ふらり、ぐらっ、とおぼつかぬ体。足は順序良くに持ち上がってすらくれぬ。ふらふら、ふらり、ふらっと、彷徨うように、なんと、か、前に進む。ずるずると半身を引き摺るようですらある。騒がしい表通りを避けて、路地裏を行く、。その体に外傷はない、いや、数分前には確かにあったのだ。惨たらしい、容赦なくその総身に突きつけられた、剣、剣、剣、それらから全て「逃げ」てきた。だその途中で治っただけ。表面上の傷口は塞がっていても、問題ない、というわけではないのだけれど。
ぎりっ、と、は脣を噛み締めた。油断、した。見縊っていた、この、自分。小さな少年から、林檎を貰ったのだ。、十分幼い外見をしているが、そんなよりももっともっと幼い少年。「これあげる、おねえちゃん」と、少年の手にあった風船が空に行ってしまいそうだったからブラシで浮かんで取った。それを渡した。喜んでくれた、とても、笑ってくれた。だから、嬉しかった。それで、リンゴも好きだったから、貰った。

(ぼくは、馬鹿か)

林檎を食べた。一口、二口。味などわかる己ではない。死体に味覚などない。今の技術を使えば死体に味覚を感じさせられるように“”を作り出すことはできるのかもしれないが、あいにく400年前は無理だった。食べ物など必要とする身ではない、そんなオプションはいらないとベカパンクを追い返している。それはどうでもいいのだけれど、今のこの、状況。

毒だ。毒。林檎に毒って、随分とまぁ可愛らしいことをする連中もいたものだ。林檎を食べてきっちり二時間後、の体に震えが来た。最初は寒さかと思い、今日は肩を出したワンピース、ふらりとそこらの店に立ち寄って黒地に赤い薔薇の刺繍のジャケットを買い羽織った。その間にも妙な悪寒が止まなかったが、病になど滅多にかからぬ自分、まぁ、体調の悪い時もあるだろうと、さして気にはしなかった。
それで、次に汗が出てきた。指先が震え始め、視界が霞む。何か妙だとデッキブラシに跨ってドレークのところへ戻ろうとするのだけれど震える指先はうまくデッキブラシを呼んでくれぬ。そこでがっくりと、膝をついてしまった。これはまずい、と、思ったのはもう遅かった。気付けば手にそれぞれ剣やら銃やらを持った連中に囲まれて、その連中「人攫い」らしい。

小物、小物連中だが、小ざかしい頭ばかりはよく働く。悪知恵。指も口も舌もつかえねば、そして憎む対象がなければどうすることもできぬし、第一、小者相手に悪意を使うなど、できぬこと。向けられるままに暴力、攻撃を受けて、血の多く出たこと、出た、事。

それでもなんとか逃げ延びた。デッキブラシは使えぬが、それでも相手から奪った剣を使った。毒に侵されおぼつかぬ身なれど、、剣の手ほどきはミホークより受けている。最強、とまではいかぬが、そこそこのものはある。少なくとも数十人を一瞬怯ませて逃げてくるだけのものはあった。

そしてズタボロになりながら、ドレーク海賊団の船に戻ろうとずるずる、ずるずる身を引き摺っている。

(全く、馬鹿か。ぼくは、他人なんぞ信用するものじゃあない)

悪意の一切が扱えなかった理由、容易いこと。自分に「非」があると認めてしまっているからだ。ここは世界貴族どもが闊歩する島。諸島。群島。人買い文化がまかり通っている場所。常日頃から赤旗に「お前が海の魔女だということを忘れるな」と、そう言い聞かされていた。さっぱり聞いていなかったが。

先ほどの連中、を狙ってはいたのだが、はたして「海の魔女」と知ってのことか。答えな否、であろうとは検討付けている。どこぞの海賊らのように手配書うんぬんが出回っているわけでもない。ただその名は北の民話の一つとして知られ、それは一般。海兵、そして多少なりとも「知る」人間なら「海の魔女」に「触れてはならぬ」ことを知っている。

で、あるとすれば、先ほどの連中がを狙ったのはただの奴隷目的、だろう。魔法を使うのを見られていたのか。それとも、自分で言うのもなんだが、見た目、だろうか。蜥蜴には悪いが、この体、よい見た目をしている。

子供、女、見た目の良い生き物、不思議な能力。一人歩き。狙われる理由などたんとある。被害者こそが悪である、というのは道理ではないが、、少なくとも己には当てはまる真理であると、承知してしまっている。

