本当に小さく、手を動かしていた。

「………!!まだ一匹生きているぞ……!!」

素早くドレークは生きている子猫を掌に乗せ、体が冷えぬようにと両手でこするのだが、しかし、このままであれば死んでしまうことは明らかだ。といってドレーク、いくら育児の才能があろうと、無骨な軍人であることにかわりはなく、子猫の対処方法など知らない。今すぐ軍医を呼べばいいのかもしれないが、しかし、それには呼びに行かねばならぬわけで、この子猫を連れて走れば、それだけで体力を奪われ死ぬやもしれぬ。

、頼む」

のデッキブラシ、あるいは何か魔女の移動方法でも使えばあっという間に医者を連れてこれるはずだ。それか、もしかしたら、こうした場合の適切な処置を知っているのではないか?そんな可能性がドレークの頭をかすめる。魔女の叡智、さまざまなことを知っているはずだ。

じっと見上げれば、は血の気の引いた顔をして、じっと、ドレークの手の中の子猫を見下ろしている。その唇は真っ青だ。

生きていたという事実に、恐怖しているのは間違いなかった。

「……い、いやだッ…!!」
…!!!」
「助けたいならディエスがしなよ…!!ぼくは、知らない…!!死んだと思ったから、埋めてあげようと思って……生きてたんなら…死ぬまで待ってる!!!」

カタカタと体を震わせながらが声を張り上げた。悲鳴のようである。ドレークは、一体どれほどの命をが看取って、その度に涙を流したのか、正確な数など知らない。だがしかし、この子猫はまだ生きているのだ。ぐっと、ドレークは片手での首を掴む。

「お前が悲しい思いをしようと、そんなことは、今、関係ない……!!!今、死にかけている命があるんだ…!!!見捨てていいはずがないだろう……!!!!」

怒鳴り、びくっとが肩を震わせた。やりすぎた、とはドレークは思わない。は、魔女は、命の価値を知らぬわけではない。知っているからこそ、失った時の、自分の心を守りたがる。もうこれ以上傷つきたくはないのだと、そう、防衛する。

布団の中で丸くなって眠るの姿をドレークは思い出す。もう誰にも傷つけられたくないのだという無意識の現れだろう。四肢を伸ばさずに、これ以上、何も触れぬようにと、そう、眠る姿。

だが、傷つくことを恐れるよりも、傷ついて涙を流すことを怯えるよりも、ドレークはに、必死になる心を取り戻して欲しいのだ。

「どの道に死ぬ命だとしても…お前に、悲しい思いをさせるだけだとしても……生きていれば、この猫は暖かさや、幸福を知ることができる。お前には辛いだけかもしれないが、この猫は、幸せになれるかもしれない」

自分のことだけを考えるのなら、誰にも関わらぬほうがの心にはいい。魔女の悪意。他人への無関心。しかし、がたとえ、苦しい思いをしたとしても、不幸になったとしても、が関与したことによって、幸福になれる命とて、あるかもしれないのだ。今この猫は、が関われば死なずに済むかもしれない。死なずにいれば、駆け回り、日向で眠ることもできるだろう。

じっと目を見つめれば、がその青い瞳を揺らした。このままドレークは、殺されるかもしれない、とは思った。だがしかし、には思い出して欲しいのだ。人とかかわることは喪失だけが待つのではない。はその楽しい思い出すら、いずれは悪夢になるのだと怯える。だが、そうだとしても、たとえ、そうだとしても、その、生きている時間、とて、幸福になっているのではないのか。

ドレークはの運命をどうすることもできない。彼女はあまりにも複雑だ。どうにかしようとすれば、それこそドレークの人生全てをかけることになる。ドレークは、それはできなかった。自分には貫くべき信念があり、それはけして、を選んでは進めぬ道である。何も、してやれることはない。いつか、自分とてを置いていく。だが、だからといって、ただを甘やかし、見守るだけでいいわけがないのだ。

いつか喪失で悲しむ。そんなことはわかっている。しかし、だからといって、今のスタンスのままが生き続けることとて、過去の思い出に苦しめられ続けるということだ。

それならせめて、一瞬でも幸福に。刹那でも、柔らかくいられるときがあれば、ほんの少しでも心が安らぐ時があればいいと、そう、思ったのだ。

「…………」

おずおずと、がドレークの手の中の子猫を覗きこむ。小さな唇を噛み、眉を寄せる。その大きな青い目に涙を浮かべて、一度ぎゅっと、目を閉じた。何を考えているのかそれはドレークには分らない。けれども、さまざまな葛藤と戦っているということはわかった。ドレークはもう何も言わず、が答えを出すのを待つ。

「…………貸して」

やがて、小さな声でが呟いた。




(猫の名前はヒルデ。ソフィーのヒルデ)

 

 

 


Fin

 

 



余談
ちなみに、さんの頬が腫れているのを組長が気付いてドレークさんは屋根より高く蹴り飛ばされました。子猫はこの後ちょっと生きて、結局死にます。

(2010/04/29 23:58)