522年 帰らずの森
リリスにとって夏の庭の番人であることはこの上ない誇りであった。近頃は魔女狩り、というものが流行っていて、うっかり何かを喋ったりした所為で絞首台に送られるかもしれないご時世であるけれども、己ができることを隠すつもりはなかった。
「だって、そうでしょう?シュレディンガー、わたしのできることは人の役に立つわ。死んでしまうかもしれない人がいるのに、それをただ黙って見ているなんて、そんなことできる?」
可愛らしい顔を怒ったようにふくらませ、リリスは足元をつき従うまっ白な猫に問いかけた。存在する確率を司るというシュレディンガーの猫の道理を持った五十年ほど前に、リリスが生み出したホムンクルスである。
真っ白い絹のような毛が森の土に汚されるのを煩わしそうにしながら、シュレディンガーの猫は、おおよそ猫らしからぬ態度、つまりはため息をついて、主を見上げた。
「いいえ、けれど、お嬢さま。姉君さまの仰るとおりですよ。人を助ける術を、いくらあなたさまがよくよくお心得ていらっしゃって、それで多くの命が助けられているとはいえね、その所為であなたさまのお命が失われることになっては、よくはございませんでしょう?」
「そんなことにはならないわ。村の人たちはわたしを好いてくれているもの。わたしの命を奪うような目にあわせるわけはないもの」
あどけない、世間知らずなリリスお嬢さま。人がいつまでも年老いぬ美しい姉妹を放っておくのは優しさではなくて、二人の知識が人々には利になるからだ。いや、確かに、リリスを好いている人間は多くいるだろう。底冷えのするような眼差し、態度の姉君とは違い、リリスは誰からも好かれ、愛されている。だが、もしも自分たちの身が危険だと、一瞬でも考えれば人は簡単に、他人を見捨てることができるということを、リリスは知らない。そのことについて、シュレディンガーは何も言わなかった。
つい今しがたまで、冬の庭の番人、つまりはリリスの姉は近頃頻繁にリリスが外出することを咎めていた。己らの本分は、ただこの庭を守り続けることとそう妹に言い聞かせる。
夏の庭の番人、リリスは、助産婦の知識もあり、薬草や、あるいはそのほかの「生命」に関することなら、この世でリリス以上の知識があるものなどいないのだ。それを人々が重宝、いや、利用することが姉には少々、不安だった。別段、このご時世でなければ何も言わぬ。現に、百年ほど前まではそんなこともなかった。知識のある女が魔女と呼ばれ、あっさりと殺されるこのご時世でなければ、姉は妹の好きなようにさせ、好きなように、生きさせてきた。
けれど、このご時世ばかりはいけない。ほんの少しの辛抱だと、姉は妹に言いつける。ちょうどこの広大な森を抜けた、国境付近では酷い拷問の末に処刑される、哀れな女があとを絶たない。
昨晩も、はただ毒の除去をしただけで村人たちにリンチされて死んだ女の死を見守ったのだという。千里も離れた地ではあるが、冬の番人は、そういうものだ。「生命」に関する何もかもを司るのが夏の庭の番人だとすれば、「死」にまつわる何もかもを承知しているのが冬の庭の番人だった。リリスが助産をすれば、は堕胎を手伝う。リリスが病の薬を作るのなら、は毒薬を作る。そういう風に相対している。
「もちろん、姉さんがわたしを心配してくれているのは、わかるの」
セイヨウトリネコの銀灰色の幹に手をついて、リリスは力なく微笑んだ。
「きっと、姉さんは正しいのね。わかっているの。でも、できないのよ、わたし、約束しているのよ」
「ハンナはお嬢さまに頼り過ぎですよ」
シュレディンガーは、これからリリスが訪ねる先を知っていた。その娘の名を出せば、リリスは懐かしい記憶を思い出すように眼を細める。
「生まれた時から随分と顔色の悪い子だったわね。村長さんの一人娘のハンナ」
もちろんハンナが生まれる時、リリスも立ち会った。ひどい難産だったのだ。逆子で、死んでしまうかもしれないといわれていた。それで、父親の村長が深い森を抜けてリリスのもとへ助けを求めに来た。お礼は何でもするから、とそう言い大粒の涙を流した男も、生まれる時はリリスが取り上げた子だ。ハンナが生まれたのは、もう十六年も前のこと。あのころはまだ魔女狩りも下火であったし、も反対はしなかった。むしろ、一緒に来て、リリスが無事に赤ん坊を取り上げるまで、やってくる死の使いを容赦なく蹴り飛ばして帰していた。
