並んで道を歩きながらは今にも沸き起こる殺意を何とか抑え込むことで手いっぱいで、家を出てからこうしてマリンフォードの港市場に辿り着くまで一言も口を開かなかった。いや、もともとこの男と口を聞く必要などないのよ、パンドラ・。己に言い聞かせては背筋を伸ばした。
もちろん、妹の願いは出来る限り叶えてやりたい。未だ正気とは言い難い精神状況であることを自身よくわかっている。月の初めには必ず茨の褥で寝なければ水の都を干上がらせてしまうだろうし、可愛い娘の首をいつ跳ね飛ばしてしまうかもわからない。けれど、それでもやはり、はリリスが、今はという、妹が愛おしかった。そりゃ、時たまこう、「死んで幸せにりましょうね」と首を絞めたくなることはあるけれど、愛情は愛情だ。
「えぇ、だってそうよね。わたくしが一番リリスを愛しているんですもの」
ぽつり、と呟いては満足そうに微笑む。隣を歩いている赤犬がぴくり、と反応したのがわかったが、それがなんだというのだろう。己が構う必要はない。そう、そうだ。私はリリスの願いを叶えてやりたいのよ。口の中で繰り返し、は頷く。そして隣、長身過ぎる海兵をちらり、と眺めて顔を顰めた。
どういう気の迷いなのか未だに理解に苦しむのだけれど、それでも、まぁ、妹はこの、どう見たって壮年の、ナイスミドルというよりも素直にヤクザと言った方が清々しいこの男を、愛しているわけで、私とこの男が「仲良く」することを望んでいる。仲良くなど冗談ではないけれど、リリスの前で罵り合うことはしないようにしようと、そう、家を出てから心に決めた。でなければ、また可愛い妹は目に涙を浮かべるだろう。
もちろん、己には嘘泣きであることはわかっているが、欠片も悲しんでいない、というわけではないことも、当然わかっているのだ。冗談の中にほんの一握りの、けれど必死の本心を紛れ込ませるのがあの子の唯一の感情表現。思い出しては、姉としてそのサインを見逃したくはなかった。
「言うておくが、あれが一等想うちょるんはわしじゃァ」
「……」
真剣に思考するの耳に、堂々とした赤犬の声がかかる。
さすがにイラっときて、は額に青筋を浮かべた。
「自信過剰ですこと。殿方らしい思い上がりですわね。大将閣下」
口をきかねば罵り合うこともなかろうと、決めたその端から、まぁ、そうなるわけで、は遠慮してやろうとした自分の慈悲深さをすっかり忘れ、それはもう美しい笑顔で辛辣な言葉を続けた。
「女心は秋の空のように移ろいやすいもの。けれど姉妹の絆はけして綻びはしないのよ。もっとも、貴方とあの子の間に血以上に強い結びつきがあると勘違いできるほど、わたくしは想像力がありませんので、申し訳ないとは思っておりますわ」
ぴしり、と空気が震えた。ゴゴゴォオオとお互いなんかこう、バックに文字を背負いつつ睨みう。明らかに険悪なムードに突入し、大通りから人がサッと道を開けて二人を遠巻きにしたが、どちらがより上か、という意識下の争いを始めた二人にそんなことは関係なかった。
+++
「なんつーか、予想通り?あ、モモンガ中将、もっと近づいてよ」
「おや、まぁ、ダメだよクザンくん。サカズキも姉さんも化け物以上の人間なんだから、気付かれちゃうじゃぁないか」
呆れてます、という態度全面、ソファでくつろぐクザン、ずびーっと、湯のみを傾けて眉を寄せる。二人の目の前にはそこそこの大きさのスクリーン。映し出される映像は、今まさにマリンフォードの港町で起きているだろう光景である。映像を飛ばす電伝虫がカタカタと音を立てながら受信を続けている。ちなみに姪っ子のノア(一歳児)は暖かな室内の、ベビーベッドの上ですやすやと眠っている。
『予想通りなら…私が後を尾ける必要はあったのでしょうか…?大将青雉…』
通話機からモモンガの、ものすごく、帰りたそうな声が聞こえる。
赤犬とパンドラさんが出て行った直後、残されたモモンガ中将は上司と、上官の奥方がそれはもう面白そうにあれこれ準備をしているのを見て、本当、帰りたくなった。パンドラ・の護衛というか監視役として同行させられたモモンガだが、パンドラと赤犬が行動するのならいいだろうとクザンに言われて、そして赤犬から「このバカが妻に妙なマネをせんよう命に代えても守れ」とお達しが下り、待機することになったのだが。