ずるり、ずるずると前に進む。ドレークは、あの、赤旗が、心配する。帰らなければ。戻らなければ探しに着てくれるだろう。けれど、、自分があの男の眉間に皺を寄せるのは楽しいと思うけれど、誰かに何かされた自分を見て、赤旗が眉を顰めるのは、できれば見たくない。

(そんなの、サカズキだけで十分だ)


ぐらり、と、体が傾いた。

受け止めたのは、顔色の悪い、目の下にクマのある帽子の男。にやり、にやっと、口元を歪めて笑うのが、薄く目を開けたの目に見えた。

(トラファルガー・ロー)

逃げなければ、と、一層危機感が増した。





ライ麦畑




暖かい心地、ゆらゆら揺れる、水の中。海には心底嫌われているが、別段能力者の類ではない。海水意外になら使ったところでどうだということもない、身。

「……泡?」

ぱちり、とは目を開いた。

「あ、よかったぁ、気が付いた?」
「しろい、熊……?」
「ちょっと目、つぶっててね」

ばしゃり、と頭からお湯を駆けられる。熱くはなく、丁度良い温度の湯が髪をつたい流れていく。白い、バスタブの中。泡まみれ。

「???な、なんでぼく、白熊にお風呂に入れられてるの」

丁度髪でも洗い終わったところ、らしい。ぶるぶるっと、は犬の仔か何かのように頭を振って水気を払い、立ち上がる。ざばぁっと水が引き、湯に使っていた体が外気に触れて、少々寒い。

「あ、だめだよ。まだ。次はリンスしなきゃ」
「丁寧だね!?じゃなくって、きみ、確か」
「気が付いたか?海の魔女」

カチャリと扉の開く音。バスルームのドアを開けて、入ってきた帽子の男。室内だというのに帽子を取らないのか、と、そういう突っ込みをするより先に、はきっと、男を睨んだ。

「トラファルガー・ロー」
「ローでいい。長いだろ?なんなら船長、でもいいぜ?」
「黙れ。このぼくに船長、なんて呼ばせるには苛烈さが足りないんだよ」

ぴしゃり、と言い、はバスタブから出ようと足をかけ、体がふらつく。

「……っ、う」
「無理するな。まだ毒が抜けきってないんだ」

再び湯船に浸かる。ばしゃり、と湯の跳ねる音。は肩肘を淵について、ローを睨んだ。

「どういうつもり」
「何がだ?」

予想外のことでもいわれたように眉を跳ねさせ、不快そう。それを真に受けるではない。何を企んでいるのか、随分と悪い噂しかきかない、死の外科医なんて生き物が、小さな女の子を助ける。海の魔女と、この男は己をそう呼ぶ。北の出身者。

「助けて、なんて言った覚えはないよ。何を企んでるか、答えろ」
「おれに命令するなよ、消されてぇのか」
「キャプテン!それにちゃんも!こんなところでケンカしないでよね!それにちゃん素っ裸じゃんか!」

ゴォォォオオ、とお互い妙な戦闘体制に入った途端、白いクマが叫びだす。はたり、とローの動きが止まった。じっとの顔を見詰める。

「なに?」

自分が素っ裸、という白くまの発言に、何か思うことはない。この男相手に怯むのは嫌だと妙な矜持。見詰められるままに睨み返して数秒、突然くるり、と、ローが踵を返した。

そのままパタン、と閉じる扉には首をかしげる。

「なぁに?あれ」

奇怪な行動、というほど大げさではないにしても、わからぬもの。はとりあえずバスタブの中から出ようとして、白くまに押しとどめられる。

「何するの、きみ」
「おれはベポだよ。ちゃん、ちゃんと肩まで使って暖まらなきゃ」
「ぼく名乗った?」

白くまの名前などどうでもいい。機嫌の悪い、憎悪を向けるべきでない相手にも些か乱暴な言葉遣いになる。それを気にするクマではなく、以外に強い力でを湯に戻し、熱い湯を肩からかけてゆく。

「うぅん。でも知ってる。キャプテンがずっと探してたから、たぶん皆知ってるよ」

器用なクマだと思う。湯をかけて、髪をわしわし、乾いたタオルで拭いている。心地余の良い慣れたもの。は目を細めて、ちゃぽん、と、湯の中で指を跳ねさせた。

「探してた?死の外科医が?」
「なんでか知らないけど、ずっと探してたんだよ」
「ずっとって、いつから?」
「知らないけど、でも、ずっと前から」

この島で探していた、という意味ではないらしい。ずっと前、がいつか知らないが、昨日今日、ではないらしい。は顔を少し上げて、にへらっと笑う。

「反吐が出る」
「具合悪いの?解毒剤飲む?」

同じように可愛い顔の、白いクマ。は「それはいい」と辞退して、掌をヒラヒラ翻してみる。いつでもデッキブラシは出せそうだ。

「キャプテンがね、ずっと傍にいたんだよ」
「誰の?」
ちゃんの。倒れてるところ見つけて、胃の中の毒は全部吐かせたんだけどさ、ちゃんの体はおれ達と違うからどうすればいいかわかんなくて。ずっと、キャプテンが見てたんだ」