「あの時の姉さんの足さばき、すてきだったわ。黒衣の死神さんたちがね、それはもう恐れをなして一目散に逃げて行くのよ。一人だけ、長い銀色の髪に、眼鏡をかけた死神さんだけは辛抱強く姉さんとにらみ合いをしていたけれど、結局帰ってくれたわ」
「それはあたしもよぅく覚えていますよ、お嬢さま。かの有名なロビンフットの魂を狩ったっていうあの死神でしょう?」
「そうそう、すてきな方だったわね。姉さん相手に怯まない殿方は珍しいわ」
「お嬢さまに睨まれたら、ほとんどの男は竦み上がってしまいますよ。リリスお嬢様も、あれくらいお気がお強ければよろしいのに」
ぶつぶつというシュレディンガーにリリスは喉を震わせて笑い、再び歩き出した。地面は下生えに厚く覆われて低木が緑の新芽を吹き出していたけれど、ここを何年もリリスが行き来しているために踏みならされて小さな道になっていた。
リリスはスカートを軽快に揺らしつつ、棘だらけの枝を避けて進む。リリスとのいる森から、これから訪ねる村までは少し歩く。リリスの足で一時間半はかかった。馬に乗れればいいのだが、生憎とリリスやのような生き物は己が作ったホムンクルス、あるいはゴーレム以外には懐かれぬのだ。
「ところで、新しい領主が来るって話、シュレデンガーはもう聞いた?」
このまま黙したまま歩けば余計に道のりが遠く感じることを知っているリリス。世間話程度のつもりでそう口を開けば、シュレディンガーが眉を寄せた。
「不謹慎ですよ。お嬢さま。ビクター卿はまだお亡くなりになってません」
ここ三十年ほどこのあたりの土地を納めていたのは年老いたビクター・コルヴィナスはシュレディンガーの大の気に入りだった。彼がまだ老人になるまえ、まだ青年で奥方を貰う前に、初めてこの土地に来た時は喋る猫ということでシュレディンガーをたいそう恐れていたものだが、柔軟な思考の持ち主であったビクターはすぐにシュレディンガーを認めた。
それ以来、シュレディンガーがリリスやの伝言を届けに行くと、彼らはそのあとおしゃべりやチェスを楽しんでいるらしい。二人の間には確かな友情があるのだ。
「新しい領主、ではなくて、ビクター卿の弟君、その御子息がやってくるというだけです」
「そうね、ごめんなさい」
男の後継者のいないビクターは、そのまま弟に領地を譲ろうとしてるのだとリリスは知っているが、白猫には素直に謝罪して、この森の中からも見える高い塔を見上げた。
コルヴィナスの一族はリリスたちよりは新参者だが、それでもこの千キロ以内では一番古い一族だった。大きな砦、いや、城に住んでいる。確か、百十年前に建てられた白だ。いったいこんな辺境の地で何を作るのかと、当時リリスは首を傾げていたが、コルヴィナス家と双子の姉妹の関係は、代々良好だった。
現在の主であるビクター卿の命が終わろうとしていることは、命を司るリリスの目には明らかだった。あと二週間か、その程度だろう。リリスは己の持てる知識をすべて使い、長い友人の延命に励んできたけれど、それでも命には限りがある。天寿を全うできるのなら、それは喜ばしいことだった。少なくともリリスはそう考えている。長い間、人間たちを見てきた。殺し合ったり、奪いあったりと酷いものだがそれでも彼らには彼らにしかない輝きがある。リリスは人間が嫌いではなかった。
ビクターとはそれほど面識があるわけではない。昔は、まだ彼が青年だったころは、何度か話をしたこともあるけれど、彼が当主となってからはぷっつりと、リリス本人との交友は途切れていた。それでも昔からの友人、とリリスは考えている。彼とのやりとりはすべてシュレディンガーか、あるいは姉のが行っていた。二人を通じてリリスはビクターの健康状態を聞いてきたし、薬も作っていた。だから、今どんな姿をしているのかはわからずとも、リリスにとっては、ビクターは大切な友人だ。
「どんな人が来るのかしら?ビクター卿の弟君というけれど、わたし、覚えがないの。あのお城で育っていないのかしら?」