二人が出かけて数分後、とクザンがそれはもう、楽しそうな顔でモモンガに、外道極まりないことを命じてきた。
二人のあとをつけて、その光景を実況中継(映像付き)しろ。と。
赤犬の後をこっそり付けるなど、命を捨てろということだろうか。
そして、「妻を守れ」と言った赤犬の言葉に背くことになるのではないか。
無理です嫌です絶対不可能ですとそう拒絶したモモンガに、クザンはとても残念そうな顔をした。「じゃああれだ。中将の足凍らせてここでちゃん押し倒すよ?おれはやるときゃやる男よ?」と、どっちかというとそういう展開を歓迎している声でのたまってきた。は冗談だと思っているのかコロコロと笑い「ぼくは痛い思いするだけだけど、中将とクザンくんは死ぬね」と、それはもう、明るくのたまった。
そうして、結局、モモンガ中将、こうしてこっそり二人の後をつけているわけである。
この数分、モモンガ中将は様々なことを考えた。かつての教え子トカゲ。彼女にもさんざん振り回されたが、やはりこの本家「悪魔っ子」の、と、多分の一番の遊び相手であるクザンのコンビに比べれば、トカゲ、本当…常識があった!!!!まさかあのトカゲに対してそんなことを思う日が来るとは夢にも思わなかったが。
「だってねぇ。サカズキとパンドラさんがちゃんとお買いもの☆なんてできるか気になるじゃん」
モモンガの愚痴をさらりと流し、クザンはクッションを腕に抱えた。本当はを抱っこしたいのだが、触った瞬間蹴り飛ばされるだろう。
「でもさ、いいの?ちゃん」
「なぁに?」
「黙ってればあの二人夫婦みたいじゃない?」
モニターの中のサカズキとパンドラを眺めて、クザンは素直な感想を口にした。長身過ぎるサカズキではあるが、パンドラも女性にしては長身だ。トカゲ中佐と同じくらいなわけで、ということはクザンの知る女性の中で長身のニコ・ロビンよりも背が高いということになる。
サカズキと並んで歩いて、パンドラさん、別段無理感がなかった。すらりとした美しいパンドラがスカートと髪を潮風になびかせて歩き、その隣を(一応海兵としての義務感から)風や通行人からさりげなく庇うようにして歩いているサカズキ。その姿は、中々絵になっているではないか。はそれを眺めて、眼を細める、
「ぼくとサカズキが一緒に歩いてても、親子みたいにしか見えないものねぇ」
「ヘタすりゃ孫な」
「ふふふ、まぁ、そうだろうねぇ」
怒るかと思ったが、はあっさり肩を竦めただけだった。てっきり少しくらいは嫉妬してくれるかと思っただけでにクザンは拍子抜けする。まぁ、そもそも、嫉妬するのなら二人を揃って出かけさせはしないか。しかし、女というものはどれほどできていても嫉妬してしまうものだとクザンは思っているので、もう少しからいたくなった。
「あ、ほら、やっとお店入ったよ?」
そう、何気なしに行って魚屋へ入る二人を指さす。
++
「おや、大将!今日は随分綺麗な人連れて…!ひょっとしてちゃんのお母さんですか?やっと奥さんを見られましたよー!いやぁ、ちゃんも美人ですが、奥さんも美人ですねぇ!さすが大将!」
人の良い魚屋の主人は前歯の欠けた歯を見せて嬉しそうに笑った。白髪が殆ど残っていない老人で、サカズキがこの島に来るよりずっと前からここで魚屋を営んでいる。妻には数年前に先立たれ、子供もいないらしくを孫か何かのように可愛がっている老人だ。
が魚を好むので、普段は配達で食材を用意させているが、時々仕事が早く上がった時などを連れてこの店を利用していた。(クザンは『デートコースが魚屋まっしぐらってどゆこと!!!?』とほざいているがスルーである)赤犬は秋刀魚を見ていた顔を動かさず、即行「違う」と否定したが、その言葉を店主が理解するより先に、パンドラがゆっくりと口を開いた。
「このわたくしがこの方の奥方?ふふ…呪われたいのですか、魚屋店主!!!」
