ただの地面に置くのでは体温がいつなくなるやもしれぬという心、それでのやわらかな膝の上の毛布にガラス細工のようにして扱う。慎重に慎重に、当人が疲れぬようにとベッドの壁に寄りかかり、辛抱強く何度も何度も、その毛布の上、まぁるくなる子猫の背を指で逆撫でつつ細いストローに吸わせた砂糖水を子猫の口にたらす。湿らすだけでもいいのだと、は言うものでドレークはその光景をただじっと見守った。子猫はまだ目と耳がはっきりとは開かれていない。

「シリンジがいいんだよ。本当は」

沈黙して暫く、やっとが口を開いた。ドレークから猫を受け取り、恐る恐る、まるで恐怖と戦うようにおっかなびっくりと子猫の世話を始めただったが、やっとそう、呟く。もう何かしらの覚悟がの中で定まったのだろう。普段どおり、とは言いがたいが、先ほど見せた取り乱した、必死な様子がない。自分が出て行けばすぐにでもが子猫の首を刎ねるかもしれないとそう案じていたドレークだったが、これならばもう心配はない、とそう判じる。ドレークはを信じていた。世に飽いた魔女。自分自身が傷つくことを何よりも恐れる。その為なら他人なぞどうなっても構わないと、その必死さ。それでも、ドレークはを信じていた。

「そうか。それでは医務室で貰ってくる。他に何が必要だ?」
「ガーゼが必要だよ」
「ガーゼ?」

怪我をしているようには見えない。首を傾げるとが眉を寄せてドレークを見上げてきた。なんで判らないんだ、というような目をしてくる。その顔にドレークはほっとした。先ほどまでの今にも泣きそうな顔をされるよりもよほどいい。は面倒くさそうに口を開く。

「この子、たぶんまだ生まれて一週間くらいだよ。それなら自分でちゃんと排泄できないんだ。だから普通は母猫が舐めて刺激してあげるんだけど、それは無理だから濡らしたガーゼで叩いて代用しなくちゃ死ぬでしょ」
「わかった。他にはないか」
「サカズキ呼んで来て」

最初は嫌だと言ったが、心を決めたが今は随分頼もしく思える。元々叡智に富んだだ。死にかけた生き物の処置もわかるのだろう。それなら自分はが出来る限りのことを出来るようにとサポートしてやるべきだろう。そう判じて頷けば、無理難題を押し付けられた。

「……大将赤犬をか?」

ドレーク本人、随分と感情的になってしまってこの猫をに任せることにした。しかし、すっかり忘れていたけれど、基本的には体だけではなくその心も何もかも、傷つけられてはならぬ、という決まりがあるのだ。普段を小さな子供だとそう思えて仕方ないので今回のようなことをしてしまったが、しかし、の傍に人間よりも寿命の短い生き物を置くという大それたことをドレークの一存で決めていいはずもない。

大将赤犬なら、あの、の心に悲しみを与えたという理由でロブ・ルッチを海に向かって蹴り飛ばしたことのある容赦ない大将サカズキならどうするか。それをドレークは改めて考えた。

「うん。ぼくが呼んでるって言ってもこないだろうけど、そこはなんとかして」
「……連れて来て大丈夫なのか?」

まさかないとは思うが、サカズキは「悪意の魔女」と「子猫」を天秤にかけてどちらが海軍の正義のために必要かと、処置を下したりはせぬだろうか。

折角が生き物に対して関わる勇気を見せているというのに、ここにきてが「魔女」と扱われその空気に取り込まれることをドレークは恐れた。が傲慢なのは周囲の環境が影響しているとドレークは思う。自分やサリューがを「小さな子供」と扱っているときは幼い言動をする。あどけない笑顔さえ見せる。それであるのに、大将や元帥、七武海を前にすれば途端は年老いた魔女のように情のなく冷え切った、世に飽いた顔をするのだ。

「サカズキに土下座してでも連れて来て」





 

 

 

 

 

 

猫とオッサンの組み合わせって似合いませんね本当


 