「あたしも覚えはありませんけどね、貴族にはよくあるじゃあないですか。母親が違うとか、別々の場所で育てられた、とか」
「そうね。でも、兄弟がまた一緒に暮らせるのはいいことだわ」
にこり、と微笑めばシュレディンガーも笑った。そうして太い楢の古木を越えた辺りで、突然シュレディンガーがリリスの前に飛び出した。全身の毛を逆なでて威嚇するように唸る。
「お嬢さま!!!お下がりを…!!野犬です!!タチの悪い、流れの野犬が近くにいますよ!!!」
燃えるような真っ赤な目、白い牙を剥いてシュレディンガーがリリスを制する。小さな白猫にしか見えぬけれど、仮にも、リリスがその全ての知識を使って生み出したホムンクルスである。牛や熊を相手にしてもまるで苦にならぬ強さを持っていた。それなのに今は敵意をむき出した様子。おや、とリリスは不思議に思った。それで、ひょいっとシュレディンガーの体を抱き上げる。
「ちょ、ちょっと!お嬢さま!あたしの話、聞いてました!!!?危ないんですよ!!?」
「えぇ、そうね。でも、何か様子が違うんでしょう?…待って、あれね?―――まぁ!」
すぅっとリリスは目を細めて遥か遠い先を見た。この森はリリスとの苗床である。見ようと思えば森の隅から隅までを自由に見ることができる。その青い目の中に飛び込んできたのは、獰猛な野犬、いや、あれは違う。人の手に飼い慣らされた犬。それらが四頭、馬に乗る誰かを襲っているようだった。
「大変!誰か襲われているわ!!」
はっと息を飲む間に、犬が馬の喉に噛み付いた。馬は嘶き、騎乗している人物がハデに振り落とされる。リリスは走り出した。腕の中でもぞっとシュレディンガーが身をよじり、飛び降りる。リリスの前に再度立ちふさがって、首を振った。
「かかわってはいけません!リリスお嬢様。こういうことは姉君様に、」
「姉さまを呼んでいたら遅いでしょう!シュレディンガー!わたしの弓は?」
「お嬢さま!!」
「わたしの名において命じます、確立の世界を飛び周るシシャ猫!!!わたしの弓を出しなさい!!」
その詩篇を扱われては主には逆らえぬ。やれやれ、とため息を吐いてシュレディンガーがくるり、と宙を回った。すると何もないところから弓がころん、と落ちてくる。リリスはそれを拾い上げて、矢も糸も張っていない弓を引き絞った。
鋭く、森の木々には一切の傷をつけず、ただ狙ったものだけを正確に打ち抜く矢。リリスが放った途端、その矢は四つに分かれ、獣の頭を打ち抜いた。人に慣らされた犬は獣ではない。主の意思が己の意思、主の殺意が己の殺意、そうなったものに、リリスは容赦しなかった。この森で、リリスとが守るこの森で、そうではない人の意思による殺害はけして許されてはならぬのだ。
どさり、と犬たちが絶命したのを確認して、リリスは弓を下す。
「急ぎましょう、シュレディンガー。落馬した人が心配だわ」
「……知りませんよ、あたしは、どうなっても」
「わたしが行かなければ、死んでしまうだけよ」
短く言い、リリスは歩き出す。リリスが歩けばシュレディンガーが付いていかぬわけにもいかぬ。しぶしぶ、とわかるほどの態度だけれど、きちんとついてきた。リリスは早足に森を進む。見た限りは二百メートルほど先である。小走りになって、スカートの裾に泥が跳ねた。その度にシュレディンガーが小言を言う。洗濯は彼女の仕事であるから不平も言いたくなるのだろう。そんな様子には少し笑い、暫くしてリリスは先ほど目で見たとおりの場所、絶命した犬たちから少し離れた場所に、投げ出されている一人の男を見つけた。
「………きれいな人」
怪我の手当をせねばらぬというのに、まずリリスは相手の顔を見て溜息をついてしまった。美しい人なら姉を毎日見ているリリスは見慣れている。姉のは本当に美しかった。リリスは眠る前に姉がリリスの髪を梳かしてくれる時、鏡越しに姉の美しい顔を眺めるのが好きだった。
けれど、このひとは姉の美しさとは違う、美しさがあった。
リリスはまだ知らぬことだけれど、女性の美と、男性の美は違うもの。眠る男はまさに、男性としての美しさをすべて持っているようだった。