がごっ、と主人の胸倉を掴んでパンドラが語尾を荒上げる。普段優雅たれ、が心情のパンドラだったが、今のこの、冤罪(?)だけは微笑めなかったらしい。片足を台に乗り上げて店主の目を覗きこもうとする。サカズキは額を抑えてから、とりあえずどう止めるかと一瞬のうちに検討してみる。
・殴り飛ばす。(いや、だめだ。目撃者が多すぎる。大将が女性を殴るなど外聞が悪い)
・蹴り飛ばす。(一瞬で移動したとか言うか。いや、無理があるか)
・首を絞めて黙らせる(これが一番いいと思うが……やはり、死ぬだろうか)
と、色々考えてみたところで暴力的な響きがないものが一切なかったのは、まぁ、仕方ない。サカズキは一秒後、口を開いてみることにした。
「店主、この秋刀魚をくれ。焼けばあれが喜ぶ」
ちなみにこの時、隠れているモモンガが『止めるのを諦めた!!!?』と突っ込みを入れたが、サカズキ、そこまで面倒くさがってはいない。
「秋刀魚…!!!?一匹56ベリーで安売りしているような魚をわたくしのかわいいリリスに与えるなんて……!!!あなた、あの子のことを何もわかっていないのね!!!」
呪いの態勢バッチリ、赤い眼に店主の末期の姿を写そうとしていたパンドラさん、サカズキの言葉に反応して顔を上げ、信じられない!とばかりに避難の声を上げ、そしてサカズキを睨みつけた。店主はばっと放されている。ゲホゲホと咽せながら「綺麗なお花畑で死んだバァさんが見えた」などと口走っているのは聞かなかったことにしよう。
「リリスが好きなのはこんな生臭い魚じゃなくて瑞々しい果実よ!魚の死体を並べる店なんて胸が悪くなるわ」
「店主、殴り飛ばしたくなったらいつでも言え。わしがやっちゃるけェ」
おろおろとする気の優しい店主にサカズキはばっさりと言い、ふん、と鼻を鳴らして妻の姉を見下ろした。
「貴様と暮らしとった時は知らんがのう。今は魚が好物じゃけ、覚えちょれ。刺身にしてもよう食うぞ。なんじゃァ貴様、今現在のあれの好みも知らんのか。果実は体を冷やす言うて滅多に食わんわ」
あと林檎を食べて前回は死んでいるので、嫌いなものにすら上がっているのではないだろうか。ふとそんな事を考えたが、それにしてはコルキス・コルヴィナスが来る度に林檎を使った焼き菓子を作っていることを思い出す。
パンドラはサカズキの言葉に顔を赤くして、わなわなと唇を震わせた。呪いの言葉を吐こうとするその口を掌で覆って押さえ、サカズキは店主に素早く100ベリーを渡し、ずるずるとパンドラを引きずってその場を離れた。
++
「え、ちゃんって魚食べれるの?」
肉類ダメなイメージだったーとクザンに言われては肩を竦めた。嫌の姉の台詞からは、なんといううか、そういう解釈もできるけれど、しかし、千年前だって、はっきり言ってしまえば、豚一匹頂いたら何一つ無駄にせず美味しく頂ける方法を知っていた。
「育ったのは森の中だから魚は、川魚くらいだったけど、姉さんに出す時はいっつも煮込み料理とかだったし、姉さん、結構繊細だったからニワトリ絞めるのもぼくやってたしねぇ」
薔薇姉妹の永遠の住居である夏の庭と冬の庭。それぞれ生命と死を司る、なんてフアンタジー要素のネタもあるけれど、しかし、毎日を生きるにはしっかり食べなければならないし、畑だって耕してきたものである。との家の隣には家畜小屋があったし、井戸もあり、そこで毎朝水を汲み、家畜に餌を与えて、鶏からは毎日卵を貰っていた。古い農家の暮らし、と言えばクザンにもわかりやすいだろうか。は説明をしようと思ったが、面倒くさいので止めた。
「今は魚、好きだよ。っていうか、ぼく体半分猫なんだから魚好きなのはその所為かなぁとも思うけど」
「あー、そうなの、じゃあ今度にぼし持ってくるよ」
道理でケーキをお土産にしてもあまり喜ばないわけである、とクザンは残念そうにつぶやいた。いや、別に、ケーキが嫌いなわけではないが、しかし、確かににぼしの方が嬉しい。
モニターでは「ならせめてそちらの高級魚になさい!!」と訴える姉と、「値段よりあれの好みを優先するに決まっちょろうが!」と反論する組長、じゃなかった、夫が映っていて、は溜息を吐いた。