路地裏からの記憶はない。あそこで倒れて、ローに拾われたのか。体さえ動けば条件反射で空を飛んでガレーラにでも逃げられたのに。醜態を、アイスバーグ以外に晒すなんて、と、は脣を噛む。

「なんでぼく、お風呂に入れられたの?」
「いっぱい吐いたから」

けろり、と、白熊、なんでもないことのように言う。あー、と、は顔を引きつらせた。吐いた、いや、吐かされたのだろうが、まぁ、それは汚れるだろう。顔やら髪やらいろいろ。

「おきた時に自分がゲボまみれだったらヤだろうなぁって、お風呂嫌いだった?」
「うぅん、ありがとう」

さすがの自分も、それは嫌だと思う。、うんうんと頷いて白いクマを見た。なんで喋るのか、とか、そういう突っ込み、この海ではするだけ無駄である。世の中不思議が一杯だよねぇ、と、ぼんやり思い、大きく伸びをした。

「体調はそろそろ戻るよ。助けてくれてありがとう」
「キャプテンにお礼言ったら喜ぶよ」
「絶対いやだ」

きっぱり断る。自分でもなんであの男が嫌い、というか、嫌なのか、には正直よくわかっていないのだけれど、嫌なものは嫌だ。初対面でいきなり拉致られ(緑色の床:参照)仲間になれ発言が嫌だったのか、それともドレークコスプレにケチをつけられたのが嫌だったのか。それとも、この男のシンボルに空寒い予感がしたからか。

(まぁ、それはどうでもいいんだけれど)

ぱん、と、は頬を叩く。

「帰る、白熊くん、ぼくの服は?」
「そこにあるよ」

手渡される白い服。ありがとう、と言いかけては「うん?」と違和感。白い、服。白いコート。白いコートは着ることがある。魔術師の格好だ。がサカズキと会うときに好んできる、白いフードの付いた服。けれど、それはこれではない。

「ぼくの服は?」
「これだよ?」
「これ違うよ」
「これだよ?」

あれ、ひょっとしてこの熊、黒い?にこにことした顔、その口から覗く小さな可愛らしい牙に、あ、そっか熊って肉食だよねぇ、などと見当はずれなことを思いつつ、ひょいっと、指を振る。

「ぼくの服は?」

デッキブラシを構えた、海の魔女。北出身者ならば幼い頃から承知の、お話。嘘つきの言葉を信じて偉大な海にまで勇ましく乗り出した、“勇敢な王様”を滅ぼした、“非道な魔女”のこと。

「これだよ、ちゃん」

にぱぁぁっと、心底の笑顔。白い熊。は眉を寄せた。







「おれの言ったとおりだろう?よく似合ってるぜ、海の魔女」
「…このぼくが、気に入らない服を着るなんて…!!!」

ふるふると、屈辱に震える体はどうでもいいのだけれど、、案内された部屋にいる男に一言言われるのが、さらに屈辱的だった。

他人への嫌がらせは楽しいが、他人に嫌がらせをされるのは心底嫌だ。振り回されるのなど何年ぶりか、思い出せぬほどの昔、はどっかりソファに座り込んでいるトラファルガー・ローを見下ろした。

「ぼくの服返して、あれ、気にってるんだ。ジャケットにいたっては買ったばっかりなんだよ」
「その服だって新品だ。何が不満なんだ?かわいいじゃねぇか」
「きみに褒められてもちっとも、これっぽっちも嬉しくない。きみ、何考えてるの」
「素直に答えると思ってんのか?」
「信じないけどね」

部屋の温度が随分下がる。己の悪意だけのものではない。この男の、北の気配だとは目を細める。ロー、ロー、トラファルガー・ロー、とかいうその生き物。どう考えたって、まともな生き物、ではない。自分だってそうだが、この男、いつか堂々と酷い非道をするだろう。それが、に害のないものだとしても、サカズキや、ドレークに無害、であるだなんて妄信はしない。

(そうだ、ドレーク。赤旗、きっとぼくを探してる)