 

 

 

 

 

 

 




「あの男の土下座なんぞ見てもおもしろうないわ」

ドレークが退室したと思えば、低い声がかかりは顔を上げた。子猫に集中しているあまり時間の経過がわからないが、それほど経ってはいないだろう。扉の下には見慣れた姿。不機嫌さを隠そうともせぬ偉丈夫は立っているだけで迫力がある。
しかしそれでも来てくれたことには感謝の言葉を投げてやろうとさえ思えた。サカズキに来て欲しいとここまで願ったのは始めてかもしれない。向こうにもその真剣さが伝わればいいのに、と願いつつ、は目を伏せた。
ドレークが部屋を出てから途端に、この身には孤独が突きつけられる。膝の上には小さな、本当に小さな命が乗っている。ぼくが何とかしなければこの子はすぐにでも死んでしまう。それがはっきりと判っていた。見捨てたはずなのに、この子は生きていた。それがどれほどぼくの心を動揺させたのか、この小さな命はまるでわかっていないのだ。
が顔を向けただけということにサカズキは軽く眉を刎ねさせ、大またでこちらに近づく。仕事中だっただろうががサカズキを「呼ぶ」ことなど長く過ごして片手で足りるほどしかない。

「わしを呼びつけるたァ、いい身分じゃのう」
「事情は?」
「聞いた。助かるのか」
「ぼくじゃ足りないからサカズキに来てもらったんだよ」

はもぞっと、体を動かして膝の上の毛布をサカズキに見えるようにする。ベッドを軋ませて乗り上げてから、サカズキは眉を寄せた。猫がいる、とは聞いて来たがこれほど小さな生き物だとは思わなかったとその目が語っている。

「随分小ェのう」
「ぼくが飼うよ。いいね?」
「既に確認か。おどれのような生き物に関わらん方がこの動物にゃァえぇじゃろうに」

 しかしサカズキは反対はしなかった。そのことにはほっとする。この小さな命をどうにかしようという覚悟は出来ているが、しかし、サカズキが反対すればこれ以上自分には何も出来ないということもわかっていた。は若干表情を和らげて、子猫の負担にならぬように注意を払いつつ膝から毛布を持ち上げた。

「サカズキが暖めてあげて欲しいの」
「…なに?」

言うが早くはサカズキの膝の上に子猫の毛布を置いた。「動かないでね」と釘を刺すことを忘れない。子猫が驚かぬようにその間にもその小さな背を指で撫でてやる。胡坐をかいたサカズキの膝を曲げたところにすっぽりと収まった。

動かないで、と言ったからかそれとも海賊相手には容赦ない赤い正義の執行者も無力な小動物相手ではどう対処していいのかわからぬのか、硬直するサカズキがには面白い。思わず眼を細めて口の端を吊り上げると、その首を掴まれた。

「おどれ、わしを湯たんぽ代わりか」
「だってお湯はすぐに冷めちゃうし、子猫の適温にずっと保っているのは難しいんだよ」
「人肌がえぇならおどれがやりゃァえぇじゃろう」

その言葉にはきょとん、と一瞬顔を幼く指せ、ふふ、と小さく笑った。何をバカなことを、と言いそうになるのを抑える。

この体は死体だ。いや、今現在使用している上では多少の体温はあるのではサカズキが来るまでは自分が暖めていた。しかし普通の人間よりも低いのだ。

「ぼくじゃダメだから、サカズキにお願いしたいんだよ」

正直なところ、別にサカズキでなくてドレークでも構わなかっただろう。だがは自分に出来ないことを、サカズキ以外に認めるのはいやだった。そういう小さな意地を張ってはこの命は守れぬ、とは思うけれど、しかしその意地をなくしてしまえば己は己ではなくなるのではないか、そんな恐怖があった。

サカズキが相手であれば自分は劣等感を覚えないのか、と自問する。確かにそうだ。もしもこれがクザンやボルサリーノであったら、憤慨していただろう。そして、その妙な自尊心の結果子猫を死なせた。それは確かだった。しかしサカズキが相手なら、己は無力でみっともなくてもまるで恥ずかしいと思わないのだ。