「ぼく、姉さんとサカズキはちゃんと知り合ったら恋人にだってなれたと思うんだよねぇ」
「……いや、それはどうよ?」
ちょっと想像しちゃった、とクザンが思いっきり、気色悪そうな顔をする。
「……え、あれか?サカズキが、パンドラさんとバカッポーしてる光景?いや、無理でしょ。サカズキがパンドラさんを膝の上に抱っことか…?パンドラさんが膝枕とか…?行ってらっしゃいのちゅーとか?」
ぶつぶつと呟いては顔を青くするクザンに、も想像して「……まぁ、確かに」と思わなくはないけれど、しかし、そういうことではないのだ、と言いたい。
「別に、ぼくと同じ関係になるわけじゃあないでしょう。サカズキと姉さん、二人がもしも愛しあったらどういう風になるかなぁ、って、それはきっとぼくとの場合とは違うものだよ。じゃなかったら、ぼくの意味はないからね」
「……いや、愛しあうって……ちゃん…サカズキとパンドラさんよ?」
無理だって、とものすごく嫌そうな顔をするクザン。その顔がとても深刻そうなのではころころと喉を鳴らして笑ってしまった。
「実際なって欲しいわけじゃないよ。サカズキが、ぼく以外のひとを「妻」とか呼んだら、ぼくは即行ドフラミンゴと再婚するね」
離婚する、という言葉すら短縮して言い切った。しかし、そんな展開は万に一つもないと信じきっている眼で言われ、クザンはサカズキが堂々とのろけるよりも、何かこう、ダメージを食らったが、そんなことをが気遣うわけもない。にこにこと機嫌よく、モニターを眺めて背をゆっくり伸ばす。ふとクザンは、彼にしては本当に珍しく、何も考えず、ひょいっと、その、眼を細めて喉を鳴らしたの顎を押えて、顔を近づける。はただ青い眼を見開いて、瞬きをした。
+++
とりあえず魚は確保したサカズキとパンドラ。に渡されたメモに従うのなら、野菜を買うことになる。八百屋は魚屋から少し離れたところにあり、歩きながらサカズキは隣を歩く妻の姉を一瞥した。
「今にもわしを殺したそうな面ァしちょるのう、貴様」
「許されるのなら今すぐにでも」
「貴様にゃ、聞いておきたいことがあるんじゃが」
こちらが言えばパンドラ・、顔を上げて首を傾げた。こういう仕草はに似ている。
「なんです?」
「あれの昔の話じゃァ。貴様しか知らんあれの話を、一度は聞いてみたいと思とった」
先ほどの話もそうだが、サカズキ、まだまだのことで知らぬことが多くある。何もかもを知りたい、というわけではないけれど、何か、まだ知らぬことを知ればあれを喜ばせることも増えるのではないかと、そう思った。たとえば、今軟禁状態のようにして、それを当人まるで違和感を覚えておらぬが、しかし、こちらにも、一応の罪悪感はある(本当に少しだが)どうせこちらが贈るものはなんでも喜ぶだろうという確信がサカズキにはあるが、しかし、趣味趣向や、些細な昔の話を知っていれば、さらにしてやれることもあるのではないか。
「わたくしが話すと思って?大将閣下」
こつこつとお互い足音をわざと立てながら歩く。サカズキはパンドラから視線を外して、少し先、歩いている親子連れを眺めた。背の高い父親と小さな子供、それに母親が三人並んで歩いている。サカズキ、数年前までは自分が家庭を持つなど考えたことはなかったが、しかし、いずれは己も子を得る日が来るのだと、最近やっと、それを考え、そして、まんざらでもなかった。
サカズキが遠目で見ているものを見て、パンドラも視線を向け、そして息を吐く。
「そうね。あなたが知らなさそうな話だと、あの子、えぇ、そうね。あの子、ハンカチを集める趣味があったのよ。今はどうだか知らないけど、レースのハンカチを集めていたわ。わたくしが燃やしてしまって、この時代にはきっと一つも残っていないのでしょうね」
懐かしいことを思い出す目をして、パンドラが呟く。サカズキ、その話は初耳だった。リリスの日記の原本を読んだことはあるが、まさかそんなことを態々記しはしないもの。がハンカチを集める趣味を持っている、ということが似合うといえば似合いすぎる。思わず喉の奥で笑えば、隣のパンドラの目が柔らかくなった。