倒れてからどれほどか知らないが、それでも「ちょっと遊んでくるね」と言って出てきただけのこと。本当はちょっとレイリーと話でもして帰ってくる、その程度だったのだ。今頃、心配しているだろう。きりきり胃を痛ませるのは好きだが、今回の心配の種類は、ちょっと違う。

「まぁ、待てよ。海の魔女」

この不気味な生き物は放ってさっさと行こうとしたの腕を、ローが掴んだ。

「、なぁに」
「……」

じっと、見詰める氷のような目。冷たい、死の外科医という物騒な名の男の眼。はバスルームで白くまが「ずっと探していた」と言っていた言葉を思い出した。何の因果があるのかなど、心あたりはこれっぽっちもないが、検討も付かぬことで人に恨まれたり、やたら探されたりすることはこの四百年、結構あった。

「なに?トラファルガー・ロー」

腕を振り払うこともせず、きちんと視線を向けてやっている。なのに、先ほどまでよく喋った男が、今は貝にでもなったように、何も言わなくなった。

「用がないなら、帰るよ」
「用は、ある」
「じゃあ、なぁに」

問うのに、やはり黙ってしまう、トラファルガー・ロー。ドレークの無口さとも違う。ミホークの寡黙さとも違う。何か、戸惑うような、躊躇うような、沈黙。

ふと、はこの奇妙な生き物の顔を改めてまじまじと見てみた。ふわふわとした帽子、目の下のくっきりとした隈。薄笑いを浮かべればさぞかし嫌味っぽさのマシそうな、酷薄な脣。怠惰、怠慢、傲慢、自身、唯我独占、いろんなものが交じり合ったような、気配。しかしその根底、底知れぬ男の、底辺。

まるでこどものようなしろいけはい。

(……っは、まさか)

馬鹿らしい想像、何を考えているのか、自分、とは即行その考えを否定した。一体どんな冗談だ。内心笑い、呆れ、それて少しは時間を潰しているのに、一向に口を開こうとはしない、トラファルガー。

「トラファル、」
「ローでいい」
「は?」
「二度言わせるな。ローでいい」

三度目だけどね、本当は。と、見当はずれなこと。はきょとん、と顔を幼くして、瞬きをした。いや、本当に言おうとしていたこと、はそんなことではないはずなのだけれど、それでも、この男は言う決意が生まれなかったらしい。

「ぼくに聞きたいこと、あるの?」
「あぁ」
「聞けばいいのに」
「答えるのか?」
「内容によるけどね」

大抵のことは答える。の過去に触れぬこと意外であれば、何でもできる。この男の望みとやらは何か、それを僅かだが、知りたいとそう思ってしまった。先ほどぼんやり思った「こども」のような気配。あれはなんだったのだろう。

「…まだ、いい」
「きかないの?」
「あぁ。気は済んだ。ドレーク屋のところにでも戻れ」

そう言って、容易く腕を離される。少し強く握られていた腕、は手首をさすった。手の痕が残っている。痛み、というものでもなかったが、しかし、何かを自分に刻まれたような、奇妙な心地がにはあった。なぜ、だろうか。

「きみは、ぼくが好きなの?」
「気色の悪ぃことを言うんじゃねぇよ、海の魔女」

なら、どういうつもりなのか、には分からない。なぜかいろんな生き物に好かれたり、好意を持たれたり、することは多くある。結局彼らが本当に「」に好意を持っているのか、と突き詰めれば随分ふるい落とされて、残るのかどうか分からないけれど。それでも、この男もそういう類かと、わけもわからず、ただ、パンドラ・を求める能力者なのかと、そういう確認で問えば、あっさり否定された。

その答えにほっとして、それじゃあ帰ろう、と窓に向かう。そのままデッキブラシを出そうと腕を振ると、その、腰を後ろから抱きすくめられた。

「っ!?」
「千の海を越えて、お前を探していたんだ。海の魔女、好き、だなんて軽い言葉で片付けさせてくれるなよ」

耳元で囁かれる低音、押さえつけられた体に回される腕とは逆の手が、の頬に触れる。その指先が唇に触れてきたところで、は思いっきり、ローの足を踏んだ。

「放せ、この痴漢」
「俺に命令すんじゃねぇ」
「君が何したいのか、さっぱりわからないんだけど、ぼく、赤旗のところに帰りたいんだよ」
「あぁ、帰れ」

じゃあ放せ、とは力を込めるのだけれど、びくりともしない男。なん、なんだ。





fin


 

(君は違うとわかっているのに)