の小さな呟きをサカズキはただ黙って聞いていたが、しかし、顔を除き込み手で頬を押えると、口付けできるほど近くに顔を寄せてくる。キスでもするのか、とは目を閉じるべきか迷った。だがそういう兆候は見られない。いつも突然押し倒してくるイメージがあるが、しかしサカズキとの間には何かしら、お互い暗黙の了解のようなものがいつもあるのだ。

ふいっと、サカズキが顔を放した。はつめていた息を吐き、そのまま身を沈める。サカズキの膝に凭れるようにして、そのすぐ真横にいる猫を撫でる。自分が今どんな状況にあるのか子猫はわかっていないのだ。様子を窺えば、砂糖水を飲んだお陰か満足そうに見える。お腹いっぱいになって、眠っているのだろうか。自分の兄妹たちが死んだというのにのんきな、とは思わない。この子はそういうことも知らないのだ。何もわからない。それなのに、死がこんなにも近い。そういう状況がにはもどかしく思えた。兄弟の入っていた箱はドレークが部屋を出るときに持って行った。ドレークが万事うまく取り計らって子猫たちのお墓を作ってくれるだろう。

「この子の命はいま、すごく不安定なんだよ。ぼくは、どちらかといえば死に近い。そのぼくの膝でこの子が死を免れられるとは思えない」
「わしとて海兵じゃ。随分殺しちょる」
「ぼくには、サカズキは命そのものに見えるよ」

はごろごろと喉を鳴らしながら子猫のお腹を撫でた。排泄させなければ、と思うが、子猫は2,3日せぬことも多い。まずは胃の中でじっくりと栄養を吸収しているのだろう。死にかけていたというのに、子猫はサカズキの膝の上で眠っている。

言った言葉に嘘はない。はサカズキの苛烈さが魂そのものの叫びのように思えるのだ。何もかもを焼き尽くして、焼いて焼いて、焼いて、それでも止まらないその一心不乱さは、どうしようもない命・魂のようだ。己にはないもの、とさえ思う。生きることを一生懸命なのだ、サカズキは。けして死なない。死ぬときは世の悪を全て葬るか、あるいは、サカズキが自分がいなくとも構わないと思えるほど、信頼し認める後釜が出来たときだろう。命がある限り戦う、というその姿勢。必死さゆえの生への執着心が、いまこの子猫には必要なのだ。

「……いつまでじゃァ」
「今日は1日ずっと」
「仕事がまだ残っちょる。猫一匹の命のために滞らせるわけにゃァいかん」
「どうしようもないの?」

子猫からサカズキへ顔を移動させる。今の所目立った騒動はないが、しかし海は平和というわけではない。大将がせねばならぬ仕事は多くあり、海賊討伐だけで済むのなら単純だが、そうではない面倒な仕事もある。それはが「我侭」で一時中止できるものかもしれないし、相手がサカズキでなければはにんまりと笑って「ぼくを優先しなよ」とのたまうが、サカズキ相手にはその手は使えない。

人を振り回し、思い通りにことを運ぶことに慣れただったが、サカズキには何も強制できない。いつもサカズキは自分の判断でしか行動しない。だからは何もできない。

じっと見つめていると、サカズキが様々な思案をめぐらせているのがわかった。当人だけが問題のただの我侭なら一蹴にしただろうが、今現在こうして小さな命も関与している。無碍にはせぬところがには嬉しかった。サカズキは暫くして、眉間に普段以上に深い皺を刻みながら、渋々と口を開く。

「……おどれがクザンに頼め。手でも握ってやりゃァ本気を出すじゃろ」
「デート一回とかじゃなくて握手でいいの?」
「逢引なんぞわしが認めるわきゃァねェじゃろ」

真顔で言われた場合自分はどう反応するべきなのだろうか。は同じように眉間に皺を寄せてしまった。
するとタイミングよくもぞっと、子猫が動いた。小さな声で鳴く。は弾かれたように体を起こしてベッドの隅に置いていた砂糖水を子猫に飲ませる。