「かわいらしいでしょう?他にもあるの。あの子、きれいな小石を集めるのが好きだったの。よく泉に出掛けて白い小石を集めたわ。わたくしの庭では宝石も採れたけれど、あの子はただの白い石を好んだの。月の光の当たる天窓に並べて、眠る前にいつもいつも、宝物を見るような眼で眺めていたわ」
後に悪意の魔女と呼ばれる生き物にしては本当に、随分とかわいらしい趣味である。サカズキは眼を細め、森の中の泉でスカートを掴みながら、小石を拾うの姿を想像した。出来れば一糸纏わぬ姿希望、などとクザンでもいれば「お前マヂ変態」と突込みが入るようなことを考えたが、長いスカートから覗く白い足首というのもなかなかに赴きがあるものである。
「……貴方、今絶対、不埒なこと考えていらっしゃるでしょう」
すかさずパンドラの鋭い指摘が入ったが、サカズキは「妻のことを考えるのが不埒なものか」と開き直った。一瞬、パンドラは顔を引き攣らせたが、しかし、何も言わず、一度眼を伏せて額を押える。いろいろ突っ込みたいことはあるのだが、しかし、まぁ、まぁ、言ったところで無駄だろうと、少し悟っている。
それにしても、とパンドラは改めてサカズキを見上げた。
相変わらず気に入らないことは気に入らないが、先ほど妹の話をしたとき、この男は笑っていたように思える。いや、嫌みったらしく笑う顔なら覚えはある。に対して、こちらが上だというような、優越感に満ちた顔なら何度も見た。しかし、今この男は笑ったのだろうか。それだとしたら、は聊か、不快な思いになる。いや、赤犬が笑うことに対して、ではない。この男の、先の、あの、喉の奥を引っかいたような笑い方が、、何だか、とても、妹に対して深い愛情があるように思えたと、そう判断してしまった己の心が許せぬのである。
何をバカなことを、とは眦を上げてスタスタと前に進む。いや、妹の願いどおりになるということだ。己、こうして妹の昔の思い出話を人に話すことはほとんどない。したとしても、たいてい相手にはわけのわかたぬたわごとになることが多い。それなのに、この大将殿だけはきちんと、こちらの言葉や、その時の時代、生活を理解していて、きちんと、の話を受け止める。その事実が、内心のパンドラをうろたえさせた。己にとって、何よりも大切なリリス、その思い出を分かち合える相手がいるということが、には、気に入らない。いや、落ち着いてしまう己の心が、心底嫌なのである。これが己の夫、今は水の都で仕事にせいを出している敬愛する夫ならばよかった。だが、大将赤犬だけは嫌だった。しかし、それなのに、こうして思えば、サカズキという男ほど、己とリリスの話をわかってくれるものはいない。
は苛立って、乱暴に石の階段を下りた。その、途端、ピンヒールが下段を踏み損なってそのまま身体のバランスが崩れる。転倒する、と判じたは体勢を整えるには時間が足りぬと即座に気付き、反射的に胎を庇うように押えた。
「もう貴様の胎にゃ、赤子はおらんじゃろうに」
石畳に叩きつけられる感触は、ついに訪れなかった。少し早く先を行ったはずのに追いついたか、それとも転倒に気付いて駆けたか、それはわからぬのだけれど、ぐいっと、サカズキがの細腕を掴み、その身を引いた。
「……」
「なんじゃァ」
「……助けてと声を上げた覚えはありませんよ」
「あれと似たようなことを言う。貴様ら、ほんに姉妹じゃのう」
くっ、とまた喉の奥で引っかいたようにサカズキが笑った。は顔を赤くし、掴まれた腕を乱暴に振り払う。別に、助けられなくとも、多少の怪我をしたくらいだ。怪我は、すぐに治せる。もつれた足を動かそうと前に踏み出せば、鈍い痛みが走り、パンドラは僅かに顔を顰めた。
「捻ったか」
「えぇ。でも閣下に抱きかかえられて帰宅だなんて無様なマネは認めませんよ」