キラキラと木漏れ日に輝く髪に、女性の不健康な白さとは違う、血色の好い肌は少し日に焼けていた。鼻は精巧な彫刻のようで、顎は、と眺めていたリリスははっとした。
「わ、わたし…何を考えて…!!シュレディンガー、わたしの箱を出して」
怪我人を前にすぐに手当を始めず、己の思考に耽るなどなんということだろうか!リリスは己を叱責してから、シュレディンガーに命じた。少々乱暴な言葉づかいになってしまったのは自身の動揺をごまかすためだ。顔を赤くさせ、それがシュレディンガーに見られぬように顔を伏せる。一度深呼吸をしてから、夏の庭の番人としての目で男を見つめた。
「頭を打っているわ。それにあちこち、切り傷…まぁ、これは毒ね」
「毒?」
「えぇ、動物がもともと持っている毒、ではないわね。植物の毒を二種類と、それに錆を合わせているわ。そこの犬の牙と爪を見て頂戴、シュレディンガー」
治療箱から的確な道具・薬をてきぱきと取り出して配合しつつ、リリスは顔を顰める。こんな毒をもつ犬がいるわけがない。明らかに暗殺するための手段だ。一見野犬に見える四頭に、突然襲われての不慮の事故、とそう片づけられることとなったのだろうか。
「お嬢さま、ありましたよ。この犬たちはみんな、そういう処置がされています」
「そう。死骸を収納して、あとでお姉さまに見てもらいましょう。毒の悪意の強さはわたしよりもお姉さまの方がお詳しいわ」
男の後頭部には気化性のある薬塗った葉を貼り付け、毒は直接体の中から消すため、血液の中に解毒剤を注射した。体に害があるようなものではない。必要なくなればそのまま血液と結びついて跡形もなくなるものである。
水で濡らした布で顔についた泥を拭いながら、リリスは自分の心臓が鳴っていることが不思議だった。走った所為だろうか。それにしては呼吸はもう整っている。それなのに、心臓がうるさいのだ。この音が男にも聞こえてしまわぬだろうかと、そんなことを気にしていると、ぱちり、と男の目が開いた。
「誰だっ!」
「痛っ!!!!」
さまよう男の目がはっきりとリリスを捕える前に、男の胸に置いていた手を捻りあげられて、リリスは呻いた。その途端、シュレディンガーが男に噛み付こうと飛び上ったものだから、リリスは己の痛みも忘れて叫ぶ。
「お止め!!シュレディンガー!!彼は錯乱しているだけよ!!」
「けれど、お嬢さま!」
「もう一人いたのか…?!貴様ら、何者だ」
男は上半身を起こし、リリスの腕をぐるっと回して背中で捻るとそのまま腰から抜いたらしい短剣をリリスの喉に突きつけた。
「お嬢さま!!!この、痴れ者が!!お嬢さまが助けなければ死んだ命で、お嬢さまを脅かすとは!!!」
シュレディンガーが喉から唸り声を上げて、毛を逆立てる。恐ろしい形相であるのに男は怯みもせず、ぐいっと、リリスに当てる剣の力を込めた。
「私の質問に答えてもらう、貴様はこの女の侍女か?ならばこの女は何者だ」
おかしい、とリリスは眉を寄せる。普通、白い猫が口を開けば、化け物だなんだとおそれおののくのが人間ではないのか。それなのにこの男、まるで驚かぬ。まさか、こういうことに慣れているのだろうか?確かに、毒の爪と牙を仕込まれた犬に命を狙われるような男である。おおよそ、常識の範囲から離れていてもおかしくはない。
「そのお方はあなたのような恩知らずが関わるにはもったいないお方ですよ。お放しなさい、さもなければ、その目も、喉も、何もかもが潰されますよ」
「ほう、こんな非力な少女、森の中にいる子供に、何ができる」
「シュレディンガーの言葉は半分は正解ですよ。わたしは大した身分ではありませんが、わたしに何かあれば、わたしの姉があなたに報復します」
そういう展開だけは御免こうむりたい、とリリスは心底思った。自分を溺愛し、とても心配してくれるか保護な姉だ。自分が誰かに傷つけられたと知れば、今シュレディンガーが言った以上のことをあっさりとしてしまうだろう。姉はとても心優しい人だけれど、死を司る冬の庭の番人なのだ。その尺度が、人とは少々違うことをリリスは知っている。
男はリリスの言葉を信じてはいないようだったが、いやに落ち着いたリリスの言葉に冷静さを取り戻したのか、すっと、剣を置く。