「腹が減ったのか?」
「4、5回に分けてあげないとダメなんだよ。このころの子猫はとにかく寝て、食べさせて暖めるんだよ。サカズキ、掌でこの子を持ってあげて。でもあんまり動かさないように」
「子猫になんぞ触れたんは初めてじゃのう」

真面目くさった声で言うサカズキには笑う。確かにすごい図だ。体の大きな大将殿が、それも3大将の中で最も恐れられているだろう大将赤犬が、自分の部屋のベッドの上に胡坐をかいて、その両手を皿のようにして子猫を暖めている。は熱心に子猫に砂糖水を与えた。小さな舌がの指を舐めると、どうしようもないほど心が締め付けられる。

「へんだよね、サカズキ」
「おどれの頭か」
「そうじゃなくて。だってさ、この子はここで生き延びてもぼくより先に死ぬでしょう?」

子猫は真っ白い。まだ尾は短いがこれから伸びてくるのだろう。耳はまだ開かれずくるん、と丸くなっている。瞳の色はどんな色かと想像すればの顔がほころぶ。

「ぼくは悲しむよ。すごく、すっごくね。覚悟していたって、どうしようもないんだ。こればっかりは、仕方ない。嫌なら関わらなければいいの。そうしたら、死んでしまうけど、情が移る前なら、まだ悲しみは少ないよね」
「魔女らしい手前勝手な理由じゃのう」
「でもね、ぼく、この子を助けたいと思ってしまったんだよ。変だよね、この子、ぼくより先に死んで、ぼくを苦しめるだけなのに、ぼくはこの子に生きて欲しくなってしまったんだよ」

サカズキの掌の上で子猫が小さな前足を動かす。母猫の乳を探しているような仕草だ。引き離されたことを知らない。気付いていない。無知で非力な生き物だ。どんどんこの猫に対して情を持ってしまっていることをは認めた。受け入れた。この生き物がいずれ死んで、自分の心に酷い傷を残すことを覚悟した。それでも、いま生きていてくれるならと、そう覚悟した。

この猫はいま世界で一番安全な場所にいるんだ、と、は誇らしくなる。自分の傍という意味ではない。サカズキの手の中という意味だ。この子はもう大丈夫だ。サカズキが受け入れてくれて、暖めてくれて、そして、助けてくれている。はそういう状況を整え、あとは己が知る知恵を使ってこの子を健康にすることが義務である。

「名はつけたんか」

沈黙して子猫を眺めて暫く、サカズキが口を開いた。

「うん?」
「飼うんじゃろう。名は必要じゃねェか」
「名前。うん、サカズキは何がいいと思う?」

問えば少し考えるようにして、サカズキが首を傾げる。

「タロウ」
「いや、この子、女の子だから」
「ハナコ」
「うん、サカズキの趣味はわかったよ」

ネーミングセンスがあるのかどうか、という問答はせぬようにしたい。は手を上げてストップをかけると、自分もじぃっと子猫を見つめる。名前、名前。子猫の名前。すぐに浮かんでくるのはシュレディンガーやドロシーなどといった、明らかに魔女の使い魔に相応しい名前だが、この子猫を魔女のうんぬんに関与させるつもりはない。

「ヒルデ」

じっくりと考えてはやっと一つの名を上げる。ブリュンヒルデ、からではなくて「ソフィーの」ヒルデである。口に出せば途端、馴染んだ。真っ白い子猫はヒルデになった。名前を貰ったことなど判らぬだろうに、子猫が小さく喉を鳴らす。は額を指で撫でてやってから、サカズキを振り返った。

「ヒルデ、この子はヒルデだよ」
「ハナコの方がえぇ」

まだ言うか。

憮然と呟くサカズキには顔を引き攣らせた。







Fin


(2010/05/28 18:21)