そういう展開になったら今後恥ずかしくて生きていけない、とは真剣に思った。よりにもよってこの男に抱かれるなど、ありえない。本当、嫌だ。それをあからさまに出せば、サカズキ、いつものように傲慢なことでも言い返してくれればいいものを、ひょいっと、しゃがみ込んでパンドラの足首を掴む。
「わしとて貴様を抱えるなんぞありえんわ。少し待て」
しゅるり、とサカズキは懐から包帯のようなものを取り出しての足に巻いていく。捻挫の最も大切な処置は負った際の応急処置である。圧迫、固定などをいかに的確に迅速に行うかで回復期間も大幅に変化する。しゅるしゅるとなれた手つきで巻いていく赤犬の頭を見つめ、は顔を顰めた。
「準備がよろしいのね」
「あれとおれば自然そうなる。蝶を追いかけて突然走り出しちゃァ、いつ転ぶかわからんからのう」
そういうサカズキの声は呆れているようで、しかし、やはり、これはもう疑う余地もない。は降参するようにため息を吐いた。
「なんじゃァ」
「わたくし、けして貴方を認めたくはなくてよ」
「こんな程度で認められちゃァ、わしも不本意じゃわい」
+++
モニターから無理やり視線を外させられ、ソファに押し倒されたはあまり驚いていないようだった。クザンは真っ白いソファにちらばるの赤い髪を指で巻いて、首を傾げる。
「『サカズキに殺されるよ』とか言わないの?ちゃん」
「する気もないのにとりあえず押し倒しただけでしょ。きみは」
ころころとの青い眼が揺れる。こちらに対して何の警戒心も抱いていない。昔からはそうだった、とクザンは思う。サカズキやボルサリーノに対しては毛を逆立てるようなことがあっても、自分にだけは、警戒しない。それが信用なのか、疎外しているゆえなのか、クザンははっきり答えを求めようとはしないけれど、少し、意地の悪いことを言ってみたかった。
「ここ最近のおれの恋人とか愛人サンってさ、皆、眼が真っ青か、赤毛だって知ってた?」
「おや、まぁ。その中にぼくよりも眼が青くて、ぼくよりも髪が燃えるように赤い子はどのくらいいたんだろうねぇ」
「生憎、いなかったよ」
残念そうに言えば、がまたころころと笑った。その声にクザンが少しイラっときて、そのままの服に手でもかけようかと思っていると、の青い眼がクザンを見つめた。
「ぼく、クザンくんのこと、好きだよ」
一言一言、ゆっくりと嘘ではないのだと伝えるように真剣な声で言ってくる。クザンはぴくり、と瞼を動かして、苦しそうに顔を顰めた。けれど耳から拾った言葉に体中の血が勢いを増して流れたようにドクドクと心臓が跳ね上がる。嬉しくて今にも死んでしまいそうだ、というのを、はわかっていないのか。ゆっくり、ゆっくり息を吐いて、の髪をつかんだ手を握り締め、クザンはを非難するような眼を向けた。
「おれのことからかって楽しい?」
「きみはぼくとサカズキの友達だ。ぼくはこれまで一度も、君を疎んだことはないし、信頼してる。きみはぼくが好きかい?」
いっそ死ねって言われた方がマシだと、そうクザンは思った。
悪魔っ子、と以前ふざけてをそう呼んだ事がある。サカズキと結婚してからその様子は治まったように思っていたけれど、悪魔っ子、じゃない。悪魔じゃないのかと、そう、クザンは心の底から思った。
「ちゃんって残酷だよね」
せめてものし返しにそれだけ言えば、少しだけ、ほんの少しだけの眼が傷ついたような色をする。それなものだから、クザン、慌てて「冗談だって」と、くしゃり、と、の頭を撫でて、身体を引き起こした。
モニターの中ではサカズキがパンドラさんの足首に包帯を巻いている。
+++
「……物凄く家に帰りたくなったのですけれど、これは貴方がどうとかではなくて、わたくしのリリスの身に何かあったのではないかという意味でですよ」
「奇遇じゃのう。わしも今猛烈に、同僚のバカを骨まで溶かしてやりたくなっちょるけ」
テーピングを終えて、パンドラとサカズキ、それぞれ額に青筋を浮かべて顔を上げた。二人ともただならぬ雰囲気になっている。その少し離れたところにいるモモンガ中将は思わず「うっ」と声を上げそうになったほどである。殺気立っているとかそういう生易しいものではない。何かこう、お前らエスパーか!?と突っ込みたくなるくらい、何か、こう、的確な電波でも受信したのだろうか。