「……あの野犬はどうなった?」
「そこに死体がありますよ」
ほら、とリリスは指を刺す。だが男は指差した方向に顔を向けなかった。おや、とリリスはまた疑問が浮かぶ。ひょっとして、この男は目が見えていないのか?けれど馬に乗っていた。たった一人で、盲人が馬に乗るだろうか?浮かんだ可能性に首を振り、リリスは男の足元に膝をつく。シュレディンガーが驚いたように声を上げたが、それは無視することにした。
「驚かせて申し訳ありません。あなたがあの犬に襲われているのが見えたから、犬を矢で射て殺しました。そのあとあなたの介抱を」
「……そうか、命の恩人だったのか」
そうだと先ほどシュレディンガーは言ったのだが、まぁいいだろう。リリスは男の手を取り、自分の前に座らせると、その手にするすると包帯を巻いて行く。
「あの犬にかまれた毒は内側から解毒されます。一晩、できれば運動をせずに大人しくしていてください。明日の朝には大量の汗が出るでしょうから、お湯でしっかりと汗を流して、湯上りには牛かヤギの乳を飲んでください。それで何の問題もないでしょう」
「名は?」
説明するリリスの言葉を遮って、男が短く問うてきた。興味本位、の問いの形ではなかった。何か、確認をするような音である。リリスはじっと男を見つめた。男は盲人ではない。その証拠にしっかりとリリスをその緑の目に移している。姉以外の瞳の中に己が映っていることが、リリスには急に気恥しく思えて、頬を染めながらも、しかし、夏の庭の番人として、毅然とした態度で口を開く。
「ただの通りすがりの娘です。名乗りもせぬ殿方に名を明かすことは、礼儀に反していますわ」
「……この森の中には、不気味な庭があると聞く。そこには、二人の双子の魔女がいて、怪しげな魔術を扱うと」
リリスはむっと、眉を寄せた。ここは不気味な森などではないし、自分たちは魔女ではない。あやしげな魔術を扱う?この世にそんな不思議な力が存在するとこの男性は本気で思っているのだろうか。賢い目をしていると思ったのは自分の勘違いか。リリスは反論しようと口を開いた。
「わたし達は、」
「行け!!」
しかし、突然男が声をあげ、びくり、とリリスは体を震わせる。シュレディンガーも目を見開いた。恩人である、そしてこれからまだ治療が残っているとわかっているだろうこの状況で、追い出される理由がわからぬ。
「そうか……君が、お前が、魔女…くそっ、それなら助けられるべきではなかった!!こんな、借りを作るなど!!」
「え、あ、あの…」
「私から離れろ!!そして、二度と顔を見せるな!!」
困惑するリリスに、男は再度怒鳴りつける。森が震えるほどの大声だった。人に怒鳴られたことのないリリスは体を震わせ、命じられるまま立ち上がり、男から離れる。すると、近くで犬の鳴き声がして、そうかと思えば、突然、真横から飛んできた大きな塊に、リリスは地面に押し付けられた。
「……きゃぁっ……!!」
「お嬢さま!!!」
大きな、黒い犬だ。先ほどリリスが殺した犬たちも大きかったが、その倍はある。真赤な目に、鋭い牙。地獄の番犬とはかくありや、と思うほどの、恐ろしさがあった。シュレディンガーが咄嗟に犬に体当たりをして、リリスを助ける。素早くシュレディンガーの背に捕まったリリスは、犬と男と対峙して、口についた泥を拭う。
「どうして、まだ治療が済んでいないんですよ!!」
「貴様のような魔女の手など必要ない!!!去れ!今回は、借りがある、だから見逃す!!!次はない!!!」
男の怒声に共鳴するように犬が大きな前足で地を蹴り、吼えた。びくり、とリリスの体が震える。こうもあからさまな敵意を他人にぶつけられたことなどない。しかし、なぜ?自分が何か悪いことをしたのだろうか?じわり、とリリスの目に涙がにじむ。それに気づいて、はっと、シュレディンガーがリリスを振り返った。
「いけません!お嬢さま!姉君様以外の方の前で泣いては!!!」
シュレディンガーが鋭く吠えたその瞬間、リリスと男の間に稲妻が落ちた。
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