パンドラはすくっと立ち上がり、家のある方向を睨むように見つめている。足の怪我とかそんなの気にしている場合じゃないと、その美しい燃えるような眼が告げている。
先ほどまでは多少はパンドラの身を省みていたサカズキも、今すぐに飛んで帰るほどの敵意を漂わせて立ち上がった。いや、だから本当どんな電波受信したんですかと、モモンガはものすごく気になった。先ほどから青雉・との通信は途絶えている。それでも一応カメラは向けていた。サボった、あるいはこう逃げたら、何を言われるかわからない。幸いに貰った妙なアイテムのお陰で今の今まで二人に存在はばれずに住んでいる。後は二人が帰宅する前に戻れば問題あるまいと、そうモモンガが判断した途端。
赤犬がパンドラの身体を抱きかかえて、ヒュッ、とその姿を消した。いや、別に瞬間移動なんて漫画違いの展開ではない。抱きかかえてそのまま素早く飛び上がり、屋根を伝って移動、ということだろう。あそこまでいがみ合っていた二人が協力してるってどゆこと!!?とモモンガは突っ込み、そして己も慌てて二人の後を追った。
+++
ガッシャン、と何かいろいろ割れる音がしたのでは食器を洗っていた手を止めて、ひょいっとキッチンから顔を覗かせ、そして顔を引き攣らせた。
が丹精込めて世話をしてきた庭の植物が、それはもう、見事に、燃えている。隕石でも降ってきたのかというような有様に、は泡の付いた手のままスタスタとベランダから飛び出し、その中心にいる二人の人物を睨んだ。
「帰ってくるときは玄関からが普通でしょ!何してるの二人とも……え、何してるの?二人とも…」
最初の勢い、怒りはすぐにそがれて、は困惑気味に声をあげ、そして眉を潜めた。
「無事か…」
「リリス…あぁ、よかった、怪我はなくて?」
目の前には愛する夫と大切な姉。出かける前はそれはもう険悪ムードで、、本当に二人をそろそろ何とかしないとならないと思っていた。それで、泣き脅しをしてまで二人を一緒に出かけさせ、途中までその光景を見張っていたのだが。
(ぼくがクザンくんに押し倒されてる間に何あったの?)
聞きたいが、聞くわけにはいかないだろう。いろんな意味で。
目の前には、姉と、夫。二人こう、おひめさま抱っことかそういうわけではないのだが、サカズキがパンドラの腰を抱き、姉がサカズキの首に腕を回している、という体勢。恋人同士ですか、というような体勢だ。
眼を合わせるのだって嫌がっていたはずだが、なんだこの進歩。は首をかしげ、そしてとりあえず聞いてみることにした。
「サカズキ、浮気?」
「万に一つもありえん」
「緊急事態だったのよ。リリス、でなければわたくしがこんな人に触れさせるなんて」
きょとんと首をかしげて言えば、サカズキとパンドラはそれはもう嫌な顔をした。別段も本気で言っているわけではない。ころころと笑って、サカズキから買い物袋を受け取る。
「……お魚だけ?」
秋刀魚しか入ってない。しかも一匹だけってどういうことだろうか。仮にも大人二人にお使いを頼んでこの成果ってなんだ。は額を押さえ、冷蔵庫の中身を思い出す。庭の手入れをしたときもそうだが、姉が来ている以上、己にも意地がある。いつまでも弱い妹ではなくて、きちんと家政を出来ているのだというところを姉に認めてもらいたい。そういうわけでしっかり料理も作りたかったのだけれど、魚一匹で何しろというのだろう。
押し黙るに、さすがに悪いと思ったのか、サカズキがくしゃり、との頭に手を置く。
「今日は外で食うっちゅう手もある」
「旦那様にはちゃんと毎日手料理を!っていうのがぼくの意地なんだけど」
「ようしちょるけ、たまにゃ休め。わしが許す」
確かに外食など滅多にしていない。というか、結婚してからは一度もないのではないかとは思い出し、少し興味を引かれた。
「えー、ちゃんの手料理食べれないの?おれすっごい期待してたんだけど」
が悩んでいると、縁側にひょいっとクザンが現れ、そして台無しになった庭を引き攣った顔で眺めてから、気安い声で言う。そのクザンに、パンドラとサカズキが反応した。そして素早く、がしっと、サカズキがクザンの首根っこを掴む。
「貴様にゃァ一番に会うて話をしたかった。、外で食うかどうかは貴様に任せる。わしはこのバカにちと尋ねたいことがあるけェ、二階へ行く」
クザンの反応などお構いなし、何かこう、殺気をみなぎらせてずるずるとサカズキは同僚を引きずり二階へ上がっていった。は唖然とそれを見送り、いつのまにか自分の手をぎゅっと握っている姉に顔を向ける。
「ね、姉さん?」
「ねぇ、リリス。悲鳴とか聞こえても貴方は何も気にしなくていいの。わたくしと一緒に、そうね、それじゃあ、何か作りましょう。わたくし、500年ぶりに料理をしてみたいわ」
「悲鳴って何!!?サカズキ、クザンくんに何しに行ったの!!?そして、姉さんが料理!!!?」
穏やかな笑みでつらつらと告げる姉に、はいろいろ突っ込みたいところがあったが、とりあえず最後の姉の言葉に驚いた。
「姉さん、料理できるの!!!!?っていうか、それは料理なの!!!?」
「まぁ、そんな反応は酷いわ。わたくしだって、そりゃ………500年も経ってたらできるかもしれないじゃない」
「眼を逸らさないでよ!!!?」
ついっと視線を外したパンドラには顔を引き攣らせ、かつての記憶を思い浮かべる。
冬の庭の番人。この世でもっとも美しい人。神々の贈り物、とさえ言われるパンドラ・。何もかもの能力を持っている。何をさせても完璧な人だが、しかし、それでも、神様はすっかり忘れていたのだ。
「姉さん……姉さんが食べられるものを作った記憶は…ぼくにはないよ…!?」
パンドラ・。それはもう笑える話だが、料理についての才能が皆無である。というよりも、「もっとがんばりましょう」のその下をどうにかして探してもまだ褒めすぎている、というほどである。
姉が作った自称「アップルパイ」はなぜか緑色の煙を出し、青紫のヘドロと化し、うっかりこぼした大地は二度と生命を生み出さなかった。幼い頃リリスが熱を出して寝込んだ時に作ってくれたお粥は部屋中の空気を毒ガスに変え、正直リリスが生命を司る夏の庭の番人でなければあれが死因になっていただろうというほどだ。
あの威力を思い出し、はぞっと身を震わせた。
「あら、大丈夫よ。わたしたちの食べる分はあなたが作って、大将閣下二人の分はわたくしが作ればいいんですもの」
「最初っから毒殺目的確定なの!!?」
「わたくし、口にするなら美味しいものがいいわ」
「自覚あるんだよね!!?なのになんで挑戦したがるの!!!?」
必死に姉を説得しようとはらしくもなく突っ込み役に回るのだが、どこから出したか、姉、白いレースのエプロンを取り出し、さっと腕を通す。こういう姿だけ見ていれば良妻に見えなくもない図だが、しうかし、は姉の腕前を本当、よく知っている。しかもサカズキに出すと言っているのだから、止めずにはいられないだろう。
「だ、だめだよ姉さん!!サカズキがお腹壊したらどうするのさ!」
「恐竜並みの胃袋でしょうから問題ありませんよ」
「サカズキ人間だよ!!?」
「あれを人間なんて言っては人類に失礼ですよ」
先ほどまでは親しそうな気がしたが、やはり自分の気のせいだったのか。は怯まぬパンドラにがくっと膝を付き、溜息を吐く。
こうなった姉の勢いは自分には止められない。しかし、サカズキの死因が毒死というのは絶対に嫌だ。となれば、姉の料理を隣で監視して、致死量の毒性をはらまぬように何とかするしか他に手段はないだろう。
冷蔵庫の中身をあれこれ考え、作れるのはカレーくらいだと思い当たった、それならそう惨劇にはなるまいと、かつて自分だってカレーを作って他人に大迷惑をかけたことはすっかり棚に上げながら、ひっそりと決意するのだった。
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・まだ続きます。
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